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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
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幕間:織部家の「最適化」された食卓


 織部家のダイニングルームは、生活感という名のノイズを徹底的に排除した、静謐なギャラリーのようだった。

 磨き上げられた無機質な大理石のテーブルの上には、三つのトレイが等間隔で並んでいる。


 その傍らでは、最新型の調理補佐ドロイド『AS-01』が、音もなくアームを駆動させていた。ドロイドの頭部に備わったスキャナーが、着席した三人のバイタルデータを非接触で読み取り、その日の体調に合わせた「最適栄養素」をミリグラム単位で配合していく。


 パントリーから供給されるのは、豊かな香りを放つ旬の食材ではない。真空パックされた高効率栄養ペーストと、顎の退化を防ぐための「咀嚼用」固形ブロックだ。ドロイドがそれらを無機質な銀のトレイに盛り付ける様子は、調理というよりは、精密機器のメンテナンスに近い。


 正面に座る父・織部宗一郎は、端末から目を離さずに言った。


「……梓。今日のスコアが届いている」

「はい、お父様」


 梓の返答は、システムが推奨する最も「従順かつ理性的」なトーンに、無意識のうちに調整されていた。


 父・宗一郎は、一切の無駄を削ぎ落とした動作で咀嚼を終えると、空中にホログラム・ディスプレイを展開した。そこには梓の生体ログだけでなく、学園全体の「調和係数」と、彼女が今日関与した全イベントの相関図が網羅されている。


「今日の第4時限、移動教室の際の歩調。そして月例報告での一瞬の波形。システムはこれらを『外部環境による一時的ノイズ』とラベリングしたが、私の端末には別の警告が出ている」


 父が指先で空間をスワイプすると、梓の顔色や表情ではなく、彼女の脳内物質の分泌バランスを示す無機質な棒グラフが拡大された。


「セロトニン値の微減と、未知の刺激に対するニューロンの微弱な発火。梓、お前という『聖女システム』の内部で、管理外の変数が自己増殖を始めているのではないか?」


 父の言葉は、娘の体調を案じるものではなく、高価なサーバーに生じた「致命的なバグ」を冷徹に指摘するエンジニアの響きだった。この家において、親子とは血縁ではなく、同じ「最適化された未来」を演算し続けるための直系ユニットに過ぎない。


「……いいえ、お父様。それは過分な解析です。数値の揺らぎは、次期アップデートに向けた適応プロセスに過ぎません」


 梓がそう答えると、背後で待機していた調理ドロイド『AS-01』が、彼女の心拍数の微増を検知し、即座にトレイへ「感情沈静用の高濃度テアニン錠」を排出した。

 カラン、という硬質な音が静かな食卓に響く。父は娘の瞳を見ることはなく、ただ手元の端末で更新され続ける「正常値」の推移だけを凝視し、満足げに頷いた。


「ならばいい。お前は織部家の、そしてこの学園の最高傑作だ。……不確かな『個』の意思などというノイズに、その資産価値を貶めることだけは断じて許さない」


 沈黙が支配する食卓に、父の手元の端末から「警告」を告げる低い電子音が響いた。宗一郎は、獲物を追い詰める狼のような細い眼差しで梓を射抜くと、唇の端に歪な弧を描いた。


「……梓。私はお前の『自由』を否定しているわけではないよ。むしろ、特待生という特異な変数と触れ合い、そのノイズを内側で咀嚼してこそ、聖女としての強度は増す。……そうだろう?」


 宗一郎はそう言って、空中に瀬戸蓮のデータを展開した。彼の網膜、歩行周期、思考パターンの偏りまでが、冷徹な赤色で可視化されている。


「だが、忘れるな。瀬戸蓮という少年は、お前を照らすための『反射板』に過ぎない。もしその反射板が歪み、お前の光を濁らせるというのなら……私は父親として、彼をこの箱庭から丁重に『退場』させなければならなくなる。彼は非常に優秀だ、だからこそ、消えてしまうのは惜しいとは思わないか?」


 優しく、諭すような響き。しかしその本質は、梓の最も守りたい場所を正確に踏みつける、狡猾な脅迫だった。


「……分かっています、お父様。彼は単なる、興味深い観測用サンプルです。それ以上の価値はありません」


 梓の声は、鏡面のように滑らかだった。

 だが、テーブルの下で握りしめた彼女の指先は、不自然なほど強く、自らの肌に食い込んでいた。彼女が「個」であろうとすればするほど、瀬戸蓮という存在がシステムの牙にかけられる。

 宗一郎はその微かな呼吸の乱れを、満足そうに、愉悦さえ含んだ瞳で眺めていた。


 宗一郎は最後の一口を飲み干すと、ナプキンで唇を拭い、音もなく席を立った。背後でドロイドが即座に反応し、使用済みのトレイを回収していく。


「明朝のバイタルに期待しているよ。……お前が『正しい聖女』であり続ける限り、あの少年もまた、有益な部品として長く学園に留まれるだろうからね」


 去り際にかけられた言葉は、一見すれば慈悲深いが、その実、蓮の命運が梓の「無機質な献身」一つに懸かっていることを突きつける、呪いのような宣告だった。宗一郎が部屋を去ると、自動ドアが吸い込まれるように閉まり、ダイニングには完璧な無音が戻った。


 その直後、天井に埋め込まれたスピーカーから、柔らかな弦楽器の旋律が流れ始めた。システムが梓の微かな心拍の上昇を検知し、即座に最適と判断したバッハの『G線上のアリア』を再生したのだ。

 しかし、緻密に計算されたその「癒やし」の旋律は、今の彼女には神経を逆撫でするノイズにしか聞こえなかった。曲のテンポは彼女の脈拍を強制的に規定値へ引き戻すように、一音一音、残酷なまでに正確に刻まれる。彼女の焦燥も、蓮への罪悪感も、すべてはこの優雅な音の壁に塗りつぶされ、無価値なエラーとして処理されていく。


 梓は一人、冷え切った大理石のテーブルを見つめていた。

 先ほど服用させられたテアニン錠と、部屋を満たすクラシックの強制的な安らぎ。それらが混ざり合い、彼女の思考は意思とは裏腹に、滑らかで白い空洞へと作り替えられていく。


 広すぎるダイニングを照らす間接照明は、ただ床に落ちた彼女の影を際立たせるだけだった。この家の壁も、音楽も、空気さえも、彼女を「守る」ためではなく「閉じ込める」ために設計されている。

 数千万人の幸福を背負う聖女の居場所は、どこまで歩いても、自分以外の誰一人として存在できない、透明で完成された極北の孤独だった。


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