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第八十八話「恋愛経験ゼロ」

 

 エルフの村での素晴らしい時間が終わり、俺とクロエは魔法大学に戻ってきた。

 三人の妻による初めての女子会、そして心のこもったサプライズ。


 俺の心は温かい気持ちでいっぱいだった。

 家族が一つになったという実感が、強く胸に残っている。


「タクヤくん、ボクは一度実家に帰らせていただきます」


 クロエが申し出る。


「お母さんに、家族のことを報告したくて」

「もちろんだ」


 俺が答える。


「家族になったこと、お母さんにも知らせてあげてくれ」

「はい」


 クロエが嬉しそうに微笑む。


「お母さんも、きっと喜んでくれると思います」


 クロエが実家に向かった後、俺は一人で魔法大学の中庭に向かった。

 久しぶりに一人になって、今日の出来事を振り返りたかった。


 中庭のベンチに座って、空を見上げる。

 雲が穏やかに流れている。

 平和な午後の時間だった。


 エリカ、ルナ、クロエ。

 三人とも、それぞれ違う魅力を持った素晴らしい女性だ。

 俺は本当に幸せ者だと思う。


 でも、同時に責任も感じている。

 三人を幸せにする責任。

 生まれてくる子供たちを守る責任。

 俺は、もっと強くならなければならない。


「タクヤ」


 突然、声をかけられた。


 振り返ると、アリシアが立っていた。

 16歳の天才少女、魔法理論のエキスパート。

 いつものように上品な笑顔を浮かべているが、何となく興奮しているようにも見える。


 その瞳が、まるで新しい魔法理論を発見した時のように輝いている。


「アリシア、どうした?」


 俺が聞く。


「何か用事か?」

「はい」


 アリシアが目を輝かせる。

 その表情は、まるで子供が新しいおもちゃを見つけた時のようだ。

 天才と呼ばれる彼女だが、こういう時は年相応の少女に見える。


「実は、タクヤにお願いがあるんです」

「お願い?」


 俺が首を傾げる。


「どんなことだ?」

「魔法バトルをしてください」


 アリシアがはっきりと言った。

 その声には、抑えきれない期待が込められている。

 俺の顔が、この世の終わりのような表情になった。


「魔法バトル?」


 俺が呻くような声を出す。


「アリシア、それは」

「私、ずっと考えていたんです」


 アリシアが興奮気味に続ける。


「タクヤの造形魔法は、理論的に非常に興味深い」

「あの複雑な構造体を瞬時に構築する魔力制御」

「魔力循環の効率性」

「そして、実戦での応用可能性」


 アリシアの瞳が、さらに輝きを増す。

 完全に、研究者のモードに入っている。


「私の理論と、タクヤの実践」

「それをぶつけ合ったら、どんな結果になるのか」

「ぜひ、検証してみたいんです」

「ダメですか?」


 アリシアが少し不安そうになる。


「私、ずっとやってみたかったんです」

「タクヤと本気で戦ってみたくて」

「魔法理論の実証実験として、これ以上の機会はないと思うんです」


 俺は頭を抱えた。

 アリシアの魔力は、Sクラス相当だ。

 初級水魔法で部屋を水没させるレベルの圧倒的な力を持っている。

 魔法理論に関する知識は、教授陣をも凌駕するほど。


 一方、俺の魔力はCクラス程度。

 造形魔法以外は、大したことができない。

 もしアリシアと本気で戦ったら、俺は物理的に粉々になってしまうだろう。

 文字通り、分子レベルで分解されてしまうかもしれない。


「アリシア、俺は君と戦えるような実力じゃない」


 俺が必死に説得する。


「君の魔力は俺の何十倍もある」

「戦ったら、俺が死んでしまう」

「大丈夫です」


 アリシアが無邪気に言う。

 その表情は、本当に純粋で、危険性を全く理解していないようだった。


「手加減しますから」

「魔力出力を通常の10%に制限して」

「攻撃範囲も限定的にして」

「致命的な部位は狙わないように計算済みです」

「手加減って」


