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第九十話「天使族のトラウマ」

 

 クロウの予言から数日後、俺は魔法大学の商店街を歩いていた。


 仲間たちが情報収集をしてくれている間、俺は日用品を買いに出かけたのだ。

 天使族の魔神についての情報は、まだ十分に集まっていない。


 でも、対策を考える時間はまだあると思っていた。

 その考えが、甘すぎた。


 商店街の中央広場を歩いている時、突然空気が変わった。

 まるで、神聖な力が降り注いでいるかのような感覚。


 いや、それだけではない。

 周囲の空気そのものが、俺の肺を圧迫するような重圧を放っている。

 魔力?

 いや、それを遥かに超えた、神々しい力だ。


 そして、俺の前に光が現れた。

 光の中から、この世のものとは思えないほど美しい女性が姿を現す。


 背中には純白の翼が広がり、その一枚一枚の羽根が神聖な光を放っている。翼は12枚もあり、それぞれが天界の星々の輝きを宿しているかのようだった。


 長い銀髪が風に揺れるたびに、天界の香りが漂ってくる。碧眼は宝石のように輝き、その瞳の奥には宇宙の深淵が広がっているかのようだ。


 白銀の衣装は、人間の技術では決して作り出せないほど精緻で、その布地一つ一つに天界の文字が刻まれている。

 額には黄金の環が輝き、それは天界の最高位である証だった。


 その存在感は、まるで神話の中から抜け出してきたかのようだった。

 いや、神話以上だ。

 彼女の前では、この世のあらゆる存在が卑小に感じられる。


 間違いなく、天使族だった。

 そして、その圧倒的な存在感から察するに、魔神クラスの実力を持つ存在だ。


 いや、魔神の中でも最高位の存在だ。

 周囲の人々が、彼女の神々しさに圧倒されて膝をついている。


 まるで、神の前に跪くかのように。

 いや、跪くことすら許されていないかのように、地面に額を擦りつけている者もいる。

 彼女の神性に触れただけで、涙を流している者もいた。


「初めてお目にかかります、タクヤ様」


 天使が、この世のものとは思えないほど上品で美しい声で話しかけてきた。

 その声には、清らかな鈴の音と、天上の聖歌隊の歌声が混じっているかのようだった。

 一言一言が、まるで神託のように心に響いてくる。


 美しい顔立ちだが、その目には絶対的な使命感と、冷たい光が宿っている。

 それは、慈悲も憎しみもなく、ただ純粋に使命を遂行する者の目だった。


「妾の名は、アズラエル」

「天使族の魔神にして、天界十二天翼の筆頭」

「永劫の時を生き、天界の秩序を守護する者」

「世界の調和を司る裁定者の長にございます」


 彼女の言葉には、格式高い品格が漂っている。

 まるで、貴族の中の貴族、いや、それを遥かに超えた存在が話しているかのようだった。その口調は、数百年以上の時を生きた者だけが持つ、絶対的な威厳に満ちている。


 俺は、身構えた。

 ついに来たのか。

 クロウの予言通り、天使族の魔神が俺の前に現れた。


「何の用だ?」


 俺が警戒しながら聞く。


「俺に何の恨みがある?」

「恨み、でございますか?」


 アズラエルが優雅に、まるで舞踏のように首を傾げる。

 その仕草すら、芸術作品のように美しい。

 天界の貴族が持つ、数百年の歴史が育んだ優美さが、その一挙手一投足に宿っている。


「そのような低俗な感情を、妾は抱いたことがございません」

「妾に許されているのは、ただ天界の意志を執行すること」

「個人的な感情など、この身には一片たりとも存在いたしません」

「それこそが、裁定者たる者の在り方でございます」

「ただ、あなた様の存在が、この世界の調和を乱しておられるのです」

「悪影響?」


 俺が反抗的な態度を取る。


「そんなの知らないな」

