協会本部
本来サウラから丸三日はかかるところを一日半に縮め、ファラシアは都へと足を踏み入れた。
ファラシアの師匠は魔道だけではなくありとあらゆる方面のことを彼女に仕込んでくれたのだけれども、かなりの無茶ぶりを要求する人だった。そのうちの一つが、旅の仕方、だ。
方位の読み方、悪路の進み方、野宿の心得、食べ物や薬草の現地調達は序の口、駆ける馬の背で眠る方法も叩き込まれている。
そんな知識の数々を目いっぱい活用した強行軍で都へと到着し、『協会』の宿泊所に辿り着いたところで、ファラシアはようやく一息吐くことができた。寝台と書き物机でいっぱいになってしまうような部屋でも、屋根があって身体を横たえられる柔らかな布団があれば天国だ。彼女は簡素な寝台に腰を下ろし、天井を仰ぐ。
件の魔物は、どうも連日出現するというわけではないらしい。再びその姿を現すまで、しばらくの間ここで過ごすことになりそうだった。
「ああ、帰りたい……」
着いたばかりで、つい、そんなつぶやきがファラシアの口からこぼれてしまう。
けれど、都は彼女の性に合わないのだ。
都の人間は、忙しない。
絶えず何かを望み続ける人々の思いが、全てに満ち溢れていた。それは押しつけがましさ一歩手前の活力で、ここにも必ず存在しているはずの精霊たちの声すら、押しやってしまう。サウラの穏やかな流れに慣れてしまったファラシアには、そんなふうに自己主張の激しい都の空気はいささか息苦しい。
彼女は、目に見えない重しから逃れるように、天井に向けて両手のひらを掲げた。けれど、当然、何も変わらない。
「今晩にでも、来てくれればいいのだけれど」
声に出してしまってから、ファラシアは苦笑した。
サウラの村に帰りたさでぼやいたその台詞を『協会』の者に聞かれれば、『驕っている』と取られたであろう。もう何年も、彼女は彼らのそういう冷ややかな視線にさらされていた。
こうやって『協会』の者が集まる場所にいて最も強くファラシアの頭の中に押し寄せてくるのは、もちろん彼らの声なき声だ。
そこには畏怖や羨望もあるけれど、一番大きなものは彼女を恐れ疎んじるものだった。
ファラシアがファルの称号を得た当初は、『協会』始まって以来の逸材と褒めそやされた。これでさらに魔物を屠ることができる、いっそう、ヒトの側の――ドゥワナの力を世に知らしめることができる、と。
しかし、称賛一色だったその眼差しは、彼女が業績を上げる度にそれまでとは違う色が濃くなっていったのだ。
異質なモノを、見る色が。
並外れたファラシアの力に不安を覚える者は、『協会』の中でも少なくない。彼女がその気になれば──そんなことは万に一つも在り得ないことだけれども──たった独りで、『協会』を壊滅させることも可能であろうからだ。自分たちには御せない彼女の力を、彼らは恐れている。
けれど、それが解っているからといって、ファラシアに何ができるというのだろう。『協会』に入る以前に時を戻すことはできないし、辞めようと思ったところで、『協会』が彼女を監視下から外すわけがない。
『ホントは、お前を魔道士にしたくないんだけどな』
それは、ファラシアが幼いころから聞かされ続けてきた師匠の口癖だった。
師匠はファラシアを魔道士にすることに――彼女が『協会』に関わることになることに、気乗りしない様子をありありと見せていた。けれども、ファラシアの力があまりに強過ぎて隠しておく方が難しいから、そうする他に仕方がないのだ、とため息混じりにこぼしていた。
『だったら、力の使い方を熟知しておいた方がいいからよ』
そう言って、旅の仕方と同様、いや、それ以上に厳しく、彼女を魔道士への道へと導いた。
たった独りで森の奥に置き去りにされたり、凶暴な人食い魔獣の相手をさせられたり。
