第14話 ピンクの約束
夕暮れ時のデパートは、まるで昼と夜のあいだに浮かぶ箱庭のようだった。
ガラスの壁に反射した金色の光が、床に淡く流れ、二人の足元を照らす。
「ねぇ、神谷くん。手、つないで歩こう?」
桐生里奈――通称“恋愛脳モード”の彼女は、小さく笑いながら右手を差し出す。
その仕草は自然で、けれどどこか挑発的でもある。
まるで“試している”ような――そんな気配がした。
神谷蓮は、一瞬だけ視線を彼女の手に落とし、それからわずかに距離を取る。
「……転ぶなよ」
「もう、またそれ? “転ぶなよ”って、遠回しに“照れてます”って言ってるようなものでしょ?」
「どんな理論だよ、それ」
「恋愛脳理論。科学的根拠ゼロの、恋の勘だもん」
悪びれずに言うその声が、あまりに軽やかで、蓮は苦笑をこぼした。
里奈はくすっと笑って、ガラスに映る蓮の横顔を見上げた。
その笑顔は、まるで恋そのものみたいに無邪気で、危うい。
一階の雑貨フロアには、空気が柔らかな香りに満ちていた。
アロマ、キャンドル、ハンドクリーム――
まるで小さな幸せを瓶詰めにしたような空間だ。
「この香水、試していい?」
「いいけど、つけすぎるなよ」
「もー、神谷くんって、いっつも心配性。ほら……どう?」
淡いピンク色の瓶から、甘くほろ苦い香りが漂う。
里奈は手首に少し吹きかけて、蓮の前にそっと差し出した。
「この香り、どうかなぁ? 神谷くんの好きな人がつけてたら……どう思う?」
「……たぶん、落ち着かなくなるな」
「えっ、それって……照れてるってことじゃん?」
「いや、単に香りが強いだけだ」
「ふふっ、そういう言い訳、ずるい。ほんとはドキドキしてるくせに。 」
里奈はにやりと笑う。
その顔は悪戯っぽいのに、どこか純粋だ。
まるで恋という感情を“まっすぐ信じてる”少女みたいに。
蓮は誤魔化すように、隣の棚から小さなチューブを取った。
「……乾燥してただろ。これ、ハンドクリーム。手、綺麗だから」
「っ……! え、それって……告白レベルじゃない?」
「いや、保湿の話だ」
「そんなの、女子に通じるわけないよ。そういうとこ、好き」
軽く言われた“好き”の一言に、蓮は息を止める。
冗談のようで、冗談じゃない。
彼女の言葉には、笑顔の裏に“心の重さ”が混じっている。
―だからこそ、蓮はあくまで平静を装う。
「……おまえ、観察力だけは鋭いな」
「えへへ、恋してるからね」
里奈はハンドクリームを受け取ると、蓮の手に自分の指先を重ねた。
ほんの一瞬――けれど、甘くて痛いほどの接触。
笑う彼女の頬が、夕陽に照らされてほんのり桃色を帯びた。
蓮は、その笑顔が“危険だ”と頭ではわかっていた。
けれど、心はすでに少しだけ――甘い香りに酔っていた。
ファッション雑貨のフロア。
店内には、春色の小物たちが並んでいる。
「わぁ……これ、可愛い……!」
里奈が手に取ったのは、桜の形をした淡いピンクのヘアピンだった。
光に透ける花弁が、彼女の髪の色と不思議なほど馴染んで見える。
「似合うな。……買えばいい」
「えへへ、じゃあ、神谷くんも」
「は?」
「おそろいにしよ。恋人っぽくて、好きなの」
「俺にヘアピンは無理だろ」
「バッグにつければいいの。ほら、これなら自然!」
「……どうしてそういう発想が出てくるんだ」
店員が微笑ましそうに見ている。
里奈は頬を染めて笑いながら、そっと蓮の視線を受け止めた。
彼女の笑顔につられて、蓮もわずかに口角を上げた。
――けれど、その奥で彼は思う。