「俺は何も悪いことをしていない」

「あなた様が意識しておられなくとも、それは厳然たる事実でございます」


 アズラエルが冷静に、しかし絶対的な確信を持って答える。

 その声には、一切の迷いがない。

 まるで、宇宙の真理を語っているかのように。


「異世界から転移なさった存在は、世界の理を乱します」

「運命の糸が絡まり、本来あるべき未来が歪められる」

「特に、あなた様のように多くの運命の糸を変えてしまわれる存在は」

「その影響は、やがて世界全体の崩壊を招きます」

「何千年、何万年という時を経て、世界は滅びへと向かうのです」

「故に、この世界の調和のため、世界の未来のため」

「誠に遺憾ながら、消滅していただかねばなりません」


 アズラエルの言葉には、一切の迷いがなかった。

 まるで、絶対的な真理を語っているかのように。


 これは、個人的な恨みではない。

 世界の秩序を守るための、神聖な使命なのだ。

 彼女にとって、俺を殺すことは、悪事ではない。


 それは、正義なのだ。

 だが、俺には俺の正義がある。


「俺には、守るべき家族がいる」


 俺が必死に訴える。


「仲間もいる」

「そんな理由で、俺を殺すなんて許せない」

「お気持ちは理解いたしかねますが、やむを得ません」


 アズラエルが優雅に、しかし冷徹に答える。


「妾の使命は、世界の調和を守ること」

「あなた様個人の幸福よりも、世界全体の秩序が優先されます」

「それが、天界の法でございます」

「あなた様を消すことが、その使命の一環でございます」

「それだけのこと」

「どうか、お恨みにならないでくださいませ」

「これは、わたし個人の意志ではございません」

「天界の意志、世界の意志でございます」


 アズラエルが優雅に手を上げる。

 その動きは、まるで神聖な儀式のように美しかった。

 天界の舞踏を思わせる、完璧な所作。

 でも、その美しい動作の中に、絶対的な殺意が込められている。


 その瞬間、俺は瞬間移動で距離を取った。

 でも、彼女の動きは俺の想像を遥かに超えていた。

 いや、超えていたなんてものではない。


 俺の瞬間移動先を、完璧に予測している。

 まるで、未来が見えているかのように。


 いや、それ以上だ。

 俺が移動した瞬間、アズラエルは既にそこにいた。時間を超越したかのような速度で。


「世界の調和のため」


 アズラエルが優雅に、まるで祈りを捧げるかのように呟く。


「御身は、ここで終わりを迎えられるのです」

「これは裁定であり、救済でございます」

「どうか、安らかに」


 俺が移動した瞬間、アズラエルの腕が俺の胸を貫いていた。その腕は、まるで聖なる剣のように、俺の体を容易く貫通した。


「がはっ」


 俺の口から、大量の血が溢れ出る。

 胸に、大きな穴が開いていた。心臓を貫通している。

 ドーナツ状態。

 クロウの予言通りの状態だった。


「御身の犠牲、世界の歴史に永遠に刻まれるでしょう」


 アズラエルが無表情で、しかし荘厳に言う。


「これで、世界の調和が保たれます」

「御身の魂が、天界で安らかに眠れますように」

「天界の祝福を」


 アズラエルが俺から腕を引き抜こうとする。

 俺の意識は、急速に薄れていく。でも、最後の力を振り絞って、俺は造形魔法を発動した。


「『土の精霊よ、我が最後の意志に従い敵を貫け。造形魔法:残息庵尖』」


 俺の手から、鋭い土の槍が現れる。全魔力を込めた、最後の一撃。


 アズラエルの肩を貫通した。


「まあ」


 アズラエルが優雅に、しかしわずかに驚いたように呟く。


「この状態で反撃なさるとは」

「御身の生への執着、見事でございます」

「人間の持つ生命力の強さ、改めて認識いたしました」


 でも、俺の攻撃は所詮その程度だった。

