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脳の異変

作者: 尚文産商堂
掲載日:2011/05/31

技術的には、十分に成熟したものだ。

なのに、調子が悪い人が増えているらしい。

どういうことかを調査するようにという命令が、政府上層部から、国立研究所主任研究員の私のところへまわってきた。


白衣を着て、半透明のクリアファイルを手に持った私は、所長の部屋に呼ばれたため、所長と向かい合う形で座っていた。

「どういうことなんでしょうか」

私は、私よりも一回り年上の所長へ聞いた。

「君は、脳機能学の専門家だろ。今回は、我々の頭にも埋め込まれているチップについてだ」

「感情抑制装置のことですか。確かに、私の専門ですね」

「そういうことだ。そのチップに関する事故の検査を頼みたい」

「…もしかして、いま連続して発生しているあの事件についてですか」

所長は、深くしっかりとうなづいた。

あの事件というのは、不可解な一連の事件についてを指している。

そもそもの発端は、一人の会社員が突然発狂をしたことだ。

電車の中、うとうとと眠っていた彼が、突然あたりかまわず狂暴に攻撃を開始し、死者1名、重傷者2名、軽傷者15名を出し、突然その場に崩れ落ちた。

彼は現在精神病院に収容されており、そのようになった原因を究明しているところだ。

だが、そのさなか、第二、第三の彼が現れた。

つまり、いままで平穏と暮らしていたのに、あるとき突然発狂をするという事例だ。

現時点で15人が確認されているが、これからさらに増えて行くような気がしてならない。

「確か、全員が自分を見たと言っているんですよね」

「そうだ。ただ、それ以外にもさまざまな共通点があるようだ。それらは、このファイルに載せてある」

所長は、私に、青色の表紙をしたファイルを渡してきた。

「所外秘のファイルだ。いいか、このファイルの中のことは他言無用で頼む。ただし、自分と君の秘書、そして捜査の協力をしてくれる警視とその秘書は除くが」

そこまで言ってから、所長はその警視たちに引き合わせてくれた。

「紹介しよう、都市中央警察警視のカイルス・ブーハイルさんと、妻にして秘書であるマリア・ブーハイルさんだ」

「よろしくお願いします」

私は、彼らそれぞれを握手をした。

「私の秘書は、まだ来てないので、来た時に紹介させてもらいます。まずは、私の研究室へどうぞ」

所長へ一言言ってから、私は彼らを連れて所長室から出た。


私の研究室は、8畳ほどの部屋で、その半分ほどにスーパーコンピューターが座っていた。

「すみません、狭い部屋で」

私は折りたたんでいたパイプ椅子を用意してから、書類が山積みになっているテーブルを片付けた。

「何か飲みますか」

部屋の隅にある冷蔵庫を指差しながら聞いた。

「いえ、結構です。おかまいなく」

カイルス警視は、私にはにかみながら言った。

「奥様は…?」

「私も結構です、ありがとうございます」

「では、私だけ失礼して…」

私は、冷蔵庫から小さな缶ビールを取り出した。

「私の秘書がくるまで、すこしお待ちいただけますか。それとも、先に話を始めますか」

「いつごろ来ますか」

警視が私に聞いた。

「そろそろ来ると思います」

テーブルに座り、缶ビールを開けて、私は飲み始めた。


3本目を飲み干すと、私はピラミッド状に缶を並べた。

その時、ドカドカと走ってくる音が聞こえてきた。

「どうやらきたようです」

私が4本目を冷蔵庫から取りだした時、ようやく入ってきた。

「遅れて申し訳ないです。博士」

「すでに30分の遅刻だな。これは給料から引いておくからそのつもりで」

私は遅れてきた秘書に告げた。

「紹介します、私の秘書の竿留勝良(さおとめかつら)です」

私が秘書を二人に紹介をしてから、彼らは握手をした。

「さて、揃いましたのではじめましょうか」

それから、秘書を私の隣に座らせ、冷蔵庫のポカリスエットを渡した。

「これでも飲んでおけ」

「はい、分かりました」

そして、警視と話し合いを始めた。


「まず、こちらの資料をご覧ください」

警視が持っていたカバンから、幾枚かの絵を見せた。

「これは」

私はそのうち1枚を拾い上げて、じっくりとみた。

それは、鏡を見ている自分と言った感じの絵だった。

小さく写真が下に添付されていて、描いた人の顔がよくわかるようになっている。

「全員が見たという、その人のドッペルゲンガーの絵です。人によって見る内容が違っていますが、共通しているのは、自分自身を見たということです」

「なるほど、そして、これはその中の一つの像ですね」

私はそう言いながら、他の絵も見て行った。

「そして、この人が、一番最初の発症者です」

警視が指さしたところには、30そこそこの男性だ。

「名前は伊佐木次郎(いさきじろう)。普通のサラリーマンだった彼が、電車の中で突如として狂暴化。死傷者を複数名出し、近くにいた軍と機動隊が出動し、どうにか取り押さえました。現在は、精神病院に入院しています」

