第25話 静寂の告白
朝の校舎前。
昨日まで降り続いた雨は止み、空には淡い光が差し始めていた。
校庭の水たまりに、雲と空がゆらゆらと映っている。
その前に立つひとりの少年――日向勇気。
手には、前日の夜、玲奈が置いていった“白薔薇”が握られていた。
花弁は少し傷つき、茎は折れかけている。
それでも、どこか気高い美しさを保っていた。
「純潔……別れの誓い、か。」
勇気は呟き、かすかに笑う。
「俺に、そんな綺麗な言葉……似合わねぇよな。」
風が吹き、雨の匂いが漂う。
校舎の壁際には、昨夜の雨を受けたツタが光っている。
ポケットから取り出したのは、破れた台本の切れ端。
玲奈が残していった最後のページ。
その最後の行には――
『――本当の恋は、痛みを知ってから始まる。』
勇気は、静かに息を吐いた。
「……痛み、ね。」
苦笑しながら、彼は紙をポケットに戻す。
そして、演劇部の部室の扉を開けた。
中には誰もいない。
静寂。
だけど、そこには確かに“玲奈の気配”が残っていた。
彼女が座っていた椅子。
机の上の白いカップ。
台本の端に書かれた小さなハートマーク。
「……まだ、いるみたいだな。」
勇気はぼそりと呟き、机に指先で触れる。
冷たい。
でも、そこにあった“温度”は、確かに残っていた。
(心の声)
「昨日……あんなこと、言わなきゃよかった。
どうしてあんな風にしか、伝えられなかったんだ。」
勇気は目を伏せ、手の中の白薔薇を見つめた。
その白さは、まるで彼の後悔を映しているようだった。
――時は少し遡る。
中学三年の夏。
セミの声が響く放課後の通学路。
夕焼けが赤く、電柱の影が長く伸びている。
「なあ……一緒に帰るか?」
勇気が不器用に言った。
玲奈は一瞬、目を丸くする。
「えっ? いいの?」
「別に……暇だから。」
そっぽを向く勇気。
玲奈は少し笑って、「うん」とうなずいた。
その日、二人は並んで歩いた。
影が重なって、伸びて、ゆっくりと夜に溶けていく。
――あの日が、始まりだった。
でも、勇気はわかっていた。
あれは“恋の始まり”じゃなかった。
(心の声)
「あの頃、俺は里奈のことばっかり見てた。
玲奈の笑顔は、慰めみたいで……安心できた。
でも、好きだったわけじゃなかったんだ。」
玲奈はいつも明るかった。
冗談を言って笑って、でも人の気持ちには誰より敏感で。
そんな彼女を“恋人”にしたとき――
勇気は、自分の中の“弱さ”を隠せる気がした。
「誰かに愛されてる俺」が、ほしかったんだ。
「誰かを愛する俺」じゃなくて。
その小さな違いが、後に大きな傷になることを、そのときの勇気はまだ知らなかった。
夏祭りの夜。
人混みの中で、玲奈が金魚すくいをして笑っていた。
「見て、勇気! 二匹も取れた!」
「……お、おう。すげぇな。」
照れ隠しに笑う勇気。
玲奈は金魚鉢を両手で抱えて、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を、勇気は「好きだ」と錯覚していた。
――違う。
今になってわかる。
玲奈が好きだったのは「人」じゃなく、「愛されたかった自分」だった。
「俺、ほんとに、ひどい男だったよな……。」
勇気は今、白薔薇を見つめながら呟く。
あの夏の、あの夕焼けの色が、なぜか胸を刺してくる。
夕方。
雨上がりの空が、淡いオレンジに染まっていた。
街路樹の葉の先から、まだ小さな水滴が落ちる。
勇気はスマホを握りしめ、深く息を吸う。
「玲奈、話がしたい。」
送信ボタンを押す瞬間、心臓が跳ねた。
既読がつくまでの数秒が、やけに長い。
やがて、ぽつりと返ってくる。
「……わかった。」
ほんの一文。それでも、勇気の胸が少しだけ熱くなる。
――まだ、話せるんだ。
放課後。
演劇部の部室前。
窓ガラスには雨の雫が線を描き、床の水たまりが光を反射していた。
勇気はその前に立ち、息を整える。
やがて、扉の向こうから玲奈が現れる。
濡れた髪を耳にかけ、どこか遠い目をして。
