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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
13/27

第1話:春の葬列


 ××××年、四月。

 管理都市の空は、人工的に調整された完璧な快晴だった。

 校門へと続く並木道には、遺伝子操作によって散る時期を固定された、汚れなきソメイヨシノが咲き乱れている。


 新入生、瀬戸蓮は、手首のスマートウォッチが放つ「青い光」を眺めながら歩いていた。

『心拍数:安定。幸福感:標準。健康状態:良好』

 画面に並ぶ無機質な数字が、彼の生存を肯定している。この街では、デバイスが弾き出す数値こそが「真実」であり、個人の内面的な葛藤は、調整不足のノイズとして処理される。


「……気持ち悪いな」


 蓮は、誰に聞こえるでもなく呟いた。

 母親をシステムに「殺された」直後の彼にとって、この平穏な数値は冒涜に他ならなかった。復讐を胸に誓い、この学園に潜り込んだものの、具体的な手段は何一つ持たない。彼はまだ、ただの無力な少年に過ぎなかった。


 体育館で行われる入学式。

 冷たい空気の中に、数百人の新入生の整然とした呼吸が混じる。

 やがて、司会が「在校生代表、歓迎の辞」と告げた。


 壇上に登ったのは、二年生の少女だった。


「在校生代表、織部梓」


 その名が呼ばれた瞬間、会場中のデバイスが一斉に微震した。

『注目:管理モデル特待生。適性指数:測定不能(SSS)』

 新入生たちが、感嘆の吐息を漏らす。彼らは少女そのものを見ているのではなく、その手首から送信される「神に近い数値」を崇拝しているのだ。


 蓮もまた、彼女を見つめた。

 艶やかな黒髪、理知的で淀みのない瞳。けれど、蓮の目に映った彼女は、周囲が称賛するような「完成された聖女」ではなかった。


(……笑っていない)


 梓の口元は、完璧な角度で微笑みを形作っている。

 だが、その瞳の奥には、どこまでも深い透明な虚無が横たわっていた。それは、何百キロもの重圧を背負いながら、自らの意思を去勢された人間だけが持つ、静かな絶望の光。


 彼女が歓迎の言葉を紡ぐ。

「皆さんはシステムの新たな歯車となり、最適化された未来を支える光となるでしょう……」


 その声が、わずかに、本当にわずかに震えていることに、会場で蓮だけが気づいていた。

 彼は無意識に、自分の手首を強く握りしめる。

 それが、後に幾千もの時間を止めることになる、二人の「最初の接触」だった。


 入学式が終わり、新入生たちが騒がしく体育館を後にする中、蓮は一人、その場に立ち尽くしていた。

 視線の先には、役目を終えて壇上から降りる梓の背中がある。彼女の周囲には、教師や生徒会役員たちが群がり、まるで高価な美術品を扱うような手つきで彼女を「保護」していた。


「……瀬戸くん、行かないの?」


 クラスメイトとなる誰かが声をかけてきたが、蓮は適当に頷いて、人混みを逆走するように歩き出した。

 向かったのは、校舎の裏手にある、手入れの行き届きすぎた中庭だった。


 予感は当たっていた。

 喧騒を避けるように、梓がそこにいた。

 彼女は一人、自動剪定ロボットが動く植え込みの前に立ち、手首のデバイスをじっと見つめている。先ほどの完璧な微笑みは消え、そこにあるのは、ただの疲れ果てた少女の横顔だった。