「…患者ゼロか」

私がそうつぶやいたのを、聞いていたらしい。

警視は私に聞いた。

「患者ゼロというのは」

私は写真から顔を上げ、警視に教えた。

「ウイルスなどの感染経路をたどる上で、最初に感染をした者を指す言葉です。この場合では、最初の発症者という意味合いになりますね」

「ふむ…」

警視はそう言って、別の書類を私に渡した。

「一応全員分のカルテのコピーを持ってきたんですが、その患者ゼロのを最初に見ますか」

「ええ、ぜひとも」

私は一番上にあったコピーを受け取った。

主訴は、発狂とだけ書かれており他の部分が黒塗り。

既往歴や家族歴は無し。

アレルギーの類も無いようだ。

簡易検査をしてみると、アドレナリンが通常の数十倍に上がっており、さらに、生成活動を激しく行っているようだ。

「これから分かるのは、極度の興奮状態だったということだけですね。検査したのが1時間後だとしても、その時点までアドレナリンが生成されていたということでしょう」

「ええ、それほど長い間にわたり、生成され続けるということはあるのでしょうか」

「ほとんど常時作られていますよ。ただし、ここまで突発的に高くなるというのは、何らかのストレスが加わったのでしょう」

私はぬるくなりつつある缶ビールを冷蔵庫にしまい、言った。

「今回の場合、もう一人の自分を見たというのが、ストレス要因になったものと思います」

「なるほど…」

そのことは、警視が持っていたメモ帳に書かれ続けた。

「そういえば、嗜好欄が黒く塗りつぶされてますけど…」

「ああ、そこは、向こう側が開示を拒否したところなんです。令状を取って調査してもよかったんですが、早くしろと上司から急かされて…」

「ええ、私も報告書を早く出せと言われることがあるので、よくわかります」

私が笑いながら言った。

「さて、患者ゼロのところへ行ってみますか?」

「私が行けるのであれば」

私は、警視からの誘いを断る理由がなかった。

そもそも、この調査には、実地で確認することが多々あった。


研究所から病院までは車で移動をした。

車では、秘書二人が前に座り、私と警視は後ろに座った。

ちょうど4人乗りの軽自動車で、それと私たちの荷物を詰め込むとけっこう圧迫感があった。

「犯罪がきわめて少なくなったこの世界で、いったい何が起きているのでしょう…」

警視が窓から見える平和な光景を見ながら、私につぶやいた。

「それを突き止めるのが、私たちの役目ですよ」

私は警視に言う。

「それで、発狂状態に入るまでは、見た目は通常の状態なんですよね」

「ええ、そうです」

外で犬の散歩をしている人を見ながら、警視は答えた。

「その前兆現象もなしということですか」

「見た目は、一切変わらないようです。それは、これまでの患者全員に共通しています」

「ホルモンの異常とかでは分からないんでしょうか」

車は赤信号でゆっくりと止まった。

「1週間前に食あたりで病院に担ぎ込まれた人はいます。しかし、その時点で異常は見受けられなかったようです」

「そうですか。その人のカルテを見せてもらっても?」

「ええ、いいですよ」

私は警視に聞くと、快く承諾した。

カルテは警視が持ってきていたカバンの中にあった。

「ふむ…」

私は警視からカルテを受け取って読んでいた。

その時、歩道から叫び声と怒号が飛び交った。

「なんだ」

警視が反応するよりも先に、状況がはっきりと目に映ってきた。

「…発狂、ですね」

そこには、首を限界までそりかえらせて、そのあたりにあった物をつかんでは投げ、つかんでは投げを繰り返している男の姿があった。

何事かを叫んでいるようだったが、それはすでに人の言葉ではなかった。

「いくぞ」

警視が銃をとりだして、車から飛び出していった。

警視の奥さんも、サイドブレーキをかけ、銃を取り出しながら外へと走って言った。

「どうします」

走っていく二人を見ながら、車のドアを閉め、私の方へ竿留が聞いた。

「関係者以外立ち入り禁止だろ」

私は竿留にそう言ってから、彼らが呼ぶまでの間、カルテの続きに目を通した。

「こちらも既往症に家族歴なし…」

先ほどのカルテと見比べても、さほどめぼしい情報は得られなかった。

「やれやれ、とにかく、他の人のカルテと見比べる必要がありそうだな…」

そうこうしているうちに、警察車両が、パトロンを紅く染めながら、こちらへ突っ込んできた。

「こっちだ!」

救急車も来た中で、私は竿留に言った。

「邪魔にならないところに動かしとけ」

「分かりました」

竿留は私に答えると、運転席に移り、エンジンを動かして騒ぎが起こっている反対側の歩道へ片側の車輪を乗り上げる形で止めた。

「それで、何か分かりましたか」

座席の背を倒して、私に聞く。

「分かってたら、こんなに苦労はしないわよ。まったく…」

私はため息交じりに息を吐くと、ゆっくりと吸い込んだ。

「あら」

私はふと、日付に目をやると、あることに気付いた。

「どうしたんですか」

「発症した日付を見てたんだが、なにか気付かない?」

「えっと…」

最初の発症者は4月1日。

次が4月4日、その次が4月5日、そして4月9日、4月10日、15日、24日……となっている。

「これ、日付の間隔が円周率になってるんですね」

「そう、円周率は3.141592……と続いていく。どうやらこの犯人、数学に興味を持っている者らしい」

「でも、円周率ぐらいなら、誰でも調べられるでしょう」

竿留が私に言う。

「そのとおりではある。しかし、わざわざこのように円周率を使うというのは、どちらかというと数学的な興味をいだいている人と思うんだ。もちろん、数学者以外にもなじみが深い数字だから、そうではない可能性もあるが」

私は最後にそう付け加えるのを忘れなかった。

ちょうどその時、警視がこちらに駆け寄ってくるのが、私の視界の片隅に見えた。

「さて、私の出番かな」

私が用意しておいた医療機器をカバンごと持ち運べるように持った時、警視がドアをたたいた。

「先生、出番です」

「安全なんですか」

「ええ、機動隊が制圧しました」

そう聞いて私は安心して車から出た。

「近くの警官をこの車の守りに使ってもいいですか」

「ええ、もちろんです」

警視は近くにいた警察の服を着た2人組を呼び、私たちが乗ってきた車を見張るように伝えた。

それから、私は発症者のもとへ駆け寄る。

竿留は、私の2歩ぐらい後ろからついてきた。


「…血圧がかなり高い。簡易血液検査では、アドレナリンが基準値の75倍、ノルアドレナリンも基準値からかなり逸脱してますね」

私は発症した人から抜いた血を、簡易キットに垂らし、屋外で検査を行った。

横には警視と奥さんが立って、私と竿留がしていることをじっと見つめていた。

すでに発症者は救急車に乗せられて、どこかへ運ばれていった。

「…おや、これは何でしょう」

竿留が私に見せたのは、プラスチックの破片に見えた。

「血液を取る時に混じったのか…いや、それはない。ということは、血液の中にあったということだ」

「分析するために研究所へ持って帰ります」

「ああ、袋に入れておいてくれ」

私は竿留に生理食塩水が入った密封式の瓶を渡し、その中にいれるように指示した。

「おそらくは、これがこれからの道を示してくれるような気がしますね」

警視に私が言うと、懐からメモ帳を取り出して聞き返した。

「これというのは、先ほどのプラスチックのような物ですか」

「ええ、そうですね。1mm程度ですが、今の技術では十分すぎる大きさです。透明基盤を使い、何らかの電磁データが組み込まれていると思います」

「なるほど、それが今回のかぎになると」

「そう思います」

竿留が近くの鑑識から許可をもらい、現場の写真をもらってきた。

「警察から、近くのルーターやWi-Fiのアクセスポイントの情報をもらってくることができましたので、これで検査ができます」

「そのあたりは任せる。私はこれから、患者ゼロに会いに行くことにする。警視、研究所へ向かうための車を1台貸していただけますか」

「ええ、警備も貸しましょう」

警視は近くの鑑識を通して現場の主任に連絡を取った。

防弾ベストを着た男性が3人すぐに駆けつけた。

「君たちに対して、特別任務を命令する。竿留勝良氏を、今後24時間警護せよ。なお、交代要員は順次派遣する。竿留氏は、今回の事件の鍵の検査を行う。何があっても守り抜け」

