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俺、もう寝取りしません。でもヒロインが止まらない  作者: 源 玄武(みなもとのげんぶ)


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第33話 桐生里奈の思惑

 アカディア学園、三年A組。

 放課後のチャイムが鳴ってから、すでに十五分ほど経っていた。

 教室には、帰り支度をしていない数人の女子だけが残っている。

 夕陽が斜めに差し込む中、カーテンが揺れ、机の影が伸びていた。


 その静けさの中で――彼の名前が、ひそひそと飛び交った。


「……神谷蓮って、また噂出てたよね」


「やっぱり“寝取り魔”って本当なのかな」


「うん……。彼氏持ちの子が近づいたら、まーた別れたって…もう何組目よ。怖くない?」


「でもさ、家はすごい広くて静かなんだって。勉強するには最高なんだってば」


「え、それ超便利じゃん……いやいや、危険だって!」


 言葉は短く、声は低く、内容は刺すように尖っている。


 三年にとって二年生男子の噂なんて、本来どうでもいいはずだ。

 神谷蓮という名前だけは、場の空気を変える“異物”のように扱われていた。

 そんなヒソヒソ声が、教室の中心で書類に目を通していた桐生里奈の耳にも当然届いていた。


「生徒会長ですら近づかないし」


――“近づかない”。


 心臓が、小さく跳ねた。


(……近づかない?)


 里奈はページをめくる手を止めた。


 一ヶ月前。

 ホテルで蓮と一夜共に迎えたあの朝――

 胸の奥に焼きついてしまった“あの温度”は、消えるどころかむしろ強まっている。


(私だけが……知ってる。

 あの人の手の温度も、息のかかる距離も……)


 なのに、蓮の前に立つとまともに言葉が出ない。

“1年前に、無理矢理抱かれた”

その事実が、里奈の完璧な仮面に亀裂を入れてくるから。


「由奈さん、プリントまとめときました」


「ありがとう。そこに置いておいてくれる?」


 里奈の声はいつもの落ち着いたトーン。

 どこにも乱れはない。

 だが――


(……ひと月経っても、まだドキドキするなんて)


 誰にも悟られてはいけない。

 立場も、評判も、生徒会長としての威厳も。

 そして何より――

 蓮と交わした“あの関係”を、軽く扱いたくなかった。


(……忘れられるわけない。

 あれが……最後、なんかじゃない)


 胸が熱くなるのを、ゆっくりと押し殺す。


 ただ――


「……そうなのね」

 里奈は微笑んだまま、まるで興味がないかのように淡々と答える。


 しかし――

 瞳の奥で、わずかに光が揺れた。


(“静かで集中できる”……これは勉強会に最適な条件だわ)


(寝取り魔? そんなの私には関係ない。

 重要なのは――神谷くんに女が“近づかない”っていうこと)


 里奈は誰にも気づかせないように視線を書類へ戻した。

 ほんの少し、ページの端を指で触れる仕草が震えている。

 心だけ、胸の奥でふくらんでいく。

 彼女の“好意”は、誰にも悟られないまま膨張を続けていた。



 放課後の教室を出た里奈は、渡り廊下の窓際に立ち止まった。

 西日が床を淡く照らし、影が長く伸びる。

 手帳には“生徒会・期末対策会議”と書いてある。

 しかし実際に彼女が脳内で書き込んでいるのは――別のこと。


 “神谷蓮”という名前を思い浮かべていた。


(期末試験迄……あと二週間)


(生徒会長が後輩を学習支援するのは、とても自然)


(蓮くんは……人を追い返せない性格。文化祭で一緒に過ごしてみて、確信した。拒絶しない)


 ページをめくるふりをしながら、淡々と分析を積み重ねる。


(“勉強会”は正当な名目。怪しまれない)


(……そして、場所。

 問題はここよね)


 彼女のペン先が、ある一点で止まる。


(学校の図書室でもいい。

 でも……“最適”は、蓮くんの家)

 耳に残っている――放課後の噂。


 “広い”

 “静か”

 “落ち着く”

 “あの雰囲気なら勉強が捗る”


 それは、里奈にとって計算材料でしかない。


(自然な流れで蓮くんの家に誘導できるかどうか……

 カギは、彼の“思いやりの強さ”。)


 思い返す。


 ――蓮が、避けられていることに気づいて肩を落とした表情。


 ――噂をいまだに気にして、周囲に迷惑をかけまいと距離を取る姿。


(……不器用な人。

 だからこそ、あなたに近づけるのは、ちゃんと“理由”を示せる人だけ)


 右手で頬に触れる。

 夕陽に照らされた指先がほんのり熱かった。


(期末勉強会……完璧な理由。

 優等生として、私ほど自然に“誘える”人はいない)


 口元に、ごく微かな笑み。

 柔らかい、けれど内側は鋼のような意志。


(噂で皆が警戒している今――

 “空いている席”に座れるのは私だけ)


(ゆっくりでいい。確実に距離を縮める)


 手帳のページにはしっかり、こう書き込まれていた。


《勉強会 → 第一接触の再構築》

《蓮宅訪問 → 中期目標》

《“信頼獲得” → 最終段階へ》


 ペンを閉じると、ヒールの音を軽く鳴らしながら歩き出す。


 向かう先は――昇降口。

 神谷蓮が帰り支度をしている時間。

 まるで計算していたように、完璧なタイミングだった。



 昇降口は、ちょうど帰宅ラッシュが落ち着き始めたころだった。

 残っている生徒は少ない。

 その中で、ひときわ目立つ“空白”があった。


 神谷蓮の周囲だけ、生徒が自然と距離を空けている。

 靴ひもを結び直しながら、蓮は困ったように眉を寄せていた。

 自覚しているのだろう、“噂”が距離をつくっていることを。


(……ああいう顔、するんだ)


