別れと祈りと
ファラシアは小さくなったゼンを左腕に抱き上げ、リーラの家の前に立った。夜も遅いこの時間、辺りに人影は無い。軽く深呼吸して、戸を叩く為に右手を上げる。
こんこん、こん。
サウラのような小さな田舎村では、隣人を訪ねるのに戸を叩くような者はいない。大声で名を呼び、大声で応える。それが普通だった。
警戒するように薄っすらと扉が開き、そこから訝しげなリーラの顔が覗く。と、ファラシアの姿を認めた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「リーラ、久し振り……」
元気だった? と続ける暇なく、ファラシアは家の中へと引きずり込まれる。扉を閉めると同時にリーラは彼女を放し、顔を背けるようにして身を翻す。
「リーラ? ねぇ?」
呼びかけても、振り返るどころか唸る程度の返事もない。
ファラシアに背を向けたまま、リーラは無言で手早く机の上のパンやらクッキーやらを袋に詰め込んでいる。完全に無視されて、ファラシアは何と声を掛けていいものか判らず、所在無く立ち竦む――その背中のみを見詰めるしかないファラシアには、リーラの目元に滲んだ涙に、気付くことができなかった。
何だか怒っているようにも見えるリーラに、ファラシアはおずおずともう一度声を掛ける。
「リーラ、わたし、暫らくこの国を離れることになったの。だから、お別れを言いたくて……こっちを向いてくれる?」
ファラシアのその言葉がきっかけとなったようにリーラの手がふと止まり、彼女は小さく息を吐いた。ほんの少しの間を置いた後、クルリと向き直り、手に持った袋をズイとファラシアに差し出してきた。
「リー……」
ここに来て初めて目が合って、ファラシアは少しばかりホッとする。けれど、名前を呼びかけたその口を封じるように、リーラはパンパンに膨らんでいる袋を彼女に押し付けた。
「さっさとこの村から──この国から出て行っとくれ」
予想だにしていなかった、姉とも母とも思っていた人からの厳しい言葉に、ファラシアは愕然とする。けれど、すぐさまその理由に思い当たった。
「お願い、リーラ、聞いて。わたしは悪いことはしていないの。信じて……」
他の誰に誤解されていてもいい、彼女にだけは、判っていて欲しい。切実にそう願って口にした釈明は、しかし、にべも無くはねつけられた。
リーラは強張った顔をファラシアから背けたまま、口早に告げる。
「あんたが何をしたかなんて、そんなことはどうでもいいんだよ。ただね、あんただって解るだろう? こんな小さな田舎の村が『協会』に目を付けられたらどんなことになるかってことくらい」
「でも──」
「いいから!」
知らぬうちに大きくなってしまった声を留めるように、リーラはハッと両手で口を塞いだ、が、すでに遅かった。さして大きくない家のこと、切羽詰ったその声は、扉が開け放たれたまままの隣室に届き、泥のような子どもの眠りを妨げるのに充分な大きさだった。
「ファアねえちゃん?」
舌足らずな幼い声が、嬉しそうに響く。眠たげに目をこすり、部屋の明かりの眩しさにカヤは目を瞬かせた。
「カヤ……」
思わず幼女の名を呼んだファラシアに、カヤはパッと笑顔になる。パタパタと駆け寄りしがみ付いてきたカヤを、ファラシアはしゃがんで受け止めた。
「カヤねぇ、ずっと『ありがとう』って言おうって、ファアねえちゃんのことを待ってたんだよ。でも、お熱が下がっても、お外で遊べるようになっても、全然来てくれないんだもん。もう来てくれないのかなぁって思ってたんだけど、おかあちゃんは、ファアねえちゃんはまた絶対来てくれるよって言うから、カヤ待ってたの。おかあちゃんも、まいんちまいんち、パンとかお菓子とか作って、ねえちゃんのこと待ってたんだよ。もう食べた?」
一気にそう言って最後に首をかしげて見上げてきたカヤに曖昧に微笑んで、ファラシアはリーラを振り返る。彼女はファラシアから顔を背けるようにして、前掛けの裾を目尻に押し当てていた。
ファラシアは先程の冷たい言葉の裏に隠されていたリーラの本心を悟る。
「そっか……ごめんね、カヤ。ねえちゃんはちょっと遠くに行ってたんだ。……お仕事だったの」
「そうなの? でも、もう終わったんでしょ? また遊んでくれるんでしょ?」
「んー、あのね、またお仕事で、今度はもっと遠くに行かなくちゃならないんだよ。だから、また、ずっと会えないの」
ファラシアは辛うじて笑顔を作り、明るい口調でそう言い聞かせたけれども、そんなごまかしは通用せず、カヤは半ベソをかいた。
