雨の中の追跡者
養い親が追っ手に加わった、その頃。
体力の限界を迎え休息を取ることを余儀なくされたファラシアは、やむなく山の奥深くに見つけた洞穴へと身を隠していた。
ゼンは先ほどから何か食料となるようなものを探しに出ている。ファラシアは彼の帰りを待って、ぼんやりと入り口を見つめていた。外は絹糸のような雨が降りしきり、不思議な孤立感を醸し出している。
喋ってはくれない相手ではあるけれど、それでも、何か温もりを持っているものが隣にいるのといないのとでは気分が全く違うものだ。不意に肌寒さを感じ、ファラシアは、無意識のうちに自分の身体に両腕を回していた。
孤独。
それが、ひたひたと心の奥に沁み込んでくる。
目を閉じて外の音を探ってみても、雨音に掻き消されて何も届いてはこない。追っ手の魔道士も魔物──ゼンも含めて──も近くにはいないとみえて、魔力の気配もなかった。
自分以外は誰も、何もいないという不安と安心とが複雑に混ざり合った溜め息が、ファラシアの口から漏れる。
(これから、どのくらいこんな時を過ごすことになるのかな)
繰り返した、自問。
いつか、ゼンだって離れていくだろう。
そうなれば、ファラシアは、本当に独りでこの世界を歩いていかなければならなくなる。
たった独りで、人がいる場所を避け、ひとところに留まることなく、彷徨い続けるのだ。
(そんな、生活……)
明白な未来に半ば自虐的に耽っていたファラシアは、音もなく洞穴の入り口に現れたその人物が彼女からほんの数歩しか離れていないところに立ち──声を掛けてくるまで、気付くことができなかった。
「寝ているのか?」
落ち着いた、声。
人の声を耳にするのは、あの村を出て以来、丸二日振りのこと。
ファラシアは、一瞬、知らぬうちに嵌まり込んでいた微睡みが聞かせてくれたものかと思った。人の声を渇望する心が、夢という形で叶えてくれたのではないか、と。
が。
「ファラシア・ファーム?」
名を呼ばれ、次の瞬間、彼女は弾かれたように上半身を跳ね上げる。
見開いた目に入ってきたのは、ファラシアの正面にひざまずき、表情乏しく彼女のことを覗き込んでいる一人の女性だった。女性にしてはかなり長身の、明らかに戦いを生業としている身なりをした、人。
「あなた、いったい……」
それきり、ファラシアはパクパクと口を開け閉めすることしかできない。
「驚かせたようなら、すまなかった」
やや低めの穏やかな声が、そう告げた。かと思ったら、前触れなく女性は片手を伸ばし、ファラシアの顎をつまむと、右、左と向けさせる。無理矢理、ではないけれど、抵抗を赦さない力だ。
そんな奇妙なことをしてから彼女はジッとファラシアを見つめ、わずかに眉をひそめた。
「あ、の……?」
意味不明な彼女の行動にファラシアが困惑の声をこぼすと同時に、その手が離れていく。
その女性に、少なくとも、ファラシアを捕らえようとか殺そうとか、そういう意図はなさそうだ。
それだけは感じ取れて、ファラシアは多少なりとも考える余裕を取り戻す。
「回避の魔道を掛けておいた筈なのに、何故──」
その魔道は、それが掛けられたものを無意識に迂回させる作用がある。これは、施行者の魔力が相手よりも優っている場合において、生物にも魔物にも有効であり──逆に言えば、それを乗り越えてきたということは、その侵入者はファラシアよりも力があるということになるはずだった。
そのはずなのだが──しかし、入ってきたその女性は、魔力の欠片も感じさせてはいない。
戸惑いの眼差しを向けているファラシアの前でその女性は腰の袋を探って何かを取り出し、ぐいと彼女に差し出してきた。
「え──何?」
「血を増やす薬草だ。飲め」
にこりともせずにそう言われても、即座に反応できるものでもあるまい。
せめて何者なのかを問い掛けようとしたファラシアだったけれども、唐突に顎をこじ開けられ、有無を言わせず口の中に薬草を放り込まれ、目を白黒させながらそれを呑み込む羽目となった。
「私は特別ごしらえの護符を持っているから、その手の魔道は無効化できる」
遅ればせながら先ほどファラシアが口走った問いに答え、女性が水筒から水を注いで差し出した。
それを受け取り、口中に広がる強烈な苦味を飲み下したファラシアは、ややむせながらも何とか呼吸を整える。
「あ、ありがとう……でも……?」
濁した語尾で問いかけるファラシアに、女性は真っ直ぐな眼差しを向けた。
「私はノアと言う。お前はファラシアだろう? 私はガスに魔物退治を頼まれた者だが、到着したらすでにお前が片を着けていたので、代わりに、ガスの家族からお前の護衛を頼まれた」
抑揚のない語り口でノアと名乗った女性が説明した。余分なものを感じさせないその口調に、ファラシアはかえって信用するに足るものだと確信する。
「ガスさんに?」
「ああ。それから伝言だ。『ありがとう』と」
「そうですか……」
ファラシアの護衛を頼むのは、村を襲う魔物を退治するのとは訳が違う。村で集めた金を使うというこ
とができるはずもなく、当然あの一家は自分たちの貯えを使うことになったのだろう。けれど、あんな小さな村ではどんなに頑張ろうとも見入りは限られたものだ。きっと、なけなしの金をはたいたに違いない。
滲んだ視界を数回の瞬きで散らし、ファラシアはノアを見上げた。
「わたしは大丈夫ですから、お金をあの人たちに返してあげて――」
「それはできない」
ファラシアが最後まで言い終えるより先に返ってきたノアの即答に、彼女は眉根を寄せる。
「……何故ですか?」
「私が契約したのはあの家族であって、お前ではない。彼らは、お前が何と言おうと、決してお前から離れぬようにと言っていた。彼らから受け取った金は、一月分ある。それに、今回の魔物退治に間に合わなかった私の償いの分を加えれば、半年はお前を護衛する義務がある」
恐らく、この女性は十分の一歩さえも譲ってくれることはないだろう。静かだけれども揺らぎの欠片もない声は、そう思わせるのに充分だった。
ファラシアは軽く唇を噛む。
ガスたち一家の厚意は嬉しいけれども、このノアという女性を自分と一緒にいさせるわけにはいかない。逃亡をほう助すれば、彼女だって『協会』に目をつけられてしまう。
このドゥワナでは、『協会』に楯突いては生きていかれないのだ。
(仕方ない)
あまり言いたくないことだったが、これを聞けば、真っ当な人間であればまず背を向けるはず。
そう信じて、彼女は口を開く。
「実は、わたし……追われているんです。……かなり厄介な相手に……」
「追っ手? ──ああ、『協会』の者だろう? 私が村に着く少し前に色々聞き込みをしていったそうだ」
ファラシアが言葉に詰まりながら伝えた事情を、ノアは、片手で振り払うように受け流した。




