都市ガルディア
ヒトは非力だ。
その非力なヒトに害を為すものは強大な力を持つ魔物だけではない。ただの獣も充分に脅威になるし、場合によっては、同じヒトが徒党を組んで襲ってくることもある。
そういった、外の様々な脅威からガルディアという巨大な都市を守る為にグルリと張り巡らされた壁は、人の背丈の五倍ほどもあった。
壁の内と外をつなぐ門は、一つだけ。そこには、腰に剣を佩いた男たちが何人も控えている。
ノアが持つ通行証を門番に見せると、その連れであるファラシアもあっさりと通された。
てっきり腕を掴まれ引き留められるに違いない、と身構えていたファラシアは、あまりに呆気なく中へ入れたことに逆に不安を覚えたくらいだった。
「前を向いて歩け」
つい、後ろを確かめたくなったファラシアを、ノアが振り返りもせずに戒める。
「あ、うん」
ファラシアは慌てて頷き、ずれかけていた頭巾を直した。そうして、その陰から前方へと注意を向け――思わず腕の中のゼンを抱き締める。力がややきつかったのか、彼は小さく不満そうな声を上げた。
「ごめん」
囁き声で謝罪して、額をそっと撫でる。けれど、彼女の意識はゼンには向いていなかった。
(……ひと、だぁ……)
門から真っ直ぐに伸びる道。
幅の広い大通りの両脇は、建物がひしめき合っている。そのどれも、何らかの商いが営まれているようで、活気に溢れた呼びかけがあちらこちらで響いていた。もちろん、そこには人が忙しなく行き来していて、誰一人として、ファラシアに気を留める者はいない。
「おい……」
久方振りの人込みに目を奪われているファラシアに、流石に渋い顔でノアが声を掛けてきた。ゼンも、ファラシアの腕の中から彼女の顔を見上げて目をしばたたかせている。
「あ、ごめんなさい。何だか嬉しくって……」
笑ってそう答えたファラシアだったけれども、その目はやはり周囲のざわめきに向けられたままだった。気もそぞろな彼女に、ノアは小さく首を振って、それ以上何か言うことは諦めたようだ。溜め息をついたノアは、周囲を見回す。
「取り敢えず、今夜の宿を探そう」
「あ、うん」
うなずきノアに倣って視線を巡らせたファラシアの目に、さっそく、良さそうな宿の看板が入ってくる。
「ノア、あそこ――」
斜め前方のそれを指さしながらファラシアはノアを振り返ったけれども、彼女はクルリと身を翻した。
「ノア?」
「こちらだ」
短いその一言で目当ての場所があるかのように迷わず人込みを擦り抜けていくノアに遅れまいと、ファラシアは懸命に彼女の背中を追う。
ファラシアも『協会』の仕事であちらこちらに出向いたものだけれども、そういった折の宿は『協会』が用意しておいてくれたところを使用していたので、彼女自身が探す必要は無かった。ゆっくりと歩いたことのあるのはサウラの村の中ぐらい、魔物退治で行った先では仕事が終わればさっさと引き上げるのが常であった彼女には、所狭しと並んでいる看板を見分けるのすら至難の業だ。
「……ねえ、ノア……」
ノアが進むがままについていったファラシアは、いつしか自分たちがあまり品の良くない小道に入り込んでいたことに気付いてふと眉をひそめた。
そろそろ夕暮れに差し掛かりつつあるとはいえまだ日は高いというのに、何やら化粧の濃い薄着の女性が、あちらこちらで道行く男性に秋波を送っている。
彼女たちがどんな方法で糧を得ているのかが判らないほど、ファラシアはもの知らずではない。そのうちの一人に艶のある笑みと共に手を振られ、彼女はどぎまぎする。少し距離が離れてしまったノアの背中を、小走りで追いかけた。
それからもう少し奥へと進み、最終的にノアが足を止めたのは、軒を並べているいかがわしげな宿屋の一つだった。ファラシアが見ている前で、通りで拾った女性の肩を抱いた男がその中へ消えていく。
「ノア、もしかしてここって……」
恐る恐るそう声を掛けるファラシアには振り向きもせず、ノアは扉を押し開けて中に入っていってしまう。残されたファラシアは、腕に抱いているゼンとちょっと見詰め合った後、意を決してノアの後を追った。