 俺が冷や汗をかく。


「君の10%でも、俺には致命的だと思う」

「それに、戦闘中に完璧な出力制御なんて、理論通りにいくわけが」

「そんなことありません」


 アリシアが自信満々に言う。


 天才としてのプライドが、その言葉に表れている。


「私、魔力制御の理論は完璧に理解していますから」

「計算上、タクヤが致命傷を負う確率は0.3%以下です」

「0.3%もあるのか」


 俺が思わず突っ込む。


「それは十分危険だろ」

「でも、99.7%は安全です」


 アリシアが屈託なく言う。

 確かに、アリシアは天才だ。

 魔力制御も、理論的には完璧にできるはずだ。


 でも、実際に戦闘で手加減するのは、理論とは違う。

 一瞬でも気を抜いたら、俺は消し炭になってしまう。

 いや、消し炭も残らないかもしれない。


「やりたいです、やりたいです」


 アリシアがしつこく言う。

 その様子は、まるで欲しいものをねだる子供のようだ。

 でも、そのねだっているものが「魔法バトル」というのが恐ろしい。


「お願いします、タクヤ」

「私、タクヤの造形魔法を間近で観察したいんです」

「魔力の流れ、構造体の形成過程、全てをデータとして記録したいんです」

「でも」


 俺が困り果てていると、突然後ろから誰かが抱きついてきた。


「ぎゅー」


 聞き覚えのある声。

 そして、尋常じゃない力。


 リリーだった。

 いつものように、後ろから俺を抱きしめている。

 でも、その力が、尋常じゃない。


「ぐえっ」


 俺が変な声を上げる。

 肋骨が、軋む音がした。

 呼吸が、できない。

 視界が、暗くなってくる。


「リ、リリー」


 俺が必死に声を絞り出す。


「ちょ、苦しい、死ぬ」

「あ、ごめんなさいかな」


 リリーが慌てて少し力を緩める。

 でも、完全には離してくれない。

 まだ、抱きしめられたままだ。


 俺は大きく息を吸い込んだ。


 生き返った気がする。


 でも、まだリリーの腕の中だ。

 彼女の愛情は、文字通り命に関わるレベルだった。


「リリー、もう少し力を」


 俺が言いかける前に、リリーがさらに抱きしめる力を強めた。


「タクヤ、大好きかな」


 リリーが幸せそうに言う。

 でも、俺にとっては拷問だった。


「ぐ、ぐぅ」


 俺がうめく。

 内臓が、圧迫されている。

 骨が、折れそうだ。


 これは、愛情という名の暴力だ。

 悪意はない。

 純粋な愛情だ。

 でも、結果的に俺は苦しんでいる。


「リリー、本当に、死ぬ」


 俺が必死に訴える。


「え、そうかな?」


 リリーがようやく気づいて、力を緩めてくれた。

 でも、まだ抱きついたままだ。

 俺は荒い息をする。


 命拾いした。


 リリーの愛情は、本当に危険だ。

 彼女に悪気はない。

 ただ、愛情表現が激しすぎるだけだ。

 でも、受ける側としては、命がいくつあっても足りない。


 その時、アリシアの反応が異常だった。


「あわわわわわ」


 アリシアが激しく動揺している。

 顔が真っ赤になって、両手で口を覆っている。

 目は見開かれて、完全にパニック状態だ。


「な、な、何ですか、これは」


 アリシアが震える声で言う。


「お、女の子が、男の人に、後ろから」

「あんなに密着して」

「え?」


 俺が困惑する。

 まだリリーに抱きしめられたままだが。


「リリーが抱きついてるだけだが」

「そ、そんな」


 アリシアがさらに顔を赤くする。

 その赤さは、もはや異常なレベルだった。

 耳まで真っ赤になっている。


「いけません、そんなことしたら」

「身体が触れ合って」

「その、胸とか、お尻とか」


 アリシアが小さな声でぶつぶつ言っている。

 何やら、自分の世界に入り込んでいるようだ。


「えっちなのは悪いことですよ」


 アリシアが突然叫んだ。


「えっち?」


 俺がさらに困惑する。


「別にえっちなことなんて」

「嘘です」


 アリシアが涙目になる。


「だって、あんなに密着して」

