第九十話「天使族のトラウマ」
クロウの予言から数日後、俺は魔法大学の商店街を歩いていた。
仲間たちが情報収集をしてくれている間、俺は日用品を買いに出かけたのだ。
天使族の魔神についての情報は、まだ十分に集まっていない。
でも、対策を考える時間はまだあると思っていた。
その考えが、甘すぎた。
商店街の中央広場を歩いている時、突然空気が変わった。
まるで、神聖な力が降り注いでいるかのような感覚。
いや、それだけではない。
周囲の空気そのものが、俺の肺を圧迫するような重圧を放っている。
魔力?
いや、それを遥かに超えた、神々しい力だ。
そして、俺の前に光が現れた。
光の中から、この世のものとは思えないほど美しい女性が姿を現す。
背中には純白の翼が広がり、その一枚一枚の羽根が神聖な光を放っている。翼は12枚もあり、それぞれが天界の星々の輝きを宿しているかのようだった。
長い銀髪が風に揺れるたびに、天界の香りが漂ってくる。碧眼は宝石のように輝き、その瞳の奥には宇宙の深淵が広がっているかのようだ。
白銀の衣装は、人間の技術では決して作り出せないほど精緻で、その布地一つ一つに天界の文字が刻まれている。
額には黄金の環が輝き、それは天界の最高位である証だった。
その存在感は、まるで神話の中から抜け出してきたかのようだった。
いや、神話以上だ。
彼女の前では、この世のあらゆる存在が卑小に感じられる。
間違いなく、天使族だった。
そして、その圧倒的な存在感から察するに、魔神クラスの実力を持つ存在だ。
いや、魔神の中でも最高位の存在だ。
周囲の人々が、彼女の神々しさに圧倒されて膝をついている。
まるで、神の前に跪くかのように。
いや、跪くことすら許されていないかのように、地面に額を擦りつけている者もいる。
彼女の神性に触れただけで、涙を流している者もいた。
「初めてお目にかかります、タクヤ様」
天使が、この世のものとは思えないほど上品で美しい声で話しかけてきた。
その声には、清らかな鈴の音と、天上の聖歌隊の歌声が混じっているかのようだった。
一言一言が、まるで神託のように心に響いてくる。
美しい顔立ちだが、その目には絶対的な使命感と、冷たい光が宿っている。
それは、慈悲も憎しみもなく、ただ純粋に使命を遂行する者の目だった。
「妾の名は、アズラエル」
「天使族の魔神にして、天界十二天翼の筆頭」
「永劫の時を生き、天界の秩序を守護する者」
「世界の調和を司る裁定者の長にございます」
彼女の言葉には、格式高い品格が漂っている。
まるで、貴族の中の貴族、いや、それを遥かに超えた存在が話しているかのようだった。その口調は、数百年以上の時を生きた者だけが持つ、絶対的な威厳に満ちている。
俺は、身構えた。
ついに来たのか。
クロウの予言通り、天使族の魔神が俺の前に現れた。
「何の用だ?」
俺が警戒しながら聞く。
「俺に何の恨みがある?」
「恨み、でございますか?」
アズラエルが優雅に、まるで舞踏のように首を傾げる。
その仕草すら、芸術作品のように美しい。
天界の貴族が持つ、数百年の歴史が育んだ優美さが、その一挙手一投足に宿っている。
「そのような低俗な感情を、妾は抱いたことがございません」
「妾に許されているのは、ただ天界の意志を執行すること」
「個人的な感情など、この身には一片たりとも存在いたしません」
「それこそが、裁定者たる者の在り方でございます」
「ただ、あなた様の存在が、この世界の調和を乱しておられるのです」
「悪影響?」
俺が反抗的な態度を取る。
「そんなの知らないな」
「俺は何も悪いことをしていない」
「あなた様が意識しておられなくとも、それは厳然たる事実でございます」
アズラエルが冷静に、しかし絶対的な確信を持って答える。
その声には、一切の迷いがない。
まるで、宇宙の真理を語っているかのように。
「異世界から転移なさった存在は、世界の理を乱します」
「運命の糸が絡まり、本来あるべき未来が歪められる」
「特に、あなた様のように多くの運命の糸を変えてしまわれる存在は」
「その影響は、やがて世界全体の崩壊を招きます」
「何千年、何万年という時を経て、世界は滅びへと向かうのです」
