『父』の想い
ファラシアは目をすがめ、軽く首をかしげたクリーゲルを、次いでゼンを見た。仔牛ほどの図体になっている白銀の山猫は、やけにかしこまっている。
「約束って……? わたしのことを守るとか、そういうことですか?」
だからゼンはここまで一緒に来てくれたのだろうか。
懐いて傍にいてくれているのだと思っていたから、ファラシアは少しばかりがっかりする。けれど、そんな落胆も、続いたクリーゲルの台詞で吹き飛んだ。
「まあ、それも含むかな。実はな、『協会』本部でこいつが封じられてた時、ちょっとした契約をしたんだよ。解放する代わりに、いざという時になったら俺をヤれってな」
一度大きく目をしばたたかせたファラシアは、一転、へらへら笑っている養い親に掴みかかった。
「そんな無茶なことを! あなたはバカですか!? いえ、訊くまでもなく、バカですよね!?」
「落ち着けって。もちろん、死なない程度に、だよ。そうすりゃ、合理的に戦線離脱できるだろう? 本部じゃあんなこと言ったけどな、俺が本気でお前を相手にできるわけないだろ? とは言え、召喚をいつまでも無視できるもんでもないしな。取り敢えず一回参加して名誉の負傷的な? まぁ、ちょいとしくじったようで、危うくあちらの世界に足を片方突っ込みかけたがな」
ぐしゃぐしゃと乱暴にゼンの頭を撫でながら、クリーゲルは片目を閉じてそう言った。ファラシアには返す言葉がみつからない。
ただただ絶句するのみの養い子の背中を、クリーゲルは笑いながら叩く。
「そういうことだから、こいつのことは責めないでやってくれよ?」
ファラシアにとってはとてつもない大事を、クリーゲルは紙よりも軽いことのように笑い飛ばす。文句はいくらでもある筈だった。しかし、いざ開いた口は凍り付き、思考を言葉に変換することができない。
呆然としているファラシアに、申し訳なさそうにゼンが大きな頭をこすりつけてくる。その仕草はいかにも「赦してください」と言わんばかりだ。けれども、ゼンはクリーゲルの頼みに従っただけなわけで、そんな彼に怒ることなどできやしない。
そう、ゼンは、悪くない。これっぽっちも。
悪いのは、やっぱり、クリーゲルだ。
ファラシアはゼンの頭を撫でながら、キッとクリーゲルを睨みつけた。
「師匠は、いつだって、いい加減なんですからッ!」
唇を震わせ、ファラシアはようやくそれだけ言う。
硬くした身体を震わせる養い子を、クリーゲルは慈しみを込めた──陽射しに例えるならば、照り付け肌を焦がす真夏のものではなく、身体を芯から温めてくれる穏やかな小春日のような──眼差しで見つめる。
「けどな、現に俺は生きているだろう? お前が頑張ってくれたお陰で」
「もしも間に合わなかったら、わたしの力が足りなかったら、どうするつもりだったんですか!」
血を吐くような思いでそう言って、ファラシアはクリーゲルの胸倉を掴み、額を強く押し付けた。自分がどれほど彼のことを大事に想っているのかを、どうしたら解ってもらえるのかと、もどかしくなる。
ファラシアのことよりも、彼自身の身を、第一に考えて欲しいのに。
彼女のことを守るために自分の身を傷付けさせるなんて、有り得ない。
悔しさで涙が滲みそうになったファラシアの頭に、誰かの手が触れた。顔を上げた彼女に、カイルの微笑が向けられていた。
「仕方がないよ、ファー。クリーゲルさんは、君が傷付くところを見たくなかったんだから。君が辛い思いをするよりも、自分が痛い思いをする方がマシだと思ったんだよね」
そう言って、カイルはクリーゲルへと視線を移す。親子ほども年の離れた二人の男は、互いに共感の笑みを交わした。
「そういうことだ。結局は自分の為なんだよ。お前に泣かされるか、それともお前を泣かすかってのを天秤に掛けて、お前を泣かす方を取ったわけなんだからな」
クリーゲルはファラシアの頭を両手で挟み、顔を上げさせる。そうして真っ直ぐに彼女の目を覗き込んで、一言一言を区切るように、その一言一言が彼女の中に染み渡るように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「もしも俺が死んだら、お前は物凄く悲しいだろう? 泣いて、自分を責めて、わたしなんかを拾わなきゃ良かったのに、とか思うことになるだろうよ。それと同じだ。お前が封印されたり、ましてや殺されでもしたら、俺は俺を責める。俺がお前を拾ったばかりにこんなことになっちまったんだ、他の誰かが育ててりゃぁ良かったんだ、てな」