「了解しました!」

敬礼をし、彼らはすぐに竿留を車まで案内した。

「検査結果は分かりしだいお伝えします」

「ああ、メールで送ってくれ」

「分かりました」

竿留は私にそう伝え、私が答えたのを聞いて車に乗り込んだ。

「私たちは患者ゼロのもとへ」

「そうしましょう」

私がここでできることをすべて終えたと考え、警視に伝えると、すぐに車のところに戻って、私を車に乗せ、発症した現場を後にした。


精神病院は、町から離れたところにあった。

窓があったり無かったりしているのは、その人に合わせた部屋にしているからであろう。

「岩森澤精神病院です。今回の事件の全発症者はこの病院に収容されることと、申し合わせがあります」

「なら、ここで立ち止まっている必要はありませんね」

私は、警視よりも先に病院の中へ入る。

すぐ看護師が私の元へと歩みよるので、警視が警察バッチを見せた。

すかさず私が尋ねる。

「伊佐木次郎氏と面会をしたいのですが」

「ええ、お待ちしておりました。どうぞこちらへ来てください」

看護師の案内で、2階の一番奥の部屋、廊下には窓も無く、重い鉄の扉を3つも通った先にある部屋の前に着いた。

「ここは、最重要管理病室とされています。申し訳ありませんが、銃や弾薬といった爆発物、刺激物を含んだ食物、及び鋭利な物やカバンのようなものについては、部屋に入る前にこちらへ預けてください。ただし、部屋に入らない方は、そのままでかまいません」

「私は入りますが、警視と奥様は」

私が二人に聞くと、奥さんについては外で見張っているということだった。

「では、二人で」

私たちは、扉のかぎを開けてもらい、中へと入る。


部屋の中は、一応明り取りの窓はあるが嵌め殺しとなっている。

自殺をしないようにするためか、部屋の中にあるものすべてがふわふわのクッションが巻きつけてある。

今回の被害者である伊佐木さんは、壁に手錠でつながれていた。

一応、私は彼かどうかを確かめるために、彼にいつものように質問をし始めた。

その間、警視は腕組みをしながら壁にもたれて黙っていた。

「あなたの名前と年齢を教えてください」

「伊佐木次郎…歳は31」

カルテと完全に一致する。

私はさらに質問を続けた。

「ここがどこか分かりますか」

「…精神病院だろ。それはここに運ばれてきてすぐに聞いた」

「なら、どうして運ばれてきたかは分かりますか」

「…あいつのせいだ」

「あいつ?」

私はすぐに聞き返す。

「ああ、あいつだ。あの悪魔の野郎…俺の頭の中に潜り込んできやがった。あいつが、俺が異常者だと言いやがるから、俺はそんなことはないと言った。だが、あいつはききやがらねえ。だから、そいつを殴り飛ばした」

「…なるほど。それでここに運ばれてきたと」

「ああ、そうだろ。俺は目の前にいるそいつを殴った。殴り続けた。それだけのことだ」

「それが、悪魔だとなぜ思ったのですか」

「だってあいつ、俺を見ながらケタケタ笑いやがった。それに空も飛ぶんだぜ。黒い羽根まで生えてやがった」

「それで悪魔だと思ったと」

「ああそうだ」

私はそのことをずっとメモを取り続けた。

同時に、胸に忍ばせているICレコーダーにも録音を続けていた。

「なるほどね、警視からは」

私は壁にもたれて寝そうになっている警視に尋ねた。

「自分からも、いくつか聞きたいことがある」

警視は体を動かし、彼のまえに立った。

「悪魔というのはどんな姿形をしていた」

「あれは、まるで俺だ…ああ、俺そのものと言ってても不思議じゃない。俺が俺を見ていたような気持ちだ」

「幻覚だと、思わなかったのか」

「あんなものが幻覚なわけあるか。目の前に突然現れて、俺にこう言ったんだ。お前は異常者だってな。それで俺はブチ切れて、そいつを殴り続けた」

「夢で見たんだろ。だったら、夢だったのかもしれないじゃないか」

「夢、夢か。これが夢だったらどれだけいいか。俺にはもう、夢と現実が分からない…そう、何も分からない…俺が異常だって、どうして分かる……」

だんだん小さくなる声で、彼はつぶやき続けた。

「…分かった。ありがとう。また来ると思いますが、その時にもよろしくお願いしますよ」

警視がそう言って彼に礼を言った。

だが、私が見る限りは、彼は何も聞こえていないようだった。


部屋から出ると、警視の奥さんは銃を片手に壁にもたれていた。

「あなた、お帰り」

「ああ、ただいま」

「それで、なにか収穫は?」

奥さんのすぐ横で、ポケットに手を入れながら案内をしてくれた看護師が棒付きのキャンディーをなめていた。

「どうですか、彼は」

看護師が私に近寄ってきて、さらっと聞いた。

「受け答え自体は正常ですね。壊れているという様子はない。問題になるのは、"悪魔"と"夢"と言ったところでしょう」

「それは、こちらが聞いた時と変わってないですね。あまり変化がない…」

「現実と非現実の境目があいまいになって、夢で見た出来事を現実だと認識し、体が反応した。それが原因でしょうね」

「では、なぜ境界があいまいになってしまったのでしょうか。怒りを抑えられるというのは、夢の中でもおこなえるという結果が出ています」

看護師が、ずいぶん昔に行われた研究のことを言った。

「その研究は存じています。なにせ、今回問題となっている感情抑制装置についての研究は、私がしたものですから」

「そうでしたか、それは失礼しました。では、一つお尋ねしますが、今回の事象は、感情抑制装置が原因だと思いますか」

私は答えに窮した。

「今調べているところなので、なんとも言えませんね」

「そうですか」

それでお茶を濁すことにして、私と警視たちは、他の発症者を順々に見て行った。


全員と面談が終わると、ある共通な事象が見えてきた。

「全員が、悪魔を見たと言ってますね。そしてその悪魔の姿は彼らと同一だった」

メモ帳を見ながら、警視と話をする。

「どういうことなんでしょうか。全員がそのようなものを見ているというのは…」

「幻覚というのはどうやって見るか、知っていますか」

私はメモ帳から目をあげて、警視を見た。

「脳の回路が、見ていないのにみたと判断するのが原因だったはずです。人間の意識は、それによってそこに"ある"と考えるわけです」

「その通りですね。では、なぜ今回、全員がそのような幻覚を見たのでしょうか。職業は、刑務所を出入りしているような人から、大会社のCEOまで。年齢も10歳から80歳、性別もほぼ半数。総合して幻覚を見たことを除いて唯一の共通事項と言えば、感情抑制装置ぐらいです」

