交わり
寝猫堂に戻ったのは十二時半過ぎだった。午前に来た時もだが、ほかに客はおらず、カウンターにも相変わらず店員の姿は見当たらない。M山もまだ戻ってきていないようだ。僕は探し物の続きをしようと背中合わせの棚に向かう。聞いたことのある有名な作家の文庫本、海外の童話がまとめられたもの、興味を微塵も惹かれない分厚い評論本、趣味の悪い官能小説、家にもあるようなベストセラー……。多種多様な古本をメモと比較し、あれも違うこれも違うと切り捨てていく。
三十分ほど本棚とにらめっこしたが、見つからない。五分ほど前にネットでタイトルを検索してみたものの、とてもありがたいコラムの記事が出てくるだけで全く手掛かりは得られなかった。それにしてもM山のやつはどこをほっつき歩いてるんだ。勝手に帰るような奴ではないはずだが、そんなにあいつの目を引くレアグッズの宝庫でもあったのだろうか。
「ラーメン一杯じゃ足りねぇぞ、全く…。」
吹き込む隙間風に短く身を震わせ、点滅する蛍光灯はかたかたと鳴く。
その時、店の奥の暖簾がめくられ、一人の少女が現れた。
「いらっしゃいませ。」
真顔で接客用のセリフをぽつりと漏らすと、少女はカウンターへ腰を落ち着ける。僕は、店員が急に出てきたことに対する驚き、この古びた古本屋でこんな少女が働いているというギャップに対する驚き、そして、その少女があまりに綺麗だったことへの驚きが重なって、しばらく口を開けたまま固まってしまっていた。なんとか頭を再起動させ、目の前に現れた少女に意識を向けるころには、少女は机に伏せて顔を腕の中に埋めていた。ふうと息が漏れる。じっとこちらを見られているよりは、そうして伏せていてくれた方がこちらも探し物がはかどりそうだ。それにしても。
ここで特筆すべきは、その顔の端正さについてだ。誰に向けたわけでもないが、そうだリトル僕よ、語らせてくれ。大きめの眼はまるで磨き上げられたジェットのような、吸い込まれる黒。鼻筋はすっきりと通り、唇は薄く、きりりと結ばれていた。肩のあたりで巻かれた髪は、瞳に負けず劣らずの濡羽色。店に出てきて机に伏せるまで、そのわずかな時間の中でもここまで印象強く、鮮明に脳裏に焼き付いていることに、自分でも驚きを隠せなかった。そんなおとぎ話から出てきたような少女は、おそらく彼女が通っているであろう学校の制服に、「寝猫堂」と刺繍されたエプロンをひっかけている。お行儀よく繰り返される寝息は、その見た目から受けた凛々しい印象と裏腹にとてもかわいらしく、そのギャップが輪をかけて彼女を魅力的に思わせた。ひとしきり脳内でリトル僕に語り終えた僕は、ようやく平静を取り戻し、探し物を再開した。頭の中で誰かが「変態め」とぼやいた気がしたが、それは本当に気のせいだろう。
さらに探し続けて十五分ほど経った。探していない本棚は残り一面となったが未だに本は見当たらない。おまけにM山も戻ってこない。ラインも当然送ったが未読のままだ。信じていいんだよな?M山……。さすがに少し疲れてきたのか、さっきからため息をぽつぽつとついてしまう。そんな薄幸そうな僕の様子に見かねたのか、ついさっき頭を上げて文庫本を読み始めた件の美少女が、おもむろに声をかけてきた。
「あの、何かお探しの本でもあるんですか?正直、この店にはお客様のような年代の方が嗜むようなものは置いてないと思うんですが…。」
「あ、いえ、そのぉ、探し物はしてるんですけど、えっと、僕の趣味ではないというかぁ……。」
急に声をかけられて、情けない返事をしてしまう僕。要領を得ない回答に小首をかしげる少女。ふわりと揺れるセミボブ。かわいいなぁもう。緩みそうになる口元を咳払いでごまかし、僕は頼まれて探し物をしていると少女に伝えた。
「なるほど、ご友人のパシリに巻き込まれたと。災難ですね。それで、一体なんて本をお探しなんです?」
「ああ、えっと、この本なんですけど…、その、著者名がかすれてしまってて、手掛かりがタイトルくらいなんですよね…。」
そう言いながらスマホをカウンターの上に置き、例のメモの写真を少女に見せる。文庫本にしおりを挟んで閉じた少女がその写真をのぞき込む。瞬間、息を吞む少女。ばっと持ち上げてこちらに向けた顔には、焦りとも驚きともとれる表情が張り付いている。そのままぶん殴られそうな気迫を感じた僕は、思わず二、三歩後ずさった。ありえない…、とつぶやきながら、再びスマホに視線を落とす少女。
「あなた、この本のことは本当に友人から、今日、初めて聞いたのね?」
「……あ、はい、そうです…。友人も知り合いから頼まれたそうで、僕たちは、何も…。」
まさか、本当に財宝とかそういう、胡散臭い代物だったのか…?午前中に二人で一蹴した夢物語が、目の前の少女反応一つで現実味を帯びたことに、驚きよりも、恐怖を感じた。こういう話は大抵命のやり取りが発生するものだ。M山には悪いが、もうこの本を探すのはやめて、それとない理由をつけてこの場を去ろう。美しい少女のことも全部ひっくるめて、まだ夢を見てたんだと思い込もう。焦る気持ちを生唾と一緒に飲み込み、平静を装う僕。
「そ、そうだ、僕もうすぐバイトが
「申し訳ないけど、そう易々と帰す訳にはいかないわ。あなたが何を知ってるか私は知らないけど、私の反応を見て逃げ出そうとしているそのあなたの態度。色々と聞かせて貰わないといけないと思うの。」
関わりたくない気持ちが裏目に出た。少女がその両の深い黒で僕を捉える。本当に何も知らないし、そんな財宝なんてものに興味はない。焦っているのも君の勘違いだと、そう言いたいのに、鼓動の音だけが脳に響く。頭は動いているが働いていない。考えた言葉が、この場から逃げるための言い訳が、耳や毛穴や、そこらじゅうからどこかへ逃げていく。見つめ合う美少女。どくんどくんと高鳴る胸。これが恋か…。脳みそが思考を放棄して、暴走を始めたらしい。僕はこの状況で、この今まさに命を奪ってやろうという威圧感を放つ少女に恋をしたようだ。いっそここで告白のひとつでもするのが男だろうか。茹だる頭、混乱する視界、ぐるぐると駆け巡る体内の血液。蛍光灯の点滅が、まるで死へのカウントをしているようにすら感じる。何か言わないと殺される。そのことだけを何とか考え続けること数秒、ついに僕の喉は震え、音を出した。同時に少女の姿が視界から掻き消える。声は止まらない。
「アッ、そのっ!好きでsっっっっ…
「…は?」
素っ頓狂な声と共に首筋に何かがあてがわれる。直後、襲いかかるいまだ味わったことの無い衝撃、痛み。僕は膝から崩れ落ち、体の自由を奪われる。
「…おとなしくしててね…。」
響く鈴の音のような声と共に、視界を覆う少女の手のひら。腕時計と蛍光灯のセッションに包まれて、僕は意識を失った。
世界のどこかに散らばっていた物語の歯車は、その現実離れしたシチュエーションに似合わない、平凡でロマンチックの欠片もない告白のセリフと共に噛み合い、急速に回り始めた。