第31話 メイドは舞台のキスを許さない
講堂の中は、昼の光よりも眩しかった。
ライトが舞台を照らし、歓声が天井を震わせる。
そのざわめきの後方――観客席の最後列で、神谷家メイドの美桜はひっそりと座っていた。
給仕の仕事を抜け出してきたせいで、まだ白いエプロンの名残が裾に見える。
その上から薄手のカーディガンを羽織り、誰にも気づかれないように腰を落ち着けた。
(心の声)
「まったく……“主役”なんて柄じゃありませんのに。
でも、どんな役でも似合ってしまうのが――神谷様なんですよね」
舞台の中央。
騎士レオンとして立つ神谷蓮。
黒髪に差すライト、整った顔立ち、真紅のマント。
その姿をライトが照らすたび、美桜の胸の奥が熱くなっていく。
「きゃー!神谷くん、かっこよすぎ!」
「あの立ち姿、マジで本物の王子じゃん!」
隣の女子たちの黄色い声が、右の耳に突き刺さる。
美桜はそっと眉をひくつかせ、膝の上のハンカチをぎゅっと握った。
(心の声)
「ええ、かっこいいでしょう。
でも、“本物の騎士”を知っているのは……この私だけです」
――そう、自分だけが知っている。
彼が素でいるときの無防備な笑顔も、眠そうに紅茶をねだる朝も、メイドとして支えてきた日々も。
それを思うと、舞台の煌めきがどこか遠く感じた。
“あの方はあの方”でいてくれれば、それでよかったのに。
物語が進むにつれ、空気は静まり返っていった。
舞台の中央、玲奈演じる“白薔薇の姫”が傷つき倒れる。
その傍らに膝をつく蓮――騎士レオン。
ライトが柔らかく二人を包み、ピアノの旋律が流れ出す。
観客全員が息を呑んだ瞬間、
蓮が玲奈の頬に触れ、
目を閉じ、唇が――
「……え?」
美桜の声が小さく漏れる。
唇が、ほんのわずかに開く。
「ちょ、ちょっと……それ、台本に――」
言葉の続きを飲み込む間もなく、
舞台は光に包まれた。
唇が触れる寸前――あるいは触れたのか。
拍手と歓声が一気に沸き起こる。
(心の声)
「演技……ですよね?
でも……朝霧さんのあの目、演技じゃない。
完全に“恋してる”目をしてました」
手の中のハンカチが、くしゃりと潰れる音。
胸が焼けるように痛い。
「旦那様……そんな顔、舞台の上でするなんて」
拍手が鳴り響く中、
美桜だけが凍りついたように動けなかった。
幕が下り、観客たちは立ち上がっていく。
拍手の音が波のように遠ざかっていく中、 美桜だけは椅子に座ったままだった。
ライトが消えかけた舞台を見つめながら、 唇の端をわずかに上げる。
「お見事です、神谷様。まるで……本物の恋人のようでしたね」
声が震えていた。
胸の奥で、何かが軋んでいる。
涙は出ない。ただ、喉の奥が苦しい。
(心の声)
「“忠誠”と“恋心”の境界線なんて、とっくに消えていたのかもしれませんね……」
拍手の残響が消える頃には、 胸の中に冷たいものだけが残っていた。
舞台裏の廊下には、まだ熱が残っていた。
衣装の音、スタッフの笑い声、打ち上げの準備。
そんな喧騒の中で――美桜は見てしまう。
玲奈が蓮に向かって微笑んでいた。
「本当にありがとう、蓮くん。最高だった」
蓮は少し照れながら笑う。
「お疲れ。朝霧もすごかったよ」
そして、彼の手が玲奈の肩に触れた。
「“お疲れ”じゃなくて、“触れないでください”と言ってほしかった。
……旦那様。あなたは、私の忠誠をどれほど軽く扱うおつもりですか?」
拳が震え、爪が掌に食い込む。
控え室の前で、呼吸が乱れる。
「ここで怒鳴ったら、メイド失格……。
本当は今すぐ、朝霧さんの笑顔を壊してしまいたい」
理性が細い糸一本で繋がっていた。
美桜は背を向け、廊下を歩き去る。
ヒールの音が乾いた床に響いた。
夜。
神谷家の屋敷。
玄関の灯がともり、蓮が帰宅する。
出迎える美桜の笑顔は完璧。
けれどその瞳の奥には、微かに光る影があった。
「おかえりなさいませ、神谷様。
……お芝居、とても素晴らしかったです」
蓮は少し照れたように頬を掻く。
「観てたのか。恥ずかしいな」
「ええ、最後まで拝見しました。“白薔薇の誓い”……忘れられません」
紅茶を注ぐ音が静かに響く。
その仕草はいつも通り――のようでいて、 わずかに硬い。
「……でも、お仕置きは必要ですね」
ティーポットを置く音が、微かに重い。
「え?」
蓮が眉を上げる。
「他の女性に、あんな“本気みたいな演技”を見せるなんて」
微笑みながら言うその声は、甘く冷たい。
「演技だよ。脚本通りの」
「演技でも、嫉妬するのが“本物”のメイドなんですよ」
蓮が苦笑して紅茶を口にする。
その瞬間、美桜の瞳がきらりと光った。
「……どうでした? 紅茶の味は」
「ちょっと苦いかもな」
「それはきっと――“私の気持ち”の味です」
一瞬の沈黙。
蓮の笑顔が、わずかに固まった。
美桜はくすりと笑い、紅茶を注ぎ足す。
「安心してください、毒なんて入っていませんよ」
「……いや、十分刺さってるよ」
二人の会話に、夜の静寂が落ちた。
深夜。
蓮に愛のムチとしてのお仕置きを終えた美桜は、廊下を歩いていた。
足音は月明かりに溶けさせながら進んでいく。
窓辺に、白い薔薇の花弁が一枚落ちていた。
舞台の名残。
玲奈が落としたものだろう。
「……綺麗。でも、棘が痛い」
美桜はそれを拾い上げ、 紅茶カップにそっと沈めた。
花弁が波紋を描きながら沈んでいく。
「次は――“演技”じゃなくて、“本気”を見せてくださいね、神谷様」
静かに、笑う。
忠誠という名の恋は、静かに確実に炎へと変わっていく。
白薔薇の香りが甘く、そして少し痛かった。




