第10話 光を掴む者
放課後の光は、少しだけ金色を帯びていた。
窓から差し込む西日の中、僕――神谷蓮は、
カメラのレンズを磨きながら静かにため息をついた。
(……まさか、こんな形で“勝負”をすることになるなんて)
廊下を歩けば、耳に入るのはどこも同じ噂。
「聞いた? 神谷が部長の彼女を撮るってさ」
「あの神谷だし、またトラブルでしょ」
「しかも“キスを賭けた勝負”とか、やばくない?」
誰かが笑い、誰かがため息をつく。
僕の名前は、どうも“修羅場請負人”として有名らしい。
――望んだ覚えはないんだけどな。
――尾ひれのついた噂は、学園中を軽やかに飛び回っていた。
自分の名前が“誰かの恋を壊す”という文脈で囁かれるのは、これが初めてじゃない。
いや、もう慣れた。
だけど慣れたふりをしても、胸の奥はざらついたままだ。
写真部部室。
しばらく部室の扉が開く音がした。
部室の空気が、一瞬で変わる。
立っていたのは、水瀬恵――三年、写真部の副部長。
そして、部長・中川賢治の恋人。
彼女は、いつもより露出の多い服装で現れた。
黒のタンクトップに、薄いカーディガン。
ミニスカートの裾から覗く白い太ももが、蛍光灯の下で柔らかく光っている。
神谷
(……いや、これ勝負どころか事件じゃないですか?)
思わず目を逸らした。
「神谷くん。今日から撮影、始めましょうか。」
「え、いきなりですか?」
「ええ。“本気の勝負”って言ったでしょう?」
……はい、覚えてます。
“私を一番綺麗に撮れた方が、正しい”。
その“賭け”が、学校中に広まってるんですよ。
「どう? 撮りやすいでしょ?」
「い、いや、撮りやすいとかそういう問題じゃ……!」
「“綺麗に撮る”んでしょ? だったら、本気で撮って。」
その笑みは、まるで挑発だった。
「ところで、賢治さんは?」
僕が尋ねると、水瀬先輩は少し視線を落とした。
「先に屋上に行ってる。
……たぶん、構図を考えてるのよ。」
言葉の端に、少しだけ棘があった。
(まだ、仲直りしてないのか)
あの日の“キスをめぐる言い争い”から、二人の間には微妙な空気が流れていた。
けれど先輩は、それを隠すように明るく笑う。
「さ、行きましょうか。時間、限られてるし。」
「……はい。」
カメラを肩に掛け、僕らは屋上へ向かった。
神谷は無言でカメラを構える。
光、角度、表情、風。
すべてを瞬時に読み取る。
「俺が狙うのは、“作られた綺麗さ”じゃなくて、“素の恵さん”です。」
「……へえ。口が上手いわね。」
そのやり取りを、誰かが見ていた。
中川賢治。
腕を組み、無言のまま二人を見つめる。
その目に宿るのは、嫉妬の炎。
「神谷……どこまで本気でやるつもりだ?」
「勝負ですから。本気でやりますよ。」
神谷の声は静かだった。だが、その静けさが余計に挑戦的に響く。
撮影場所を探して、二人は校舎を回った。
廊下の窓から差す午後の日差しが、床に淡い光の帯を描く。
「ねぇ神谷くん、“綺麗”って何だと思う?」
「うーん……。本人が気づかない瞬間、かな。」
「本人が、気づかない瞬間?」
「そう。人って、自分を一番よく見てるようで、意外と見えてない。」
「……やっぱり、あなた危険ね。」
先輩は少し微笑んでから、
窓の外――グラウンドを走る生徒たちに視線を向けた。
「ねぇ神谷くん。
“撮られる”って、不思議な感覚よね。
相手の目を通して、自分がどう見えるのかが怖くもあり、楽しみでもある。」
「……俺は逆ですよ。
“撮る”のが怖いです。」
「え?」
「だって、その人の一瞬を、切り取って残してしまうんですよ。
その瞬間の“本心”が写ってしまう。」
「……なるほど。」
先輩は少し目を細めて笑った。
その笑顔の奥に、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
「そういう言葉、聞く人によっては惚れるわよ。」
「いやいや! そんな意図じゃ――」
慌てる神谷に、水瀬はいたずらっぽく指を立てて黙らせた。