「故に、この世界の調和のため、世界の未来のため」
「誠に遺憾ながら、消滅していただかねばなりません」
アズラエルの言葉には、一切の迷いがなかった。
まるで、絶対的な真理を語っているかのように。
これは、個人的な恨みではない。
世界の秩序を守るための、神聖な使命なのだ。
彼女にとって、俺を殺すことは、悪事ではない。
それは、正義なのだ。
だが、俺には俺の正義がある。
「俺には、守るべき家族がいる」
俺が必死に訴える。
「仲間もいる」
「そんな理由で、俺を殺すなんて許せない」
「お気持ちは理解いたしかねますが、やむを得ません」
アズラエルが優雅に、しかし冷徹に答える。
「妾の使命は、世界の調和を守ること」
「あなた様個人の幸福よりも、世界全体の秩序が優先されます」
「それが、天界の法でございます」
「あなた様を消すことが、その使命の一環でございます」
「それだけのこと」
「どうか、お恨みにならないでくださいませ」
「これは、わたし個人の意志ではございません」
「天界の意志、世界の意志でございます」
アズラエルが優雅に手を上げる。
その動きは、まるで神聖な儀式のように美しかった。
天界の舞踏を思わせる、完璧な所作。
でも、その美しい動作の中に、絶対的な殺意が込められている。
その瞬間、俺は瞬間移動で距離を取った。
でも、彼女の動きは俺の想像を遥かに超えていた。
いや、超えていたなんてものではない。
俺の瞬間移動先を、完璧に予測している。
まるで、未来が見えているかのように。
いや、それ以上だ。
俺が移動した瞬間、アズラエルは既にそこにいた。時間を超越したかのような速度で。
「世界の調和のため」
アズラエルが優雅に、まるで祈りを捧げるかのように呟く。
「御身は、ここで終わりを迎えられるのです」
「これは裁定であり、救済でございます」
「どうか、安らかに」
俺が移動した瞬間、アズラエルの腕が俺の胸を貫いていた。その腕は、まるで聖なる剣のように、俺の体を容易く貫通した。
「がはっ」
俺の口から、大量の血が溢れ出る。
胸に、大きな穴が開いていた。心臓を貫通している。
ドーナツ状態。
クロウの予言通りの状態だった。
「御身の犠牲、世界の歴史に永遠に刻まれるでしょう」
アズラエルが無表情で、しかし荘厳に言う。
「これで、世界の調和が保たれます」
「御身の魂が、天界で安らかに眠れますように」
「天界の祝福を」
アズラエルが俺から腕を引き抜こうとする。
俺の意識は、急速に薄れていく。でも、最後の力を振り絞って、俺は造形魔法を発動した。
「『土の精霊よ、我が最後の意志に従い敵を貫け。造形魔法:残息庵尖』」
俺の手から、鋭い土の槍が現れる。全魔力を込めた、最後の一撃。
アズラエルの肩を貫通した。
「まあ」
アズラエルが優雅に、しかしわずかに驚いたように呟く。
「この状態で反撃なさるとは」
「御身の生への執着、見事でございます」
「人間の持つ生命力の強さ、改めて認識いたしました」
でも、俺の攻撃は所詮その程度だった。
アズラエルの肩に開いた傷は、まるで幻だったかのように瞬時に消えていく。
高位の自動回復。いや、それ以上の力だ。
まるで、最初から傷など存在しなかったかのように。
天使の体は、人間とは根本的に異なるのだ。
「では、ごきげんよう」
アズラエルが優雅に一礼する。
その一礼すら、完璧な作法に則っている。
「御身の魂に、天界の永遠の祝福がありますように」
「どうか、来世では平穏な人生を」
アズラエルが光の中に消えていく。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
俺は、地面に倒れ込んだ。
胸の穴から、血が止まらない。
意識が遠のいていく。
俺は、愛する人たちの顔を思い浮かべた。
エリカの笑顔。
ルナの優しい表情。
クロエの照れた顔。
リオネルの無邪気な笑い声。
仲間たちとの楽しい時間。
そして、雪菜の狂気に満ちた愛情。彼女も、俺の人生の一部だった。
すべてが、走馬燈のように過ぎていく。
「ごめん、みんな」
俺が小さく呟く。
「守れなくて、ごめん」
俺の意識は、闇の中に沈んでいった。
◇ ◇ ◇
―リリー視点―
わたしは、たまたま商店街を歩いた。
