遭遇
「……ふう」
リビングに未だ残る昼間の残滓は、汗腺を休ませてはくれません。冷蔵庫からピッチャーを取り出し、よく冷やされた麦茶を飲みます。すぅと身体に染み透る冷涼さがどうにも心地よい。掻いた寝汗の分を消費した身体のタンクに、補充されていくのが分かります。
夜中でもコチコチと律義に時を刻み続ける時計を、一つだけ点けた微かな明かりを頼りに読み解くと、時刻は三時二十八分。夜明けまで、あと二時間といったところでしょうか。
暑苦しく、どうも寝付けない。
こんな夜は、眠気がくるまで読書でもしながらゆっくり時を過ごすのがいいでしょう。
部屋に戻った私はスタンドライトだけを灯して、本日――いえ、もう先日でしょうか――地元の本屋で購入した小説をぱらりと捲ります。寮に居る時は同室の人に迷惑がかかるため、とても夜なべをする気にはなれないのです。お母様に知られたらけんつくを食わされそうですが、せめて一晩、少しぐらいの夜更かしは許してもらいたいと思い、神様にお願いしました。はて、私が願ったのは、どこの神様だったのでしょう。キリスト教系列の学校へ通っている私ですが、無宗教派なのです。
我自権先。それがこの小説を書いた人の名前です。記憶が正しければ大正・昭和の初期に活躍をした文豪でしたか。文章が回りくどく、ひたすら心理描写が続くことが多いので、人によっては文を読むことだけで疲れる、とまで批判される作者です。これまで名前を覚えていたのですが、まだ一作品も読んだことがなかったのです。ふと本屋に立ち寄った際、この小説を見つけたので、つい衝動買いをしてしまいました。
目をゆっくり、三回閉じます。これが私の、読書へ集中するための儀式のようなものです。いい癖だとは思いませんが、これをするのとしないのとでは、夢中になれるかどうか、大分変ってしまうのです。
――俺は君さへゐてくれれば、外の世界へだって飛び出して行ける。それだけじやない。君が俺を好きでいてくれるのなら、どんな手段を用いたとしても、君を救つてみせる。
これはある屋敷に閉じ込められた主人公が、別の家の奉公に決まった使用人の女性に対して言った言葉です。
この主人公は、自分を縛るものなど何もない。それなのに自ら甘んじて内に籠っている。そんな主人公が、恋をした女性のために、太陽の光を浴びる……といったシーンです。
まるで実話を描いているかのように生々しい心理描写なのに、小説でなければ実現できない未来への渇望。二律背反とも取れてしまう、とても危ういバランスの上に成り立ったお話です。好みの差が別れそうな大げさな表現が多いのは弁護できませんが、それでも私は、このお話を面白いと感じました。
短編の一話目を読み終えたところで、私は大きな伸びをしました。眠気はまだ訪れません。時計を見たらまだ四時にもなっていませんでした。文章を深く噛みしめながら、ゆっくりと読んだつもりですのに、この様子ではまだまだ眠れそうにありません。こうなったら徹夜を覚悟する必要がありそうです。
そのためには目の疲れは癒さないと。私はあまり視力はよろしくないので、これ以上視力を落として、常時眼鏡着用が必要にならなくてもいいように、双眸とも休息を与えましょう。背もたれに体重を任せて、瞼を深く閉じます。
じんわりと痛みが広がります。しかしある一点を境にその痛みは、逆に快感へと変換されていきます。この感覚は、なんとなくですが、好きです。
視界が完璧に暗闇に染まったことで感覚が鋭くなったのか、そよそよと僅かに緑の香りを乗せた風が、私の額を撫でていることに、今さらながらに気が付きました。汗が引いていき、代わりにさらさらとした夜の空気が私を纏います。
ああ、これだから夏はやめられない。
私は夏の暑さが大好きなのです。
燦々と照り付ける太陽の下、よく冷えた飲み物を飲むのは心地が良いですし、打ち水をしたり、果物を氷で冷やしてあげるのも、いかにも夏真っ盛りといった風情があって、他の季節にはない高揚感をもたらしてくれます。もちろん、春も、秋も、冬も好きです。どれも好きなうえで、夏が特別なのです。
ふと、星を見たいなと思いました。
こんな時間の星空など、見ようと思って起き続けない限り、観察できるものではありません。これも貴重な体験です。
