表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
栞の在処、震える指先
11/27

第11話:鏡の告白


 保健室の白いカーテンが、窓から入り込む微風に膨らみ、音もなく揺れている。

 放課後の校舎は静まり返り、遠くのグラウンドから届くはずの喧騒も、今の梓には厚い膜の向こう側にある異世界の出来事のように感じられた。


 梓はベッドの上で、白いシーツを握りしめていた。

 鼻血は止まったが、身体の芯に残る泥のような倦怠感は消えない。それなのに、枕元のモニターは『バイタル:最適』『細胞活性化:極めて良好』という、皮肉なほど明るい緑色の数値を刻み続けている。


(……助けて。誰か、本当の私を見て……)


 その時、カーテンが音もなく開いた。

 差し込む夕日に影を長く引き、蓮がそこに立っていた。彼は無機質なパイプ椅子を引き寄せると、梓の顔を覗き込むように座った。その瞳には、いつもの冷徹な観察者の光ではなく、底の見えない暗い沼のような情念が揺らめいている。


「……気分はどうですか。世界から『完璧』だと祝福される気分は」


「蓮くん……。みんな、私を見てなかった。私が壊れそうだったのに、デバイスの数字だけを見て笑ってたわ。……あんなの、狂ってる」


 梓の声は、掠れて消えそうだった。

 信頼していた管理社会が、自分を「人間」ではなく「高精度の部品」としてしか扱っていない。その決定的な絶望が、彼女の心に深い亀裂を入れていた。


「ええ。それがこのシステムの真実です。数字が『白』と言えば、目の前の鮮血さえ『輝き』に変換される。……私の母も、そうして殺されました」


 蓮が、初めて自らの過去を口にした。

 梓は息を呑み、彼を見つめる。蓮は自分の手首にあるデバイスを、忌々しそうに指先で弾いた。


「私の母は、初期の被験者でした。末期の癌に侵されていた。けれど、当時の不完全なアルゴリズムは、彼女の『精神的な幸福度』が高いという理由だけで、末期の苦痛を『多幸感による脳内物質の分泌』だと誤認し続けた」


 蓮の言葉は、淡々としていた。だからこそ、その裏側にある凍てつくような怒りが、静かに室内の温度を奪っていく。


「医者も、父も、目の前で骨と皮だけになっていく母ではなく、手元の端末が示す『幸福な数値』を信じた。……母は、愛する者たちに苦痛を否定されながら死んでいったんです。システムが作り出した、幸福という名の、最悪の孤独の中で」


 保健室の空気は、蓮が吐き出した過去の重みに沈んでいた。

 梓は、自分の手首で無機質に拍動を刻むデバイスを見つめる。それが今、蓮の母親を殺した「幸福という名の断絶」と同じ牙を自分に向けているのだと気づき、指先が凍りついたように動かなくなった。


「……だから、蓮くんは。システムを壊そうとしているの?」


 震える問いに、蓮は低く、乾いた笑い声を漏らした。

 彼はゆっくりと立ち上がり、梓のベッドの淵に腰を下ろす。シーツが沈み、彼から漂うわずかな清潔な香りが、梓の鼻腔をくすぐった。


「壊す? いいえ、そんな生易しいこと。……私は、このシステムが『完成』したその瞬間に、内側からすべてを裏切りたい。完璧な数値を出せば出すほど、中身が腐り果てていく……そんな『聖女』を、世界に突きつけるんです」


 蓮の手が、梓の頬に伸びた。

 親指が、梓の震える唇をなぞる。その指先は驚くほど優しく、同時に逃げ場を許さないほど強固だった。


「先輩。あなたが私のパッチを受け入れ、最高スコアを更新し続けるたびに、システムのアルゴリズムは狂っていく。……苦痛を幸福と呼び、絶望を絶頂と定義する。そうして、この国全体の『正解』を書き換えてやる」


「……っ、そんなことしたら、世界が……」


「ええ。世界が狂う。誰も真実の痛みを感じられなくなり、数字だけを崇拝する虚無の楽園になる。……その中心で、私とあなただけが、本当の『地獄』を共有するんです。……素敵だと思いませんか?」


 蓮の瞳が、至近距離で梓を射抜いた。

 そこにあるのは純粋な悪意ではない。壊れた世界の中で、唯一自分を理解してくれる「鏡」を求める、狂おしいほどの渇望。


 蓮は、梓が握りしめていた空っぽのお守り袋に手を重ねた。


「お婆様の祈りは、私が引き裂いた。……でも、代わりに私が『永遠』をあげます。この世界があなたを部品としてしか見なくても、私は、壊れていくあなたの一秒一秒を、この眼で焼き付ける。……あなたが、最後に私の名前を呼んで消えるその時まで」


