第8話 迷子の午後 ― すれ違う優しさ
昼を過ぎたころ、空はすっかり灰色に沈み込んでいた。
ぽつ、ぽつ、と頬に落ちた雨粒は、瞬く間に本降りへ変わっていく。
「マジかよ……せっかくの下見日だってのに。」
仕方なく、蓮は手にした折りたたみ傘を広げて駆け出した。
目的地は近くの大型デパート――屋内施設なら雨の心配もない。
ガラス張りの自動ドアが開くと、
途端に温かな空気と甘い焼き菓子の匂いが包み込んだ。
館内は休日の親子連れでいっぱい。
フロアに流れるBGMが、なぜか心を落ち着かせる。
(心の声)「……ここなら、美桜も楽しめそうだな。」
雨に邪魔された計画だったけれど、
思いがけず理想的な“雨の日デートプラン”が浮かび上がってくる。
2階へ上がろうとしたその時。
エスカレーター前に、小さな泣き声が響いた。
「……お姉ちゃん……どこぉ……?」
人々の流れは速い。
誰も足を止めない。
蓮だけが、声の方へ足を向けた。
小さな女の子。
年の頃は五、六歳。
ピンクのワンピースに、桜色の髪飾り。
その瞳は涙で濡れて、ぽつんと取り残された子猫みたいだった。
「どうしたの? お姉さんとはぐれた?」
女の子「……うん……お姉ちゃん、いなくなっちゃったの。」
蓮はしゃがみ込み、目線を合わせる。
前世で妹をあやした時の癖が、自然と出ていた。
「大丈夫。お兄ちゃんと一緒に探そっか。」
女の子「……ほんと?」
「ああ。俺、神谷蓮。呼びやすいように呼んでいいよ。」
女の子「……れん、おにーちゃん。」 「うん、それでいい。」
その瞬間――小さな手が、ぎゅっと握り返された。
あたたかくて、軽くて、それでも確かな重みがあった。
(心の声)「……不思議だな。なんか、懐かしい。」
「じゃあ、お姉さんを探しながら歩こうか。」
そう言って歩き出したが――
なぜか、蓮の足が自然と“あの計画表”の順番どおりに動いていた。
「雨、強くなってきたし、少し休もうか。」
女の子「……あったかいの、のみたい。」
カフェでホットミルクを頼み、
蓮は自分にはブレンドコーヒー。
カップを前にした少女は、両手でミルクを包み込むように持つ。
「おにーちゃん、お仕事してる人みたい。」
「そ、そう見える? 休日の下見中なんだけどな。」
「したみ?」
「うん。大事な人とお出かけする計画を立ててるんだ。」
「……だいじなひと?」
女の子理央の瞳が、少しだけ好奇心に輝く。
蓮は照れくさそうに笑って、視線をそらした。
「まあ……そうだな。ちょっと特別な人、かな。」
理央「ふーん……じゃあ、れんおにーちゃん、恋してるの?」
「ぶっ……げほっ、ごほっ! な、なんでわかるの!?」
理央「テレビで見たの! 恋してると、顔がほわってするんだよ!」
「……そ、そうなのか。俺、顔に出てんのか……?」
彼女の無邪気な笑い声が、雨音の向こうまで弾んでいく。
「れんおにーちゃん、これかわいい~!」
「そのぬいぐるみ、けっこうデカいな。」
「でも、おっきい方が、ぎゅーってできる!」
ぬいぐるみを抱きしめる理央を見て、蓮は少し微笑む。
ああ、妹も昔こんな風に笑ってたな、と。
そして――つい口を滑らせる。
「……その髪飾り、似合ってるな。」 理央「これ? おねーちゃんにもらったの!」
「へえ、いいお姉ちゃんなんだな。」 理央「うん! でも、最近ぜんぜん遊んでくれないの。」
理央の顔に、少しだけ寂しさがにじんだ。
(心の声)「……色々と忙しいんだろうな。」
雨足が強まり、外へ出るのは難しい。
館内を歩いていると、ちょうど目の前に“キラキラ光るネオン”が。
理央「おにーちゃん、これなに!?」 「ゲームセンター。楽しいとこだぞ。」
UFOキャッチャーの前に立ち、蓮は100円玉を投入する。
狙うは――ぬいぐるみのクマ。
理央「がんばれー!」
「いけっ……!」
アームが、ゆっくりとぬいぐるみをつかみ――
ぎゅ、と持ち上げた。
そして、ぽとん。
「おおおっ、取れた!?」
理央「わぁぁ! すごいー!!」
理央の瞳がキラキラ輝く。
その笑顔を見た瞬間、蓮の胸の奥が不思議と温かくなる。
(心の声)「……そうか。こういう笑顔を、見たかったんだ。」
気づけば、雨は少しだけ弱まっていた。
二人はようやく迷子センターの看板を見つける。
理央「……もう、ここでバイバイなの?」
「うん。ここにいたら、お姉さんが見つけてくれる。」
理央は、名残惜しそうに蓮の袖を掴んだ。
その小さな手の感触が、なぜか胸を締め付ける。
理央「おにーちゃん、また会える?」
「……それは運次第かな。でも、また会えたらいいね。」
理央は小さくうなずき、涙をこらえるように微笑む。
理央「れんおにーちゃん、だいすき!」
「……ありがとな。元気でな。」
蓮は最後にもう一度、優しく頭を撫でた。
数分後――
迷子センターの自動ドアが勢いよく開く。
綾瀬「りお! 本当に……無事でよかった……!」
振り返る理央の表情が、一瞬で明るくなる。
その腕の中に飛び込んだ理央の背を、
若い女性が震える手で抱きしめる。
彼女の姿は――テレビでも見たことのある人気アイドル、綾瀬梨花。
理央「おねーちゃん! れんおにーちゃんがね、助けてくれたの!」
綾瀬の動きが一瞬止まる。
目を見開き、あたりを見回す。
綾瀬「……れん、おにーちゃん……?」
しかし、その名の主はもうどこにもいなかった。
人混みの向こう、ガラス越しの雨景色だけが静かに揺れている。
理央の手の中には――
蓮が最後に渡した、UFOキャッチャーのクマのぬいぐるみ。
理央「これ、れんおにーちゃんがとってくれたの!」
梨花はその小さなぬいぐるみを抱きしめた。
雨は、もう止んでいた。
空の隙間から、薄い夕陽が滲む。
ガラスの向こうで、ひとり歩く青年の背が
やわらかな橙に照らされて消えていく。
帰り道。
傘を閉じて歩く蓮の横顔は、少しだけ晴れやかだった。
(心の声)「……誰かの笑顔を守るのって、悪くないな。」
ふとスマホを開く。
メッセージには、美桜からの一文。
『次の休日、楽しみにしていますね。』
蓮はその文字を見て、静かに笑った。
「……ああ、俺もだ。」
雨上がりの風が頬を撫で、
遠くで街灯が灯る。
新しい一日が、また始まろうとしていた。