タクヤに会えるかもしれないと思って、ぶらぶらとお散歩していた。
最近のわたしは、タクヤへの愛情がどんどん大きくなっていて、一日中彼のことばかり考えてる日も増えていた。友達としての愛情を超えて、もっと深い感情になっているのかもしれない。
でも、タクヤには奥さんたちがいるから、わたしの気持ちは複雑である。
そんなことを考えながら歩いていると、突然変な音が聞こえた。
ドスンという、何かが落ちるような音。
いや、それだけじゃない。
何かが、地面に叩きつけられたような音。
そして、誰かが苦しそうに呻く声。
血の匂い。
「何かな?」
わたしが音のした方向に駆け寄った。
商店街の中央広場で、誰かが倒れていた。近づいてみると、それはタクヤだった。
でも、何かおかしい。
タクヤの胸に、大きな穴が開いている。
心臓があるべき場所に、空洞が広がっている。
血まみれで、息も浅く、意識もない。血が、地面に大きな水溜まりを作っている。
赤い、赤い、真っ赤な水溜まり。
タクヤの体から流れ出る、生命の色。
「冗談かな?」
わたしが困惑する。
「ドッキリ?」
「面白くないかな」
わたしは笑おうとした。
でも、笑えなかった。
タクヤの体から流れる血の量。
その血の赤さ。
胸の穴から見える、タクヤの内部。
骨が見える。
内臓が見える。
心臓があるべき場所に、何もない。
空洞。
ただの空洞。
「あはは」
わたしが乾いた笑いを漏らす。
「冗談だよね、かな?」
「タクヤ、起きてかな」
でも、タクヤは動かない。
血の匂いが、わたしの鼻を刺激する。
鉄の匂い。
生臭い匂い。
死の匂い。
現実の匂いだった。
「嘘だよね?」
わたしが震える声で言います。
「こんなの、嘘だよね?」
でも、血の匂いと、タクヤの苦しそうな表情は、紛れもない現実だった。
わたしの手が、震え始める。
膝が、ガクガクと震える。
呼吸が、乱れ始めた。
「あ、あ、あ」
わたしの呼吸が乱れ始めた。
過呼吸。
息が吸えない。空気が入ってこない。
肺が痙攣している。
心臓が、バクバクと音を立てている。
「タクヤ、タクヤ、タクヤ」
わたしがタクヤの名前を繰り返す。
でも、返事は帰ってこなかった。
呼吸も、とても弱々しい。というか、呼吸してるかどうかも分からない。
胸が動いていない。
心臓が動いていない。
死んでる?
死んでるの?
タクヤが?
「死なないでほしいかな」
わたしが震えながら言う。
でも、息が続かない。
「ひっ、ひっ、ひっ」
過呼吸が止まらない。
わたしの視界が、どんどん狭くなっていく。
まるで、世界が終わるかのように。世界が、真っ暗になっていく。
タクヤしか見えない。
血まみれのタクヤしか。
「生きて、ひっ、生きて、ひっ」
わたしはタクヤの手を握りしめた。
冷たくて、力が感じられない。まるで、死体のように冷たい。
このまま、わたしの大切な人が死んでしまうなんて。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「誰か、ひっ、ひっ」
わたしが大声で叫ぼうとしますが、過呼吸で声にならない。
「誰か、ひっ、助けて、ひっ」
「タクヤが、ひっ、死んじゃう、ひっ」
わたしの声が、震えている。
過呼吸で、まともに話せない。
でも、通行人たちは怖がって近づいてこない。
血まみれのタクヤを見て、関わりたくないと思っているんだ。
みんな、遠くから見ているだけ。
誰も、助けてくれない。
「お願い、ひっ、ひっ」
わたしが懇願します。
「誰でもいいから、ひっ、助けて、ひっ」
でも、誰も来ない。
みんな、怖がっている。
わたしの涙が、タクヤの顔に落ちる。タクヤの顔が、どんどん青白くなっていく。
唇が、紫色になっていく。
死んでいく。
わたしの目の前で。
わたしの大切な人が。
現実で。
秒単位で。
「やだ、やだ、やだ、ひっ、ひっ」
わたしが繰り返す。
過呼吸が止まらない。
息ができません。
視界が歪んでいく。
でも、タクヤはもっと苦しんでいるんです。いや、もう苦しんでいないかもしれない。
意識がないから。
死んでいるから。
その時、足音が聞こえてきた。
誰かが、わたしたちの方に走ってくる。
「タクヤ!」
アリシアの声だった。
