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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
栞の在処、震える指先
1/9

第1話:神の眼の公示

本作を開いていただき、ありがとうございます。


この物語は、すべてが数値で「正解」を出される完璧な世界で、たった一人の少女を救うために「不正解」を積み上げ続けた少年の物語です。


最初は純粋だった初恋が、繰り返される死とループを経て、どのように「支配」と「執着」へと形を変えていくのか。

そして、完璧な「聖女」として振る舞う少女が、唯一自分の絶望を肯定してくれる少年に、どう壊されていくのか。


「小説家になろう」の王道である『ループ』と『特殊能力ハッキング・パッチ』を、少しダークで文芸的なエッセンスを加えて描きます。


管理された「偽りの幸福」よりも、二人だけの「本物の地獄」を選んだ彼らの行く末を、どうぞ最後まで見届けてください。


 武道場の天井に埋め込まれた監視カメラが、無機質なレンズで織部梓の動線を追っている。


 最新の空調システムが二十四度に保つ空間で、梓が振り下ろす竹刀の音だけが、デジタルな静寂を切り裂いていた。壁面のモニターには、彼女の腕に巻かれたスマートウォッチから転送されるバイタルデータが、心拍数一六〇を指して赤く点滅している。


 梓は、肺が焼け付くような熱を帯びているのを感じながら、さらに一歩踏み込んだ。視界の端がチカチカと明滅し、脳が「停止」を訴えているが、彼女はそれを意志の力で黙殺する。瑞穂県最強の剣士、そして名家・織部家の娘という重圧が、彼女の足を止めさせてはくれなかった。


「……まだ。まだ、完璧じゃない」


 乾いた唇から零れたのは、呪詛に近い言葉だった。


 胸の奥が、冷たい泥を飲み込んだように重い。周囲が期待する「聖女」であり「最強」であるためのログを刻み続けること。それは呼吸を自力でするのではなく、管理アプリ『A-EYE』に「させられている」感覚に等しかった。自分という個が、膨大なデータの中に溶けて消えていくような恐怖が、常に背後から追いかけてくる。


 逃げ出したい。どこか、この監視の目の届かない場所へ。


 けれど、彼女にできるのは、自我の象徴である左手の「青いお守り」を、指が白くなるまで握りしめることだけだった。


 静まり返った道場に、蓮の足音だけが鼓膜を圧迫するように響く。


 蓮は、梓が握りしめていた竹刀を、指を一本ずつ解くようにして取り上げた。抵抗する力さえ残っていない梓の指先は、不自然なほど白く、小刻みに震えている。奪い取られた竹刀が床に置かれる乾いた音が、静寂の中でひどく大きく響いた。


「……蓮、くん。私は、まだ。止まっちゃ、いけないの」


 梓は、自分の喉から出た声のあまりの弱さに驚いた。


 心臓の鼓動が耳のすぐ側で鳴り続けている。それは肉体の限界を告げる警鐘であると同時に、彼女を縛り付ける『A-EYE』のログへの恐怖でもあった。もし今、この練習を中断すれば、明日の朝には「集中力の欠如」という冷徹な診断スコアが親元へ、そして学校へと送信される。


 完璧でなければならない。その強迫観念が、彼女の足をガクガクと震わせ、逃げ道を塞いでいた。


「『完璧』なんて、ただのデータ上のまやかしですよ。先輩」


 蓮は、梓の耳元に唇を寄せ、呪文のように囁いた。


「システムの機嫌を伺うために、自分の心臓を壊すつもりですか? 先輩がそんなに健気な犠牲者ぶるたびに、私は……たまらなく壊したくなる」


 蓮の言葉に含まれた異質な熱量に、梓の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。


 彼はそのまま、梓の首筋に浮き出た血管を、冷えた指先でなぞる。心臓が跳ね、呼吸がさらに乱れる。蓮の指が触れる場所から、自分の意志が薄れ、代わりに彼の「支配」が染み込んでいくような錯覚。


 嫌だ、と頭のどこかで理性が叫んでいる。けれど、自分を縛る『A-EYE』の監視から救い出してくれるのは、この歪んだ執着を持つ後輩だけなのではないかという、甘い絶望が同時に芽生えていた。


 蓮は、梓の左手に握られた「青いお守り」を、自分の手で包み込んだ。


 刺繍の凹凸越しに伝わる彼女の体温と、それ以上に激しい小刻みな震え。蓮はそれを慈しむように、しかし有無を言わさぬ力で握りつぶす。


「……あ、返して。それは、私の……」


 梓の細い声が、道場の高い天井に吸い込まれていく。そのお守りは、システムに監視されない唯一の聖域であり、彼女が「織部梓」という個を繋ぎ止めるための、最後の錨だった。


「これは、私が預かっておきます。今の先輩に必要なのは、過去の自分に縋ることではなく、目の前の現実に屈服することですから」


 蓮は、お守りを自らのポケットに深く沈めた。文字通り、彼女の「心」の一部を奪い去るような仕草だった。


 梓は、自分の内側から支えが消えていくような感覚に陥った。視界が急速に狭まり、蓮の歪んだ独占欲を孕んだ瞳だけが、暗闇の中で鮮明に浮かび上がる。


 逃げなければならない。このままでは、自分という人間がこの少年によって書き換えられてしまう。


 そう理解しているのに、心臓は裏腹な歓喜に震えていた。管理された平和よりも、この少年に壊されることの方に、生の実感を見出し始めていた。


「さあ、力を抜いて。システムが見ているのはあなたの『数値』だけですが、私が見ているのは、その裏で泣いている『あなた』ですよ」


 蓮の指が、梓のうなじを優しく撫でる。その触球が触れるたびに、梓の思考は白く塗り潰され、彼の支配という毒に、身体の芯から痺れていった。


 武道場の自動ドアが、軽い電子音を立てて左右に滑り込んだ。


「失礼します、織部主将。……おや、瀬戸君も一緒か」


 現れたのは、剣道部顧問の教師だった。その手には、生徒たちのバイタルを一括管理するタブレット端末が握られている。


 梓は心臓が口から飛び出しそうな衝動に駆られ、反射的に蓮を突き放そうとした。しかし、蓮の指は彼女の手首を掴んだまま、あえて数秒の「空白」を作ってから、ゆっくりと、名残惜しそうにその拘束を解いた。


「失礼しました。織部先輩がバイタルエラーを起こしていたので、ログの正常化を手伝っていました」


 蓮は平然とした顔で一礼する。その声音には、先ほどまでの湿り気を帯びた支配欲など微塵も残っていない。


「そうか。さすがはA—EYEの特待生だな、判断が早い。織部、無理は禁物だぞ。君は我が校の『看板』なんだ。異常値が親元に飛べば、また説明が面倒になるからな」


 教師の視線は、梓という人間を見てはいなかった。タブレット越しに映し出される、正常値へと戻りつつある「織部梓」という名のグラフだけを見て、満足げに頷く。


 梓は唇を強く噛み締め、人形のように深く頭を下げる。


「……はい。ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 聖女の微笑を、寸分違わず再生する。胸の奥では、蓮に奪われたお守りの感触が、空白となってズキズキと痛んでいた。


 教師が去った後、蓮は梓の背後を通り過ぎる際、彼女にしか聞こえない音量で短く告げた。


「……また明日、先輩。あなたの『心』は、私が預かっていますから」


 蓮の足音が遠ざかり、再び無機質な空調の音だけが道場を支配する。梓は監視カメラの赤い光に見守られながら、自分がもう、あの冷たい指先なしでは正常な呼吸さえできなくなっていることに気づき、震える両手で自らを抱きしめた。


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