第23話 白薔薇の誓い
講堂の裏は、朝から熱気に満ちていた。
カーテン越しに差し込むライトの光が、かすかに埃を照らしていた。
舞台袖を走る音、照明の焦げた匂い、誰かが落とした台本の紙音。
文化祭本番――演劇部の舞台『白薔薇の誓い』。
その主役・朝霧玲奈は、鏡の前で自分の姿を見つめていた。
「……大丈夫。泣かない、泣かない」
そう口にしても、鏡の中の彼女は少しだけ震えていた。
真っ白なドレスの裾をつまむ手が、微かに強張っている。
舞台袖では他の演劇部員たちが慌ただしく動いている。
小道具の確認、台詞の最終チェック――そして、観客席のざわめき。
その中に、彼の声が聞こえた気がした。
「……勇気」
鏡の奥、映ったのは日向勇気。
恋人であり、今日の舞台で“別れを告げる恋人役”を演じる男子。
「……衣装、似合ってるじゃん」
いつもの軽い調子の声。けれど笑顔は硬い。
玲奈も同じだ。笑ってみせるが、その奥にあるのは――焦げるような痛み。
そこへ神谷が入ってくる。
「緊張してる?」
神谷蓮。黒の軍服衣装を着た青年は、穏やかな笑みを浮かべていた。
舞台では彼が“婚約者”役。玲奈と並ぶもう一人の主役だ。
「……少しだけ。でも、ちゃんと終わらせなきゃ」
「終わらせる?」
神谷が首をかしげる。
だがその言葉に反応したのは、遠くから聞き耳を立てていた勇気だった。
(終わらせるって……俺とのこと、なのか?)
照明が一段落ちる。
会場が静まり返る。
緞帳の向こう、観客のざわめきが遠くなった。
「開演まで、あと十秒!」
誰かの声。
玲奈の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
幕が上がる直前、玲奈と勇気の視線が交錯する。
――始まる。
これが、私たちの“終わり”の舞台。
舞台上。
真っ白な背景に、光が降る。
「白薔薇の城に生きる貴族の娘」と「貧しい騎士」。
二人の身分違いの恋――古典劇《白薔薇の誓い》。
玲奈はドレスの裾を優雅に翻し、観客に微笑んだ。
その姿は、まるで本当に“姫”のようだった。
勇気が剣を手に登場する。
拍手が上がる。
だが、彼の視線は玲奈だけを見ていた。
「お嬢様、これ以上は……お会いできません」
「嫌です。あなたがいない世界なんて、息もできないわ」
台詞を交わすたびに、過去の記憶が重なっていく。
笑い合った放課後。言葉にできなかった小さな喧嘩。
勇気の心の奥で、現実と芝居の境界が曖昧になっていく。
「演技じゃない……俺は、今も――まだ、玲奈が……」
玲奈の瞳が揺れた。
まるでその思考を読んだかのように。
「約束して。たとえこの世界が終わっても、私を忘れないって」
玲奈の声は震えていた。
その瞬間――勇気は、セリフを一拍遅らせてしまう。
「……俺は、ずっと、お前を――」
その言葉が詰まる。
ほんの一瞬の沈黙。
観客は気づかない。けれど玲奈は気づいた。
彼が“役”ではなく、“勇気”として苦しんでいることを。
(ねえ、勇気……演技に戻って。じゃないと――壊れちゃうよ)
玲奈の表情がわずかに硬くなる。
(勇気の心の声)
「演技じゃない……俺、本気で……まだ、玲奈が――」
玲奈は、彼を見つめ返した。
“女優”の覚悟を宿した瞳で。
そして、ほんの少し微笑んだ――“ありがとう”とでも言うように。
舞台後半。
神谷演じる“新しい婚約者”とのシーン。
神谷:「君は、まだ彼を想っているのか?」
玲奈:「……違うの。ただ、心がまだ追いつかないだけ」
その声の震え。
それはもはや演技ではなかった。
客席では誰も息をしていないかのように静まり返る。
勇気は袖でその様子を見ていた。
手の中のグローブが、音を立てて軋む。
(勇気の心の声)
「そんな顔、俺の前では見せなかったくせに……」
「……あの涙、本物だよね」
客席の桐生里奈が小声で言う。
隣の美月が頷く。「玲奈さん……なんで、そんな顔するの……」
舞台上の玲奈は、神谷の胸に顔を埋めて泣いていた。
照明が彼女を包み、観客は“女優・朝霧玲奈”に魅了される。
だが勇気には――それが“別れの涙”にしか見えなかった。
(玲奈……まさか、これが“終わり”のつもりで……?)
拳を握る手が震える。
唇を噛む。
でも、舞台は進む。止められない。
そして、運命のクライマックス。
静寂の中、玲奈がゆっくりと勇気に近づく。
衣装の裾が床を滑る音だけが響く。
玲奈(役):「……もう、好きじゃないの」
その声は震えていた。
まるで、自分の心に言い聞かせるように。
(勇気の心の声)
「……演技、だよな。これ、全部……演技なんだよな……?」
彼女の瞳に光る一粒の涙。
照明が反射し、それは“演出”のように美しく見えた。
だが、勇気だけは知っている。
あの涙は――本物だ。
勇気の喉が塞がる。
次のセリフを思い出せない。
沈黙が、会場全体を包む。
玲奈が微笑んだ。
“ヒロイン”としての笑顔。
でも勇気には、それが“さよなら”の笑顔に見えた。
照明が暗転し、ラストシーン。
白薔薇の花弁が舞い落ちる中――
神谷が玲奈に歩み寄る。
シナリオ上では、“唇を寄せるだけ”の演出。
けれど本番、玲奈は一歩、前へ出た。
観客が息をのむ。
唇が、ほんの一瞬――触れた。
「えっ……!?」
「今、本当に……?」
観客がざわめく。
その瞬間、勇気の視界が真っ白に塗りつぶされた。
「……嘘だろ」
音が遠のき、拍手の音だけが現実に戻していく。
舞台の中央では、神谷と玲奈が“美しい恋人たち”として抱き合っていた。
カーテンコール。観客、総立ち。
拍手と歓声が鳴り止まない。
「最高の演技だったな、玲奈」
「ありがとう、神谷くん」
その笑顔を見た瞬間――
勇気の中で、何かが音を立てて壊れた。
舞台が終わったあと。
廊下には祝福と歓声があふれていた。
集合写真のフラッシュ。SNSの投稿。
みんなが笑っている。
――勇気以外、全員が。
「お疲れ、玲奈。ほんと、すごかったよ」
「ううん……神谷くんがいたから」
そのやりとりを背に、勇気は舞台裏を出ていく。
手に持った台本が汗で滲んでいた。
(勇気の心の声)
「……これが、終わりなんだな」
玲奈はその背中を見つめた。
声をかけようとして――できなかった。
喉の奥で、言葉が詰まる。
代わりに、かすかに口が動く。
「……お疲れさま、勇気くん」
誰にも届かないほど小さな声で