 梓の胸の奥で、何かが決定的に崩壊した。

 それは恐怖であったが、同時に、これまでの人生で一度も得られなかった「強烈な肯定」でもあった。システムの賞賛よりもずっと深く、暗い、蓮という個人による魂の略奪。


 保健室の窓の外、沈みゆく太陽が血のような残光を投げかけ、白いカーテンを不吉な斑に染め上げていた。


 梓は、自分の頬に触れる蓮の指先に、吸い寄せられるように顔を寄せた。

 恐怖。嫌悪。そして、それらをすべて塗りつぶすような、抗いがたい救済。システムが与える記号的な「幸福」ではなく、目の前の少年が差し出す「自分を壊すための情熱」に、彼女の心は震えていた。


「……蓮くん。あなたは、私を……愛しているの? それとも、ただの道具なの?」


 掠れた声で問いかける。

 蓮は、その問いに答える代わりに、梓の手首を掴み、スマートウォッチの画面を強く指差した。


「『愛』なんて言葉も、このシステムにかかれば脳内物質の分泌量として数値化される。……でも、先輩。今、あなたの拍動がパッチの補正を突き破ろうとしている。この苦しそうな、不規則なリズム……。これだけは、まだ誰にも支配されていない、あなただけの『真実』だ」


 蓮の瞳に、狂気と紙一重の法悦が浮かぶ。

 彼は懐から、昨日破り捨てたはずの「お守りの中身」――その断片の一つを取り出した。


「一つだけ、返してあげます。……この『ありのまま』という文字の欠片を」


 それは、祖母の筆跡のほんの一部。引き裂かれ、意味をなさなくなった紙の端切れ。

 蓮はそれを、梓の唇の間にそっと挟み込んだ。


「これを飲み込みなさい。あなたの血肉にして、内側で一生飼い慣らすんだ。……表面上は完璧な聖女を演じながら、腹の底ではこの呪いを噛み締めて、私と一緒に世界を騙し続ける。……それが、私たちがこの楽園に下す、唯一の死刑判決です」


 梓は、口内に広がる古びた紙の、乾いた味を感じた。

 それは苦く、喉を焼くような異物感。けれど、それを飲み込んだ瞬間、彼女の胸の奥で、システムへの「従順」という名の糸が、完全に焼き切れた。


「……わかったわ。……やりましょう、蓮くん」


 梓の瞳から、光が消えた。

 代わりに宿ったのは、すべてを冷笑するような、静かな暗い炎。

 彼女は蓮の首に細い腕を回し、自らその胸に飛び込んだ。


 その瞬間、スマートウォッチが狂ったように振動する。

『警告:未定義の感情スパイクを検知。再起動中……。最適化……完了。対象者:織部梓。幸福指数、測定不能(最高値維持)』


 システムは、彼女の「決意という名の狂気」を、ついに測定することさえ諦め、史上空前の「幸福」として処理した。


 保健室の窓の外、ついに太陽が地平線の向こうへ沈み、濃密な群青色の夜が降りてきた。

 梓は蓮の胸に顔を埋めたまま、喉の奥を通っていく紙片の感触を、一生消えない火傷のように反芻していた。


「……これで、私はもう、普通には戻れないわね」


 その声に、もはや怯えはなかった。

 蓮は梓の背中を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど逃げ出せない強さで抱きしめる。彼の心音は、システムの推奨する「理想的なリズム」を嘲笑うかのように、速く、不規則に打っていた。


「普通なんて、最初からこの檻(世界)には存在しない。あるのは、管理される家畜か、それとも管理を装って内側で笑う怪物か……そのどちらかです」


 蓮は、梓の手首にあるスマートウォッチのバックライトを、愛おしげに見つめた。

 画面には、かつてないほどの安定を示す数値が並んでいる。梓の絶望が、蓮への依存が、そしてこの狂った共犯への決意が、システムには「究極の適応」として翻訳されているのだ。


「……明日から、私はどうすればいい?」


「いつも通りに。……いえ、これまで以上に『完璧な聖女』でいてください。誰もがひれ伏し、誰もが模範とする、一点の曇りもない偶像。……その内側で、私だけが知る醜悪な、愛おしい『バグ』を飼い続けていればいい」


 蓮は梓を解放し、窓を開けた。

 夜風が入り込み、室内の停滞した空気をかき回す。彼は夜の闇を指差した。


「見てください。あの街の灯り一つひとつに、数字に支配された家畜が眠っている。……彼らは明日、さらに完璧になったあなたのデータを見て、自分たちの不完全さを呪い、さらにシステムに従順になる。……あなたが輝けば輝くほど、世界は静かに窒息していくんです」


 梓はゆっくりとベッドから降り、蓮の隣に立った。

 手元には、中身を失った空のお守り袋。彼女はそれを大切にポケットに仕舞い込んだ。もはや、それを握る必要はない。


「……行きましょう、蓮くん。私の、最高に幸福な一日のために」


 二人は、月明かりの差さない暗い廊下へと歩み出した。

 背後にあるモニターは、主を失った部屋で、史上最高の『幸福指数』を虚空に放ち続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