 アズラエルの肩に開いた傷は、まるで幻だったかのように瞬時に消えていく。


 高位の自動回復。いや、それ以上の力だ。

 まるで、最初から傷など存在しなかったかのように。

 天使の体は、人間とは根本的に異なるのだ。


「では、ごきげんよう」


 アズラエルが優雅に一礼する。

 その一礼すら、完璧な作法に則っている。


「御身の魂に、天界の永遠の祝福がありますように」

「どうか、来世では平穏な人生を」


 アズラエルが光の中に消えていく。

 まるで、最初から存在しなかったかのように。


 俺は、地面に倒れ込んだ。

 胸の穴から、血が止まらない。

 意識が遠のいていく。


 俺は、愛する人たちの顔を思い浮かべた。

 エリカの笑顔。

 ルナの優しい表情。

 クロエの照れた顔。

 リオネルの無邪気な笑い声。

 仲間たちとの楽しい時間。


 そして、雪菜の狂気に満ちた愛情。彼女も、俺の人生の一部だった。

 すべてが、走馬燈のように過ぎていく。


「ごめん、みんな」


 俺が小さく呟く。


「守れなくて、ごめん」


 俺の意識は、闇の中に沈んでいった。




 ◇ ◇ ◇




―リリー視点―


 わたしは、たまたま商店街を歩いた。

 タクヤに会えるかもしれないと思って、ぶらぶらとお散歩していた。

 最近のわたしは、タクヤへの愛情がどんどん大きくなっていて、一日中彼のことばかり考えてる日も増えていた。友達としての愛情を超えて、もっと深い感情になっているのかもしれない。

 でも、タクヤには奥さんたちがいるから、わたしの気持ちは複雑である。


 そんなことを考えながら歩いていると、突然変な音が聞こえた。

 ドスンという、何かが落ちるような音。


 いや、それだけじゃない。

 何かが、地面に叩きつけられたような音。

 そして、誰かが苦しそうに呻く声。

 血の匂い。


「何かな?」


 わたしが音のした方向に駆け寄った。

 商店街の中央広場で、誰かが倒れていた。近づいてみると、それはタクヤだった。


 でも、何かおかしい。

 タクヤの胸に、大きな穴が開いている。

 心臓があるべき場所に、空洞が広がっている。


 血まみれで、息も浅く、意識もない。血が、地面に大きな水溜まりを作っている。

 赤い、赤い、真っ赤な水溜まり。

 タクヤの体から流れ出る、生命の色。


「冗談かな?」


 わたしが困惑する。


「ドッキリ?」

「面白くないかな」


 わたしは笑おうとした。

 でも、笑えなかった。


 タクヤの体から流れる血の量。

 その血の赤さ。


 胸の穴から見える、タクヤの内部。

 骨が見える。

 内臓が見える。

 心臓があるべき場所に、何もない。


 空洞。


 ただの空洞。


「あはは」


 わたしが乾いた笑いを漏らす。


「冗談だよね、かな?」

「タクヤ、起きてかな」

 

 でも、タクヤは動かない。

 血の匂いが、わたしの鼻を刺激する。


 鉄の匂い。

 生臭い匂い。

 死の匂い。

 現実の匂いだった。


「嘘だよね?」


 わたしが震える声で言います。


「こんなの、嘘だよね?」


 でも、血の匂いと、タクヤの苦しそうな表情は、紛れもない現実だった。

 わたしの手が、震え始める。

 膝が、ガクガクと震える。

 呼吸が、乱れ始めた。


「あ、あ、あ」


 わたしの呼吸が乱れ始めた。

 過呼吸。

 息が吸えない。空気が入ってこない。

 肺が痙攣している。

 心臓が、バクバクと音を立てている。


「タクヤ、タクヤ、タクヤ」


 わたしがタクヤの名前を繰り返す。

 でも、返事は帰ってこなかった。

 呼吸も、とても弱々しい。というか、呼吸してるかどうかも分からない。


 胸が動いていない。

 心臓が動いていない。


 死んでる?

 死んでるの?

 タクヤが?