「静かに。ほら、今の光、いいわ。」
カメラのシャッターが鳴る。
“カシャッ”
光を掴む音。
レンズ越しの水瀬は、確かに“綺麗”だった。
だが、神谷は違和感を覚えた。
笑顔の奥に、ほんの一瞬――影が差したのを見逃さなかった。
(……あの目。何かを隠してる。)
一方、廊下の奥。
スマホを握りしめる中川の指が、白くなるほど力がこもっていた。
「……撮らせない。恵は、俺の“被写体”だ。」
神谷はその視線に気づかないまま、夕方の光を追い続けた。
「勝負に勝つためじゃない。本当の彼女を、俺が見つけてやる。」
部室の空気は、緊張と熱を帯びていた。
翌日。
中川の撮影風景を、偶然廊下から見かけた。
彼は完璧主義者だった。
構図、光、ポーズ――全て計算されている。
「顔、もう少し右。
そう、顎を引いて。」
水瀬先輩はモデルのように従う。
けれど、その表情は少し硬い。
(……完璧すぎる。
でも、“らしさ”が消えてる)
僕は廊下の影に隠れながら、そっと呟いた。
「勝負は、まだ終わってない。」
机の上には、撮りためた写真。
水瀬を中心に、神谷と中川がいる。
二人の作品が並ぶ。
どちらも“綺麗”だった。
ただし、まったく違う意味で。
中川の写真――完璧。
光の当たり方も、角度も、表情も。まるで雑誌の一頁。
神谷の写真――柔らかい。
笑顔の端に残る寂しさや、風にほどける髪の瞬間まで、すべてが生々しく生きている。
「……どっちの私が“本当の私”なんだろう。」
水瀬が呟いた。
「俺には、どっちも“本当”だと思います。
でも、俺は後者を撮りたい。」
「後者?」
「見てる人の心に残る“生きてる表情”です。」
水瀬は静かに神谷を見る。
その瞳の奥が、かすかに揺れた。
「……あなたの言葉、ずるいわね。心に残るなんて。」
夕陽が校舎を赤く染める頃、神谷は言った。
「最後に一枚、撮らせてください。」
「場所は?」
「屋上です。風が強いけど、今日の光がいい。」
風が吹くたび、彼女の髪が揺れ、光が輪郭をなぞる。
神谷はレンズ越しに息を呑んだ。
「無理に笑わなくていいですよ。ありのままで。」
「……神谷くんの言葉、写真みたいね。見た人の心に残るから。」
その瞬間――
“カシャッ”
沈む太陽が、二人の間に長い影を落とした。
暗室の中、赤い光が静かに揺れている。
現像液に浮かび上がる二枚の写真。
中川の作品は、完璧な構図に支配された“像”。
水瀬の笑顔は、美しいが冷たい。
神谷の写真は、柔らかい光の中で微笑む彼女。
風にほどける髪の一筋まで、呼吸をしているようだった。
「……神谷くんの写真、“私の心”が写ってる。」
中川は無言だった。
手が震えている。
それを見て、水瀬が言葉を探す。
「賢治……」
「やめろ。何も言うな。」
中川は立ち上がり、静かに扉を開けて出て行った。
その背中には、敗北よりも深い“焦燥”があった。
沈みゆく空の下、二人きりになった屋上。
風が冷たい。
「……勝負、終わったね。」
「ええ。でも、なんか変ですね。」
「何が?」
「俺、勝ち負けよりも……撮ってる時間が楽しかった。」
「ふふ、やっぱり危険ね、神谷くん。」
「またその台詞……。俺、何かしましたっけ?」
「したわよ。」
水瀬は一歩近づき、彼の胸に手を置いた。
「“私を綺麗にした”の。」
「……え?」
「あなたのレンズを通して、初めて自分を見れたの。
だから――ありがとう。」
そのまま、彼女は微笑んだ。
けれど、次の瞬間――
その笑みがゆっくりと近づき、神谷の唇を奪った。
短く、柔らかく、でも確かに。
神谷は動けなかった。
時間が止まる。
「……え、ちょ、ちょっと、今の――」
「ご褒美。
“本気で撮ってくれた”カメラマンへのね。」
風が吹き抜ける。
沈む夕陽が、二人の影をひとつに重ねた。
――その瞬間を、誰かが見ていた。
暗闇の階段の上、震える指。
スマホを握りしめ、唇を噛みしめる中川賢治。
「……神谷。お前、ほんとに……!」
崩れ落ちた。
スマホのシャッター音だけが、夕暮れに響いた。




