第12話 恋の尾行は職務です
秋晴れの朝。
神谷家の屋敷前。金色に光る門扉の前で、ひとりの少女が生垣の影にしゃがみこんでいた。
桐生由奈。名門校《アカディア学園》の生徒会長。
腕章がきらりと光る。だがその目は――完全に“恋するストーカー”のそれだった。
「……よし、今日も風紀点検、開始します」
(違う。完全に違う。これは“風紀”じゃなくて“神谷蓮観察任務”だ)
由奈(恋心)「いいえ……これは視察です。職務です。間違ってもストーカーなどではありません」
由奈(理性)「そう、これは生徒の風紀確認。休日外出の服装規定チェックです」
由奈は自分の中で理性と恋心という2つの人格を戦わせながら、屋敷の門前に立つ二人を見つめた。
神谷蓮と、メイドの美桜。
二人は休日のデートに出かけようとしていた。
美桜は今日、黒いメイド服を脱ぎ、柔らかな生成りののワンピースに着替えていた。
風に揺れる栗色の髪。品の良い微笑。
横を歩く神谷は、どこかぎこちなく、目線のやり場に困っている様子。
由奈(理性):(仲が良いのは、良いこと。ええ、健全な主従関係ですね)
由奈(恋愛脳):(神谷くん、彼女の手、取った……!? はあぁぁっ♡)
由奈(理性):(やめろ! その反応は風紀違反だ!)
「……っ、に、似合ってる……」
>由奈(理性):(おい。声が漏れてるぞ)
由奈(恋愛脳):(だってぇ、神谷くんの横顔、朝日に照らされて綺麗すぎるんだもん♡)
由奈(理性):(黙れ! 職権乱用だ、やめろ!)
彼女の瞳は真剣そのもの。
しかし、その頬にわずかに上気した赤が差しているのは、職務熱心の証……ではない。
変装はなし。
だが、由奈の隠密スキルは異様に高く、蓮と美桜には気づかれない。
(“生徒会長の観察眼+恋の執念”の合わせ技)
“隠れる”ことに関しては、プロの域に達していた。
二人が歩き出す。
神谷はどこかぎこちなく、主従の距離感を守ろうとしている。
それを、美桜が柔らかくリードする。
――その仕草に、由奈の胸が小さく痛む。
神谷が不意に笑った。
それだけで、由奈の時間が一瞬止まる。
「笑ってる……神谷くんが。あの人が、笑ってる……」
由奈(理性):(美桜さんは良い人だ。メイドとして、彼を支えているだけだ)
由奈(恋愛脳):(支えるのは、あの女じゃなくて私がいいぃぃ!)
由奈(理性):(うるさいっ、黙れ変態人格!)
そんなやり取りの中、
由奈はふと――自分が“神谷”に尊厳を完膚なきまでに破壊されて今のような二重人格との複雑な関係になったことを思い出す。
“壊された”はずなのに、なぜまだ惹かれるのか。
その理由を、理性では説明できない。
蓮がふと、美桜に何かを囁く。
美桜がくすっと笑う。
その一瞬を見ただけで、由奈の心臓は暴走を始めた。
「――やばい、鼓動が……速い……!」
由奈(恋愛脳):(恋のドラムロールってやつだね♡)
由奈(理性):(恋の終焉チャイムにならないよう祈れ)
そんな漫才のような心の掛け合いをしながら、由奈は影から影へと完璧な尾行を続けた。
まるでスパイ映画の主人公のように――いや、恋するただの一般女子高生として。
舞台は商店街。
焼き立てパンの香り、カフェの賑わい、街のざわめき。
休日の街は幸福の粒で満ちている。
その中に、神谷と美桜の姿。
彼らはカフェテラスの席に座って、メニューを見て笑い合っていた。
由奈は、その三軒先のベンチに座っていた。
「……尾行、完璧です。これが生徒会長の観察力」
由奈(恋愛脳):(うううっ、神谷くん、カフェデートなんて……!)
