新たな同行者
この、ノアと名乗った女性が村に着く前に追っ手が村を出発したということは、彼らもすでにこの付近まで来ているかもしれないということだ。
慌てて立ち上がろうとして、ファラシアはふらりとよろめく。前のめりになった彼女を、ノアが受け止めた。
「まだ動くのは無理だ」
「でも、逃げないと、彼らに捕まってしまう……」
そう答えて、ほんの一瞬、本当に自分は捕まりたくないと思っているのだろうかと、小さな自問がファラシアの頭の中をよぎった。『協会』に捕まれば、確かに閉じ込められることになるのかもしれないけれど、孤独ではなくなる。
ヒトの中に居ての孤独と、ヒトから離れての、孤独――どちらの方が、よりマシなのだろう、と。
そんな彼女の束の間の物思いを、簡潔なノアの言葉が破る。
「それはないと思うが」
抱えたファラシアをまた横たえながらの、一言だ。
かなりきっぱりとしたノアのその口調に、ファラシアは眉根を寄せる。
「何故……というより、そもそも、どうしてあなたはわたしを見つけられたのですか?」
村を出てからの大雑把な方向は村人に知られてしまっていたかもしれないけれど、それからゼンの背に乗って三日間移動したから、だいぶ距離を稼いだはず。この洞穴で丸二日過ごしているとはいえ、的確に後を追ってきたのでなければ、見つけられるとは思えない。
いぶかしむファラシアを外套で包みつつ、ノアは事も無げに答える。
「痕跡を追ってきた」
「痕跡? えっと、その、魔力の、とか?」
魔道士には一番の目印になってしまうから、一応、それは残さないように気を付けてきたはずだけれども。
目をしばたたかせたファラシアに、ノアはかぶりを振った。
「違う。足跡や折れた枝、そういったものだ」
ファラシアはいっそう目を丸くする。
「そんなの、わかるの……?」
「見ようとすれば」
「じゃあ、やっぱり『協会』の人たちも追ってきているの?」
「それはどうかな。お前もさっき言っていたように、魔力を持つ者は魔力だけに頼る傾向がある。見えることや聞こえるものには気付かずに」
例えば、と、ノアは足元を指差した。
「お前は、そこに何を見る?」
ファラシアはノアの指の先にあるものを見つめる。
「──……地面……」
そこを凝視し考え迷った挙句に出てきた彼女の答えに、ノアは肩をすくめた。眼が、他に何か無いかと問いかけている。
「えぇっと、砂……石……砂利……ほこり……」
目を凝らしてみてもそれ以外には何も無い。ノアが頷いてくれるものが出てこないまま、ファラシアは降参とばかりに両手を小さく上げた。
「駄目。あなたには何が見えるの?」
「足跡だ」
そう答えたノアの顔は、いたって真面目そのものだ。
「足……跡?」
言われてそこを見直したファラシアだったけれども、やはり彼女にはノアの言うようなものは見えなかった。
半信半疑の顔を向けるファラシアに、ノアは言う。
「私にははっきりと見える。他にも野営の跡やら折れた枝やら。見る気で見れば気付くものだ。どんなに山奥に分け入ろうとも、無意識のうちに歩き易いところを選んでいるしな」
いとも平然と説いてくれたノアは、ファラシアとはまるで異なる種族のようだった。説明されても、さっぱりピンとこない。
ただ、少なくとも、気付いたらいつの間にか崖っぷちに追い詰められていた獲物の気分は、解ったと思う。
(そう、猟犬に追われる兎の心境って、こんな感じよね、きっと)
自分と同じような能力を持つ『協会』の追手たちよりも、目の前にいる特殊な力を持たないこの女性の方が、敵に回せばよほど厄介な相手となりそうだった。
仮にここでゼンの背に乗って逃げたところで、ノアが追う気をなくさない限り、またすぐに見つかってしまうのだろう。
「仕方……ないですね。どうも、わたしよりもあなたの方が上手のようですし」
溜め息混じりのファラシアの言葉を、ノアは否定も肯定もしない。ただ、ふと、静かな眼差しをファラシアから洞穴の入り口へと移した。
「ノアさん?」
衣擦れの音さえさせずに立ち上がったノアは片手を腰の剣へと添え、残った手で身を起こしたファラシアを制す。
すわ追手か、と全身に緊張を走らせたファラシアだったけれど、やがて入り口に姿を現したものに、ホッと息を吐いた。
「待ってください、ノアさん。彼はわたしの友達で、ゼンと言います」
「友達……?」
