新たな旅立ちへ
ファラシアはひたと注がれるクリーゲルの視線から逃れたくて、身をよじった。けれど、彼は彼女の頭の両側を包んだ手に力を込めて、それを阻止する。
クリーゲルの眼差しにあるものは、今まで見たことがないような真剣この上ない光だ。
「なぁ、ファラシア。お前もそろそろ気付いているんだろう? 自分は他の人間──魔道士たちとも、違っていると。協会長であるカリエステですら、お前の足元にも及ばない」
「師匠、でも……」
ファラシアは気弱くクリーゲルを遮ろうとしたけれど、彼は許してくれない。
彼女をガッチリと捉えたまま、クリーゲルは軽く顎をしゃくって彼らの周りに溢れる緑を示す。見渡す限りに芽吹いた、新芽や花々を。
ファラシア自身も、追っ手から逃れて跳んだこの場所がどこなのか、判っていない。ドゥワナ国内だろうとは思うけれども、元居た場所よりも更に気温は低く、高地か、北方か、とにかく、冬も迫りつつあるこの時期にこんな風景になるような地域ではないことだけは確かだ。
落ち着きなくそっと唇を舐めたファラシアに、クリーゲルは苦い声で言う。
「見ろよ、この風景。ただのヒトに、こんな真似ができると思うか? 死にかけた俺を生き返らせるのを通り越して枯れた大地までよみがえらせるとかな」
彼は、ハハ、と小さく笑う。
「少なくとも、俺にも、カリエステの爺さんにもできねぇよ。魔道士ってだけでもヒトとして充分異常だってのに、その中でも最高峰の力を持つ人間にも、できやしない。お前は、それほどの力を持っている――独りでも生きていけるモノだよ。誰の力も必要としない、群れて身を守る必要はないモノなんだ」
ファラシアの目を覗き込んで説くクリーゲルに、彼女の喉がヒクリと鳴る。
「師匠、師匠。やめて下さい──わたしは、人間です。人間なんです」
ファラシアは唇を噛み締め、両手を握り締めて、かすれた声で訴えた。
親とも慕う人に、そんなことを言って欲しくない。そんな、彼女を拒絶するような、彼女の根っこを揺さぶるようなことを、言って欲しくなかった。
頭を掴まれたままかぶりを振ろうとするファラシアに、クリーゲルが声を上げる。
「おいおい、いい加減に目を覚ませよ。こんなクソ詰まらん目に遭わされて、まだヒトに未練があるってのか?」
クリーゲルは、言外に、さっさと見切りを付けろと言っている。
けれど、ファラシアにはできない。
ファラシアは人間だ。
ヒトの間でなければ生きられない、誰かの温もりが必要な、弱い、人間なのだ。
硬く唇を引き結んだファラシアを呆れたように見返して、そこに浮かぶ頑なな光に、彼はため息をついた。
「まぁ、いいさ。けどな、とにかく、この国からは出て行けよ。まあ、無駄な足掻きだとは思うが、もしもお前がヒトの間で生きていくことにとことん拘るというのなら、力を使わずに生きていくんだ。ドゥワナを出れば、『協会』も手を出せなくなるとは思うが、奴らの反応で良く解っただろ? いくらお前に悪意がなくても、どれほど人を助けたとしても、過ぎた力を見せつければ、いずれお前に対する感情は畏怖から恐怖に変わる。お前が何をしてくれたかではなくて、お前が自分たちとどれほど異なる存在なのかに、目が向くようになる。そうなれば、また、追われる身になる」
暗い眼差しには、憂いと愁いと、微かな悔いがあった。
ファラシアはそんな養い親の目を見ていたくなくて、視線を伏せる。
「……解りました」
ポソリとつぶやくようにそう返すと、ファラシアの頭を捕らえているクリーゲルの手から、力が抜ける。その手を振り払うように、彼女はパッと顔を上げた。
「でも、じゃぁ、師匠も──」
一緒に。
そう請おうとしたファラシアを、クリーゲルはやんわりと、けれどもきっぱりと遮った。
「俺は行かないよ。少なくとも、今は」
「どうしてですか、師匠」
ファラシアは、すがるような眼差しで、もう離れていたくはないのだと、クリーゲルが追っ手として目の前に立つ姿は二度と見たくはないのだと、訴えかける。しかし、クリーゲルはそれに応じてはくれなかった。
「カリエステの爺さんには、結構世話になったんだよ。取り敢えず、あの爺さんが引退するまではおとなしくしていてやんないとな」
そう言ったクリーゲルの口元には、自嘲の嗤いだ。
「まったくな。『したい』のと『しなくてはならない』のとでは、行って帰ってくるほど違うってもんだ。……そろそろ、無駄話は終わりにするか。お互い、もう充分名残は惜しんだろ。せっかく転移したってのに、こんな派手に力を使いやがって。あんまりのんびりしてると、また追い付かれちまう」
クリーゲルの言葉に、ファラシアは弾かれたように顔を上げる。
「師匠……」
まだ、別れたくなかった。
ここで別れたら、もう二度と逢えない、そんな気がしてならなかった。
今にも泣き出しそうな彼女の背中に、そっと、小さな手が触れる。
「カイル……」
振り返ったファラシアの視線を、少年は静かに受け止める。カイルはファラシアの肩を抱いて、そっとクリーゲルから引き離した。そんな二人を、養父は微笑みながら見つめる。
「そいつのことを頼んだぜ。いい年して甘ったれだからな」
片目を閉じてそう言ったクリーゲルは、両膝に手を突いて立ち上がった。尻に付いた砂を叩き落し、片手をファラシアに差し伸べる。ファラシアはわずかな逡巡の後、その手を取った。
手を引かれて立ち上がったファラシアは一瞬ふらついて、そしてその二本の脚でしっかりと地面を踏みしめる。