「そんな……っ!」
「そうなんだよ。俺みたいに『協会』絡みではない、そこらのおっさんやおばさんが拾っていれば、お前はごく普通に成長し、旦那を貰い、子どもを産んで、それなりに幸せになれたかもしれなかったのにってな。まあ、『協会』と無関係に生きてても、お前のその溢れんばかりの力はごまかせやしないだろうが、それでも、『もしも』と思うさ」
そこで、彼の声が低くなる。
「正直、今でもそう思ってるからな」
「師匠……」
今まで聞いたことがないようなクリーゲルの思い詰めた声に、ファラシアは愕然とする。いつも飄々として彼女のことをからかってばかりのこの養い親がそんなことを考えているなんて、夢にも思っていなかった。
「わたしは、わたしを拾って育ててくれたのが師匠で、本当に嬉しいんです。わたしは充分に幸せです」
真剣な目で言い募るファラシアに、クリーゲルが苦笑する。
「解ってるよ、そんなことは。だがな、実際問題として、今のこの状況がある。俺はお前を釣る為の餌扱いだし、あいつらの目論見どおり、さっきの戦いでは、お前は俺がいるのを見て出遅れただろう? それじゃぁ駄目なんだよ。あちらさんも、これからは連れ帰って封印なんて面倒なことは考えずに、手っ取り早く殺っちまおうって気で来るだろうよ。今回はノアとこいつ──ゼンがいたから、何とか凌げたが、次もうまくいくとは限らん」
ため息混じりのクリーゲルの言葉に、ファラシアは唇を噛む。確かに、全て彼の言う通り。さっきの戦いで、一番力を持っているはずの彼女は、一番の足手まといとなり果てていた。
クリーゲルはうつむいたファラシアの顎に指をかけ、持ち上げる。そうして、目と目を合わせて、噛んで含めるように、言う。
「お前がやる気になってくれりゃぁ一番いいんだぜ、本当は。一度思い切り叩きのめしてやれば、お前をどうこうしようなんて馬鹿げたことだって解らせてやれる」
どうだ? と言うように、クリーゲルが首を傾げて覗き込んできたけれど、ファラシアは目蓋を伏せて彼の視線をかわしてしまった。それは予想通りの反応だったと見えて、クリーゲルはそれ以上の追求はしてこなかった。ただ、小さく笑いを漏らすに留まる。
「ま、お前は育て方が良すぎたからな。俺の案を実行するのが嫌だったら、前にも言ったように、とにかく何が何でも逃げ切るんだよ」
「……?」
途切れた声に、ファラシアが目を上げる。見返してきたのは、思いがけず真剣な色を宿したクリーゲルの眼差しだった。
「お前はな、ファラシア、俺みたいにどう足掻いても人間から離れられないのとは違って、独りで歩いていける奴なんだ、本当は。独りでも、何処へでも行ける」
育ての親が言っていることの意味が理解できず、ファラシアは顔中に戸惑いを浮かべてクリーゲルを見つめる。そんな彼女に、彼は続けた。
「ヒトとの関わりに拘っている限り、お前は本当の自分に気付くことができないよ」
「でも、わたしは人間が好きなんです。仙人か何かのように、山奥で外界との関わりを絶って生きていくことなど、到底できそうもありません。わたしは、誰かが傍に居てくれなければ、生きられない」
「まったく、お前は……」
クリーゲルは苦笑を浮かべて、うなだれているファラシアの頭を抱え込む。
「まあ、しょうがないか。だがな、せめてこの国からは出て行けよ。ノアに頼めばよい方法を教えてくれるだろう。その後は何処かでいい男を見つけるも良し、あるいは……お前の仲間を探しても、良い」
「仲間……?」
友達でも伴侶でもなく、仲間。
その奇妙な言い回しに、ファラシアは眉根を寄せた。そんな彼女に、彼はうなずく。
「そう、仲間だ。本当の、な」
クリーゲルはやや身を離し、ファラシアの頭を両手で包んで彼女の眼を覗き込む。いつだって人を喰った輝きを宿しているその眼差しには、今、彼女の心の奥底まで貫き通すような鋭さがあった。