 ほんのわずか――里奈の胸がきゅっとなる。


 だが歩調は緩まない。

 生徒会長としての静かな気品を保ったまま、彼の正面に立つ。


「神谷くん、少し時間ある?」


 蓮が驚いたように顔を上げた。


「えっ……桐生先輩? 俺……何かやらかしました?」


 その反応に、里奈は小さく目を細める。

 罪悪感とも警戒ともつかない、複雑な色をした表情。

 蓮は、寝取り魔の噂のせいで一部の女子以外からは徹底的に避けられていた。


(“やらかしました?”って……)


 里奈は、ほんのさりげなく距離を近づける。

 優しく笑って首を振る。


「違うわ。ちょっと話したいことがあって」

「話……?」


 蓮は、周囲を気にするように視線をそらす。

 まるで“変な噂がまた出ないか”

と心配しているように。

 その不安を包むように、里奈は一歩、近づく。

 近づきすぎない。

 でも、蓮が自然と意識してしまうギリギリの距離。


「期末試験が近いでしょ?

 あなた、成績いいし……教えてもらえないかなって思って」

「えっ……おれ、で?」


 由奈は軽く微笑む

 その瞬間、蓮の目がわずかに泳ぐ。

 自分が“頼られる側”になることに慣れていない反応。


(うん、思った通り。

 人に頼られるの、断れないタイプ)


(第一段階、順調)


「私ね、どうしても点数を落とせない科目があるの。

 神谷くんなら得意だって聞いたわ」


「いや、その……桐生先輩なら誰でも教えてくれますよ。俺なんて……」


「でも、私は“あなた”に教えてほしいの」


 その一言だけで――

 蓮の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 里奈は気づかないふりをして、優しく続ける。


「お願いできる?」


 蓮はしばらく迷って、それから不器用に笑った。


「……先輩がそんな顔で頼むなら、断れないですよ」


 里奈の胸の奥で、静かに火が灯る。


(よかった。やっぱり、神谷くんは――)


(人を拒まない。

 拒めない人)


(だからこそ……“誰が近づくか”で結果が変わる)


 優等生の微笑みのまま、心の奥でそっと呟く。


(次は“場所”……)


(ここが、今日の本番)


 里奈は蓮のスニーカーのつま先をちらりと見てから、自然な声色で切り出す。


「勉強する場所なんだけど、神谷くんはどこが集中できる?」


 蓮は少し思案するように視線を泳がせた。


「えっと……学校の図書室とかじゃないですかね。

 生徒会の桐生先輩なら、プロジェクトルームも使えますよ」


 想定通り――と言いたくなるほど“安全な選択”。


 でも、里奈は首を横に振る。


「図書室って、期末前は混むのよ。

 人が多いと、集中しづらくない?」


「まあ……たしかに」


 蓮は素直だ。

 だからこそ、誘導がしやすい。


 一呼吸置いて、里奈は“あくまで自然に”切り札を出した。


「……神谷くんの家、静かって聞いたわ。 勉強しやすいって」


 蓮の手が止まった。

 靴べらを持ちかけていた手が、ほんの一瞬。


「……俺の家?」

「ダメかしら?」


 声は柔らかく。

 けれど、心は鋼のように一点へ向けていた。

 蓮は苦笑しながら頭をかく。


「いや、別に……ダメってことはないんですけど……」


(ほら、拒否しない)


 ただの“優しい後輩”の返答。

 でも里奈には、それが決定打。


「行く理由がないなら別だけど……

 一緒に勉強するって決めたんだし、問題はないでしょ?」

「あ、まあ……たしかに」


 蓮の表情には、

 “断ったほうがいいのでは?”という自覚と、“断ったら失礼だ”という優しさが混ざっていた。


そして――


「桐生先輩がいいなら……うちでいいですよ」


 その言葉は、里奈にとって、計算の上に落ちてきた“合格点”。


 微笑みは保つ。

 けれど胸の奥では、静かに波紋が広がる。


(よかった……

 これで、神谷くんの“日常の領域”に一歩入れる)


(勉強を口実にすれば、滞在時間はいくらでも伸ばせる)


(……あとは、距離の縮め方を自然に組み立てていくだけ)


 蓮は気まずそうに続ける。


「ただ……俺の家、何も面白いものとかないですよ。

 広いだけで」


「それがいいのよ。

 静かで、落ち着ける場所が一番」


 柔らかい声で返しながら、心では別のことを呟いていた。


(“落ち着ける場所”……

 あなたの、ね)


 蓮が靴を履き終え立ち上がると、周囲の生徒の視線が一斉に向く。


 ヒソヒソ声が漏れた。


「……桐生先輩、蓮と一緒に帰るの?」

「大丈夫なのか……寝取られたり……」


 全部聞こえている。


 でも――里奈の表情は崩れない。


 むしろ、微笑みの奥で小さな炎が静かに揺れた。


(寝取られる……?)


(違うわ。

 私は“自分から取りに行く側”)


(そのための、今日の一歩)


 蓮がドアを押し開け、外の風が流れ込む。

 夕日が二人の影を長く伸ばした。

 里奈はその横顔を見つめ、胸の中で静かに思う。


(神谷くん、あなたは今まだ気づいていないけど……)


(期末までに、私はあなたの隣にいる)


(ゆっくり、でも確実に)


 歩き出す蓮の後を、優等生の穏やかな笑顔のまま追いかける。


 だがその心には――

 甘くて、少し危険な独占欲がひっそりと芽を伸ばしていた。


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