それは兎を咥えた、仔牛ほどもある山猫にはあまり似つかわしい言葉とはいえなかったようで、今度はノアが眉根を寄せる番となった。
ゼンの方も、白銀の身体の中で光る金色の目を瞬かせ、当惑の面持ちで二人の人間を見比べている。増えているのは見知らぬ人間であったが、ファラシアから不安や警戒というものが感じられないので、どういう態度を取るべきか決めあぐねているようだった。
咥えていた兎をボトリと足元に落として座り込むと、困ったな、とでもいうようにゼンは舌なめずりをする。
その様子にファラシアは思わず笑みを漏らし、彼を手招きした。
歩み寄って隣に横たわったゼンの頭を彼女は両手で包み、その目を覗き込んで言い聞かせる。
「この人はノアさんっていって、しばらくわたしたちと一緒に行くことになったの。急なことで驚いているでしょうけど、わたしもなの。まさか、『協会』に目を付けられているわたしたちに同行しようなんて思う人がいるとは思わなかったから」
ファラシアの諭す声に、一度首を傾げた後、ゼンは心得た、というようにギュッと目をつむった。その様子は、いかにももっともらしい。
ゴロゴロと喉を鳴らす彼の耳の後ろを掻いてやりながら、立ったままのノアをチラリと見上げて、ファラシアは苦笑を刻む。
「もう一度訊いておきますけど、本当にわたしたちと行くんですか? 『協会』に刃向かうのは『中央』を相手にするのよりも大変なことになるかもしれませんけど?」
その問いに、ノアは軽く肩をすくめた。
「居辛くなればこの国を出るまでだ。この国も粗方見てしまったから、もう用はない」
「……何か、探しているものでもあるの?」
「探し物と、言えないこともないな」
ファラシアは口をつぐんでノアが更に続けることを待ったけれど、彼女にはそれ以上説明するつもりは無いようだった。
この女性は、自分について話すことをあまり好まないらしい、とファラシアは記憶する。少なくとも半年は一緒に行動する相手の性格の基本的なところは把握しておかないと、お互いに気分の悪い思いをすることになる。
──怒らせるようなことをすれば、早々に彼女は離れて行って、危ない目に会わせることもなくなるでしょう?
不意にそんな囁きが頭の片隅で聞こえて、ファラシアは唇を噛む。
それは、まごうことなき、事実。
けれど、その囁きを、ファラシアはまた心の奥底に押し込めた。何故ならば、ファラシアは人間のいない生活には、もう、耐え難かったから。
こうやって、ほんの少し事務的な会話を交わしただけでも、実感する。
彼女は、人が──人との生活が、好きだった。
ぼんやりしていたファラシアを見つめ、ノアがふと思い付いたように呟く。
「なんなら、お前がこの国を出るのを手伝ってもいい」
「え?」
全く考えていなかったことを唐突に言われ、ファラシアは目をしばたたかせた。
「この国を、出る……?」
黙って見返してくるノアは、適当なことや冗談は言いそうもない。
咄嗟には答えられなかったファラシアには構わず、ノアが続けた。口を動かしつつゼンが獲ってきた兎を拾う。
「『協会』の者も国の外までは追って来るまい。一生追われながらこの国の中を彷徨うよりも、いっそのこと外に出てしまった方が気楽だろう。何ならお前の気に入る国が見つかるまで、同行しても……」
兎を捌きながら言を継いでいたノアは、ファラシアが答えを躊躇っているのに気付き、手を止めた。
「何か、この国を出たくない理由でもあるのか?」
「あ……いえ、ただ、ずっとこの国の中で暮らしていて、この国の為にこの力を使ってきたから……」
気弱く苦笑したファラシアを、ノアはしげしげと見つめる。
「世界はこの国だけで成り立っているわけではないぞ」
「ええ、理屈ではわたしもそう思えるのですけど、なかなか、ね」
「……そうか」
納得したのかしていないのか判らないノアに、ファラシアは小さく笑みを漏らす。
実際に追手の存在を聞かされ、決して後戻りできないことを何度も突き付けられても、でき得ることなら以前の生活に戻りたいと願う気持ちは打ち消すことができない。そんな彼女にとって、それまでのものを全て捨て、遥か遠方に行き、全く別の新たな生活を営むなど、想像だにしないことだった。
ファラシアはゼンに手を伸ばし、抱き寄せる。ゴロゴロと鳴る彼の喉に頬を埋め、その温かさを確かめた。