「死なないでほしいかな」


 わたしが震えながら言う。

 でも、息が続かない。


「ひっ、ひっ、ひっ」


 過呼吸が止まらない。

 わたしの視界が、どんどん狭くなっていく。

 まるで、世界が終わるかのように。世界が、真っ暗になっていく。


 タクヤしか見えない。

 血まみれのタクヤしか。


「生きて、ひっ、生きて、ひっ」


 わたしはタクヤの手を握りしめた。

 冷たくて、力が感じられない。まるで、死体のように冷たい。

 このまま、わたしの大切な人が死んでしまうなんて。


 嫌だ。


 嫌だ。


 嫌だ。


「誰か、ひっ、ひっ」


 わたしが大声で叫ぼうとしますが、過呼吸で声にならない。


「誰か、ひっ、助けて、ひっ」

「タクヤが、ひっ、死んじゃう、ひっ」


 わたしの声が、震えている。

 過呼吸で、まともに話せない。


 でも、通行人たちは怖がって近づいてこない。

 血まみれのタクヤを見て、関わりたくないと思っているんだ。

 みんな、遠くから見ているだけ。

 誰も、助けてくれない。


「お願い、ひっ、ひっ」


 わたしが懇願します。


「誰でもいいから、ひっ、助けて、ひっ」


 でも、誰も来ない。

 みんな、怖がっている。


 わたしの涙が、タクヤの顔に落ちる。タクヤの顔が、どんどん青白くなっていく。

 唇が、紫色になっていく。


 死んでいく。


 わたしの目の前で。

 わたしの大切な人が。

 現実で。

 秒単位で。


「やだ、やだ、やだ、ひっ、ひっ」


 わたしが繰り返す。

 過呼吸が止まらない。

 息ができません。

 視界が歪んでいく。


 でも、タクヤはもっと苦しんでいるんです。いや、もう苦しんでいないかもしれない。

 意識がないから。

 死んでいるから。


 その時、足音が聞こえてきた。

 誰かが、わたしたちの方に走ってくる。


「タクヤ!」


 アリシアの声だった。

 16歳の天才少女が、息を切らしながら駆け寄ってきた。


「何があったんですか?」


 アリシアがタクヤの状態を見て、顔を青くする。いや、青くなるどころじゃない。

 完全に血の気が引いている。


「これは、致命傷」

「心臓が完全に」

「いえ、心臓が存在していません」

「助けられる、ひっ、かな?」


 わたしが必死に聞く。

 過呼吸で、まともに話せない。


「アリシア、ひっ、ちゃん、お願い、ひっ」

「タクヤを、ひっ、助けて、ひっ」

「お願い、ひっ、死なせないで、ひっ」


 アリシアが集中する。

 彼女の魔力が、空気を震わせるほど強力である。


 でも、その表情は厳しい。

 これは、普通の治癒魔法では治せないレベルの傷なのだ。


「『光の精霊よ、生命の源よ、我が願いに応えて命を救え」


 アリシアが高位の治癒魔法を詠唱する。


「上級治癒魔法:リジェネレーション』」


 強力な光がタクヤを包む。

 わたしは、固唾を呑んで見守った。


 過呼吸が止まらない。

 でも、必死にタクヤを見つめる。


 お願い。

 助かって。

 生きて。

 死なないで。

 アリシアの魔法で、タクヤが助かるでしょうか。


 光が消えると、奇跡が起こっていた。

 タクヤの胸の穴が、ゆっくりと塞がっていく。

 傷が再生していって、元の状態に戻っていく。。


 心臓が、再生していく。

 肋骨が、元に戻っていく。

 皮膚が、覆っていく。


 そして、タクヤの心臓が再び動き始めた。


 ドクン。


 ドクン。


 生命の音。


「生きてる、ひっ、ひっ」


 わたしが感動で泣いてしまった。


「タクヤ、ひっ、生きてる、ひっ」


 過呼吸が、まだ止まらない。


 でも、タクヤが生きていることが分かって、少しだけ落ち着いた。

 いや、落ち着いていない。全然落ち着いていない。

 わたしの体は、まだ震えている。

