終電の回廊
佐倉 慎吾は、シャツの背中に貼り付く汗の冷たさを感じながら、最終電車に飛び乗った。
彼の今日最大の失敗は、慣れない駅で急いだあまり、全く違う方面へ向かう急行列車に乗ってしまったことだ。
「最悪だ。乗り換え案内にも出てこない路線だぞ。どうせ、折り返し運転もない辺境の終点まで行かされるんだろう」
落胆しながら、慎吾は空いている席を探して車両の奥へ向かって歩き始めた。車内はまばらで、照明が不規則に瞬いている。
次の車両に入って数メートル歩いた座席の端。一組の男女の口論が彼の耳に入ってきた。男はスーツ姿、女性は疲れた様子のキャミソール姿だ。
「……もう、終わりにしましょうよ! いつまで私の人生をめちゃくちゃにするの!」女性の声がヒステリックに響いた。
「終わらせてたまるか!」
男はそう怒鳴ると、持っていた安物のカバンを座席に投げつけた。その反動で、カバンの中から銀色の光が飛び出し、床に落ちた。小さな折り畳み式の刃物だった。
女性が怯んで後ずさりした隙に、男は床の刃物を拾い上げ、女性に馬乗りになった。
「ふざけるな! お前が悪いんだ!」
男の低い唸り声と共に、刃物が女性の胸元を深く、そして連続して三度襲った。
「っ…あ…」
静かだった車内は、女性の微かな声と共に一気に地獄の様相を呈した。座席で寝ていた中年男性が、奇声にも似た叫びを上げながら跳ね起きた。スマートフォンを見ていた女子高生らしき二人組は、一瞬フリーズした後、顔を真っ青にして悲鳴を上げ、連結部に向かって我先にと押し合いながら逃走し始めた。
慎吾は数メートル離れた場所から、その光景を目撃した。彼は声を上げることすらできず、反射的に来た方向に向かって全力で走り出した。
慎吾は全力で走ったが、次の連結部を通り抜け、足を踏み入れた車両で、彼は決定的な違和感に襲われた。目の前に広がる車内の風景は、どう見ても事件を目撃した車両だった。
「なぜだ……? 何故、ここに戻ってきている?おれは確かにここから逃げ出したはずなのに…」
彼は物理法則を無視したような空間移動を体験し、顔面蒼白になった。
混乱する慎吾の耳に、つい数分前に聞いたばかりの女性の声が響いた。
「……もう、終わりにしましょうよ! いつまで私の人生をめちゃくちゃにするの!」
慎吾が顔を上げると、数メートル先には、今まさに刺殺されたはずの、生きた女性が立っていた。会話、配置、全てが完璧に再現されている。
(デジャヴュではない。夢でも幻覚でもない。何かがおかしい。この電車は、時間が、あるいは空間が、巻き戻っている)
彼は異常な現象に直面していると驚愕した。
男は怒鳴る。「終わらせてたまるか!」
男が持っていたカバンを座席に投げつけた。銀色の刃物が床に落ちた。
(まただ! 同じだ。この現象が続けば、またあの殺人が起こる。とにかく、これを止めなければ、この異常は終わらないのではないか?)
慎吾は、この事件を止めれば、この異常な状況が変わるかもしれないという直感に突き動かされた。
男が刃物に手を伸ばした。
「やめろ!」
慎吾は叫びながら、男が刃物を拾う前に現場に飛び込もうと、全力で走り出した。
しかし、刃物が床に落ちた直後、中年男性が前回と全く同じ奇声を上げ、前回と同じ軌道で通路に飛び出し、慎吾の進路を完全に塞いだ。それに続いて、女子高生たちのパニックの連鎖が始まる。
慎吾は運命の壁を押し退けることはできず、事件は再現された。
走って戻り、慎吾は確信した。
(この終電は、おれを閉じ込めて、この殺人を無限に再現させようとしている。この地獄から抜け出す唯一の方法は、この殺人という運命の再現を阻止することなんじゃないか?)
連結部を通り抜け、二両目の端に戻る。疲労は増しているが、彼の眼には脱出への確信が宿っていた。
(物理的な阻止は、パニックの連鎖によって阻まれる。次は会話で干渉する!)
