第11話 フィルムの裏側
朝の校舎は、妙にざわついていた。
ざわ…ざわ…。
階段の踊り場を通り過ぎるたび、誰かの視線が背中に刺さる。
「おい、見た? 掲示板の……」
「うそ、マジで? あれ神谷と……!」
「やば……部長の彼女じゃん。」
言葉の断片が、針のように耳に刺さる。
僕――神谷蓮は、教室の前で立ち止まった。
壁の掲示板に貼られていたのは――
1枚の写真。
夕焼けの屋上。
風に髪をなびかせる水瀬先輩と、唇を重ねる僕。
(……嘘だろ。)
見覚えのある構図だった。
あの瞬間。
まるで世界が止まった、あの一秒。
誰かが“撮っていた”。
「やっぱり神谷、やったんだ……」
「部長さん。ざまぁァァァ」
「水瀬先輩も見る目あるなぁ」
聞こえないふりをしても、噂は止まらない。
――真実よりも、“面白い話”の方が速く広がる。
僕は、写真を破り取った。
だが、遅かった。
すでに学園中に――拡散されていた。
昼休み。
写真部部室のドアを開けると、空気が凍っていた。
中川賢治。
部長であり――あの人の、恋人だった男。
机の上には、破り捨てられたプリントの断片。
「……やったな、神谷。」
「違います。俺は――」
「何が違う? これは証拠だろ。」
中川は、笑っていた。
だけど、その笑みは氷のように冷たかった。
「お前が撮ったのは写真じゃない。“俺の世界”を壊したんだ。」
「違う。俺はただ、“本当の彼女”を――」
「うるさいっ!!」
机が揺れ、プリントが床に散らばった。
部室の隅で、水瀬先輩が小さく息をのむ。
「お前の“本当”なんて要らない。
俺が撮った“恵”が、俺の真実だ。」
中川はそれだけ言って、出て行った。
静寂。
残されたのは、僕と――沈黙したままの水瀬先輩。
「……先輩。」
「ごめん。私、何も言えない。」
その声は震えていた。
笑おうとして、笑えない。
その姿が、僕の胸に深く刺さった。
(――俺は、撮っただけだ。奪うつもりなんてなかったのに。)
外の空は、もう夕暮れ色に染まり始めていた。
放課後。
屋上は静かだった。
風が、フェンスを揺らしている。
その中で、水瀬先輩がひとり、柵にもたれていた。
金色の髪が、風に揺れている。
「……来たのね。」
「放っとけませんよ。あんな噂、誰だって辛い。」
先輩は笑わなかった。
ただ、視線だけを夕陽に向けたまま。
「……私ね、あの日、わざと撮らせたの。」
「え?」
「彼(中川)とは、もう上手くいってなかったの。
でも、終わらせる理由も勇気もなかった。
あなたの“レンズ”があれば、変われる気がしたの。」
「じゃあ――俺を、利用したんですか?」
「……うん。最低でしょ。」
先輩は苦く笑った。
「でも、あの瞬間だけは――“本気”だったの。」
沈む太陽が、二人の影を長く伸ばす。
その境界線が、まるで“罪”と“赦し”を分けるように赤く光っていた。
「俺、あのとき……少しだけ嬉しかったんです。
誰かが俺を信じて、笑ってくれた気がして。」
「……信じたかったの、私も。」
彼女の声は、風に溶けて消えた。
しばらくの沈黙。
遠くから運動部の掛け声が聞こえる。
日常の音が、逆に二人を隔てる。
「ねぇ神谷くん。」
「はい。」
「“撮る”って、残酷ね。」
「……ええ。たぶん、“真実”ほど人を傷つけるものはない。」
彼女はそっと目を閉じた。
「それでも撮って。私を、ちゃんと写して。」
僕は頷いた。
シャッターの音が、夕暮れの中に小さく響いた。
夜。
部室の奥の暗室。
赤いランプの光が、静かに滲んでいる。
中川は無言で、現像液をかき回していた。
浮かび上がってくるのは――神谷と水瀬のキス写真。
「……そうか。あの日の俺も、ただ“作ってた”だけなんだな。」
呟く声に、感情はなかった。
ただ虚ろな響きだけが残る。
現像液の中で、写真がゆらゆらと揺れる。
中川は、その液を掬って手にかけた。
赤い光が反射し、血のように見える。
「俺が写した“恵”は、俺の所有物じゃなかった。
……でも、お前のレンズも、俺の心も、同じように歪んでる。」
破られた写真の切れ端が床に散る。
誰も、その音を聞く者はいない。
一方その頃。
神谷は、噂の“撮影者”を突き止めていた。
一年の男子。
面白半分で、屋上の陰からスマホで撮った、と笑っていた。
「お前、それで誰かの人生壊すってわかってんのか!」
「え、だって……ウケるじゃないっすか。」
拳が震えた。
今にも殴りそうになったその瞬間――
「やめて。」
水瀬先輩が腕を掴んでいた。
「暴力で“真実”は戻らない。」
「でも、こいつは……!」
「いいの。もう、十分壊れたから。」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
写真展の準備が始まった。
写真展では、「光と影の一瞬」をテーマに展示を行うことになっていた。
部長・中川は無言で作業を進める。
その背中に、以前の覇気はない。
神谷は迷った。
――“あの写真”を出すべきか。
水瀬が笑う、ほんの一瞬を切り取った1枚。
そこには、作り物ではない“人間の表情”が写っていた。
「……出すのかよ、マジで。」
後輩たちがざわつく。