16歳の天才少女が、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「何があったんですか?」
アリシアがタクヤの状態を見て、顔を青くする。いや、青くなるどころじゃない。
完全に血の気が引いている。
「これは、致命傷」
「心臓が完全に」
「いえ、心臓が存在していません」
「助けられる、ひっ、かな?」
わたしが必死に聞く。
過呼吸で、まともに話せない。
「アリシア、ひっ、ちゃん、お願い、ひっ」
「タクヤを、ひっ、助けて、ひっ」
「お願い、ひっ、死なせないで、ひっ」
アリシアが集中する。
彼女の魔力が、空気を震わせるほど強力である。
でも、その表情は厳しい。
これは、普通の治癒魔法では治せないレベルの傷なのだ。
「『光の精霊よ、生命の源よ、我が願いに応えて命を救え」
アリシアが高位の治癒魔法を詠唱する。
「上級治癒魔法:リジェネレーション』」
強力な光がタクヤを包む。
わたしは、固唾を呑んで見守った。
過呼吸が止まらない。
でも、必死にタクヤを見つめる。
お願い。
助かって。
生きて。
死なないで。
アリシアの魔法で、タクヤが助かるでしょうか。
光が消えると、奇跡が起こっていた。
タクヤの胸の穴が、ゆっくりと塞がっていく。
傷が再生していって、元の状態に戻っていく。。
心臓が、再生していく。
肋骨が、元に戻っていく。
皮膚が、覆っていく。
そして、タクヤの心臓が再び動き始めた。
ドクン。
ドクン。
生命の音。
「生きてる、ひっ、ひっ」
わたしが感動で泣いてしまった。
「タクヤ、ひっ、生きてる、ひっ」
過呼吸が、まだ止まらない。
でも、タクヤが生きていることが分かって、少しだけ落ち着いた。
いや、落ち着いていない。全然落ち着いていない。
わたしの体は、まだ震えている。
過呼吸も、止まらない。
でも、タクヤが生きている。
それだけで、十分だった。
「まだ意識は戻りませんが、命は助かりました」
アリシアが安堵する。
でも、その表情はまだ厳しい。
「でも、完全に回復するまで、安静にする必要があります」
「下手をすると、後遺症が残るかもしれません」
「ありがとう、ひっ、アリシア、ひっ、ちゃん」
わたしがアリシアに感謝する。
「あなたの、ひっ、おかげで、タクヤが、ひっ、助かった」
「当然のことです」
アリシアが上品に答える。
「タクヤくんは、大切なクラスメイトですから」
わたしたちは、タクヤを女子寮に運ぶことにした。男子寮よりも、女子寮の方が看病しやすいからだ。
わたしとアリシアで、タクヤを支えながら歩く。
タクヤは意識がないまま、でも確実に生きている。
わたしの過呼吸は、まだ完全には止まっていない。
でも、タクヤの温かさを感じて、少しずつ落ち着いてきた。
いや、嘘だ。落ち着いていない。
わたしの心臓は、まだバクバクと音を立てている。
手は、まだ震えている。
タクヤの手を握るわたしの手が、止まらずに震えている。
女子寮のわたしの部屋に、タクヤを寝かせた。
ベッドに横たわるタクヤの顔は、まだ青白いですが、呼吸は安定している。
「いつ意識が戻るのかな?」
わたしがアリシアに聞く。
まだ、声が震えていた。
過呼吸は、少しずつ治まってきたけど、完全には止まっていない。
「分かりません」
アリシアが答える。
「でも、生命力は戻っていますから、そう遠くないうちに」
「ただ、目を覚まさない可能性も」
「わたし、ここで待ってるかな」
わたしが決意する。
「タクヤが目を覚ますまで、ずっとそばにいるかな」
「絶対に、離れないかな」
「一秒も、離れないかな」
わたしは、タクヤから目を離すことができなかった。
また、あの穴が開くんじゃないか。
また、血まみれになるんじゃないか。
また、死んでしまうんじゃないか。
そんな恐怖が、わたしを襲う。
タクヤの胸を見つめた。
上下している。
呼吸している。
生きている。
でも、また止まるんじゃないか。
また、心臓が消えるんじゃないか。
そんな恐怖が、わたしの心を支配する。
「わたしも時々、様子を見に来ます」
アリシアが協力してくれる。
「何かあったら、すぐに呼んでください」
アリシアが帰った後、わたしはタクヤのベッドの横に座った。