「まさか、その装置が原因だとお考えで…」

私は警視からの質問に、無言でうなづいた。

「さて、一応の目星はつきました。次の問題は、どうして彼らだけが発症するに至ったのかという点です」

警視に聞いてみた。

「なにか、犯人に心当たりは」

「皆目見当もつきません。これからの捜査も、どうすればいいことやら…感情抑制装置は、今や全員に埋め込まれている物です。一人一人検査をするには、膨大な時間がかかります」

「ほぼ不可能でしょうね。感情抑制装置をバグらせるような何かがあった、そう考えるのが妥当でしょう。問題は、その何かですが」

その時、私が持っている携帯電話にメールが入った。

「ちょっと失礼」

私の携帯は、今はやっているスマートフォンで、タッチパネル操作ですぐにメールを見ることができた。

「ああ、竿留からです。解析が終わったそうですが、面白い結果が出たそうなので、来てくださいと」

「そうですか、では研究所に戻りましょう」

私たちは、警視が運転する車に乗り、研究所に戻った。

今度は発狂する人を見かけることはなかった。


研究所まで残り500mぐらいというところで、銃撃音が聞こえた。

ゆっくりと運転をしていた警視が、急に眼光が鋭くなり、奥さんは携帯を取り出してどこかに連絡をしていた。

それと同時に、右に曲がったら研究所の建物が見えるというところで、車を止める。

「銃声ですね。方向は2時かな」

「右斜め前の方向からでしたね。研究所の方角です」

私は、その時やっと気付いた。

「もしかして、研究所が襲われている…?」

「おそらくその通りでしょう。問題は、どうして襲われたか。心当たりは…一つでしょうね」

「ええ、今回のこの事件の関連でしょう」

竿留が気になったが、私みたいな無防備で訓練を受けたことが無いような一庶民が、銃を確実に持っているであろう敵に挑むのは無謀だ。

そう考えた私は、応援が来るまで、車の中で待機することにした。


5分ほどすると、携帯に電話がかかってきた。

「はい」

「ああ博士。よかった。俺です、竿留です。ようやくつながった」

「どこにいるのよ」

「パニックルームです。犯人は複数で、研究所を襲撃しました。人質にとられている模様です。中央室には、いるはずの研究員全員がいないので」

「何人いないの」

私が警視に手で合図を送ると、すぐにメモ帳を差し出してくれた。

「3人です。一緒に来てくれた警官は一人が俺と一緒に、もう一人は外でなにかしてます。ほかの研究員は、全員この部屋にいます」

「わかった。地下の中央室だな。3人行方不明で人質になった模様だと、犯人は複数ということだな。何人かはわからないのか」

「残念ながら…」

「まあいいわ、ありがとう。私たちがそこに行くまで、動かないようにして」

「分かりました。では、お待ちしています」

「最後に、あれはちゃんと動いた?」

「ばっちりです」

そういって、電話が切れた。

「一帯を停電させました」

警視の奥さんが、私たちにそう伝えた。

「それで、中の様子は」

警視が私にすかさず聞いてくる。

「人質が3人ほどいるようです。竿留を護衛していた警官のうち1名が行方不明、1名はほかの研究員らとともに、地下にあるパニックルームに避難してるみたいです」

「地下にあるんですか」

警視が、私に驚いた顔を見せる。

「それぞれの部屋に扉があって、地下へ逃げれるようになってます。扉には声紋センサーが備え付けられていて、パスワードを言うだけで自動的に開くシステムです。一度しまれば、再びパスワードを言うまで開くことはありません。地下は、サーバー室になっていて、そこに全員収容することになってます。サーバーの中のデータは、パニックルームの扉が1つでも開かれると自動的にロックがかけられます。それ以降は、一定の地位以上の人だけが知っているパスワードによって解除されるまでは、誰であろうとも中のデータを見ることはできません」

「そういう構造になっているのか…」

警視はすこし静かになって、それから私に指示を出した。

「ここで待機だ。応援が来るまで、ここを離れないほうがいいだろう」

「わかりました、では、ここで待ってましょう」

私はそう警視に伝えると、座席を倒して仮眠をとった。


かなり重武装した車が4台ぐらい連なり、私たちの車の横を通っていく。

「ようやく来たか」

警視が聞いていたiPodを止めて車から降りる。

車からは次々と銃身が長い銃を持った人や、盾を持った人たちが降りて行っていた。

「彼らが、突入をするんですか」

「ええ、もしもの時には」

私が警視の奥さんに聞くと、そう答えてくれた。

「あのチップが何かのカギを握ってるんでしょうか」

「そう考えるのが妥当でしょう。中のデータが私たちはわからないですが、かなり重要なものが入っているのは、間違いないようです」

「竿留が中で頑張っているはずなので、これが終わってから、中のデータを確認しましょう」

私はそれから、再び仮眠を取り始めた。


目覚めたきっかけになったのは、バンバンバンと重低音の銃声だった。

「…突入したんですね」

私は後部座席で文庫本を読んでいた奥さんに尋ねた。

「ええ、そうですよ。今は夫が先頭を切って入ったはずです」

「すごいですね。そんな度胸は、私にないですよ」

「夫は猪突猛進型でした。何事にも全力で挑んでいく、私はそこに惚れたんです」

それからは、のろけ話が警視が連絡を入れるまで続いた。


「はい、ああ、分かりました。ではこれから向かいます」

奥さんは、どうやら警視からの電話を受け取ったようだ。

「制圧したそうです。これから救助に向かうところらしいのですが、パニックルームの内部へ制圧が完了したということを教えてあげて欲しいとのことです。よろしいですか」

「ええ、分かりました。竿留に連絡を入れておきます」

私は奥さんにそう言って、携帯を取り出し、竿留にそこから出るように言った。


10分ほどで、竿留は私が居る車のすぐ横に来た。

「お待たせしました。竿留、ただいま帰還しました」

「無事で何より。人質になっていた研究員3人も、多少怪我はしているとはいえ、無事なんだし、あなたの警護をしていた警官だって防弾チョッキを着ていたおかげで生きてるんでしょう。それよりも私が聞きたいのは、あれは一体なんだったのかということ」

「あ、はい。簡単にいえば、ICチップです。しかも、振動発電機構を利用しての自給自足が可能なタイプです。内部データは過半数が破損しており、取り出せたのは一部分に限られていますが、けっこう面白いことが分かりました。」

