1話
ティアリスの前世は、あまりにもつまらなすぎた。
誰もティアリスに逆らわず、常にティアリスの機嫌を伺っていた。
ティアリスの前世は、女優だ。
数多の賞を総なめにし、主演女優賞をいくつも受賞した。
自惚れではないが、まさに女優としての栄華を極めたといっても過言ではないだろう。
大女優と、名監督の間に生まれたティアリスも、自然とその道を歩んだ。生まれた頃からその手の英才教育を受けてきたティアリスに、演技で右に出る者は居なかった。
監督から叱責をうけることもなく、逆にティアリスが指導するほどの権力を持っていた。
皆から敬われ、愛され……それがつまらなかったというティアリスのことを贅沢だ、と思う者もいるかもしれない。
だが、誰からも怒られないというのは案外孤独なものである。
叱られて、皆はじめて成長する。
ティアリスは、もう伸びきってしまっていた。
「ティアリス。とても美しいわ」
母……キャサリン公爵夫人が言う。
おっとりとした笑みを浮かべる彼女は、この国の前皇帝の妹で現皇帝の叔母に当たる人物だ。
ハッとするほど美しいその顔立ちを、ティアリスは色濃く受け継いでいた。
母の言葉に隣でうんうん、と頷く壮年の男性は、父のアルミン・ガングレイヴ公爵だ。
ほりの深い顔立ちに、青い瞳はさながら龍を思わせるほどに威厳に満ちている。
「ありがたきお言葉です、お母様」
ティアリスが、自分に前世があると気がついたのは18歳の誕生日である。前世のティアリスは、自らの18歳の誕生日に無念の死を遂げたのだった。
三日三晩熱にうなされ、その結果前世の記憶とその経験値……つまりは誰もが羨む演技力をティアリスは手に入れた。
この演技力は間違えなく本物である。何せ、実の母相手に侍女であると信じ込ませることが出来たのだから。その後、侍女たちに紛れて妹たちに茶も出したし、弟の着替えも手伝った。
「本当に綺麗だよ、ティアリス。若い頃のキャサリンにそっくりだ」
「まぁ、アルミンったら。よく見たらほら、ティアリスの目元は貴方そっくりでしてよ」
「私たちの……子供なんだな」
「えぇ……アルミン……っ」
「キャサリン……っ」
普段は本当に優しく、頼りになる両親の玉に瑕は時折2人だけの世界に入り込んでしまうことである。
まぁ、2人もまだ30代半ばであるからにして、充分『その』精力は有り余っているのであろうけれども。
娘の目の前では辞めてほしい。切実に。
いたたまれないのである。
「えー、お父様、お母様。お姉様に御挨拶しても?」
「あ、あら、ローザ。勿論よ」
ローザと呼ばれた少女は、ふんわりと微笑みながらティアリスに会釈をする。
ローザ、本名をロザーナ・エイミー・アン・ガングレイヴという彼女はティアリスの七つ下の妹である。
妹とはいっても、母違いの、だが。
彼女の母はもう、既にこの世に亡い。
ロザーナは未だに第二夫人すら迎えていないアルミンの、唯一の庶子である。
ティアリスの家族は、父、母、ティアリス、一つ下の妹リリス、三つ下の妹フレイア、五つ下の妹アリステリア、ロザーナ、そして八つ下の弟、ウィリアムで構成されている。
ティアリス、リリス、フレイアと生んだ子供全てが女児で中々後継ぎが生まれないことを憂いた前皇帝……キャサリンの兄、アンソニーにより側室候補に、と子爵令嬢が下賜された。
妹のことを溺愛していて、キャサリンの傷つくことはとてもじゃないけど絶対しない、が信条の彼が唯一焼いた余計なお節介がこれである。
妹の傷つく顔は見たくない。
でも、アルミンの血が後世まで残されないのは嫌だ。
そんな兄帝の思惑をキャサリンが知ったのは、子爵令嬢……ウィレミナ・ジャカルッタが既に妊娠してからであった。
皇帝からの直々の差し向けで、拒みきることができなかったのだと言う。最初こそ怒っていたキャサリンだが、次第に怒りはなりを潜めた。ロザーナが生まれ、その産褥の床でウィレミナが亡くなってからはその養母に名乗りをあげた。そしてその役目をしっかりと果たしている。
結局の所、男児は生まれずにアンソニーの心配はさらに肥大化したのだが翌年キャサリンが生み落した子は、待望の男児だった。
こうなると、完全に肩身の狭いロザーナだが、彼女が庶子であることは母と父、そして長女であるティアリスしか知らない。
「お姉様。この度は陛下のお妃様となられるとのこと。誠におめでとうございます」
ティアリスはこの度、従兄弟であるレクザンスカ大帝国皇帝、ジューク・ジル・クロエに嫁ぐことになったのだ。
ティアリスには前々から両親に伝えられていたが、妹たちが知ったのは今朝の食卓でだ。
「ありがとう、ローザ。いきなりで驚いたでしょう?」
ティアリスは少しかがみ、ロザーナと目線を合わせる。
母の薄青い瞳、父の茶色い瞳、そのどちらにも似ぬ黒々とした瞳がきらきらと輝いていた。
_________いつか、この子も気づく。
いや、聡いロザーナのことだ。
もう、気づいているのではないか。
もしくは前々から働いている使用人の誰かが、彼女に良からぬことを吹き込んでしまうかもしれない。
仕方ないことだ。
だが、心根の優しい彼女がその事実を重く受け止めてしまったら?