「タクヤの背中に、リリーさんの身体が」

「それって、その」


 アリシアが言葉を失う。

 そして、顔を両手で覆った。


「本に書いてありました」


 アリシアが震える声で続ける。


「男女が身体を密着させるのは、特別な関係の人だけだって」

「それを人前でするのは、はしたないって」

「えっちで、変態だって」

「え、そうなの?」


 俺が驚く。

 リリーの抱擁は、確かに密着度が高い。

 でも、それは彼女の愛情表現であって、そういう意味じゃないと思うのだが。


「えっち、変態」


 アリシアが再度叫ぶ。


「私、見てはいけないものを見てしまいました」

「本に書いてありました」

「こういう時は、その場を離れるべきだって」

「待って、アリシア」


 俺が呼び止めようとするが。


「すみません、すみません」


 アリシアが謝りながら駆け去ってしまった。

 その背中は、完全にパニック状態だった。

 俺は、その場に残されてぽかんとしていた。


「あれ?」


 リリーも困惑している。

 ようやく俺から離れてくれた。


「アリシア、どうしたのかな?」

「さあ」


 俺が首を振る。


 呼吸が、やっと楽になった。

 リリーから解放されて、生き返った気分だ。


「よく分からない」

「でも、アリシア、すごく動揺してたかな」


 リリーが不思議そうに言う。


「あんなに顔を赤くして」


 リリーが少し考え込んでから、ぱっと顔を明るくした。


「もしかして、タクヤを助けたのかな?」

「助けた?」

「魔法バトルから逃がしてあげたのかな」


 リリーが得意げに言う。


「わたしの愛情で、アリシアちゃんを追い払ったかな」

「タクヤ、私すごいかな?」


 確かに、結果的にはそうなった。

 アリシアの魔法バトルの提案から、俺は逃れることができた。

 命の危険から救われたのだ。


 でも、その過程で俺の肋骨は危うく折れるところだったが。


「リリー、ありがとう」


 俺が心から感謝する。


 肋骨の痛みを我慢しながら。


「君のおかげで助かった」

「えへへ」


 リリーが嬉しそうに笑う。


「役に立てて良かったかな」

「タクヤの役に立つの、嬉しいかな」


 俺は、リリーへの感謝の気持ちを表したくて、今度は俺の方から彼女を抱きしめた。


 もちろん、彼女の怪力ほどは強くない、優しい抱擁だ。

 命に関わらないレベルの、普通の抱擁だ。


「リリー、本当にありがとう」


 俺がリリーの頭を撫でる。


「君がいてくれて良かった」

「嬉しいかな」


 リリーが俺の胸に顔を埋める。


「もっとしたいかな」

「タクヤの温かさが気持ちいいかな」


 でも、リリーがまた力を込めてきた。


「ちょっと、リリー、また力が」


 俺が慌てる。


「あ、ごめんなさいかな」


 リリーが力を緩める。

 彼女の愛情表現は、本当に命がけだ。

 リリーの満足そうな表情を見て、俺も自然と笑顔になった。

 確かに、彼女の愛情表現は時として命に関わるほど激しい。


 でも、その純粋な気持ちは嬉しいものだ。

 そして、今回は結果的に俺の命を救ってくれた。

 肋骨の痛みは、小さな代償だと思うべきだろう。


「でも」


 俺がふと思い出す。


「アリシアはどうして、あんなに動揺したんだろう?」

「恋愛経験がないのかな?」


 リリーが分析する。


「アリシアちゃん、天才だけど、そういうことは知らないのかも」

「本でしか知識がないのかな」

「そうか」


 俺が納得する。

 確かに、アリシアは16歳だが、勉強ばかりしていて恋愛には無縁そうだ。


 魔法理論には精通しているが、男女の関係については完全に無知なのかもしれない。

 俺とリリーの親密な様子を見て、過剰に反応してしまったのだろう。

 本で読んだ知識だけで判断して、パニックになってしまった。


「ちょっと可哀想だったかな」


 リリーが反省する。


「でも、タクヤを助けたかったから」

「アリシア、本当に戦う気だったし」

「気にしなくていい」