「どういうことか、警視が来たら説明をしてくれるか」

「わかりました」

竿留は、私がそういったのを聞いて、車に乗り込んできた。

「…乗り込んでいいとは言ってないんだが」

「周りが危険な状況で、自らの身を守ることを第1に考えろといったのは博士ですよ。ああ、それと、簡単に説明をしておこうかと思いまして」

「…じゃあ手短に話せ」

私は、ため息交じりに竿留に言った。

「重要な情報がいくつか入ってました。あのチップの中には、感情抑制装置の動作を狂わせる働きをするためのプログラムが組み込まれていたのです。さらに、発症後10分以内に、自壊するためのプログラムも含まれていました。すべての素材は、人体にふつうにある酵素やタンパク質からできており、おそらく実物を手に入れないことには、何もわからなかったと思います」

「いくつか、と言ったな。ということは、あの装置を狂わせるもの以外に何かしらの情報を取り出せれたということだな」

「ええ。あ、警視」

竿留は、警視を見つけて車の中から手を振った。

警視は、車に乗り込み、すると車が若干沈んだ、私たちに聞いた。

「あのチップについて、簡単でいいから教えてくれ。あれが、すべてのカギだろう」

「自分ができる範囲で、すでに教えていたところです。簡単に言えば、感情抑制装置の動作を狂わせるプログラムと、発症後10分以内に自壊をするためのプログラムが組み込まれていることを説明しました。で、ここからが重要なものです」

竿留は、その重要なことを説明し始めた。

「まず、前者の動作を狂わせるプログラム、仮にA型としておきましょう。A型は、とある論文のプログラムに近いことがわかりました。元研究主幹で、公費をプールしていたことにより、横領罪として告訴をされ懲戒免職処分とされた、鳬葱鍋甜(かもねぎなべうま)により書かれた論文です。それを改良し、新しいプログラムとして、実験をしていたと思われます。続いて、後者の自壊するためのプログラム、B型としましょう。B型は、A型が作動してからでないと、動かないようになっています。一方で、B型はA型が動作を開始して10分以内に作動をします」

「その結果、自壊するのか」

私は竿留に聞いた。

「ええ、そのとおりです。A型を作ったのは、鳬葱氏で間違いないでしょうが、これほどの大規模な攻撃を加えるためには、一人では不可能でしょう」

「チップをさまざまなところに撒き、誰一人としてそれに気付かせない。さらに言えば、どうやって体内にいれられたかすら分かっていない」

私は、現在の謎の部分をいくつかあげてみた。

「体内にどうやっていれたかすら分かっていない現在では、こちらの調査は一時中止するしかないです。注射にしても、針より大きいチップなので、入ることはないと思いますし、消化管での吸収というのも考えずらい…」

竿留が私たちに言う。

「警視、この人たち、発症した人たちの共通点は。なんでもいいので」

「それは現在調査中です。分かりしだいお伝えしますよ」

警視はそう言って、再び外の警官に指示を飛ばす。

「…中の掃除が終わったようです。もう、戻られても大丈夫ですよ。ただし、部下を護衛につけさせることだけは、了承してください」

「分かりました。それはしかたないでしょうね」

私は警視にそう言って、車から降り、警備が極めて厳重となった研究所へ戻った。


「プログラムについては、PCが処理を行っています。襲撃の為に一時止まりましたが、現在は再び走らしているところです。こちらは、詳細結果が出力されるのを待って、報告します。チップについては、なぜ自壊しなかったのかというのは謎ですが、現状は何ら変わることなく、原形を保ち続けています」

「中を開けてみることはできないのか」

警視が、竿留に聞く。

「できますが、極力避けたいです。不安定な状況が続いているのは事実で、どのような理由で自壊するのか、どの成分が必要なのかなど、分からないことが多数あるためです」

「そうか、なら仕方ない」

警視はあきらめたようで、私たちがいる研究室から外に出た。

「で、A型プログラムの作用方法は」

私がさっそく竿留に聞いた。

「脳に埋め込まれている感情抑制装置について、直にプログラムを書き換え、怒りの感情を極めて高まらせることと、その怒りの対象として、脳に"鏡に映る自分"をイメージさせ、それに対し攻撃を仕掛けるという方法です。これにより、周囲へ被害を及ぼすことが可能となります」

「直にプログラムを書き換えるだと」

「ええ、そのようです。特殊な端子を使い、装置にあらかじめインプットされているプログラムをいじるようです。電磁波などを使うと見ています。イメージについては、同じく電磁波を使い、視覚野を操作することにより、そこには実在しないはずの人物が、あたかもいるように見せます。そこにコントロールした怒りの矛先を向けてやれば、その人に対して攻撃を加える。これが、発狂したことの原因です。その後10分ほどで装置が自壊すると、電磁波の照射も終わるため、発狂も収まるという仕組みです」

「それで、発症後の人たちには、その症状が見られないんだな。一方で、脳へのダメージは残るから、一定の障害が残った。患者ゼロのように錯乱の傾向を示している者もいる」

「そう考えています。第1容疑者は、A型の製作者とみられる鳬葱氏でしょう。この研究所に所属していた期間の接触者を調べましたが、何らかの組織的犯罪と関わりはなさそうです」

「つまり、出て行ってから知り合った可能性が高いな。そのあたりは警視の仕事だが」

私は竿留に言ってから、警視の奥さんに伝える。

「そういうことなので、警視に伝えてくれませんか」

「分かりました。夫に伝えておきます」

警視の奥さんがそう言って、部屋の外に出ると、竿留が私に告げた。

「…お二人には話せないことが一つあるんです」

「どうしたんだ」

「感情抑制装置の生みの親であるコーチン・サルマジョフ博士は、博士の昔からのお知り合いでしたね」

「父親がサルマジョフ博士の知り合いだった縁でな。それがどうしたんだ」

「サルマジョフ博士の部下だったんだですよ、鳬葱氏は」

「それは本当か」

竿留に聞くと、しっかりとうなづいた。

「…そうか。竿留、このことは他言無用だ。絶対に誰にも話すんじゃない」

「分かってます、博士」

「ならいい」

竿留と口裏を合わせると、警視たちが研究室に入ってきた。

「どうも、とりあえず、我々は引き揚げます。なにか分かりしだい、そちらへご連絡をします」

「分かりました。ありがとうございます」

そう言って、警視は一応名刺を私に渡して、研究室から出ていった。


1時間ほどすると、プログラムの解析が終わったようだ。

「博士、詳細な結果が出ました」

「見せてくれ」

竿留に報告書の紙を印刷してもらい、一気に目を通す。

「…なるほど。A型プログラムには、4月1日を紀元とする暦が入っていて、円周率を足していき、一定の数値までたまると、起動するようになっているのか。この数値が、4月1日からの数えた日数になっているために、発生間隔が円周率だったのだな」