考えて、辞めよう、と思った。
ロザーナはまだ11歳。
こちらの考えを敏感に感じ取る可能性もあるし、何より本人が母のことを実母として慕っているのだから余計な心配は無用だ。
その時が来たら、こちらから話せばいい。
それだけのことだ。
「はい。ですがお相手がジューク様ならお姉様は大丈夫だと思います!」
従兄弟であるジュークは度々この邸に遊びに来ていた。
ティアリス達姉弟の、母方の従兄弟であるジュークはロザーナとは血が繋がっていない。
だが、ジュークはロザーナのことを良く可愛がってくれるし、ロザーナもそんなジュークを慕っている。
無邪気な妹の笑みに、ティアリスは一つ、ため息をついた。
ジュークには既に何人もの妻がいる。
ティアリスは彼に嫁ぐのではなく、彼の後宮に身を置くこととなるのだ。
レクザンスカに置ける後宮には皇后以下、大まかにわけて四つの位がある。
后の宮、妃の宮、嬪の宮、宮侍の宮だ。
后の宮4人、妃の宮4人、嬪の宮4人、宮侍の宮15人がそれぞれ定員でこの度ティアリスが賜ったのは、后の宮の3番目の位、星妃だ。
さらにはジュークには子供もいる。
彼が19歳の時に側室のキスリル・エイン宰相令嬢との間にもうけた長男、ハルクは4歳。
その2年後に側室、マリエイラ・シャンクス侯爵令嬢との間にもうけた次男、カイルは2歳。
皇子が2人いるこの段階で、仮にティアリスがジュークとの間に男児を成したとしても、その子が皇太子になる可能性は限りなく低い。
2人の妃嬪と自分を比べると、一番年若く、実家の身分が良いのはティアリスだが、この国で大切とされることの一つに、長幼の序がある。
昔、レクザンスカ大帝国でも生まれた順に関係なく、生母の身分し、皇帝の気に入った皇子に皇太子の位を与えていた。
だがある時、それが原因で大規模な反乱が起きたのである。
以来、レクザンスカでも生母の身分も多少考慮されるし、皇后が生んだ皇子がいれば高確率でその子が立太子しているのだが、よっぽどのことがない限り、位は長男に引き継がれることになっている。
「次、ジューク様がいらっしゃる時はお姉様も一緒ですね!」
何も知らずにきゃっきゃとはしゃぐ妹の頭に、ティアリスはぽん、と手を置いた。
「……?」
不思議そうに姉を見るロザーナ。
ティアリスは他人事のように呟いた。
「想い人と、幸せにね」
もちろん、ジュークが嫌いなわけでは断じてない。
全く見知らぬ貴族に嫁がされるより、従兄弟であり、この国の皇帝という身分確かな彼の妻となることはよっぽど良い。
だが、ティアリスも女。
大勢の花の中でいつ来るかもわからない水を待つよりは、たった一輪、愛される花になりたい。
前世の悲しい恋の思いも引きずってか、ティアリスは後宮に入ることが若干ではあるが嫌という気持ちを持っている。
「お姉様、今夜発たれるのでしょう?」
「えぇ、そうよ」
「ウィリアムと一緒にお見送りしますね!」
年子であるロザーナとウィリアムは他の姉弟よりも仲が至極良い。ティアリスも、彼女達が2人きりで遊んでいるところを度々見かけていた。
「リリスお姉さま達も誘ってみますわ!」
「えぇ、ありがとう。じゃあ、お姉様は出立の準備をしてきます。お勉強、頑張るのよ」
「はいっ」
ロザーナが、蕩けそうな笑顔で笑う。
可愛らしい妹の笑顔に癒され、ティアリスは準備に臨むのだった。