 俺がリリーを慰める。


「アリシアも、いつか理解してくれる」

「それに、魔法バトルから救ってくれたのは事実だ」


 俺たちは、しばらくそのまま抱き合っていた。

 もちろん、リリーが力を加減してくれている範囲で。


 中庭の穏やかな空気の中で、静かな時間を過ごす。

 リリーの温かさを感じながら、俺は今日という日を振り返っていた。


 家族との絆、仲間との友情。

 俺の周りには、本当にたくさんの愛情がある。

 それを大切にしながら、俺は成長していきたい。

 リリーのように純粋な愛情を注いでくれる人たちのために。


 たとえその愛情が、時として命に関わるレベルでも。


「タクヤ」


 リリーが俺を見上げる。


「わたし、タクヤのこと大好きかな」

「本当に、本当に大好きかな」

「俺も、リリーのことが大切だ」


 俺が答える。


「友達として」

「友達として」


 リリーが頷く。


 でも、その目には、もしかしたら友情以上の感情があるのかもしれない。

 俺は、それをどう受け止めるべきか、まだ分からない。


 でも、今はこの穏やかな時間を大切にしたい。

 リリーとの友情を、大切に育んでいきたい。

 そして、彼女の愛情表現が、もう少し命に優しいレベルになることを祈りたい。




 ◇ ◇ ◇




 その日の夕方、俺は自分の部屋に戻っていた。

 今日の出来事を日記に書き留めながら、様々なことを考えていた。


 肋骨がまだ少し痛む。

 リリーの「愛の暴力」の後遺症だ。

 治癒魔法で治したが、完全には痛みが取れていない。


 アリシアの魔法バトルの提案。

 あれは、確実に俺の命に関わる話だった。

 彼女に悪気はないのだろうが、実力差がありすぎる。

 魔法理論の天才であるアリシアにとって、魔法バトルは純粋な研究対象なのだろう。

 でも、俺にとっては生死に関わる問題だ。


 そして、アリシアの反応。

 あの過剰な動揺ぶりは、明らかに恋愛経験がゼロの証拠だった。

 本でしか知識がないから、実際の男女の親密な様子を見て、完全にパニックになってしまった。


 16歳の天才魔法使いだが、恋愛に関しては完全に無知。

 そのギャップが、なんだか可愛らしくも感じた。


 いや、でも俺には三人の妻がいる。

 アリシアのことを、そういう目で見るべきではない。

 彼女は仲間であり、クラスメイトだ。


 そして、リリーとの関係。

 彼女の愛情表現は、時として危険なレベルだが、その純粋さは尊い。

 友達として、お互いを大切にしていきたい。


 でも、彼女の気持ちがもし友情を超えたものだとしたら。

 俺は、どう応えるべきだろうか。

 エリカ、ルナ、クロエという三人の妻がいる今、新しい関係を築くことはできるのだろうか。


 難しい問題だった。


 でも、今は考えすぎない方がいいかもしれない。

 自然な流れに任せて、一日一日を大切に生きていこう。

 仲間たちとの絆を深めながら、俺自身も成長していきたい。


 そして、次にリリーに抱きしめられる時は、もっと早く「力を緩めて」と言おう。

 命あっての物種だ。

 そんなことを考えながら、俺はベッドに入った。

 明日もまた、新しい一日が始まる。

 どんな出来事が待っているか分からないが、今日のような温かい時間を大切にしていきたい。


 ただし、命に関わらない範囲で。

 俺は、穏やかな気持ちで眠りについた。

 家族の愛情と、仲間たちの友情に包まれながら。

 そして、肋骨の痛みを感じながら。




 ◇ ◇ ◇




 翌日の朝、俺が教室に入ると、アリシアが既に席についていた。

 昨日の件で、気まずい空気になるかと心配していたが、彼女の様子は予想以上に複雑だった。


 俺を見ると、顔が一瞬で真っ赤になる。

 そして、慌てて視線を逸らす。

 本を顔の前に掲げて、隠れようとしている。


 でも、その本が逆さまになっていることに、彼女は気づいていない。


「おはよう、アリシア」


 俺が普通に挨拶する。


「昨日はごめん」

「ひゃっ」


 アリシアが変な声を上げた。

 本を落としそうになって、慌てて拾う。

