知らないようで知っている
…始めにこの空間を見たとき、その可能性を考えなかったわけではない。しかし、僕が考えている事と捲里が言っていることが違った場合、僕は秘めたる己の欲望の一端を、会ったばかりの少女に曝すことになるかもしれない。それでもここで嘘を吐いて後々ばれてスタンガン、なんてのはもっとごめんだ。できるだけ欲望の部分は伏せて、でも嘘はつかないように伝えよう…。
「…捲里が言っている”似た空間”なら、知ってるかもしれない。」
「…!!…そう、やっぱり、元々こうなることが決まっていたのね…。さっき、トキはあの本に関してもう何も関わらない、と言ってたわね。残念ながら、あなたはもう、関わってしまっているの。そして、そこから逃げることもできない。」
面倒なことになるのが分かっていたわけではないが、やはり、今朝見た夢のあの空間は、この異空間と何か関係があるということだろう。そして、今日この店を訪れてから起きた様々な要因が重なった結果の産物ではなく、元からあの本に関わってしまうことが決められていて、その決定から逃れることができないと、彼女はそう言った。
「つまり、僕がその空間を訪れたことで、例の本に関わることが決定されたってこと?」
「えっと、どこから説明しようかしら…。とりあえずその問いに対しての回答はノーよ。逆ね。この本に関わることが決定していたから、トキは”似た空間”を訪れたの。」
捲里が言っていることは分かるのだが、全く理解できない。元から例の本に関わることが決定していたから、あの夢を見たというのか。…というか、あれは夢だったのか?
「多分なんのことやらさっぱりだと思うから、…そうね、今から大事なことを話すから、しっかり聞いてね。まず、この空間について。この空間は隙間〈ヒアトゥス〉と呼ばれているわ。私の場合は、この”ディアリウム”と呼んでいる本を用いることで訪れることができるの。ところで、私の場合は本だけど、あなたの空間は何に囲まれていたの?」
「えっと、時計だったかな。種類は置時計から腕時計までいろいろだったけど、うん、時計、だと思う。」
「空間を漂っている物は、その空間に訪れるための媒体そのものを表しているの。だからほら、私の空間にはいろんな本が浮かんでいるでしょ?だから、あなたの場合は、何か時計を媒体にすることで訪れることができるはずよ。でも媒体たりえるモノは、その人がとっても大事にしているもの。心から。トキ、昔から大事にしてたり、最近だとしても誰かからもらって、一生大事にしようって思った時計、あるでしょ?」
「ああ、多分だけどこの腕時計がそうだと思う。これは本当に大切なものだから…。」
「そう…。私のディアリウムやトキの腕時計、異空間に訪れるための媒体が持つ力のことを、道〈ヴィアー〉っていうの。」
なるほど、この隙間に訪れることができるのは、その大切なモノに道と呼ばれる特別な力が備わったものを所持している人だけってことか。ということは。
「つまり、この本に関わることが決定した人にはその道がもたらされて、その人の大切なモノに宿るってことか?」
「んー、大前提として、心から大切にしているモノがある人っていうのはあるけど、大体そんな解釈で合っているわ。」
「ふむ、じゃあ、その本……ずっとその本じゃ、特にこの空間だとややこしくなってくるな。そうだな、『雨の書』って仮称をつけよう。『雨の書』に関わることはいつ、誰が決めるんだ?」
「…ごもっともな質問ね。誰が、という問いに対しては、申し訳ないけれど分からないと答えるしかないわ。いつ、に対しての解は突然。言い換えるとその誰かの気まぐれ、かしら。」
「急にすごいふわふわした回答になったな…。」
「仕方ないじゃない。私もそこまで詳しく聞かされていないのよ。」
「…聞かされていない、ね。捲里にそれを教えたのは誰か、ってのは聞いても大丈夫か?」
「ええ、トキは既に巻き込まれてしまった訳だし、大体のことは教えるつもりよ。ただあんまりいっぺんに色々教えるとパンクしちゃわない?頭。」
おっしゃる通りだ。今日は珍しく早起きして、二度もスタンガンを喰らい、小難しい話をあれこれ聞かされたのだ。心身共に疲労困憊である。
「今日はとりあえずここまでにして、また明日話の続きをしましょう。いい?えっと、『雨の書』だっけ、のことは絶対に口外してはダメよ。私がその本について知っているってことも。それと、隙間や道のことも、たとえ親しい友人であっても教えちゃダメ。もし私以外の関係者に出会ってしまって、何か知っているかと聞かれても絶対に知らないふりをして。それと……」