中には小さな窓が一つ付いた受付があるだけで、ノアがそこに金を置くと、窓から伸びてきた手がそれを中へと引き込んだ。彼女は代わりに出てきた鍵らしきものを受け取ると、ようやくファラシアに振り返って付いてこいというように首を小さく動かした。
部屋数はそれほど多くはない。
階段を上がって一番奥が、ファラシアたちの部屋のようだった。
中に入ったファラシアは、そのあまりの素っ気無さに唖然とする。部屋にはやや幅広の寝台が一つあるだけだった。唯一の家具であるそれがどんな用途を持っているかは、いかに色事に疎いファラシアであっても察しが付くというものである。
扉を閉めたきり部屋の入り口で立ちすくんだままのファラシアを、荷物を下ろしたノアが振り返る。
「どうした、荷物を下ろさないのか?」
「あ……はい」
言われて我に返ったファラシアは、抱いていたゼンと、肩に担いでいたあまり多くはない荷物とをノアの荷物の横に下ろす。
身軽く寝台の上に飛び乗ったゼンが、ほっとしたように、頭、そして身体を、思い切り震わせた。
「ノア……って、こういうところによく泊まるの……?」
その問いに返るものが肯定ではないだろうと予測はしていても、ほんのわずかに心をよぎる、もしかして、という気持ちを否定はできないファラシアである。
恐る恐るといった風情のファラシアに、ノアは相も変らぬ様子で首を振る。
「いや、たまに、だ」
「って、いうと……」
想像が想像を呼び、内心では汗を噴出させているファラシアには、それ以上深く追求することはできなかった。
ここは確かに宿泊施設だけれども、明らかに、単に泊まることだけを目的とした場所では、ない。
(『そういうこと』をするところ、なんだよね……?)
確かにノアはかなりの美人ではあるけれど、目の前に立っているこの女性が男性と同衾している図は、なかなか思い描き難い。
居心地悪く部屋の中を見渡すファラシアに、彼女が何を気にしているのかようやく思い至ったのか、ノアが小さく首を傾げた。
「ここを選んだのは、顔を見られずに済むからだ」
「え?」
「こういう宿は、誰にも見られたくない者が使う。皆がそうだから、私たちがそんな素振りをしていても誰も気にしない」
淡々とノアはそう説明してくれたけれども、こういった場所に足を踏み入れたのは生まれて初めてのファラシアにしてみれば、ここを選んだのがそんな理由だったとは思いも寄らなかった。
「ファラシア?」
複雑な顔をしているファラシアに、ノアが怪訝な顔を向ける。
「あ、ううん、何でもない!」
それ以上続けたら頭の中身が全て耳から飛び出してしまうのではないかという勢いで首を振るファラシアを、ノアはなにやら呆れたような目つきで眺めていたけれど、そうそう付き合っている暇はないとばかりに外套を取ると、戸口に向かった。
「私は旅支度を整えてくる。明日の朝までにこの部屋に戻ればいいから、お前も街を軽く見てくるといい。くどいようではあるが、力さえ使わなければ大丈夫だからな」
「あ……はい」
心なし赤らんだ頬を両手で包んで首をこっくりと上下させたファラシアに軽く頷くと、ノアは部屋を後にする。
残されたファラシアは、寝台の上で毛繕いしているゼンと視線を合わせるようにひざまずくと、頬の火照りが引かぬまま、彼にお伺いを立てた。
「どうしよっか、ゼン。確かにこの部屋に閉じ篭っていても仕方がないし……」
ゼンが返したのは、瞬き一つ。
「そうだね。きっと、もう、ガルディアに来ることもないだろうし、ノアの言うとおり、力を使いさえしなければ大丈夫だよね」
今度は短い鳴き声が一つあがる。
「よし、行こっか!」
ゼンの後押しを受けて、ファラシアは膝に手を突いて勢い良く立ち上がった。そのままゼンを抱き上げ、袋から財布を取り出して懐に移す。
「忘れ物は無いよね」
ぐるりと部屋を見回したところで、忘れるほどの物がある筈が無い。
肩をすくめてノアが置いていった部屋の鍵を取り、ファラシアは部屋を出た。