 その拍子に、顔がさらに赤くなる。


「お、おはようございます」


 アリシアが小さな声で答える。

 顔を上げられないようだ。


「昨日は、その」

「私が突然変なことを言って」

「申し訳ありませんでした」


 アリシアの声が、どんどん小さくなっていく。


「でも、あの、本に書いてあったので」

「男女が密着するのは、その、特別な関係で」

「私、見てはいけないものを見てしまったと思って」


 アリシアが必死に説明しようとするが、言葉が支離滅裂になっている。

 完全に、パニック状態だ。


「気にしなくていい」


 俺が答える。


「リリーは、ああいう性格だから」

「でも、魔法バトルはやっぱり危険だと思う」

「そ、そうですよね」


 アリシアが恥ずかしそうに頷く。


「私、タクヤと戦いたくて」

「魔法理論の実証実験として、最高の機会だと思って」

「でも、昨日のあれを見て」


 アリシアが言葉を詰まらせる。


「タクヤくんには、大切な人がいるんだって」

「私が、勝手に戦いを挑むのは」

「その、はしたないことだって」


 アリシアの解釈が、完全におかしな方向に行っている。

 魔法バトルの提案と、恋愛関係が、彼女の中で混ざってしまっているようだ。


「分かりました」


 アリシアが真剣な表情で言う。


「もう少し、私も勉強してからにします」

「男女の関係について」

「本をもっと読んで、正しい知識を身につけてから」


 アリシアの言う「勉強」が、完全に方向性を間違えている。

 魔法理論ではなく、恋愛の勉強をするつもりらしい。


 でも、俺はもう何も言わないことにした。

 これ以上説明すると、さらに混乱させてしまいそうだ。

 そして、魔法バトルの話が立ち消えになったのは確かだ。


 リリーに、改めて感謝しなければならない。

 肋骨の痛みも、小さな代償だったと思うべきだろう。


「おはよう、タクヤ」


 リリーが教室に入ってきた。


 俺を見つけると、嬉しそうに手を振ってくれる。


「おはよう、リリー」


 俺も答える。

 リリーは俺に近づいてきて、いつものように後ろから抱きついてきた。

 俺は咄嗟に身構える。

 また肋骨が危ない。


 でも、今度は力を加減してくれているようだ。

 命に関わるほどではない、適度な強さの抱擁だった。

 まだ少し苦しいが、昨日よりはマシだ。


「昨日はありがとう」


 俺がリリーに感謝する。


「君のおかげで助かった」

「どういたしましてかな」


 リリーが満足そうに答える。

 その時、アリシアの反応が激しかった。


「あわわわわ」


 アリシアが再び顔を真っ赤にする。


「ま、また」

「人前で、あんなに密着して」


 アリシアが本で顔を隠す。

 でも、チラチラとこちらを見ている。

 その目は、好奇心と恥じらいが混ざった、複雑な表情だった。


「本に書いてありました」


 アリシアが小さな声でぶつぶつ言っている。


「こういうのを、いちゃいちゃって言うんだって」

「公共の場でするのは、はしたないって」

「でも、見ちゃダメって分かってるのに」

「目が離せないのは、なぜかしら」


 アリシアが自分の世界に入り込んでいる。


 俺は、彼女のことがだんだん心配になってきた。

 恋愛に関して、彼女はまだ慣れていないのだろう。

 というか、完全に無知なのだろう。


 16歳の天才魔法使いだが、恋愛に関しては幼稚園児レベルかもしれない。

 俺は、アリシアにも配慮しながら、リリーとの友情を育んでいこうと思った。

 そして、アリシアがいつか、恋愛について正しい知識を身につけることを祈っている。


 本だけじゃなくて、実際の経験から学んでほしい。

 でも、それは俺の役目じゃないだろう。

 俺には三人の妻がいるのだから。


 授業が始まった。

 マリア教授が、今日の魔法理論について説明を始める。


 でも、俺はアリシアの様子が気になって、授業に集中できなかった。

 彼女は、頻繁に俺の方をチラチラと見ている。

 そして、目が合うと慌てて視線を逸らす。