開け放していた窓から夜空を眺めます。
私は空を見上げるよりも、今自分が立っている大地を見下ろす方が好きなので、あまり星空に興味が湧いていませんでした。空よりは、どちらかというと海の方へ想いを馳せることが多いです。ですがたまにはこうして時間を過ごしてみるのも素敵だなと思いました。
天の川。夏の大三角形。北斗七星。こと座、わし座、はくちょう座。思いつく限りの星星を見つけます。星座早見表がないと一苦労ですが、頭の中にある知識だけでも、結構分かるものです。
「あ」
一つの星が、ちかっと一瞬光りました。
流れ星です。
これを見たからには、することは一つでしょう。……と思ったところで、もう星は流れ消えてしまいました。残念。そもそも流れ星が発光する時間は一秒前後ですから、三回も願いを唱えるなんて元来無理なのでしょうか。それにもし三回唱えたとしても、そのような願いなど中身はないに等しく、自らの努力で叶えることができてしまう程度のものであるはずです。……このような考えを持つ辺り、私は普通の女性なのではなく、捻くれているのだなあと感じなくもありません。
流れ星に願いを込めて、夢が叶うのなら苦労はしません。私には許嫁というものがおりますから、どんな夢を持っていたとしても、すべては水泡となってしまうのです。そんな喪失感を覚えるぐらいなら、最初から期待も希望もしない方がいい。
そうやって、私がいつものように未来を諦めている、その時でした。
――かっ。
石が転がったような、軽い音が突然、庭の方から聞こえました。今まで上を向いていた私は現実に戻され、反射的に音の方向を向きます。
「…………」
そこにはなんと……一人の男性がいるではないですか。
二メートルはあるはずの塀の上を、平均台を渡るようにバランスを取りながら、しかし見えない床が左右に広がっているのではないかと錯覚してしまうほど、優雅にゆったりと歩いています。その仕草はあたかも舞台上の演劇のように、非現実的な光景でした。仰々しいと言ってしまってもいいかもしれません。
満月の光を十分に引きうけながら塀を伝う彼は、まるで月の化身。そう思ったのも仕方がなかったかもしれません。なぜなら彼の髪の毛は……金色なのです。
満点の星々の色で染めあげたような、とても綺麗なその金髪は、しばしの間、私を見蕩れさせました。
……世の中には、視線に気づく人間がいると聞きます。そして、彼もそうだったのでしょう。肩をぴくんと振るわせた彼は、おそるおそるといった態で私を見ました。次第に、整った眉が内側に寄せられ、流麗に逆八の字を描きました。
その迫力たるやまさに野獣。夜の闇を血肉にした瞳の力だけで、私は思わず一歩後ろへ下がってしまいます。
けれどここで気負ってはいけません。
「なんですかあなたは」
震える心を激励し、毅然とした態度で臨みます。彼は頬を一回だけ、細くて長い指で掻き、言葉を発しました。
「まさかこんなところで、お姫様が月光浴をしているなんてな」
聴いているこちらが恥ずかしくなるような台詞。そもそも彼自身、言った瞬間に恥ずかしくなったのか、また頬を指で掻いています。
「……ここの家に、娘なんていたか? いつもはその部屋、誰もいなかったはずだが」
その声は、変声期を迎えた少年のもの。高いとも低いとも言い難い、難しい時期です。私と似通った年齢といったところでしょうか。
「ここはいつまで経っても私の部屋です」
「そうか。じゃあ、もうここは使えないな。折角の近道だったのに」
目の力とは対照的に、あまり怒った口調のようには感じられません。むしろ、むすっとした言い方が、妙に子供っぽい。秘密基地を発見された男の子とは、こういう風な反応をするのでしょうか。
「……まあ、普段は、ここから遠いところにある寮で過ごしていて、今は夏休みだから帰省中なのですけれど」
罪悪感を覚えた私は、少しだけ付け加えました。
「ふうん」
どうでもよさそうに鼻で返事をする彼。よく分かりませんが、これ以上興味はなくなったようです。
この時すでに私は、彼に対して恐怖心を忘れていました。私は夢を見ているのではないか。そう頭のどこかで考えてみたりもしました。けれど、むしろそれならそれでいいのかもしれません。だって私は今、この状況を楽しんでいるのですから。