今どき幼児の親でもここまで口うるさくないだろうというぐらい釘をぶっ刺されまくった。
「分かった分かった。とにかく、外では僕は何も知らない。自分から誰かに話したりもしないよ。」
「…ならいいわ。さて、とりあえず現実世界に戻りましょう。あなた、スマホは持ってるわよね?」
僕を縛っている縄をほどきながら捲里は問いかけてきた。スマホならいつも上着の右ポケットに突っ込んでいる。ようやく解放されたばかりの右手を愛おしく思いつつポケットをまさぐる。が、何も入っていない。他のポケットも続けてガサゴソとするが、どこにもない。
「あれ、いつもここに入れてるのに…。今日だって写真見たり見せたりした…か………。」
思い出した。一回目のスタンガンを喰らう直前、彼女にそれを喰らうことになった原因。そう、寝猫堂のレジカウンターの上で写真を見せたとき、その台の上に置きっぱなしになっているはずなのだ。捲里を一瞥すると「あ。」と言って目を逸らした。あちら様も気づいたようだ。
「…ちなみに、あまり聞きたくないけど、スマホが無いと現状何か問題があるのか…?」
「…えっとぉ……、現実世界に戻るにはね、こちらに来た際の日時がとかが分かるものが必要なの。正確には日付が分かればいいから、例えば日めくりカレンダーの今日の分、間違えてちぎって持ってきてたり、しない??」
「するわけないだろ!!?そもそも今日の日付の分今日破る人なんていないだろ、普通。てか捲里のスマホがあるんじゃないのか?」
「あるけど、戻るための標は一人一つ必要なのよ。」
「え、ここに来るのには捲里の、その、道一つで二人とも来れたんだよね?なのに、戻るのにはしっかり二人分の現実世界の日付が分かるものが必要なの?」
「あーーーその辺の説明はめんどくさいんだけど、とりあえず、こっちに来るのは道だけで大丈夫なのよ。でも現実世界に戻るのは道だけじゃ無理。今はそれだけ理解して。」
「それなら、僕のこの腕時計にもおそらく道が宿ってるって話だったけど、それは使えないのか?」
「いい着眼点だけど、ダメ。さっき説明したように、この隙間は私の”ディアリウム”によって構築され、”ディアリウム”の力でのみ、来ることができるの。だから、もし仮にトキがその腕時計の道を使いこなせたとしても、この隙間では無意味ってこと。」
「…もし日付が分かるものを使わずに道を行使した場合、どうなるんだ…?」
「現実世界とは全く別の世界に飛ばされるわよ?」
そんな、当たり前じゃない、みたいな顔で言われましても。何かあったかな、スマホ以外に日付が分かるもの……、残念ながらこの腕時計はカレンダー機能はついていない。もし仮についていたとして、道を宿すモノを標にできるのか、それも怪しいところだ。今ポケットに入っていたのは財布だけ。財布にカレンダー機能なんて……。
――そこで僕はやっと気づいた。日付が分かるもの、今日の現実世界にいたという決定的なもの。
「捲里、あるぞ、僕の分の今日の日付が分かるもの!それは、これだ!!」
「簡単そうでなかなか見つかるものじゃないのよね、今日の日づkあったの!!?って、それ……、レシート…!?あなたレシート貰う派の人だったのね…。」
そう、財布の中にあった一筋の光。それはしんびょう軒のレシートだ。僕とM山、二人分のお会計に加えて、しっかりと支払いを済ませた日時が印刷されている。
「じゃあトキ、そのレシートを持って、反対の手で私と手を繋いで。」
「えゅ゛?」
とてつもなく変な声が出てしまった。急にこんなかわいい女の子と手を繋ぐとか、お付き合い経験ゼロの男子にとってあまりに難易度が高い。
「何してるの?……まさか女の子と手を繋ぐの、恥ずかしいの…?」
怒ったときの貼り付けた笑顔とは違い、しかし優しい笑みでもなく、形容するならば「にやり」に近い煽るような表情でこちらを見てくる捲里。少しイラッとするが、その可愛さゆえにこれはこれでありだな、と思ってしまう。なんとか気持ちを落ち着かせて捲里の手を握る。捲里のほうから「ひゃ」と小さい声が聞こえた気がしたが、知らないふりをしないと絶対またスタンガンだ。忘れよう。
「じゃあ現実世界への道を繋げるから、標、失くさないように気を付けてね。
――――開。」
捲里の掲げた”ディアリウム”がパラパラと開き、淡い光を放ち始める。辺りに蛍のような光の粒が散り、だんだんと視界を覆っていく。幻想的で美しい光景に見入る中、僕はぎゅっと、レシートと捲里の手を握っていた。