 過呼吸も、止まらない。


 でも、タクヤが生きている。

 それだけで、十分だった。


「まだ意識は戻りませんが、命は助かりました」


 アリシアが安堵する。

 でも、その表情はまだ厳しい。


「でも、完全に回復するまで、安静にする必要があります」

「下手をすると、後遺症が残るかもしれません」

「ありがとう、ひっ、アリシア、ひっ、ちゃん」


 わたしがアリシアに感謝する。


「あなたの、ひっ、おかげで、タクヤが、ひっ、助かった」

「当然のことです」


 アリシアが上品に答える。


「タクヤくんは、大切なクラスメイトですから」


 わたしたちは、タクヤを女子寮に運ぶことにした。男子寮よりも、女子寮の方が看病しやすいからだ。

 わたしとアリシアで、タクヤを支えながら歩く。


 タクヤは意識がないまま、でも確実に生きている。

 わたしの過呼吸は、まだ完全には止まっていない。

 でも、タクヤの温かさを感じて、少しずつ落ち着いてきた。


 いや、嘘だ。落ち着いていない。

 わたしの心臓は、まだバクバクと音を立てている。

 手は、まだ震えている。

 タクヤの手を握るわたしの手が、止まらずに震えている。


 女子寮のわたしの部屋に、タクヤを寝かせた。

 ベッドに横たわるタクヤの顔は、まだ青白いですが、呼吸は安定している。


「いつ意識が戻るのかな?」


 わたしがアリシアに聞く。

 まだ、声が震えていた。

 過呼吸は、少しずつ治まってきたけど、完全には止まっていない。


「分かりません」


 アリシアが答える。


「でも、生命力は戻っていますから、そう遠くないうちに」

「ただ、目を覚まさない可能性も」

「わたし、ここで待ってるかな」


 わたしが決意する。


「タクヤが目を覚ますまで、ずっとそばにいるかな」

「絶対に、離れないかな」

「一秒も、離れないかな」


 わたしは、タクヤから目を離すことができなかった。

 また、あの穴が開くんじゃないか。

 また、血まみれになるんじゃないか。

 また、死んでしまうんじゃないか。


 そんな恐怖が、わたしを襲う。

 タクヤの胸を見つめた。

 上下している。

 呼吸している。

 生きている。


 でも、また止まるんじゃないか。

 また、心臓が消えるんじゃないか。


 そんな恐怖が、わたしの心を支配する。


「わたしも時々、様子を見に来ます」


 アリシアが協力してくれる。


「何かあったら、すぐに呼んでください」


 アリシアが帰った後、わたしはタクヤのベッドの横に座った。

 彼の手を握って、温かさを感じる。生きている証拠だ。


 でも、手を離すのが怖い。

 離したら、タクヤが消えてしまうんじゃないか。

 離したら、また死んでしまうんじゃないか。

 そんな恐怖が、わたしを支配する。


 わたしの手が、タクヤの手を強く握りしめる。

 爪が、タクヤの手に食い込むくらい、強く。


「タクヤ」


 わたしが小さな声で話しかける。


「わたしがいるかな」

「一人じゃないかな」

「もう、どこにも行かせないかな」

「絶対に、行かせないかな」


 わたしは、タクヤの回復を信じて待つことにした。彼が目を覚ますまで、わたしがそばにいてあげる。わたしの愛する人を、絶対に一人にはしない。


 誰にも、渡さない。

 死にも、渡さない。


「早く目を覚すかな」


 わたしがタクヤの手を握りながら祈る。でも、手を離すことはできなかった。


 もう、離したくない。

 ずっと、一緒にいたい。


 わたしの中で、何かが変わっていくのを感じた。タクヤを失いそうになって、わたしの心に新しい感情が芽生える。


 それは、恐怖。

 そして、執着。

 タクヤは、わたしのもの。


 誰にも渡したくない。

 エリカにも、ルナにも、クロエにも。

 誰にも。

 タクヤは、わたしだけのもの。