「ええ、どうやらそのようです。そして、その一定の数値がたまった時からプラス2時間以内に発症をします。発症をするために、血流に乗り、頭蓋骨までチップは移動します。頭蓋骨から内部にある脳に向かって、電波を照射し、脳を揺さぶる形になるようです。その結果、感情抑制装置は一時的に機能不全となり、発狂状態へ移行します。しかしながら、10分後、B型プログラムが起動すると同時に、チップはあとかたも無く消滅し、同時に感情抑制装置は機能を取り戻し、正常へ戻ります」

「ということは、我々はかなり幸運だったというわけか」

私は竿留が出してくれた缶ビールを飲みながら、報告書を見ていった。

「ええ、10分以内にチップが採れたこと、そのチップが一部損壊していたとはいえ検査するレベルまで形が保っていたこと、さらには、我々がそのチップを的確に分析できたこと」

「最後はともかく、前2つはたしかに幸運だった。まるで、誰かが私たちがそこにいるのを分かっていたかのように…」

報告書を読み終わるとテーブルの上に置いて、竿留に指示をした。

「竿留、これを作れそうな組織を洗い出してくれ。私は、所長へ経過報告をしてくる」

缶ビールの中を一気にからにしてから、私は研究室を出た。


「…そうか」

所長は私からの口頭報告を受けて、それだけ言った。

それから、鍵を取り出し、机のどこかの段の引き出しを開けて、昔懐かしいフロッピーディスクを取り出した。

「今頃フロッピーとは、懐かしいですね。デバイスは」

「USB1.0接続タイプのものを貸そう。この中に、テキストデータがある。隔離されたパソコンでのみ閲覧を許可しよう。きっと、君が求めているものがこの中にある」

「それは、つまり…」

「鳬葱氏に関する研究だ」

私はそれを聞くと、寒気を感じると同時に、なぜか胸の奥からの好奇心を押さえずには居られなかった。

「では、見させてもらいます」

そう言って、私はUSB接続ができるようにコードがつけられたフロッピーを読むための一式を借りて、所長室からでた。


研究室へ戻ると、缶コーヒーを3段ほど積み重ねて、さらに4段目を飲んでいる竿留がいた。

「竿留、仕事は」

「終わりましたよ。これほどの高性能なチップができそうな組織、個人は、鳬葱氏を除くと、亡くなった方を含めても世界でも3人/組織ほどでした。1人目は鳬葱氏の上司でもあり、感情抑制装置の生みの親であったサルマジョフ博士。ただし博士はすでに亡くなられています。2人目は感情について研究を続けている、心理学者であり物理学者、コンピューター技師でもある下上左右(したうえさゆう)博士。この方はまだ存命です。そして、最後は組織で、反感情抑制同盟と称した過激派です。同盟は、きわめて有能な複数の科学者がおり、彼らにより、このチップが作られた恐れは十分にあると思います」

「それ以外はどうなんだ」

「あと5mm程度大きければ、さらに5組織ほどが候補に挙がりますが、ここまで精密に、正確に、プログラムを作り、的確に発症させることができるのは、先ほどあげた者らだけでしょう」

竿留の報告を聞き終わると、私の携帯が鳴った。


「ああ、警視ですか」

私は研究室の椅子に座りながら、警視からの電話を受け取った。

「博士ですか。博士は下上博士という方を知っていますか」

「ええ、チップを作ることができそうな方の一人ですね」

「…まずいな」

「下上博士が、どうかしましたか」

「何者かによって連れ去られていたんですよ。3ヶ月間音沙汰がないので、親族が警察へ届け出てやっと分かったんです」

「なんで今なんでしょうか」

「下上博士は変わり者で、何カ月も外に出たりしたこともあるそうですが、それでも必ず2か月以内には帰ってきたり、電話が来ていたそうです。今回に限ってないというのは、何かおかしいと思ったらしく…」

「分かりました。で、私たちはどうすればいいでしょうか」

私は、すぐに竿留にメモ帳と筆記具を要求し、竿留は3秒とかからずにポケットからそれぞれを出して、私に回してくれた。

「君たちは、そこに待機していてください。何かあったら呼びますので」

「分かりました。では、ここで待機しています」

電話を切ると、すぐに竿留に伝える。

「警視からだ。下上博士が行方不明だそうだ」

「では、同盟が…」

「ああ、そう考えるのが妥当だろうな」

そして、私は決断をした。

「警視からはここで待機という指示が出ている。確かに、私たちが外に出るのはとても危険だ。だから、ここで彼らの調査を行う。竿留、各方面の機器をクラッキングしろ。同盟と博士の居場所を調べるんだ」

「了解です」

すぐにパソコンの画面に向かい、ものすごい勢いでプログラムを組み始めた。

私は、それを見て、いったん休憩することにした。


缶ビールの在庫が切れるまで残り1本となったころ、私の机の上には、ビールがピサの斜塔のように高く積み上がっていた。

「博士、できました。警察、軍、消防、研究機関、携帯電話、GPS、その他インターネットにつながっている全てのものをクラッキングすることができます。どうしますか」

「いいか、このことは、全員の安寧秩序を守るためだ。もしも捕まった時にはそう答えろよ」

「言われなくても」

竿留がそう言ったのをきっかけにして、一気に指示を出していく。

「では、まずは警察の現在の経過を見ておきたい、それに、このプログラムの概要について、他の研究機関へ当たってくれ。それと、同盟が使っているサーバーがあれば、そこにも攻撃を。ばれてもかまわない、確かな証拠が必要だ」