「やめとけって。あれ、噂の……」
「出したらまた叩かれるぞ。」
その声を遮るように、中川が口を開いた。
「……出せ。」
「……え?」
「俺が撮ったどんな写真よりも、“真実”だから。」
誰も、言葉を続けられなかった。
中川の目は赤く腫れていた。
それでも、まっすぐだった。
写真展当日。
体育館の隅、写真部展示スペース。
白い壁に、無数の写真が並ぶ。
来場者たちが笑い、感嘆し、そして立ち止まる。
その中で――
一枚だけ、静かな光を放つ写真があった。
それは、夕陽の中で微笑む水瀬恵。
髪が風に揺れ、瞳の奥に小さな影が宿っている。
水瀬は、その写真の前に立っていた。
「……これが、私。」
彼女の隣に、神谷が立つ。
少し離れて、中川も来ていた。
三人の視線が、交わる。
「なぁ、神谷。」
中川の声は静かだった。
「俺、お前に嫉妬してたんだ。
でも今はわかる。お前が撮ってたのは、俺が見ようとしなかった“恵”なんだな。」
「……それでも、俺はあなたを超えたとは思いません。」
「負け惜しみか?」
「尊敬ですよ。」
中川は、ふっと笑った。
短く、だが本物の笑みだった。
三人の間に、静かな和解の空気が流れた。
観客のざわめきの中、三人だけが時間を止めていた。
夕暮れ。
文化祭の喧騒が遠ざかる校舎の屋上。
風が冷たくなっていた。
空は金から群青へと変わり、雲の縁が光る。
「ねぇ、神谷くん。」
「はい。」
「次に撮るときは、どんな私を撮りたい?」
「うーん……“笑ってないあなた”。」
「……なんで?」
水瀬が小首をかしげる。
「笑わなくても、ちゃんと綺麗だから。」
風が髪を撫でた。
水瀬は少しだけ目を細めて笑う。
「ほんと、ずるいわね。」
神谷はシャッターを押した。
“カシャッ”――
その一音が、空に溶けた。
『“綺麗”とは、誰のための言葉か。
答えはまだわからない。
でも、撮ることで――少しだけ、誰かを救える気がした。』
レンズの向こう、夕陽の中の彼女は、もう“誰かの恋人”ではなく、
“ひとりの人間”として、確かにそこにいた。
雨上がりの夜だった。
外の木々が濡れ、街灯の光が滲む。
神谷蓮は屋敷の洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗っていた。
鏡の中の自分が、じっと見返している。
濡れた黒髪が頬に張り付き、目の奥に何かが沈んでいた。
――水瀬恵。
彼女の名前を思い出すたび、胸の奥が痛む。
奪うつもりなんてなかった。ただ、惹かれた。
気づいたら、彼女を中川先輩から奪っていた。
「……結局、俺はまた……誰かを壊しただけじゃないか。」
声に出した瞬間、心の奥にヒビが入るようだった。
喜びなんてなかった。
残ったのは、勝利の残滓と、後味の悪い沈黙だけ。
机の上には、小説『愛と裏切りの庭』の内容を書き殴ったノート――
ページをめくっても、「水瀬恵」という名前はない。
「……違う。これは筋書きにない出来事だ。俺は“脚本”から外れたはずだ。」
言い聞かせるように呟く。
けれど、鏡の中の自分が――どこか、笑ったように見えた。
「……今、俺が笑った?」
蓮は眉をひそめ、鏡を覗き込む。
すると、鏡の中の“もう一人の自分”が唇を動かした。
『水瀬恵は存在しただろう?』
声は低く、湿った響きを持っていた。
まるで鏡の奥の空気が震えているようだった。
「……いや、彼女はこの物語にはいない。」
『違う。いたんだよ。生徒会長・桐生由奈に“女性を抱く”姿を見せつけた場面があったろう?』
「あれは……ただの描写、誰かの比喩だ。」
『いや、あれが“水瀬恵”だ。つまりお前は――前世の脚本どおりに、また一人を奪った。』
空気が重くなった。
蛍光灯の白がわずかに明滅し、洗面所の音が遠ざかっていく。
神谷は息を呑んだまま、鏡の中の“自分”と視線を交わした。
「……俺は脚本から外れた。
前世とは違う。これは“今の俺”が選んだことだ。」
『それで? 結果はどうだ。男から奪って壊しただろう?』
「……っ。」
『それが“寝取り役”の宿命だ。壊し、奪い、そして一人になる。』
頭の奥で、何かが裂ける音がした。
鏡の中の空間が広がり、白い光と影が交錯する。
蓮はその中に吸い込まれたような錯覚を覚えた。
「俺は……そんなつもりじゃなかった。」
「だが結果は同じだ。“奪う”という結末が残った。それが宿命だ。」
“宿命”――その言葉に、胸がひどくざわつく。
「違う! 俺はもう、誰も奪いたくない!」
「けれど、彼女はお前を見て笑った。
奪われる痛みより、愛される幻想を選んだんだ。
お前がそれを与えた。壊す形で、な。」
鏡の奥で、水瀬恵と桐生由奈の姿が淡く浮かぶ。
柔らかな笑み。
そして――壊れた瞬間の表情。
「やめろ……! 見せるな!」
その瞬間、鏡が白く曇った。
まるで呼吸しているように、静かに揺れている。
神谷は手を伸ばし、指先で曇りを拭った。
だが映ったのは、ただの自分の顔。
もう“鏡の神谷”はいなかった。
「……消えた、か。」
けれど胸の奥で、声がまだ響いていた。
“水瀬恵”の笑顔が脳裏に浮かぶ。
奪った過去は消せない。