 そう思ってしまう自分がいた。


 夜が更けていく。

 わたしは、タクヤの横でずっと見守り続けた。


 彼の呼吸音を聞きながら、安心感を覚える。

 息をしている。

 心臓が動いている。

 生きている。

 それだけで、十分だった。


 いや、十分じゃない。

 もっと確認したい。

 何度も何度も、タクヤの胸に手を当てる。心臓の鼓動を確認する。


 生きている。

 まだ、生きている。

 わたしの大切な人は、まだここにいる。

 まだ、一緒にいることができる。


 でも、もう離したくない。

 ずっと、一緒にいたい。

 わたしは、そのことに感謝しながら、タクヤの回復を待ち続けた。


 きっと、明日には目を覚ましてくれる。そして、また一緒に笑い合うことができる。

 でも、もう離れさせない。


 タクヤは、わたしのもの。

 わたしだけのもの。

 誰にも渡さない。

 死にも渡さない。


 わたしは、そう心に誓った。




 ◇ ◇ ◇




 深夜、わたしがうとうとしていると、タクヤが小さくうめいた。


「うん」


 タクヤが苦しそうに顔をしかめる。


「タクヤ?」


 わたしが慌てて声をかける。

 手を離していなくて、本当に良かった。


「気がついた?」


 タクヤの目が、ゆっくりと開いた。

 意識が戻ったんだ。


「リリー?」


 タクヤが弱々しい声で言う。


「俺は、生きてるのか?」

「生きてるかな」


 わたしが涙を流しながら答える。

 でも、涙が止まらない。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。ただ、涙が溢れて止まらない。


「アリシアちゃんが助けてくれたかな」

「そうか」


 タクヤがほっとする。


「死んだと思った」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの体が震えた。

 死んだと思った。タクヤが、死を覚悟していた。

 わたしの目の前で、死にかけていた。


「死なないでかな」


 わたしがタクヤの手を強く握ります。


 痛いくらい、強く。


「わたし、タクヤがいなくなったら、どうしていいか分からないかな」

「もう、あんな怖い思いしたくないかな」


 わたしの声が震える。


 あの時の恐怖が、鮮明に蘇ってきた。

 タクヤの胸に開いた穴。

 心臓が消えていた。血まみれの姿。

 青白くなっていく顔。冷たくなっていく手。


 過呼吸。震える体。

 誰も助けてくれない。

 死んでいくタクヤ。


 すべてが、トラウマになっていく。

 わたしの心に、深く深く刻み込まれていく。


 もう、消えない。

 一生、消えない。


「ごめん、心配かけて」


 タクヤが申し訳なさそうに言う。

 わたしは、タクヤが無事で本当に良かったと思った。


 命が助かって、意識も戻って。

 これで、また一緒にいることができる。わたしの愛する人と、もっと時間を過ごすことができる。


 いや、もう離れない。

 ずっと、一緒にいる。片時も、離れない。


「タクヤ」


 わたしが勇気を出して言う。


「わたし、あなたのことが好きかな」

「友達として以上に、好きかな」

「愛してるかな」

「誰よりも、愛してるかな」


 タクヤが驚いたような顔をする。

 でも、今は言わなければいけないと思った。

 タクヤを失いそうになって、わたしは自分の本当の気持ちに気づいた。


 わたしは、タクヤを愛している。友達以上の感情で。

 この気持ちを、隠しているわけにはいかない。


 そして、もう離したくない。

 タクヤは、わたしのもの。

 わたしだけのもの。


「リリー」


 タクヤが困ったような顔をする。

 優しい、でも申し訳なさそうな顔。

 その表情を見た瞬間、わたしは分かった。

 