彼の手を握って、温かさを感じる。生きている証拠だ。
でも、手を離すのが怖い。
離したら、タクヤが消えてしまうんじゃないか。
離したら、また死んでしまうんじゃないか。
そんな恐怖が、わたしを支配する。
わたしの手が、タクヤの手を強く握りしめる。
爪が、タクヤの手に食い込むくらい、強く。
「タクヤ」
わたしが小さな声で話しかける。
「わたしがいるかな」
「一人じゃないかな」
「もう、どこにも行かせないかな」
「絶対に、行かせないかな」
わたしは、タクヤの回復を信じて待つことにした。彼が目を覚ますまで、わたしがそばにいてあげる。わたしの愛する人を、絶対に一人にはしない。
誰にも、渡さない。
死にも、渡さない。
「早く目を覚すかな」
わたしがタクヤの手を握りながら祈る。でも、手を離すことはできなかった。
もう、離したくない。
ずっと、一緒にいたい。
わたしの中で、何かが変わっていくのを感じた。タクヤを失いそうになって、わたしの心に新しい感情が芽生える。
それは、恐怖。
そして、執着。
タクヤは、わたしのもの。
誰にも渡したくない。
エリカにも、ルナにも、クロエにも。
誰にも。
タクヤは、わたしだけのもの。
そう思ってしまう自分がいた。
夜が更けていく。
わたしは、タクヤの横でずっと見守り続けた。
彼の呼吸音を聞きながら、安心感を覚える。
息をしている。
心臓が動いている。
生きている。
それだけで、十分だった。
いや、十分じゃない。
もっと確認したい。
何度も何度も、タクヤの胸に手を当てる。心臓の鼓動を確認する。
生きている。
まだ、生きている。
わたしの大切な人は、まだここにいる。
まだ、一緒にいることができる。
でも、もう離したくない。
ずっと、一緒にいたい。
わたしは、そのことに感謝しながら、タクヤの回復を待ち続けた。
きっと、明日には目を覚ましてくれる。そして、また一緒に笑い合うことができる。
でも、もう離れさせない。
タクヤは、わたしのもの。
わたしだけのもの。
誰にも渡さない。
死にも渡さない。
わたしは、そう心に誓った。
◇ ◇ ◇
深夜、わたしがうとうとしていると、タクヤが小さくうめいた。
「うん」
タクヤが苦しそうに顔をしかめる。
「タクヤ?」
わたしが慌てて声をかける。
手を離していなくて、本当に良かった。
「気がついた?」
タクヤの目が、ゆっくりと開いた。
意識が戻ったんだ。
「リリー?」
タクヤが弱々しい声で言う。
「俺は、生きてるのか?」
「生きてるかな」
わたしが涙を流しながら答える。
でも、涙が止まらない。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。ただ、涙が溢れて止まらない。
「アリシアちゃんが助けてくれたかな」
「そうか」
タクヤがほっとする。
「死んだと思った」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの体が震えた。
死んだと思った。タクヤが、死を覚悟していた。
わたしの目の前で、死にかけていた。
「死なないでかな」
わたしがタクヤの手を強く握ります。
痛いくらい、強く。
「わたし、タクヤがいなくなったら、どうしていいか分からないかな」
「もう、あんな怖い思いしたくないかな」
わたしの声が震える。
あの時の恐怖が、鮮明に蘇ってきた。
タクヤの胸に開いた穴。
心臓が消えていた。血まみれの姿。
青白くなっていく顔。冷たくなっていく手。
過呼吸。震える体。
誰も助けてくれない。
死んでいくタクヤ。
すべてが、トラウマになっていく。
わたしの心に、深く深く刻み込まれていく。
もう、消えない。
一生、消えない。
「ごめん、心配かけて」
タクヤが申し訳なさそうに言う。
わたしは、タクヤが無事で本当に良かったと思った。
命が助かって、意識も戻って。
これで、また一緒にいることができる。わたしの愛する人と、もっと時間を過ごすことができる。
いや、もう離れない。
ずっと、一緒にいる。片時も、離れない。
「タクヤ」
わたしが勇気を出して言う。
「わたし、あなたのことが好きかな」
「友達として以上に、好きかな」
「愛してるかな」
