序
この世界の生態系を構成する種族は大きく分けて二種――生物と、魔物。
後者は前者を圧倒的に凌駕する。最下層の魔物ですら、人の村の一つや二つ、いとも簡単に壊滅させる。
そんな世界に属している国の一つであるドゥワナは、『中央』によって国内の統制が為されていた。『中央』の運営は、政治的な側面を治める議会、そして法を守る律令局に任されている。国政は、最終的な決裁権を有する『長』を筆頭とする議会が、ヒト同士の争いを収める役目は、この律令局の中の保安庁が担っている。
ヒトとヒトとの間に起こる問題は、簡単だ。
法に照らし合わせて権力を持つ者が調停し、悪とされた者は罰を受ける。
それならば、ヒト同士ではない争いは、どうするのか。ヒトではなく、魔物が相手であるならば。
ただのヒトは、どれほど武器を構えたところで、魔物に対抗することはほぼ不可能だ。ヒトの法など、洟もひっかけない。
では、どうすれば、良いのだろう。
このまま、弱きものとして魔物に蹂躙され続けるのか。
抗うことなく貪られ、あるいは、安住の地を求めて彷徨うのか。
否。
ヒトは常に前に進み続ける生き物で、たとえ強大な力を有する魔物が相手であろうとも、立ち止まることはしない。
彼らは考えた。
考え、道を見出した。
魔物に匹敵する力を持つ者を作り出すという道を。
魔道士──それは、人が生来わずかしか持たない魔力を操る素質を、幼い頃から厳しい修行によって開花させた者たちの呼び名だ。唯一、魔物に対抗することができるようになった者たちの呼び名。
彼らによって構成される『協会』は、特異な立場にある。その運営費は『中央』の予算の中に組み込まれているが、力の行使に『中央』による制約は一切受けない。ヒトの力を遥かに超えた魔物たちを相手にする為には、たとえヒト相手だとしても、ときに超法規的措置を取ることも赦されている。
『協会』は着実に成果を上げ、それに伴い国内での地位も上がっていった。
そうして。
ほとんど、一つの国家と呼んでもよいほどの力を持った『協会』の働きにより、ドゥワナにおいて、ヒトは魔物に抗することが可能になったのである。
*
男は、その存在に目を奪われた――目の前の、小さな存在に。
彼が身震いするほどの強い魔力を察知したのは、七日ほど前のこと。その正体を見極めるべく山の奥深くへと分け入った彼が見つけたのは、澄んだ泉の中に揺蕩う子どもだった。
その姿は物心が付くか付かないか、という幼子のものであるにも拘らず、漲る魔道力はヒトに非ざるものである。いや、ヒトどころか、魔物の中にあっても、異質。
あまりに強い魔力は可視化した輝きとなって、水の中のその姿をはっきりと浮かび上がらせている。
それほどの力を有するものは、ただ一つしかあり得なかった。
その至高の存在はあらゆるものを凌駕しているが故に他の魔物とは一線を画し、滅多に姿を現す事が無い。男も、半ば伝説と化した伝聞を耳にしたことはあっても、その影ですら、視界の片隅にも入れた事が無かった。
それは、尊び、畏怖し、恐れるべきもの。
男は泉の中に足を進め、間近から幼子を見下ろした。わずかな逡巡ののち、仄かな光を放つ青銀の髪を掬い取る――と、幼女の眼瞼が震え、ゆっくりとそこに隠されていた輝きが現れる。キョトキョトと不安げに彷徨った、髪と同じ銀色の輝きを帯びる薄青の眼差しが、男の姿を認める、と、フワッと――まるで迷子が親を探し当てた時の様に、本当にフワッと、微笑んだ。
彼は、大きく息を呑む。
無垢で清らな笑みは、その存在が有する強大な魔力とは全く関係なく、一瞬にして男を魅了した。
彼に向かって無邪気に伸ばされる小さな両手。
男は腕を伸ばし、それを抱き上げる。しがみついてくる、柔らかな、温もり。
刹那、彼の中に抗しがたい衝動めいたものが込み上げてきた。
――ああ、この出逢いをなかったことになどできやしない。
たとえその身に強大な力を宿していようとも、こうして抱き締めているのは小さく華奢であどけない幼子でしかない。
伝わってくる波動から読み取れるその属性は、風と水。どれ程の魔道力を持つようになるのか、予測すらできない。一介の魔道士には、明らかに手に余る。
だが、たとえ我が身を凌ぐ存在になろうとも、今この瞬間、彼は腕の中のこの温もりを、命を懸けて護り抜こうと心に決めた。
彼は指先で柔らかな頬をくすぐる。
鈴が転がるような愛らしい笑い声が静寂の中に響き渡り、つられて男の唇も笑みを刻んだ。
「お前に名前をあげなきゃな」
男は呟き、幼子を見つめてしばし考える。
そして――