「えー、やだなぁ」
「そうだね、わたしも嫌だな……」
堪らず子どもを抱き締め、ファラシアは言った。カヤの柔らかなくせ毛に頬を埋めて、熱くなった目の奥から溢れ出す涙を懸命に押し留める。ここで彼女が崩れればカヤも泣き出してしまうことが判っていた。ミリアの時のように悲しい別れにはしたくない。
もう一度幼女の温かさを身体に刻み込み、ファラシアは未練を引き剥がすようにカヤから離れた。じっと自分を見詰めるファラシアに、カヤは小首を傾げて訊ねる。
「ファアねえちゃん、今度のお仕事終わるの、いつ?」
ものを知らない、だからこそ再会を信じて疑わない子どもの、無邪気な問い掛け。
ファラシアも、カヤが信じる事を信じたかった。
「カヤがね、ずっと大きくなってからかな」
「大きく? じゃあ、カヤが五つになったら?」
「もっともっと大きくなってからだよ」
「ふーん、じゃあ、カヤいっぱい寝なくちゃ」
真剣な顔でそう言うカヤを見詰めるファラシアの胸の中が、愛しさで苦しくなる。それはほのかに甘い苦しさだった。
焼き立てのパンや菓子が詰まった袋を取り、ファラシアは戸に手を掛ける。
小さく深呼吸して振り返る。
笑顔を浮かべて。
「じゃあ、もう行くわね、リーラ。これ、ありがとう。わたし、リーラの焼いてくれるパンが大好きなんだ」
「ファラシア……!」
涙の混じるリーラの声を断ち切るように、ファラシアは戸を閉める。ついに泣き出してしまったリーラを案じるカヤの声が、扉越しに聞こえた。
「ごめんね、リーラ」
家の中には届かないような小さな声でファラシアはつぶやき、扉に寄り掛かった。と、家の中に入りそびれていたゼンが跳ねるように駆け寄ってきて、彼女の脚に滑らかな毛皮をこすりつけてくる。彼女を見上げて心配そうに喉を鳴らしたゼンに微笑み返し、ファラシアは、温かな身体を抱き上げる。
「大丈夫だよ、ゼン。永遠の別れじゃぁないんだもの。いつか、また、きっと……」
白銀の毛皮に頬を埋め、半分は自分自身に言い聞かせるようにそう囁いた。ゼンはそれにうなずくように、ファラシアの頬に頭をすり寄せる。
「ありがとう、ゼン」
手の中のゼンを目の高さまで持ち上げて、ファラシアは微笑んだ。
「二人が待ってるね。行こうか」
人の言葉を紡げない山猫は、目をギュッと閉じることで同意を示す。どこか可愛らしいその仕草に、ファラシアはクスリと笑った。そして、カイルとノアの待つ村の入り口へと歩き出す。
別れは辛い。
けれども、今度はただ辛いだけの別れではなかったと、ファラシアは信じた。
確かにリーラを泣かせてしまったけれど、ミリアの時のように絶望だけの涙ではない。いつかきっと、リーラとカヤの二人が笑って自分の事を話せるようになる時が来ると、信じた。
そして、ファラシアは、楽しかった思い出を心に抱き締めていこうと、自分自身に言い聞かせる。
今こうやってサウラの通りを歩いていても、そのここそこに数限りない思い出たちが散りばめられている。それらはどれも胸を温めてくれるものばかりだった。その一つ一つを確かめながら、ファラシアはゆっくりと歩く。
広場の真ん中にある大きな木の下では、週に一回、子どもたちに勉強を教えた。
村に一軒の雑貨屋からは、仕事で遠方へ赴く時には、その地の珍しいものを買ってきてくれるようにとよく頼まれた。
ファラシアが『ファル』の称号を名乗るようになってから産まれた子どもたちは、皆、彼女が祝福を与えてきた。
年に一度の村の平安を願う祭りには、祭祀として、必ず招かれた。
全てが、いとおしい。
ファラシアは村の中央にある魔除けの祭壇に歩み寄り、念入りに結界の強化を施す。幾重にも幾重にも、永くこの村を護っていってくれるように。
願いと祈りを込めて、ファラシアはつぶやく。
「どうか、幸せに……」
閉じていた目を開き、彼女は立ち上がる。
祭壇の上から、最後にもう一度だけ、村の中を見渡した。
ここに、いたい。
たとえどこに赴こうが、いつでも、ここが帰る場所であって欲しい。
身を切るような望みを、ファラシアは渾身の力で振り払った。
連れてはいけない感傷を引きずっていては、いつまでも歩き出せない。
ファラシアは未練の代わりにゼンを抱き上げた。その温もりが、新たに進むべき道を思い出させてくれる。
「さよなら、皆。サウラで過ごしたことは、絶対に忘れない」
決別。
そして、歩き出す――この村の外へと。
ファラシアには、今、彼女を待っていてくれる人たちがいた。