「……もう、終わりにしましょうよ!」女性の声が響く。男がカバンに手をかける。
慎吾は、女性に向かって声をかけた。「ちょっと待て! いい加減にしろ!」
その時、男が激昂して女性に向かって叫んだ。
「お前に口出しされる筋合いはない! 由紀! お前も余計な真似をするな!」
男は、女性の名前(由紀)を初めて叫んだ。 慎吾は反射的にその名前を脳に刻みつけた。
女性は慎吾を一瞥し、「あんたに関係ない!」と叫び、男に詰め寄った。事件は再現されたが、慎吾は最大のヒントを得ていた。(由紀。次のループで、この名前で彼女の行動を止める!)
連結部を通り抜け、二両目の端に戻る。
(由紀。彼女の名前を呼ぶことで、冷静になってもらおう!赤の他人に自分の名を呼ばれる違和感に戸惑うことで、事件は好転するんじゃないか?)
「……もう、終わりにしましょうよ!」女性の声が響く。
慎吾は、由紀に向かって静かに声をかけた。
「由紀さん。その先に進んではいけない!」
女性は驚愕の表情で慎吾を見た。男の手が、カバンを握ったまま、止まった。
しかし、男はすぐに怒声を上げ、女性もまた、軽蔑の眼差しを慎吾に向けた。
「うるさいわね!何で私の名前を知ってるのか分からないけど、どこの誰だか知らない人に、私の人生に口出しされる筋合いはないのよ!」
由紀は自ら男に詰め寄った。彼女は、見知らぬ男の会話よりも、運命の決着を選んだ。
男はカバンを投げつけ、刃物が床に落ちる。パニックが形成され、事件は再現された。
慎吾は絶望的な無力感に襲われた。(人助けが、殺人を加速させている)
連結部を通り抜け、二両目の端に戻る。
慎吾の顔は土気色だった。何度も殺人の瞬間を見続け、精神は限界を超えていた。
(もう、理性的な手段はない。この電車は、運命の完遂を求めている。ならば、刃物を奪い、男を止めるしかない)
「……もう、終わりにしましょうよ!」女性の声が響く。
慎吾は、最速で飛び出し、男がカバンを投げつけるのと同時に、床に滑り込み、刃物を男よりも先に掴み取った!
「やった!これで止められる!」
しかし男は狂ったように慎吾に組み付き、刃物を持った慎吾の腕を掴んで激しく揉み合った。
男との激しい組み合いの中、由紀の絶叫が上がった。男が慎吾の腕を捻り上げ、二人がもつれ合った勢いで、刃物を持った慎吾の右腕が、由紀の胸元に深く突き刺さった。
「あっ……」
由紀は、裏切りと絶望に満ちた目で慎吾を見つめた。彼女を殺したのは、救世主になろうとしたはずの、別の男だった。
ドサリと、由紀の身体が床に崩れ落ちる。
その瞬間、車内は殺人発生のパニックに包まれた。中年男性の奇声、女子高生たちの悲鳴。その悲鳴は、血の付いた刃物を握る慎吾自身に向けられたものだった。
慎吾は、血の付いた刃物を握りしめ、茫然と立ち尽くした。
彼の意識は、ただ一つに集中していた。次のループの始まり。連結部を通り抜け、再び事件の直前に戻るはずの、いつもの異常な空間移動を。
彼は身体の全細胞を総動員して、時の巻き戻りという救済を待った。しかし、何も起こらない。
電車は、ガタンゴトンと、通常の速度で走行を続けている。車両の端に戻ることもない。
代わりに、目の前には、乗客たちの恐怖の視線。そして、床に広がる由紀の血の海と、自分の手に握られた凶器。
慎吾は悟った。
(ループは……終わったんだ)
彼の心臓は、体内から飛び出さんばかりに激しく鼓動し、全身の血が一瞬で沸騰したような熱と、その後訪れる悪寒に襲われた。激しいパニックと嘔吐感が喉元までせり上がる。
殺人者としての自分が、この現実に確定した――その事実が、津波のように彼の意識を飲み込んだ。
「嘘だ…嘘だろ!おれは、彼女を助けようと!ループを終わらせるためにやったんだ!」
彼は、殺人という運命の再現から逃れようと必死だった。しかし、この終電が求めたのは、「事件の阻止」ではなく、「殺人者が佐倉慎吾として確定すること」だった。
助けを求めていた無限のループが終わり、殺人者という現実が、冷酷なまでにリアルな光を帯びて目の前に立ちはだかる。
殺人という、永遠に続く現実から逃れられないことを悟った瞬間、極度の恐怖と絶望に支配され、彼は刃物を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
由紀を救うという使命は、彼女を殺すという罪に変わり、殺人者という運命だけが、彼を迎え入れた。