玲奈:「……何の話?」
勇気:「昨日のこと、まだ終わってねぇだろ。」
玲奈は俯き、淡々と答える。
「終わってるよ。……私の中では。」
勇気:「俺、やっと気づいたんだ。」
「俺、お前を……使ってた。里奈に振り向いてほしいために、嫉妬させるために……最低なことしてた。」
玲奈は静かに目を閉じる。
その表情は、悲しみよりも、どこか安堵に似ていた。
「……知ってたよ。」
勇気:「え?」
「でも、それでもいいって思った。
“いつか信じてもらえる”って、信じてたの。」
勇気は言葉を失う。
その一言で、すべてを見透かされていたことを悟った。
勇気:「どうして……どうして俺なんかを」
玲奈:「好きだったからだよ。」
彼女の声が震えていた。
それでも、その瞳はまっすぐ勇気を見ていた。
逃げ場なんて、どこにもない。
(心の声)
「なんで今さら……こんなに綺麗なんだよ。」
勇気は手を伸ばしかける。
けれど、その距離はもう――埋められない。
玲奈:「もういいよ、勇気。私ね、あの日からずっと願ってた。
“本当に好きな人に、ちゃんと好きって言えるように”って。」
勇気:「……それは、俺じゃないってことか。」
玲奈:「ううん。違うよ。
――“あなたじゃなかった私”を、やっと許せるようになったの。」
勇気は俯き、拳を握る。
「……遅すぎた、か。」
玲奈は微笑んだ。
涙を拭いながら、優しく頷く。
「うん。でも、ありがとう。
ちゃんと向き合ってくれて。最後に、それだけで十分。」
彼女は背を向ける。
歩き出したその背中を、勇気は追えなかった。
白薔薇の花びらが一枚、玲奈の後ろ姿に落ちる。
勇気は拾い上げようとして、途中で手を止めた。
茎だけが残っている。
(心の声)
「俺の手には、もう何も残ってねぇんだな。」
玲奈の姿が夕焼けに溶けて消える。
風が吹き、白薔薇の茎が乾いた音を立てて折れた。
勇気:「……ごめん。ほんとに、ごめん。」
誰もいない校舎の前で、勇気はただ、その言葉を呟いた。
返事は、どこからも返ってこない。
だけどその沈黙こそが、玲奈の“最後の優しさ”のように思えた。
校舎裏の芝生に、昨夜の雨がまだ残っていた。
雲の切れ間から光が差し、虹がうっすらと見える。
勇気はその下で、白薔薇の花びらを握りしめていた。
「玲奈……俺、やっとわかったよ。
“好き”って、相手を傷つけたくないって思うことなんだな。」
その声に応えるように、風が吹く。
そして――後ろから柔らかな声。
「やっと言えたね、その言葉。」
振り向くと、美月が立っていた。
淡いブルーのカーディガンに、濡れた前髪を払いながら。
「……見てたのか?」
「うん。玲奈ちゃん、昨日すごく泣いてたよ。
でも、“勇気くんのこと、嫌いにはなれない”って。」
勇気の胸が締めつけられる。
「なあ、美月。俺……もう何をどうすればいいか、わかんねぇよ。」
美月はそっと白薔薇を見つめた。
「ねえ勇気くん。“愛されたい”と“愛したい”って違うんだよ。」
「……違う?」
「“愛されたい”人は、自分を満たしたくて誰かを求める。
でも、“愛したい”人は、誰かの痛みを抱きしめたいって思うんだ。」
勇気は目を閉じた。
あの雨の中で泣き笑いしていた玲奈の顔が浮かぶ。
――「好きだったからだよ。」
勇気:「……俺、ようやくわかった気がする。」
白薔薇を握り直し、空を見上げる。
「“好き”ってさ、もう取り返せない痛みのことなんだろうな。
でも、それでも、伝えたいんだ。」
美月は微笑む。
「うん。だから――ちゃんと、伝えてあげて。
だって、“物語”はまだ終わってないでしょ?」
勇気は静かに笑った。
「……そうだな」
彼は白薔薇の花びらを放つ。
風に乗って、花びらは空へ舞い上がった。
陽光を浴びながら、虹の中へ溶けていく。
(心の声)
「終わりじゃない。
まだ俺の中で、物語は続いてる。
今度こそ、自分の言葉で――伝えよう。」
その瞳に映るのは、もう雨雲ではなく、澄んだ青空だった。
――静寂の告白、その始まり