「誰よりも、愛してるかな」
タクヤが驚いたような顔をする。
でも、今は言わなければいけないと思った。
タクヤを失いそうになって、わたしは自分の本当の気持ちに気づいた。
わたしは、タクヤを愛している。友達以上の感情で。
この気持ちを、隠しているわけにはいかない。
そして、もう離したくない。
タクヤは、わたしのもの。
わたしだけのもの。
「リリー」
タクヤが困ったような顔をする。
優しい、でも申し訳なさそうな顔。
その表情を見た瞬間、わたしは分かった。
タクヤは、わたしの気持ちを受け入れてくれない。
「俺には、妻たちがいる」
タクヤが優しく、でもはっきりと言った。
「エリカ、ルナ、クロエ」
「俺の心は、もう彼女たちで満たされているんだ」
「リリーの気持ちは嬉しい」
「でも、これ以上誰かを愛することはできない」
「ごめん」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心が凍りついた。
拒絶。
断られた。
わたしの愛が、受け入れられなかった。
「分かってるかな」
わたしが震える声で答える。
「でも、言いたかったかな」
「わたしの気持ちを知っていてほしかったかな」
でも、心の中では、何かが壊れていくのを感じた。
タクヤは、わたしを愛してくれない。
妻たちがいるから。
エリカ。
ルナ。
クロエ。
彼女たちが、タクヤを独占している。
わたしの入る隙間がない。
「それに」
わたしがタクヤを見つめる。
その目には、何か暗いものが宿り始めていた。
「もう、離さないかな」
「タクヤは、わたしのものかな」
「誰にも、渡さないかな」
「たとえタクヤがわたしを愛してくれなくても」
「たとえタクヤが拒絶しても」
「わたしは、タクヤを守るかな」
「二度と、あんな目に遭わせないかな」
タクヤが困ったような顔をする。
「リリー、それは」
「大丈夫かな」
わたしが微笑む。でも、その笑顔は、どこか歪んでいました。
「わたしは、ただタクヤを守りたいだけかな」
「それだけだかな」
でも、心の中では、違う感情が渦巻いていた。
タクヤを失いかけた恐怖。
タクヤに拒絶された絶望。
そして、タクヤを独占したいという欲望。
すべてが混ざり合って、わたしの心を支配していく。
タクヤはわたしを愛してくれない。
でも、それでもいい。
わたしがタクヤを愛していれば、それでいい。
わたしがタクヤを守っていれば、それでいい。
わたしがタクヤのそばにいれば、それでいい。
たとえ、タクヤが望まなくても。
「ありがとう、リリー」
タクヤがわたしの手を握り返してくれる。
「君の気持ち、嬉しく思う」
「でも、俺たちは友達だ」
「これからも、良い友達でいてほしい」
友達。
その言葉が、わたしの心に突き刺さった。
友達。ただの友達。
わたしは、タクヤにとって、ただの友達。
でも、わたしにとってタクヤは、すべて。
わたしの世界の中心。
わたしの生きる理由。
わたしの愛する人。
「うん、友達だね」
わたしが微笑む。
でも、心の中では、違う言葉を呟いていた。
違う。
友達じゃない。
タクヤは、わたしのもの。わたしだけのもの。
誰にも渡さない。
エリカにも。
ルナにも。
クロエにも。
誰にも。
「でも、わたしはずっとそばにいるかな」
わたしがタクヤの手を握りながら言う。
「タクヤを守るかな」
「二度と、あんな目に遭わせないかな」
「誰にも、タクヤを傷つけさせないかな」
「たとえ天使が来ても」
「たとえ神が来ても」
「わたしが、タクヤを守るかな」
タクヤが不安そうな顔をする。
でも、わたしは微笑み続けた。
これは、愛です。タクヤへの、純粋な愛。
ただ、少しだけ、形が歪んでしまっただけ。
タクヤを失いかけて、わたしの心が壊れてしまっただけ。
でも、それでもいい。
この歪んだ愛でも、タクヤを守ることができるなら。
わたしは、タクヤの回復を見守り続けることにした。わたしの愛する人のそばで、ずっと。
もう、離れない。
絶対に。
たとえタクヤが嫌がっても。
たとえタクヤが拒絶しても。
わたしは、タクヤを守り続ける。
タクヤのそばにい続ける。
それが、わたしの愛の形。
歪んでいても、壊れていても。
これが、わたしの愛。