多分、師匠はファラシアのことを隠れて見守っていたのだろうけれども、彼はその気配を彼女に微塵も読み取らせなかった。ギリギリで課題を達成して家に帰り着くたびに死んだらどうするのだと食って掛かっても、彼にはいつも鼻で笑い飛ばされていた。
――思えば、あれは、魔力以外のものを鍛える意味合いもあったのかもしれない。魔力や身体だけでなく、心というものを鍛える意味合いも。
同じ魔道士の中にいても、いずれ、ファラシアが『独り』になることが、彼には見えていたから。
こうやって、『協会』の中にいて、そこに住まう者たちの思いをひしひしと感じていると、師匠の危惧していたことが身に沁みる。
「それでもここに居場所を望むのは、愚かなのかしら」
苦い吐息と共に、そんなつぶやきがファラシアの口からこぼれ落ちる。
魔道士は『協会』という組織に属していてこそ、皆から――社会から認められる存在だ。そこから出れば、根を下ろす地を持たないはぐれ者とみなされる。
ファラシアは、そうなることを、恐れた。
彼女は、たとえ疎まれていてもヒトの中に属していたいと、思ってしまう。
自分の異質さを感じているからこそ、皆に受け入れて欲しいと願ってしまう。
(わたしは、独りにはなりたくない)
ファラシアは目を閉じ、すげなくされても彼らから離れられない己の弱さを嗤う。
と、突然。
ファラシアの憂鬱な物思いを吹き飛ばすように、激しく戸が打ち鳴らされた。
ビクリと顔を上げたファラシアの返事を待たずに、扉が開けられる。
立っていたのは、長衣の裾を焦げ付かせ、腕を血塗れにした男が一人。
「奴が現れました。すぐに来てください」
蒼褪めた『協会』の魔道士は、引き攣った声でそう告げる。そこに恐怖が色濃く混じっているのも、仲間がすでに何人も喰われているとなれば当然のことであった。
「どこですか?」
立ち上がったファラシアは、外套を掴んで走り出す。
「街の西です。警備のために巡回していたら急に現れて……」
隣を走る魔道士は、そこで言葉を濁す。ファラシアは敢えてその先を問わなかった。
「……相手はどんな力を使うんですか?」
「炎です。大体はその牙と爪でやられるのですが、炎で焼き殺された者も少なくはありません。逆に、こちらの使う炎はほとんど役に立たなくて……」
魔物と対峙した時のことを思い出したのか、魔道士は身を震わせる。決して彼が臆病なわけではないのだろう。ただ、その力の差がありすぎるだけだ。
バタバタと慌ただしく人が行き交う宿泊所の中を駆け抜け、ファラシアは使いの魔道士が乗ってきたのであろう馬の背にひらりとまたがった。
「あなたはここに居て下さい」
「え、でも、場所が――」
「大丈夫、判るから」
そう魔道士に言い残し、馬の尻に鋭く鞭を当てる。
案内が無くとも、『協会』の魔道士たちが放つ恐怖の波動が──そして、凄まじい炎の気配が、彼女が赴く先を教えてくれる。
「確かに、なかなかの難敵のようね……」
ファラシアは馬の背にピタリと身を伏せ、呟いた。人気が失せ、どのよろい戸も固く閉ざされた街並みに奔馬の足音が高く響き渡った。
彼女を導く炎の気配はみるみる濃くなっていく。
「いた……!」
ファラシアは馬上で身を起こす。
前方には、数人の魔道士、そして、頭を低くし唸り声と共に牙の隙間から細い炎をちらつかせている、『猫』。
手綱を引き、棒立ちになった馬から身軽く飛び降りたファラシアは、辛うじて残っていた魔道士たちの前に走り出て、肩越しに鋭い声をかける。
「あなたたちは下がっていてください!」
いずれも軽いとは言えない傷を負った魔道士たちを背に、そして馬よりも遥かに巨大な『猫』を正面にして、ファラシアは身構えた。