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「人に為されて厭なりし事は、己また為さぬをよしとす。あとは春の塵のごとく払ひ流すべし」

掲載日:2026/05/22

昔を意識しました。

 町はずれに古びた煙草屋があった。軒のひさしは斜めに垂れ、雨の日には、ぽたりぽたりと雫が絶えぬ。店の奥には煤けた火鉢があり、そこに主人の宗吉老人が、年中まるく腰を折って坐っていた。

 私は若い頃、その店へよく煙草を買いに行ったものである。

 宗吉老人は、世にいう学のある人ではなかった。しかし妙に人の心の機微を知っていて、折々、茶の湯気のように淡い言葉をこぼした。

 ある冬の暮であった。

 空は鉛色で、道ゆく人々はみな肩をすぼめていた。私は勤め先でひどく気を悪くしていた。上役に理不尽な叱責を受けたのである。ことさらに人前で恥をかかされ、若かった私は胸のうちを煮えくり返らせていた。

 煙草屋へ寄ると、宗吉老人は火箸で炭をつつきながら、

「顔に煤がついておるぞ」

 と云った。

 私は腹立ちまぎれに、

「煤ではありません。腹の虫です」

 と答えた。

 老人は「ほう」と笑った。

「虫なら春まで待てば羽でも生えよう」

「冗談ではありません。私はあの男をいつか見返してやります」

 すると老人は、火鉢の灰を静かに均した。

「見返すとな」

「ええ。人を人とも思わぬような仕打ちをする者には、それ相応の目を見せねば」

 宗吉老人はしばらく黙っていたが、やがて店先を歩いてゆく野良犬を眺めながら言った。

「犬に噛まれたからとて、おぬしも四つ足で噛み返すか」

 私はむっとした。

「しかし黙っていては、相手の思う壺でしょう」

「そうかもしれん」

 老人はうなずいた。

「されどな、人に厭なことをされた時分というものは、不思議と心に墨が落ちる。すると人は、その黒さを他人にも塗りたくなるものだ」

 火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。

「怒りとは面妖な病よ。人から渡された汚れた手拭いを、わざわざ懐へしまい込むようなものだ」

 私は黙っていた。

 宗吉老人は続けた。

「わしも若いころは短気でな。魚屋に騙された日には、翌日わざと値切って困らせたりした。すると一時は胸が晴れる。しかしな、夕刻になると、何やら己まで魚臭くなっておる」

 老人はそこで笑った。乾いた、紙の擦れるような笑いであった。

「結局、人にされた厭なことは、己はせぬよう心がける。それだけでよい。あとは川へ落ちた木の葉と思うて流せばよいのだ」

「そんなに簡単に流せるものでしょうか」

「流せぬ者は、胸に溜める」

 老人は火鉢の灰を指した。

「灰を溜めすぎると火が窒息する」

 その言葉を聞いたとき、私は妙に静かな気持ちになった。

 外では風が鳴っていた。町の屋根々々を吹き抜ける音が、まるで古い笛のように細かった。

 宗吉老人は湯呑を傾けながら、

「世の中には、嫌な人間もおる。冬の北風みたいなものだ。いちいち腹を立てておれば、毎年凍えて死ぬ」

 と云った。

「では、我慢しろと?」

「いや、忘れろというのだ」

 老人は眼を細めた。

「人の悪意など、受け取らねばただの空風よ」

 私はそのとき半ば腑に落ち、半ば反発していた。若い者には、怒りを抱くことさえ己の誇りのように思える時分がある。

 しかし、その後幾年も生きてみると、宗吉老人の言葉は、古い着物の綿のようにじわじわ身に馴染んできた。

 人は、自分が刺された痛みを忘れぬ。だからこそ、他人を刺すまいと決めることができる。

 それで十分なのだ。

 世には、意趣返しを賢しらに説く者もいる。けれど復讐とは、泥道で転んだ腹いせに、さらに泥を掴んで投げ返すようなものだ。相手も汚れるが、自分の手もまた汚れる。

 春になれば、風が吹く。

 冬のあいだ軒に積もっていた埃も、名も知らぬ草の種も、みな軽々と空へ舞い、やがてどこかへ消えてゆく。

 人の悪意もまた、そのくらい軽く扱えばよいのかもしれぬ。

 抱え込むから重いのである。

 宗吉老人は、もうこの世にはいない。

 煙草屋もとうに潰れ、今では小さな駐車場になっている。しかし冬の夕暮になると、私は時折あの店先を思い出す。

 火鉢の炭。

 煤けた障子。

 そして老人の、

「犬に噛まれたからとて、四つ足になることはない」

 という声を。

 なるほど人は、他人の悪さによって己の形を変える必要はない。

 厭なことをされたなら、ただそれを他人には為さぬようにする。

 あとは春の塵のごとく、さらさらと流してしまえばよい。

 人生というもの、案外それで暖かい火が残る。

いい感じではないでしょうか?

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