 顔が赤くなる。

 本で顔を隠す。

 その繰り返しだった。

 完全に、挙動不審だ。


 天才魔法使いとしての威厳は、どこに行ってしまったのだろう。

 リリーは、俺の隣に座っている。

 時々、俺の腕に自分の腕を絡めてくる。


 その度に、アリシアの反応が激しくなる。


「あ、あの」


 アリシアが小さな声で呟く。


「腕を絡めるのは、恋人同士がすることだって」

「本に書いてあったのに」

「でも、タクヤは既婚者のはずなのに」

「リリーさんとも、そういう関係なの?」


 アリシアが混乱している。

 彼女の頭の中では、俺とリリーの関係が理解できないのだろう。

 友達としての親密な関係と、恋人や夫婦の関係の区別がついていない。

 全部、本で読んだ知識だけで判断しようとしているから、余計に混乱している。


「アリシアさん、大丈夫ですか?」


 隣に座っていたレオナルドが心配そうに聞く。


「顔が真っ赤ですよ」

「だ、大丈夫です」


 アリシアが慌てて答える。


「ちょっと、暑いだけで」


 でも、教室の温度は適温だ。

 誰も暑がっていない。

 明らかに、アリシアだけが異常な状態だ。


 マリア教授も、アリシアの様子に気づいたようだった。


「アリシアさん、体調が悪いなら保健室に行きなさい」


 マリア教授が心配そうに言う。


「いえ、大丈夫です」


 アリシアが必死に答える。

 でも、その顔はまだ真っ赤だ。

 授業が続く中、アリシアは何度も深呼吸をしていた。


 自分を落ち着かせようとしているようだ。

 でも、俺とリリーの方を見る度に、また動揺してしまう。

 完全に、悪循環に陥っている。


 昼休みになった。

 アリシアは、俺たちから離れた場所で一人で弁当を食べている。

 時々、こちらをチラチラと見ては、すぐに視線を逸らす。

 その様子が、なんだか可哀想に思えた。


「アリシア、変だったかな」


 リリーが俺に言う。


「ずっと顔が赤かったかな」

「ああ」


 俺が答える。


「多分、昨日のことがショックだったんだろう」

「そんなにショックだったかな?」


 リリーが不思議そうに首を傾げる。


「ただ抱きついただけなのかな」

「リリー、君の抱擁は普通じゃないんだ」


 俺が説明する。


「それに、アリシアは恋愛経験がないから」

「男女の親密な様子を見て、過剰に反応してしまうんだろう」

「そうかな」


 リリーが納得したように頷く。


「じゃあ、アリシアに優しくしてあげないとかな」

「ああ、そうだな」


 俺も同意する。

 授業が再開した後も、アリシアの様子は変わらなかった。

 相変わらず、俺の方をチラチラ見ては、赤くなって視線を逸らす。

 完全に、恋愛に対する免疫がゼロの状態だ。

 授業が終わり、放課後になった。


 俺は、アリシアに声をかけようと思った。

 このままでは、彼女が変な方向に勘違いしてしまう。

 きちんと説明して、誤解を解いておくべきだろう。


「アリシア」


 俺が声をかける。


「少し、話せるか?」

「ひゃっ」


 アリシアが飛び上がった。


 本を抱えたまま、俺を見る。

 その目は、警戒と期待が混ざった複雑な表情だった。


「な、何でしょうか」


 アリシアが緊張した声で聞く。


「昨日のことだけど」


 俺が説明を始める。


「リリーと俺は、ただの友達だ」

「恋人とか、そういう関係じゃない」

「そ、そうなんですか?」


 アリシアが驚く。


「でも、あんなに密着して」

「本には、恋人同士がすることだって」

「リリーは、ああいう性格なんだ」


 俺が説明する。


「友達にも、家族にも、みんなに抱きつく」

「愛情表現が、ちょっと激しいだけだ」

「そ、そうだったんですか」


 アリシアがほっとしたような表情になる。

 でも、すぐにまた混乱した表情になった。


「じゃあ、友達同士でも、あんなに密着していいんですか?」

「本には、特別な関係じゃないとダメって」

「本が全て正しいわけじゃない」


 俺が言う。