由奈(理性):(一般的な交流です。恋愛ではありません)
由奈(恋愛脳):(彼が笑ってるの、全部あの女のせい!)
由奈(理性):(せいって言うな! 功績だ!)
カップの紅茶を口に運びながら、由奈の心臓はドクドクと音を立てた。
胸が、痛い。
でも、痛みの奥で小さな熱が生まれる。
美桜が注文を迷って、神谷がさりげなく助け舟を出す。
二人の間に、柔らかい空気が流れる。
――あの優しい表情。
由奈は息を呑んだ。
「神谷くんが……あんな顔で笑うなんて」
由奈(理性):(あれは良い変化だ。彼が心を開いている証拠)
由奈(恋愛脳):(……でも、それが私じゃないのが、寂しいんでしょ?)
由奈(理性):(……違う、私はそんな感情で動いて――)
由奈(恋愛脳):(じゃあ、どうして泣きそうなの?)
頬を伝う一筋の涙。
由奈は慌ててサングラスの奥を押さえる。
(あの頃の私は、彼を許せなかった。
でも――壊されたはずの心が、まだ彼を求めてる)
胸の鼓動が抑えられない。
他の女性と仲良くしている光景が、なぜか胸を締め付け――
同時に、妙な高揚感を呼び起こす。
「……なんで、苦しいのに、嬉しいの……?」
> 由奈(恋愛脳):(ねぇ由奈、気づいた? 興奮してるんだよ)
由奈(理性):(や、やめろ……!)
由奈(恋愛脳):(もっと彼が他の女と仲良くするように仕向けよう。)
由奈は両頬を叩いた。
理性が崩れそうになる瞬間、目の前の神谷が優しい声で笑う。
「美桜、こういうの、好きなんだな」
「はい。……神谷様と一緒だと、なんでも楽しいです」
静かな言葉。
それだけで、由奈の胸がズキリと鳴った。
理性の由奈が必死に抵抗。
しかし、視線は神谷から離せなかった。
「……だめ。もう、あの頃の私は戻らない。
だけど、あの笑顔を――もう一度、私に向けてほしい」
風が吹き抜ける。
テラス席で笑う二人を、由奈はただ見つめる。
彼の幸福を願いながら、同時にその幸福に嫉妬する。
視界の端が滲む。
由奈(心の声):「彼女はきっと、彼を救える。
……でも、それが、こんなに痛いなんて。」
カフェを出た二人は、公園へ。
並んで歩く姿がまるで絵画のように穏やかで。
由奈はその背を追いながら、理性と恋心の板挟みに喘いでいた。
由奈(理性):(もうやめよう。これ以上見たら壊れる)
由奈(恋愛脳):(見て。壊れなきゃ、恋じゃない)
神谷が美桜の髪についた落ち葉を取る。
その瞬間、由奈の中で“何か”が弾けた。
「……ずるい、そんな顔……私には一度も向けてくれなかったのに……!」
理性が叫んだが、恋愛脳が勝った。
気づけば、由奈は二人に近づいていた。
ベンチの陰に隠れながら、声を押し殺してつぶやく。
「神谷くん……私のこと、忘れたの……?」
彼女の中に、もうひとりの“由奈”が言う。
かつて神谷によって植え付けられた、恋に狂った人格。
恋愛脳:(ねぇ、奪っちゃおうよ)
理性(やめろッ! 彼はもう苦しんでるの!)
恋愛脳:(じゃあ、救うために抱きしめればいい。愛は罪じゃない)
視界が揺れた。
気づけば、手の中で小さなハンカチが握り潰されていた。
その布には、神谷が以前落としたボタンが縫い付けられている。
由奈はそのボタンを見つめ、小さく呟く。
「……神谷くん。あなたはきっと、救われるべき人。
でも、私も――あなたに救われたい」
涙が落ちた。
まるで贖罪のように。




