蒼き空
空気が動いたような気がした。
うつうつとまどろんでいた沖田総司は、ふと目を覚まし体を起こした。
情けないことに起き上がるのでさえ、最近はやっとになりつつある。
病とはこうもわが身を蝕むものか。
労咳(結核)により、思うが侭にならない自分の体を嫌うように総司は眉間にしわを寄せた。
「・・・目が覚めたか。」
その声に視線を向けると、土方歳三が開け放した障子の向こうの縁側に背を向けて座っていた。
「いついらっしゃったんです?」
「ほんの先刻だ。ああ。起きないでいい。寝ていろ。」
その言葉にかえって意地を張るように。
総司は背筋を伸ばして座りなおすと、わざとおどけたように笑った。
「やだなぁ。土方さんが来た事すら気付かないでいたなんて。のんきにも程があるや。」
土方は部屋に入ると、総司に面する位置に座った。
「仕方がない。それだけ養生が足りねぇって事だ。京にいた何年もの分の疲れが今出ちまってるんだろう。」
「それを言うなら土方さんのほうですよ。未だにお休みは取れちゃいないのでしょう?」
「そうだな」
・・・だから総司の顔を見に来たのだ。
土方は思う。
今はまだ休んでなどいられねぇ。それは即永遠の休息になってしまうだろうから。
だからひと時こいつの顔を見に来たのだ。
それが今唯一許されるであろう休息になるから。
「やだな。そんなまじまじと顔みないでくださいよ。」
総司はまた笑う。本当は体を起こしてるのさえ辛いはずなのに。
「男の顔みて喜ぶ趣味はねぇよ。」
苦虫を噛み潰したような表情で土方は言い放つ。
総司はさらにおかしそうに笑った。
「・・・ここにいると京の日々が夢だったのかもしれないと思うんですよ。」
ぼんやりと視線を庭へ移しながら総司は呟いた。
「・・・夢?」
「ええ。静かなこの部屋で一人庭を見ていると、あの賑やかで騒々しい日々が本当の事だったのかなぁって。」
京での5年間。
一時は数百名もいる男所帯での生活。毎日のように繰り広げられる命を張った戦い。
同士を信じ、また疑う日々。
己の刀一本でわが身を削りながら守ろうとした・・・何か。
すべては夢だったのではないかと、離れてしまった今総司は思う。
「そうだな。すべては夢だ。」
土方も思う。
あれは自分の一生一大の夢であったと。
多摩にに生まれた大百姓の倅が見た、壮大な夢であったのだ。
「男の夢・・・だったのだ。」
「男の夢・・・ですか。」
一介の百姓の倅が幕臣にまで成り上がった。それを夢だと言わずに何と言おう。
土方はもう一度総司を見た。
その目はまだ夢を燃やし続けていた。
「総司、俺はまだ夢を見るぞ。」
総司には眩しかった。
土方さんはまだ、夢の中にいるんだ。
男の夢をまだなくしちゃいない。
・・・私は?
私はもう夢を見終わってしまったのだろうか?
皆と戦い、思想を談じ、剣を振るい共にどこかへ向かっていたあの日々。
今は思い出す事しかできなくなってしまったあの日々。
・・・もう手にすることはできないのだろうか。
この痩せてしまった腕では掴む事もできないのだろうか。
「夢ですか・・・。」
総司はもう一度呟く。
目の前にいるのに、土方さんは遠くにいるような気がする。
「・・・総司。」
土方は静かに総司を呼んだ。
「俺は・・・江戸を出る。」
「え?」
「江戸城は明け渡された。江戸にも官軍がやってくる。」
そうか。時間は流れているんだな。
総司は思った。
私がここで庭を見つめている間にも、時は流れていろんなものが変わっていくのか。
「どちらへ行かれるおつもりです?」
「わからねぇ。だけどな、総司」
そう言うと土方はにやりと笑った。
「俺はまだ夢ん中だ。夢を見続けられる場所へ行く。」
総司にはわかった。
・・・土方さんは私に別れを告げに来たのだ。
江戸を出れば二度と生きて戻る事はないだろうと、わかっていて行くのだ。
そのために私に会いに来たのだ。
総司は自分の膝頭を見つめたまま、顔を上げない。
「・・・・れてって・・・ください。」
下を見つめたまま、搾り出すように総司が言った。
「・・・総司?」
「・・・私も・・・連れてって・・・ください。」
その言葉は聞き取れないほどの声だったが、土方の心にずくんっと入り込み、返す言葉を失う。
総司はありったけの力を振り切るように土方を見据えた。
「私も連れてってくださいっ。」
「・・・総司・・・。」
病に臥せった総司の体のどこにこれだけの力があったのだろう。
総司が発する意思の気配は、京の町で「鬼の沖田」と恐れられたこの男のそれに間違いなかった。
土方でさえも気圧される、この男の気配。
「ここでこのまま、病に蝕まれてしまうのは嫌です。どうせどうにもならない体なら・・・どうなっても構わない。」
恐怖・・・か。
土方は思った。
この男を今動かしているのは、恐怖なのだ。
武士として命を失う事に恐怖はないが、男として夢を見られなくなってしまう恐怖。
いかほどに恐ろしいものか。
武士として・・・これほどに恐ろしいものがあるだろうか。
「私は・・・私は刃の中で・・・最期を迎えたいっ。」
想像でさえ心が引き裂かれそうな恐怖に言葉が見つからぬ土方を、総司の叫びが更に切り裂く。
「土方さん。私も・・・」
その瞬間、総司の上体が揺らいだ。
肩を受け止めた土方の手に、細くなってしまった総司の体が痛々しかった。
「無理を・・するからだ。」
緊張が解けたのだろう。総司は肩で息をしている。
・・・こんな事ですら、私の体は負担に思うのか。
総司はわが身を呪っていた。
総司をゆっくりと横たえながら、土方は言った。
「馬鹿を言うな。総司。俺がお前をおいていけると思っているのか。」
総司は土方を見上げた。
「体がどこにあろうと、お前は一緒に戦ってるだろう。」
土方は微笑みながら続ける。
「体なんてものがどこにあろうと、お前は俺と一緒に夢を見てくれるだろう?」
総司の目から一筋涙が流れた。
土方はそれに気がつかない振りをして庭へ体を向けた。
・・・それが武士の情けって奴だ。
「さあ、そろそろ行くぜ。」
無言を破るように土方が言った。
「・・・じゃあ、総司。またな。」
きっとこの後二度と生きては会えない。それがわかっているからあえて最後に。
「ええ。土方さん、また来てくださいね。」
総司にもわかっている。
・・・私はきっと二度とこの世では土方さんに会える事はないだろう。
土方が障子を開けた。4月の空は明るく部屋を照らした。
総司は言った。
「・・・ああ。空が蒼い。」
土方は微笑んだ。
「そうだな・・・空が蒼い。」
・・・きっとこの空の蒼さは最期まで忘れないだろう。
路線・・・思いっきり変わってます。
他の作品とは全然別のシリーズとしてお考えくださいませ。