「ではあなたは、『こんなところで』何をしているのです」
このような状況に陥っても、私はこう問わずにはいられませんでした。塀の上は、私の家に敷地なのか、それともお隣さんの敷地なのか、そこまで法律的なことは詳しくない私ですが、一歩こちらへ踏み出せば、間違いなく私の家に不法侵入です。
「姫を誘拐しに行くのさ」
欧米人のように、大げさに肩をすくめて彼は言います。
冷静に考えれば、こんな時間に出歩く彼は『不良』というものなのだと、すぐに判断して、最初の時点で会話をやめていてもおかしくはありません。
なのに、私は彼の行く末を見たいなんて、くだらないことを思いました。
「なら、私も連れて行ってくださりません?」
「残念ながら、女性をエスコートするほど紳士な男ではないんだ。その役目は、あんたの未来の騎士に委ねたい」
「私の騎士様は、本当に騎士なのか分かりません」
「それじゃあ、騎士を出し抜いてまで、姫の心を抜き去る詐欺師を待つことだ」
彼は、自分の首に掛けているネックレスをはずして、それを手に持ちながら、とんとんと軽い足取りで、私の目の前まで飛んできました。その姿たるや、稀代の大泥棒。
「これに祈れば、きっとあんたの運命の人が駆けつけてくれる。助けがほしければ、吹けば運命の人が支えになってくれる」
そのネックレスを、私の首に掛けます。
ゴールドのチェーンの先には、木彫りのホイッスル。それをよく見てみると、太陽と思われし刻印がされていました。
「それじゃあ俺はこれで。さようなら、月を浴びせし姫」
「さようなら、闇夜に浮かぶ太陽さん」
すでに姿を隠してしまいましたが……最後に見た彼の表情は、きっと苦笑いでした。
・・・
・・
・
埃の舞う部屋の中、俺とトキネは大掃除を行う。トキネはここ数年、この家に戻りたがらなかったから、数年ぶりの兄妹揃ってな大掃除だ。
嗚呼、感動。こんな日が、再び訪れるなんて。
トキネに重労働をさせるわけにはいかない。なんせ、俺の可愛い妹なんだから。そんな理屈で崖に面している大窓の拭き掃除をしている時、押し入れの整理をしているはずのトキネからお呼びがかかった。
「兄貴。この箱って何?」
「どれのことだ?」
トキネは押し入れの中から、厳重に梱包された段ボール箱をとりだしてきた。ガムテープで、これでもかというくらい封がされている。
「これはあれだ、母さんの形見」
昔、父さんと一緒に大掃除をした時に見た記憶がある。トキネはヒジリの家の手伝いをしていたから知らなくても当然だ。
「形見? にしては、なんか質素」
「なんでも、父さんは生前母さんに、『死んでも見ないで』って言われたらしいぞこれ」
「文字通りに解釈する普通それって?」
「律義な性格をしてんだろ父さんは」
生前、母さんが言ったことを未だに忠実に守る父さん。それだけ、母さんのことが好きだったんだな。一人の女を、これだけ長い期間愛し続けるなんて。俺も見習いたいものだ。今のところ、俺の戦績は百二十四戦百二十四敗といったところ。ああ、青春を謳歌するためのパートナーが欲しい。大人しい文学少女……じゃなくていいから、せめて小説を本気で語れるような女がどうかいないものかな。
「お父さんはともかく、私たちはお母さんの子供なんだから開ける権利くらいあるでしょ」
自らの持論にのっとり、トキネはガムテープを丁寧に剥がす。
「いいのかな……父さんに許可とった方がよくないか?」
「そんなの待ってたら、いつまで経っても中身が分からないって」
俺はトキネに『そんなことない』と発言したかったが、それよりも先にトキネは「……ごめん、でも、いつになるか分からないから」と訂正した。
何重にもぐるぐるにされたガムテープを突破すると、中に入っていたのは三冊の本と、いくらかの小物。本は一冊辺りが分厚いとはいえ、箱のサイズにしてはやけに内容物は少なかった。
「お母さんの本って、本棚にあるので全部じゃないの?」
母さんの形見である、本棚に眠る小説の数々は俺の管轄。その全てを把握している。それなのに俺はこの数冊の本を見た覚えがない。
それもそのはず。そもそも、小説ではなかったのだから。
「これは……日記だな」
「日記?」
「ああ」