「……同期率、九十八パーセント」


 梓が小さく呟いた。

 彼女の声は、春の湿った風に溶けて消えそうだった。

 蓮は、枯れ葉を踏まないように慎重に距離を詰める。だが、彼が口を開く前に、梓が静かに振り返った。


「新入生の方ね。……ここへの立ち入りは、システムの推奨ルートから外れているわよ」


 拒絶ではなかった。それは、警告という名の「諦め」だった。

 彼女の瞳に映る蓮は、まだ何の色もついていない、ただの無害な観測者に過ぎない。


「ルートなんて、どうでもいい。……さっきの挨拶、本当はあんなこと思ってないだろ」


 蓮の言葉に、梓の眉が微かに動いた。

 感情の起伏を検知した彼女のデバイスが、低く、警告音のような電子音を鳴らす。


「……思っているかどうかなんて、重要じゃないの。デバイスが『最適』だと判断した言葉を口にする。それが、この学園での私の役割だから」


「役割? 冗談だろ。あんた、今にも泣きそうに見えたぞ」


 直球すぎる言葉に、梓は初めて、デバイスを通さない本物の「戸惑い」をその瞳に浮かべた。

 彼女にとって、自分の内面を「数値」以外で指摘されることは、この一年間一度もなかった経験だった。


「……変な人。……そんなこと、二度と言わない方がいいわよ。エラー個体だと思われて、再調整プログラムに入れられるわ」


 梓はそれだけ言うと、蓮の脇を通り抜けて校舎へと戻っていった。

 すれ違いざま、彼女の制服から、かすかに花の香りと、そして……鉄のような、何かが摩耗する匂いがした。


 蓮は、彼女が去った後の空気を深く吸い込んだ。

 この時の彼はまだ知らない。

 自分が今、どれほど残酷な、そして終わりのない「救済」の入り口に立ってしまったのかを。


 放課後、蓮は新入生に配られたばかりのタブレットを無視し、図書室の片隅にある「紙の資料」が置かれた古めかしい一角にいた。

 管理社会において、デジタル化されていない情報は「価値のないゴミ」か「危険な遺物」のどちらかだ。蓮はそこで、学園の象徴である織部梓という少女が背負わされているものの正体を探っていた。


(……彼女だけ、同期の頻度が異常だ。一分に一度、中枢AIとバイタルを照合されている)


 その時、図書室の奥にある閲覧室から、微かな金属音が聞こえた。

 蓮が棚の隙間から覗き込むと、そこにはまた、梓がいた。

 彼女は周囲を何度も見渡し、祈るように胸元を押さえている。その指先は、制服のポケットの中に何か「異物」があることを示唆していた。


(何を持ってる……?)


 その瞬間、彼女の手首のデバイスが真っ赤に点滅し、鋭い警告音を鳴らした。

『心拍数の不規則な上昇を検知。精神状態を報告してください』


「……っ!」


 梓の顔から血の気が引く。彼女は慌ててポケットの上からその「何か」を強く押し込み、必死に呼吸を整えようとした。だが、焦れば焦るほど数値は乱れる。

 蓮は、彼女がパニックに陥り、監視ドローンが呼ばれる寸前であることを察知した。


「……おい、動くな」


 蓮はわざと大きな足音を立てて歩み寄り、彼女の正面に立った。

 驚きで目を見開く梓の肩を、彼は強引に掴む。


「……っ、やめて、触らないで! デバイスが……」


「わかってる、わざとやってるんだ。僕を見てろ」


 蓮は自分のデバイスを彼女のそれにかざし、無理やりペアリング(近接通信)を開始した。

「不適合者」に近い蓮の不安定なバイタルを、至近距離で梓にぶつける。意図的なノイズの混入。システムは「二人の接触による一時的な情緒の乱れ」と誤認し、個別の精神異常という判断を一瞬だけ保留した。


「……は、離して。あなた、何を……」


「あんたが持ってる『それ』、何だか知らないが、今は隠しきれない。……僕が注意を逸らしてやるから、その隙に片付けろ」


 蓮は彼女のポケットの中身を見ようとはしなかった。ただ、彼女が守ろうとしている「バグ」の存在だけを、確信を持って指摘した。


 数秒後、デバイスの警告灯が黄色(注意)に変わり、やがて平穏な緑へと戻った。

 梓は激しく上下していた肩を落ち着かせ、蓮の手を振り払うように一歩下がった。


「……余計なことを。あなた、自分がどれほど危険な真似をしたか分かっているの?」


 彼女の瞳には、感謝ではなく、自分の領域に土足で踏み込まれたことへの剥き出しの警戒心があった。

 蓮は彼女の視線を真っ向から受け止め、鼻で笑った。


「危険? あんたがここでドローンに囲まれるよりはマシだろ。……ポケットの中身、大事にしろよ。バレたら次は、僕も助けられない」


「……」


 梓は何も答えなかった。ただ、右手の指先がポケットの上から「何か」を必死に守るように丸まったのを、蓮は見逃さなかった。

 それはまだ、お守りであることすら確信できない、小さな、けれど絶対的な違和感。


「瀬戸蓮だ。……あんたのその、機械みたいな顔が気に入らなかっただけだよ。織部先輩」


 蓮はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。

 背後で、梓が唇を噛み締める気配がする。彼女にとって、この完璧な檻の中で自分の「揺らぎ」を指摘したのは、後にも先にもこの少年だけだった。


「……最悪な、出会いね」


 消え入りそうな彼女の声が、静まり返った図書室に響いた。

 

 ××××年、春。

 一人は、復讐のために。

 一人は、耐え忍ぶために。

 二人の運命が、たった一つの「秘め事」を予感させて交差した。

 

 これが、長い長い地獄の、本当の始まり。


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