「あんまりビービー泣くんじゃねぇぞ。たまには会いに行ってやるからよ」
ファラシアの頬に残る涙の跡を、クリーゲルが服の袖で拭う。そして、両手で彼女の身体を押しやった。
「もう行けよ。俺は見送られるのは嫌いだからな。お前らが見えなくなるまでここにいる」
「師匠……」
両手を硬く握り締め、ファラシアはクリーゲルの方へと踏み出しそうになる一歩を懸命に堪えた。その一歩が出てしまえば、自分はクリーゲルにしがみ付き、決して離れようとはしなくなるだろうことが充分判っていた。
「早く行け。何もこれが永遠の別れになる訳じゃない。いつか何処かで逢えることもある。そうだろう? お互いが生きていればいいのさ」
軽く首を傾げて、なんでもないような口調でそう言ったクリーゲルに、ファラシアは素直に頷きを返すことができなかった。今別れてしまえば、それっきり、二度と会えなくなるような気がしてならない。それは死の予感ではない。だが、何か決定的な別離がこの先に待っている、そんな確信があった。
クリーゲルが、そして他の者も、ファラシアの中で決心が固まるのを無言で待っていてくれる。
クリーゲルとファラシアが共に過ごした時間は、十四年しかない。家族というにはあまりに短い年月でも、濃さで言えば四十年にも等しかった。
彼女は顎を上げ、真っ直ぐにクリーゲルを見つめる。
「師匠──あなたを愛しています。師匠として、何より、父として」
涙を堪えて、微笑んで。
ファラシアのその笑顔を、クリーゲルは半分泣いているような、それでいて、どこか安堵したような微笑みで受け止めた。その笑みは、彼とてこの別れは本意ではないのだと教えてくれている。
「俺もだよ、俺の娘。あの時お前を見つけたのが俺で、本当に良かった」
微かな震えを帯びた声でそう言って、クリーゲルはファラシアの身体に腕を回す。
強い力、確かな温もり。
もう一度、これを感じることができる日が来るのだろうか。
クリーゲルは彼の胸に頬を寄せたファラシアをもう一度ギュッと抱き締めて、そして、その腕を解く。
「じゃあな」
身体を離したクリーゲルは、今度こそ本当に別れを告げる。
ファラシアも、それ以上の躊躇はなかった。
「さようなら、お父さん」
本物の笑顔で、そう言えた。ファラシアがクリーゲルを父と呼ぶのは、これが最初で最後になるだろう。
くるりと背を向け、大きく深呼吸を一つする。
ファラシアは最大限の努力で最初の一歩を踏み出した。しかし、クリーゲルの顔が見えなくなった途端に、辛うじて押し留めていた涙が堰を切って溢れ出す。
確かめなくとも、他の者たちが付いてきているのは判った。
拳を握っていたファラシアの右手を、小さな温もりがそっと包み込む。
「カイル……お願いだから、離さないで」
少年のまだ柔らかなその手が、今は何よりも強固なファラシアの決心を繋ぎ止める為の鎖となっていた。彼女の言葉に応えるように、幼い子どものように鼻をすするファラシアの拳を包んだカイルの手に力が篭る。
ファラシアは己の中にある根本的な弱さを充分判っている。しかし、その弱さを持つが故に、例えどんなに強大な力を持っていたとしても、自分が人間であることを信じていられた。
一歩、また一歩。ゆっくりと、だが確実にクリーゲルからは遠ざかっていく。
「僕は君を独りにはしないよ」
ファラシアと並んで真っ直ぐ前を向いたまま歩くカイルが、不意に、大人びた声で静かにそう言った。
子どもの筈なのに、時々そうとは思えない様を見せるこの少年が、今では自分の中で小さくない存在となっていることをファラシアは否定できない。自分よりも頭一つは小さい少年にすがろうとしてしまいそうになる。けれど、カイルの言葉が本心からのものであることを解っていても、いつか彼とも離れなければならない日が来ることをファラシアは予感していた。
「……ありがとう」
微かに笑みを浮かべてファラシアはそう返す。たとえカイルの約束が果たされることが無かろうとも、今この時、彼がくれた言葉は嬉しかった。
ファラシアは吹っ切るように顔を振り上げる。駆け抜けた風がひんやりと頬の涙を乾かしていく。
「わたしは、強くなる。何ものにも揺らがない心を手に入れるわ」
ファラシアは誰に聴かせるでもなく、決意を口にした。カイルも、ノアも、ゼンも、敢えてそれに答えることなく、ただ黙ってファラシアの隣を歩く。
返事は無くとも、彼らが自分の言葉をしっかりと聴いていてくれることを疑わずに、ファラシアは独語を続ける。
「確かに、闘う為の力は他の人よりもあるかもしれない。……けれども、自分自身と闘う為にはそんなの関係ない。わたしは……わたしの中にある弱さを克服しなければならない。そうしなければ……」
ファラシアはそこでふっと口を噤む。カイルと繋いだ彼女の手に、意識せぬうちに力がこもった。カイルはその力を受け止める。
「大丈夫。ファーなら、きっと、誰より、何より強くなれる。僕が保証する」
「うん……」
確信に満ちたカイルの言葉が、不思議とファラシアに自信を与えてくれた。彼の台詞を支持するように、ゼンも、そっと彼女に身体を摺り寄せる。両側から与えられた温もりに、ファラシアの口元にはうっすらと微笑みすら浮かんでいた。
ファラシアには未来のことなど判らない。だが、今自分の傍に居てくれる仲間たち。彼らがいてくれるなら、きっとどんなことにも負けないでいられるだろう。
――彼女は、そう、信じられた。