「人それぞれ、関係の築き方は違うんだ」

「リリーの場合は、ああいう愛情表現が普通なんだ」

「な、なるほど」


 アリシアが真剣にメモを取り始めた。


 本当に、研究者の性格だ。


「人間関係には、個人差がある」

「本の知識だけでは、判断できない」


 アリシアが真面目にメモしている。


「勉強になります」

「あの、アリシア」


 俺が心配そうに聞く。


「君は、恋愛について、本でしか知らないのか?」

「はい」


 アリシアがあっさりと認める。


「私、魔法の研究ばかりしていたので」

「恋愛とか、そういうことに時間を使ったことがないんです」

「だから、本で勉強しようと思って」


 アリシアが恥ずかしそうに続ける。


「でも、本の知識と、実際の状況が違って」

「混乱してしまいました」

「そうか」


 俺が納得する。


「でも、恋愛は本で学ぶものじゃないぞ」

「実際に経験して、学んでいくものだ」

「け、経験」


 アリシアが顔を真っ赤にする。


「それって、その」


「キス、とか、そういうことですか?」

「いや、そういう意味じゃなくて」


 俺が慌てて訂正する。


「普通に、人と接することから始めるんだ」

「友達を作ったり、色んな人と話したり」

「そういう経験を積んで、少しずつ学んでいくんだ」

「な、なるほど」


 アリシアがまたメモを取る。


「友達を作る」

「色んな人と話す」

「経験を積む」


 彼女の真面目さに、俺は少し笑ってしまった。

 でも、その真面目さが、アリシアの魅力でもある。

 天才魔法使いだが、人間関係については初心者。


 そのギャップが、彼女を魅力的にしている。


「分かりました」


 アリシアが決意を込めて言う。


「私、これから恋愛について、実地研究をします」

「本の知識だけじゃなくて、実際に観察して学びます」

「観察って」


 俺が不安になる。


「何を観察するんだ?」

「タクヤと、リリーさんの関係です」


 アリシアがきっぱりと言った。


「友達同士の親密な関係の観察」

「これは、貴重な研究対象です」


 アリシアの目が、研究者のそれになっている。

 まずい。

 俺は、変な方向に話を持っていってしまったかもしれない。


「あの、アリシア」


 俺が止めようとするが。


「大丈夫です」


 アリシアが自信満々に言う。


「私、研究は得意ですから」

「しっかり観察して、データを取って、分析します」

「そうすれば、恋愛についても理解できるはずです」


 完全に、学問として捉えている。

 恋愛を、魔法理論と同じように研究しようとしている。

 これは、予想外の展開になってしまった。


 でも、もう止められない。

 アリシアは、完全に研究モードに入ってしまっている。


「それでは、これから観察を開始します」


 アリシアが宣言する。


「タクヤ、よろしくお願いします」

「あ、ああ」


 俺が困惑しながら答える。

 こうして、俺とリリーの関係は、アリシアの「恋愛研究」の対象になってしまった。


 これから、どんなことになるのか。

 俺は、少し不安を感じながらも、アリシアの成長を見守ることにした。


 天才魔法使いが、人間関係について学んでいく。

 それは、きっと貴重な経験になるだろう。

 俺も、その手助けができれば嬉しい。

 ただし、リリーの「愛の暴力」に巻き込まれない範囲で。


 俺は、自分の肋骨をそっと触った。

 まだ、少し痛む。

 リリーの愛情は、本当に命がけだ。


 でも、それも含めて、俺の日常なのだろう。

 魔法大学での生活は、本当に波乱万丈だ。

 でも、それが楽しくもある。


 俺は、新しい一日に向けて、前を向いて歩き続けることにした。

 仲間たちと一緒に、充実した学生生活を送っていこう。

 そして、アリシアの恋愛研究が、変な方向に行かないことを祈りながら。

 俺は、そんな日常に、少しずつ慣れていくのだった。



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