 タクヤは、わたしの気持ちを受け入れてくれない。


「俺には、妻たちがいる」


 タクヤが優しく、でもはっきりと言った。


「エリカ、ルナ、クロエ」

「俺の心は、もう彼女たちで満たされているんだ」

「リリーの気持ちは嬉しい」

「でも、これ以上誰かを愛することはできない」

「ごめん」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの心が凍りついた。


 拒絶。


 断られた。


 わたしの愛が、受け入れられなかった。


「分かってるかな」


 わたしが震える声で答える。


「でも、言いたかったかな」

「わたしの気持ちを知っていてほしかったかな」


 でも、心の中では、何かが壊れていくのを感じた。

 タクヤは、わたしを愛してくれない。

 妻たちがいるから。


 エリカ。

 ルナ。

 クロエ。


 彼女たちが、タクヤを独占している。

 わたしの入る隙間がない。


「それに」


 わたしがタクヤを見つめる。

 その目には、何か暗いものが宿り始めていた。


「もう、離さないかな」

「タクヤは、わたしのものかな」

「誰にも、渡さないかな」

「たとえタクヤがわたしを愛してくれなくても」

「たとえタクヤが拒絶しても」

「わたしは、タクヤを守るかな」

「二度と、あんな目に遭わせないかな」


 タクヤが困ったような顔をする。


「リリー、それは」

「大丈夫かな」


 わたしが微笑む。でも、その笑顔は、どこか歪んでいました。


「わたしは、ただタクヤを守りたいだけかな」

「それだけだかな」


 でも、心の中では、違う感情が渦巻いていた。


 タクヤを失いかけた恐怖。

 タクヤに拒絶された絶望。

 そして、タクヤを独占したいという欲望。


 すべてが混ざり合って、わたしの心を支配していく。


 タクヤはわたしを愛してくれない。

 でも、それでもいい。


 わたしがタクヤを愛していれば、それでいい。

 わたしがタクヤを守っていれば、それでいい。

 わたしがタクヤのそばにいれば、それでいい。


 たとえ、タクヤが望まなくても。


「ありがとう、リリー」


 タクヤがわたしの手を握り返してくれる。


「君の気持ち、嬉しく思う」

「でも、俺たちは友達だ」

「これからも、良い友達でいてほしい」


 友達。

 その言葉が、わたしの心に突き刺さった。


 友達。ただの友達。


 わたしは、タクヤにとって、ただの友達。

 でも、わたしにとってタクヤは、すべて。


 わたしの世界の中心。

 わたしの生きる理由。

 わたしの愛する人。


「うん、友達だね」


 わたしが微笑む。

 でも、心の中では、違う言葉を呟いていた。


 違う。


 友達じゃない。


 タクヤは、わたしのもの。わたしだけのもの。

 誰にも渡さない。


 エリカにも。

 ルナにも。

 クロエにも。

 誰にも。


「でも、わたしはずっとそばにいるかな」


 わたしがタクヤの手を握りながら言う。


「タクヤを守るかな」

「二度と、あんな目に遭わせないかな」

「誰にも、タクヤを傷つけさせないかな」

「たとえ天使が来ても」

「たとえ神が来ても」

「わたしが、タクヤを守るかな」


 タクヤが不安そうな顔をする。

 でも、わたしは微笑み続けた。


 これは、愛です。タクヤへの、純粋な愛。

 ただ、少しだけ、形が歪んでしまっただけ。

 タクヤを失いかけて、わたしの心が壊れてしまっただけ。


 でも、それでもいい。

 この歪んだ愛でも、タクヤを守ることができるなら。

 わたしは、タクヤの回復を見守り続けることにした。わたしの愛する人のそばで、ずっと。


 もう、離れない。

 絶対に。


 たとえタクヤが嫌がっても。

 たとえタクヤが拒絶しても。


 わたしは、タクヤを守り続ける。

 タクヤのそばにい続ける。

 それが、わたしの愛の形。

 歪んでいても、壊れていても。


 これが、わたしの愛。


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