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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
15/24

第3話:共犯者の契約


 翌朝の学園は、昨夜の嵐のような静寂が嘘だったかのように、均一で平穏な光に満たされていた。


 瀬戸蓮は、登校風景を俯瞰できる校舎の渡り廊下で、手元の端末を操作しながら一人の少女を待っていた。

 視線の先、純白の制服を乱れなく着こなした織部梓が、信奉者たちに囲まれながら正門をくぐる。

 彼女の表情には微塵の曇りもなく、昨夜、蓮の腕の中で意識を失い、惨めに震えていた姿など影も形もない。手首の管理デバイスは、彼女が「極めて良好な精神状態」にあることを示す、清廉な青い光を放ち続けていた。


 だが、蓮の網膜には、彼女が隠し持っていたあの「栞」の残像が焼き付いている。

 古びた紙片に記されていた、システムが否定したはずの生々しい言葉。

 あれを内ポケットに忍ばせている限り、彼女の「平穏」は、薄氷の上に築かれた偽りに過ぎない。


(……よくもまあ、あんな顔をして笑えるもんだ)


 蓮は、自身の端末に表示された「最適化パッチ」のコードをなぞった。

 それは昨夜、彼女を抱き抱えながら、そのデバイスの脆弱性を解析して作り上げた、非公式のプログラムだ。

 表向きは精神安定を補助する偽装信号を送りつつ、裏では監視AIの検知を欺き、彼女の「バグ」を隠蔽するための盾となる。


 蓮は、取り巻きたちから解放された梓が一人、図書室へと向かうタイミングを見計らって動き出した。

 復讐のために手に入れたハッキングの技術を、まさかシステムの最端にいる聖女を救うために使うことになるとは。

 皮肉な予感に唇を歪めながら、蓮は彼女の背後へと忍び寄った。


 静まり返った図書室の奥、古びた書架の陰に彼女はいた。

 梓は周囲を警戒するように一度だけ振り返り、壁と棚の狭い隙間へと滑り込む。そこは、かつてのアナログな建築設計と現在の監視網が微かに食い違った、数少ない死角の一つだった。


 彼女はジャケットを脱ぐと、内ポケットからあのお守りを引き出し、震える手で中身を確認しようとした。だが、背後から伸びてきた蓮の影に、彼女の肩が小さく跳ねる。


「……あ」

「よう、聖女様。随分と念入りな検分だな」


 蓮の声に、梓は悲鳴を飲み込み、お守りを胸元に強く押し当てた。

 彼女の瞳には、昨夜の意識を失う直前の恐怖がまざまざと蘇っている。昨夜、自習室で自分を抱きかかえ、そしてこの「禁忌」に触れた少年が、今、目の前に立っている。


「どうして……。あなたは、昨日のことを誰かに話したの?」

「話してたら、今頃あんたは『再調整施設』行きだ。ここには来てない」


 蓮は歩み寄り、自分の端末を彼女の手首のデバイスへ近付けた。

 梓は拒絶するように腕を引こうとしたが、蓮はその細い手首を、抵抗を許さない確かな力で固定した。


「何をするの……! やめて、私はもう、昨日のような失態は――」

「黙ってろ。あんたのそのおもちゃ、監視AIと直結してる。今のあんたの脈拍じゃ、あと数分でまた強制鎮静が飛んでくるぞ」


 蓮の言葉通り、彼女のデバイスは警告の予兆である橙色の点滅を始めていた。

 蓮は端末の実行キーを叩く。青いプログレスバーが走り、非公式のデータパケットが彼女のデバイスへと流し込まれていく。


「……何、これ。警告が……消えた?」


 驚愕に目を見開く梓の視線の先で、激しく明滅していたデバイスが、偽りの「正常」を示す静かな青色へと戻っていく。

 蓮が組み上げた偽装プログラムが、彼女の脳から発せられる激しい動揺を、静かな凪のデータへと書き換えていた。


「あんたの『バグ』を隠すパッチだ。これがある限り、あんたが何を思おうが、どれだけ震えようが、システムには『幸福な聖女』としてしか映らない」


 蓮は手首を離し、一歩身を引いた。

 梓は信じられないといった様子で、自分の手首と蓮の顔を交互に見つめている。救済の手を差し伸べられたという安堵と、自分自身の魂を、目の前の少年に握られたという新たな戦慄。その二つの感情が、彼女の中で激しく渦巻いていた。