「分かりました」

竿留が私に答えると、一気に指を動かし、画面をガン見しながら作業を続けた。

私は、最後の1本を冷蔵庫から取り、ゆっくりと飲み始めた。


飲みきるころには、竿留の指は止まっていた。

「あとは結果が出るのを待つだけです」

「そうか。いつごろでる」

「あと数分で」

「分かった。缶ビール仕入れてくる」

冷蔵庫の中を確認して、確かに1本も無くなったのを見ると、私は研究室を出て、全員が使うことができる休憩室へ入った。


私のためだけに、缶ビールを常に用意してもらっており、冷蔵庫の下の部分に段ボールごと突っ込まれている。

「一箱ぐらいでいいか」

私は独り言を言いながら、36本入っている缶ビールの箱を担ぎ上げて研究室に戻ろうとした。

その時、休憩室に所長が入ってきた。

「あら所長。こんにちはです」

「おや、ビールのストックが底を尽いたのかな」

私がビールの箱を持っているのを見て、所長が聞いた。

「ええ、研究室の冷蔵庫の中が空っぽになってしまったので」

「アルコール中毒にならない程度にしておけよ」

「わかってますよ」

私は笑いながら休憩室を出た。


研究室へ戻ると、竿留がすでに報告書をまとめているところだった。

「口頭でいいから、現状を」

「はい、現在わかっているのは、下上博士は確かに拉致されているということです。同盟のサーバーは見つけることはできませんでしたが、同盟が使っていたサーバーを見つけました。そこのデータによれば、下上博士を拉致をしたことを伝えるものでした。運ばれていった場所は分かりません。その後の足跡は途切れております」

「分かった。では、それ以降の調査を続けてくれ」

「了解です」

竿留がそう言って、再びPCの画面をにらみ続けた。

現状では、これが限度だろうと思い、再び缶ビールを冷やしながら竿留の様子を見た。


竿留はすぐに調査を再開し、あることを発見したようだ。

「博士、生体プラスチックって、しってますか」

「ああ、この研究所でも研究がされているな。大けがとか皮膚移植が必要な場合に、代わりの骨や皮膚とするために使われるやつだろ。完全に接合が終了すると、本物の皮膚と違いが判らなくなるという代物だ。確か、今回の事件にも使われていたな」

「それを作るためには、特殊なプラスチック、タンパク質、それにアミノ酸が必要となります。それらを大量に同じ口座から引き落とされているという証拠があります。口座名は下上になっていますが」

「博士の名前を使い、代金を口座引き落としにしたんだろう。それらはどこから買っている」

「あちこちですね。スーパーマーケット、百貨店、デパート、エトセトラ、エトセトラ。コンビニからも買ってもいますね」

「その購入主がどこにいるかはわかるか」

「ええ、ちょっと待っていてください」

竿留に言うと、5秒と掛からずに場所が分かった。

「ここから5kmほど離れた建物ですね。数年前に買収された医薬品工場のようです。今では、化粧品を主に作っているようですね。ただし、建物自体は、すでに取り壊しが決定しており、今は空き家となっているはずです」

「化粧品って、どんなタイプだ」

「皮膚に塗るタイプです。ただし、皮下注射を必要とするものもあるようですね」

「おそらくそこでチップを仕込んでいるのだろう。無差別に発症をさせるためには、これが必要だったのだろう」

「大規模な実験といった感じでしょうか」

「おそらくな」

私がそういうと、竿留はどこかへ電話をかけようとした。

「どこへ」

「警視にですよ。このことを教えないと」

「私からかけたほうがいいだろう。貸してくれ」

私は電話を受け取り、警視へそのことを伝えた。


「…クラッキングしたことは今回は見逃しましょう。それよりも逮捕に協力してくれますか」

「ええ、喜んで」

それで電話が切れると、外にいた警備員に伝える。

「これから、警視が奥さんとともにくる。本人かどうかを確認してから、部屋の中に入れてくれ」

「わかりました」

それから竿留に再び伝える。

「そういうことなので、何かあった時のための予備として、携帯を3台持っていくことにしたい」

「3台もですか。自分と博士がそれぞれ1台ずつで、もう1台はどっちが持つのでしょうか」

「私が持つさ」

携帯電話はすでに私と竿留がそれぞれ持っている。

残りの1台は、私が隠し持っているものを使うことにした。

「よし、では警視が来るまでは暇になる」

「自分はちょっと寝させてもらいます」

机に突っ伏して、竿留は眠り始めた。

竿留が寝ている間、私は、報告書の解析データを見返していた。

「exp(iπ)+1=0、0112358132134、1.26186…、2.7268…。最初のはオイラーの公式そのものだな。次はフィボナッチ数列、フラクタル次元が二つ。コッホ曲線とメンガーのスポンジだったな」

これらの関連性は、何ら見いだせれなかったが、しいて言うならば、数学に関連があるといったところか。

「オフコメ…違うよな。何のことかさっぱりだ」

私は、考えるのをやめた。


15分ほどで、警視たちが到着し、その廃屋となっている医薬品工場へ突入した。

「周囲は固めました。突入部隊は到着してます。指示を待っています」

現場にすでに配備されていた、警官の一人が警視に報告している。

「よしわかった。お二方とも、ここにいてください。私たちが突入し、安全を確保してから中に入れます」

「わかりました」

そういうと、警察無線を貸してくれた。

話すことはできないが、聞くことなら十分にできるそうだ。


「よし、内部の状況を」

警視の声が、聞こえてくる。

「電力を使い続けています。医薬品工場ということを考えると不思議ではありませんが、すでに廃業しているということを考慮に入れると、ありえない量です」

「では、中に誰かいるんだな」

「そう言い切れます。熱源センサーによる探査によれば、2階部分に15名、1階部分に14名は最低でもいます。設計図上は、地下にも研究室があるということになっているので、おそらく地下にも何名かいると思われます」