(……この子を放っておくのは、危険だ)
笑顔の下に、どんな孤独や不安が隠れているのか。
蓮には、それが痛いほどわかってしまうのだった。
上階のシネマゾーン。
チケットカウンターの前で、里奈は迷いなく言った。
「『星に願う恋人たち』、これにしよ!」
「ホラーとかアクションはないのか?」
「恋は、一番怖いホラーですよ?」
「……おまえに言われると説得力がある」
「でしょ?」
上映が始まると、館内は静かな光と音に包まれた。
スクリーンの中で、二人の恋人が運命に引き裂かれ、それでも“また会いたい”と願う物語が進んでいく。
上映中、物語が進むにつれて里奈の表情が変わっていく。
やがて終盤。
恋人を失ったヒロインが、夜空を見上げて星に願う――「もう一度、会いたい」。
その瞬間、里奈の肩が小さく震えた。
「……ばかだよ、こんなの」
涙が頬を伝う。
蓮は黙って、ハンカチを差し出す。
「……ねぇ神谷くん」
「ん?」
「もし私が……消えたら、また見つけてくれる?」
「そんな前提、いらない」
「……そっか。そうだよね」
彼女は涙の跡をぬぐいながら、微笑んだ。
その笑顔は悲しくて、でも確かに“生きている”と思えた。
最上階のレストラン。
窓の外には、都会の夜景がきらめいている。
「ねぇ、さっきの映画のヒロイン、少し私に似てなかった?」
「……ちょっとな」
「やっぱり。だって、最後に“愛してる”って言われて笑ったでしょ。私も、あんなふうに笑いたい」
「……」
「ねぇ神谷くん。私も、誰かを好きになったら、あんなふうに笑えるのかな」
「……もう笑えてるだろ」
「そうかな?」
「今、笑ってる」
「……それ、反則」
ただグラスの水を揺らしながら、彼女の横顔を見つめる。
里奈は窓の外を見つめていた。
彼女の瞳に、夜景の光が映り込む。
ほんの一瞬――前世の“狂気”がその奥で揺れた気がした。
蓮は微かに息をつき、いつもの落ち着いた声で言った。
「……笑ってろ。似合うから」
「……うん。今、ちゃんと褒めたね?」
「無意識だ」
「それが一番ずるいんだよ」
今の彼女は、確かに“幸せそう”だった。
それが、蓮にとって救いでもあり、恐怖でもある。
デパートを出ると、夜の空気に雨の匂いが混じっていた。
静かな雨粒が、街灯の光をまとって落ちてくる。
「わ、降ってきた……!」
「ほら、傘」
蓮が差し出す黒い傘。
里奈がそっと寄り添うように腕を絡めた。
「……ねぇ神谷くん、今日すごく楽しかった」
「そうか」
「うん。……もう、ひとりで帰りたくないの」
雨音がふたりの間を満たす。
蓮は一瞬だけ目を閉じた。
この言葉――
それはただの甘えか、それとも危ういサインか。
(……このまま帰すのは、危険だ)
彼は静かに息を吸って、決断する。
「今日は、一緒にいよう」
「……えっ、本当に?」
「安全のためだ」
「……そっか。じゃあ、夢の中でも守ってね?」
「……努力する」
「うれしい。ねぇ、神谷くん」
「ん?」
「もう少しだけ……デートの続き、しない?」
蓮は少しだけ笑って、傘の持ち手を握り直した。
「……雨、止んだらな」
「約束ね?」
「約束だ」
雨音のリズムが、二人の歩幅をそっと合わせる。
街灯の光が滲み、夜の色が少しだけ優しくなる。
その夜、二人の距離はほんの少し――
心のどこかで“触れた”ような気がした。
里奈は笑った。
その笑顔は、世界のどんな光よりも無垢で、
同時に――どこか切なかった。
しばらくすると外の雨がやみ、夜が深まっていく。