「どうして、助けるの? あなたは、学園の管理体制を嫌っているんじゃなかったの?」

「勘違いするな。俺は、システムを出し抜くのが好きなだけだ」


 蓮は少年の面影を残したまま、酷く冷めた笑みを浮かべた。

 嘘だ。自分でも、それが単なる反抗心ではないことを理解していた。

 彼女の震えを知ってしまった以上、その震えを止める権利も、あるいは加速させる権利も、自分以外の誰にも渡したくない。


 梓は、自分の手首に巻かれたデバイスを、まるで初めて見る異物のように凝視していた。

 管理社会における「正常」とは、数値が安定していることを指す。たとえ内側で心が悲鳴を上げていても、この小さな機械が青く光っていれば、彼女は聖女として存在を許される。


「これで、私は……もう、壊れなくて済むの?」

「壊れないんじゃない。壊れていることを、誰にも気づかれずに済むだけだ」


 蓮の言葉は、救いというにはあまりに冷徹だった。

 彼は図書室の窓際に背を向け、影の中に身を置く。光の中に立つ梓との対比が、二人の間に引かれた境界線を際立たせていた。


「代償は何? あなたのような人が、無償でこんな危険な真似をするとは思えないわ」


 梓の瞳に、聖女としての矜持がわずかに戻る。

 彼女はこの完璧な世界で、与えられるものには必ず「最適化」という名の対価が必要であることを知っていた。蓮はゆっくりと彼女に近づき、その耳元で、他人に聞かせるにはあまりに低い声を出した。


「代償か。……いいぜ、条件は二つだ」


 蓮の指が、彼女の制服の内ポケット、あの栞が眠る場所に触れるか触れないかの距離で止まる。


「一つ。その栞を、俺以外の誰にも見せないこと。二つ……。あんたが次に『強制鎮静』を食らいそうになったら、システムのパルスじゃなく、俺を呼べ」


 梓の息が止まった。

 それは、彼女の精神の管理権を、中央システムから一人の少年に委ねろという宣言に等しかった。

 管理社会という巨大な檻から、瀬戸蓮という名の、よりパーソナルで不透明な檻への移送。


「それは……私を、あなたの監視下に置くということ?」

「言い方はどうでもいい。だが、あんたのそのバグを面白がってるのは、この学園で俺だけだ」


 蓮の瞳に宿ったのは、システムへの復讐心と、少女への歪な執着が混ざり合った濁った色だった。

 彼は、彼女が「聖女」という役割から零れ落ちる瞬間を、独占したいと願っていた。


 梓は、自分の喉元に刃を突きつけられたような沈黙の後、ゆっくりと、しかし確実に頷いた。

 その細い首筋が微かに震え、管理デバイスが一時的に警告の橙色に振れそうになる。だが、蓮が流し込んだパッチが非情なまでにその揺らぎを抑え込み、強制的に「凪」の状態へと引き戻した。


「わかったわ……。あなたの条件を、受け入れる」


 彼女の声は、自分自身をシステムから切り離し、目の前の少年に差し出すための契約の儀式のようだった。

 聖女としての仮面の下で、彼女は初めて、他者の悪意や執着に守られるという倒錯した安堵を感じていた。管理社会の均一な救済よりも、蓮が差し出す歪な支配の方が、今の彼女にとっては生の実感に近い。


 蓮は、彼女の瞳から生気が失われ、代わりに自分への依存の光が宿るのを、冷徹な満足感とともに見届けた。

 彼は図書室の影から一歩踏み出し、光の中に立つ彼女の隣を通り過ぎる。


「いい子だ。……それじゃ、また放課後に」


 背後で、梓が力なく壁に背を預ける気配がした。

 窓の外では、管理システムによって制御された完璧な春の陽光が、校庭を無機質に照らしている。数千人の生徒たちが、疑いもなく最適化された幸福を享受しているこの巨大な檻の中で、二人だけの「共犯」が静かに産声を上げた。


 蓮は、自分の胸の奥で、かつてないほど激しく脈打つ鼓動を感じていた。

 これは復讐の手段だ。システムの中枢にいる彼女を抱き込むことで、内側からすべてを崩壊させるための。

 そう自分に言い聞かせながらも、彼は内ポケットに触れた指先に残る、あの「栞」の硬い感触を思い出していた。


 聖女の皮を剥ぎ、その内側に潜む「震え」を自分だけが飼い慣らす。

 その支配の快楽が、正義や復讐という言葉を少しずつ塗りつぶしていく。

 

 こうして、救済の名を借りた最初の「檻」が完成した。

 それは、後に数千回繰り返される、果てしない執着の輪廻の、まだ序章に過ぎなかった。


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