段ボールの中に眠る、大量の日記帳。表紙の年号を確認すると、一番古いものが昭和五十九年で、新しくて昭和六十一年。およそ三年間。どれも表紙に、その年号に見合った年齢が書かれている。五十九年で十七歳。六十一年で十九歳。
「……うわ、こっちに来る前の日記じゃないか。現存してたのか」
俺の知っている母さんの日記は、平成元年から、平成四年まで。母さんと父さんが駆け落ちをしてから、俺とトキネが産まれた歳までの間だ(『それ以降』の日記は、存在するはずがない)。しかし、『それ以前』の日記が、まさかまだあったなんて。
「待って待って。お母さんって、日記をつけてたの?」
「そうだぞ。と言っても俺が読んだことがあるのは、一部だけだったわけだ」
「私、見た覚えがないんだけど」
「見せた覚えもないし」
「……なんで見せない莫迦兄貴」
「だって見つけたの、あの頃なトキネの時だから」
頭にズガンと重い衝撃。殴られた。
「だったらせめて、仲直りした頃に見せてくれたっていいじゃない」
「本とか読まないかなと思って」
「お母さんの形見なら、私だって気になるっつの」
「すまん」
謝ったら、また殴られた。
独断でした行動だったが、どうやらトキネにの琴線に触れてしまった模様。
「莫迦兄貴はいつだって、一言足らない」
「ヒジリにもよく言われるよそれ」
「だろうな。あの時だって……」
「どの時?」
分かってはいるが、とぼけてみる。
「なんでもない」
顔を紅くしているトキネにまたまた殴られる。今日は大安吉日だったか?
言ってさえいれば、トキネとヒジリはもう少し早く付き合っていたかもしれないし、そうでなかったかもしれない。ま、どっちにしろ、言わなかったから付き合った結果にたどりついたわけなんだけれど。
適当に一冊手にとって、ぱらぱらと捲ってみる。
「……うわ、母さんと父さんの馴れ初めが書いてある。砂糖吐きたい」
「そんなにアレなの?」
「純情すぎるぞ母さん」
この青空のどこかへ飛翔している、俺の亡き母に向かって、言葉を蒸発させる。
「新婚間近の頃のも十分砂糖吐きたくなる内容だったが……恋する乙女は一段と凄いな」
見ているこちらが赤面してしまう、乙女な日記。よもや、こんなものが現実に存在しているとは。小説の中だって、王道とか陳腐とか、それ以前の世界。以前見たエス文学を読んだ時も同じ感情を抱いたものだが、なにせこちらは、正真正銘ノンフィクションだ。
「……ん?」
日記を片手にダンボールの中をごそごそと漁っているをしていると、見覚えのあるアクセサリーが見つかった。
「……これは」
「お父さんの、ネックレス?」
「でも木製」
記憶が正しければ、これは、父さんがよくしていたネックレスだ。けれど、飾り付けられている物が違う。父さんのは金属製のホイッスルだったが、これは木製。年月相応の古さは出ているが、子供が工作で作成したような手作り感は、未だ溢れる。
なんだろうかこれ?
「……それにしても」
どうしたものか。大掃除の最中に、ちょっとだけ、ちょっとだけと読乱す漫画は、集中を乱すには最強の武器だというのに、それ以上に強い武器があるなんて。おかげですっかり手が止まってしまった。これももったいぶって隠してるからだぞ、父さん、母さん。
・
そして俺は、自分の部屋で、母さんの形見に目を通す。
――八月十五日
『追記:とても不思議な体験をした。
寝付けなくて小説を読んでいた。すると、外に男性がいる。
金色の髪をしたその彼と、騎士だの姫だのと何言か重ねた。
最後に彼は、私にネックレスをくれた。』
そんな、簡潔な内容が付け加えられていた。
「……ふむふむ」
以前見つけたネックレスを手に取りながら、トキネの部屋の扉をノックする。
――これに祈れば、きっとあんたの運命の人が駆けつけてくれる。助けがほしければ、吹けば運命の人が支えになってくれる。
確か、平成の方の日記に、母さんは初恋の男性に言われたことを、こう書いていた。
「トキネ、大変だ」
「なによ莫迦兄貴」
「父さんと母さん、どうやら、出会う以前から出会っていたようだ」
「はあ?」
自分で言って、自分で叶える。
本人たちは気づいているのかどうか知らないけど、なんてかっこいい父親なんだ、父さんは。
・・・
・・
・