「下上博士はどこに」

「不明です」

「わかった。では、2階と1階を同時に制圧する。地下は、それからだ。全員にガスマスク装備を命ずる。ありったけの煙幕、催眠、催涙の各弾をぶちかませ」

「了解しました」

どこかへ走っていく音が聞こえる。

「始めます。博士たちは、絶対に車から出ないように」

警視が私たちに向けて、しゃべった。

「はいはい、出ませんって」

私たちがいる、正門のそばからでも、中の様子はしっかりと分かった。


2階部分と1階部分に向かって、銃のようなもので弾を撃ち込んだ。

見る見る間に、白い煙が沸き立ってくる。

それと並行するように、複数の黄色や青色の煙も見える。

「白は煙幕弾、黄色は催涙弾、青は催眠弾ですかね」

竿留が私に聞いてくる。

「軍にも警察にも行ったことがない私が答えられるわけないだろ」

「ですよね、すみません」

話している間にも、外にある階段から中へ何十人という単位で中へなだれ込む。

「1階と2階へ一気に入っていきますね」

「地下へは中から行くんだろうな」

私たちは、そうやって好きに話していた。

「あ、だれか出てきましたよ」

何が何だかわからない状態になっていて、足取りもおぼつかない、覆面していない人が次々と外へ運び出されてくる。

すぐに手錠をされて、白衣を着た人に診てもらい、それから警察の護送車へ乗せられていく。

「どうなんでしょうね」

「あの中には、下上博士はいないさ」

「どうしてそれがわかるんですか」

「下上博士は大事な人だ。それがわからないような連盟じゃないだろ。大事な方だからこそ、一番とられにくいところに連れて行くんだよ」

「…博士、何かあったんですか」

「どうしたんだ急に」

「いや、急にこっぱずかしいことを言い始めたんで」

竿留が私を見ながら、そんなことを言ってきた。

「…竿留、後で研究室に来てもらう。今日会う予定のやつがいるんだったら、全部キャンセルしろ」

そういっているうちに、再び警察無線から声が聞こえてきた。

「よしっ、全員を確保。博士を救出した。これより脱出する」

「下上博士が見つかったみたいですね」

警視の声で、はっきり聞き取れるような口調で伝えてきた。

竿留はそれを聞いて、外へ出ようとしたが、私はそれを引き留める。

「今はやめておいたほうがいいだろう。外は、催涙弾に催眠弾に煙幕弾などなどが混ざり合った混合気体が渦巻いている。出ていった瞬間にひどいことになるぞ」

「あ、そうですね」

竿留は、私の言葉を聞きうけてくれたようで、つかんでいたドアを開けるためのレバーから静かに離れた。


10分ぐらいして、警視がマスクを頭へずらした格好で、私たちが乗っている車のところへ来た。

「いいですよ、もう出てもらっても」

「下上博士と会うことは」

「ええ、かまいません」

私は、警視に即座に聞いたら、快諾してくれた。

すぐに車から降りて、車の助手席のドアを開いて、中の席で腰かけて休んでいる下上博士に聞いた。

「博士、お久しぶりです」

「えっと…どちら様ですかね」

「私ですよ」

私が後生大事に持っている写真を見せる。

そこには、父と私と母と下上博士が写っていた。

ほかにも何人かの研究者とともに、ずいぶん前に撮った写真だ。

「ああ、あの時の娘さんか。すっかり大きくなって…」

「大きくなってって。博士、私はすでに30近いんですから」

私はそういった。

何か言いたそうな表情をした竿留をにらみつけてから、にっこりとした表情を作り、質問したいことを聞いてみた。

「博士、それで聞きたいことがあるんです」

「なんだい」

「オイラーの公式、フィボナッチ数列、相似次元が2つ。感情抑制装置を一時的に機能マヒさせる特殊なチップのプログラムにありました。これらはいったい何のためにしたんですか」

「署名だよ」

「署名?」

私は意味が分からず、思わず聞き返した。

「そう、署名だよ。私があのプログラムを作ったという証拠に、あれを導入したんだ。チップの基本概念から設計から材料の調達まで、全部やらされたんだ。あれぐらいしてもかまわないだろ」

「そのチップ、何に使われたか知っていますか」

「ラットへの実験に使うという話だったが、ここまで大がかりな捜査で、そんなことはあるまい。人に対して使ったんだろ」

「ええ、その通りです。そして、それが期待以上の働きをしてくれた。その結果、15名以上が、発狂しました」

「発狂したのは、チップのせいじゃない。それは、プログラムしてなかったからな」

確かに、私が呼んだ竿留の報告書には、感情抑制装置を機能マヒさせるだけであり、それ以上の働きを持たないということが書いていた。

「なるほど。なら、なぜ発狂したのでしょうか。それに、今回の発症者全員は、自らの分身の幻影を見ています。どうしてでしょうか」

「それは、私よりかあなたの方が詳しいでしょう。こちらは言えないし、分からない」

下上博士は、はっきりとそう言って私を指さした。

「ただ、チップのせいではないということですね」

「ああ、そう言うことだ」

念押しで聞くと、しっかりと言い返してきた。

私はそれを聞くと、少し遠くで空を仰いでいた竿留のところへ移動した。

「さて、これからどうしようか」

「チップには、確かに機能マヒ程度のプログラムでしたね。ということは、発狂した原因は脳その物にあるのかもしれません」

「それは、これからの研究対象かな」

私はそう言って、警視の元へ歩いて行った。


警視は、建物の近くで現場を保存したり、あちこちに指示を出してたりしている。

「警視、少しいいですか」

「ええ博士。どうしたのですか」

隣にいた警官に指示を出し終えると、私に向きなおって聞いた。

「少し研究所に帰りたいのです。チップによって引き起こされたのは、感情抑制装置の機能不全だけであり、その結果引き起こされた発狂状態については、何らかかわりが無いものと思っております」

「なら、どうして発症者は一様に発狂状態を引き起こされたのだ」

「…怒り、からでしょうか」

「怒り?」

警視は、怪訝な顔をして、私を見てきた。

「それは、これから分かるでしょうが、感情抑制装置によって抑制する中でメインと言えば、怒りの感情です。それを無理に抑えつけたことによって、発狂した。私は、現時点ではそう考えています」

「怒りの感情があのような事件を引き起こしたと」

「ええ。そういうことです」

私は、さらにまとめる。

「脳構造が分かったとしても、脳機能は分かっていない分野の方が、多いのです。大部分がそうだと言っても過言ではないでしょう。そのような状況で、怒りの感情だけを人為的に抑えつけてしまった。なら、それが解き放たれた時、どのような状況になるか。それを調べる必要があるのです」

「ふむ…」

警視は何か考えているようだ。

そして、一つの結論を出した。

「分かりました。車を用意しますので、それでお帰りください。また、報告を聞きに研究所へ出向かせていただきます」

「了解しました。ありがとうございます」

私は握手を警視と交わし、用意された車に乗って、一路研究所へ急いだ。


半月後、研究室に設置したテレビでは、今回の一連の事件の裁判のニュースをしていた。

「いよいよですね」

「ああ、我々も証人として呼ばれる予定だからな」

テレビをつけっぱなしにしながら、竿留と私は、研究を続けている。

抑えつけられた怒りによって一連の諸症状が出てきたとすれば、怒りの発散方向が内部ではなくて外部へむけられたことを意味している。

それはなぜか。

そのことをこの半月間ずっと考え続けていた。

「ワクチン、できたんですってね」

「そうらしい」

ワクチン開発は、私のところではなかった。

だから、できたという報告は聞いたが、どのような内容なのかは分からない。

それよりも私は、今目の前にある課題に取り組むのが優先されるべき問題だった。

「だめだ、全く分かんない」

「まあ、脳って言うのはいまだに解明されていない部分が大半を占めてますから。時間はあるわけですし、ゆっくりしていきましょう」

竿留が私を励ますつもりで言ったのだろう。

「まあそうだな」

私は再びパソコンに向かって研究を再開した。

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