第八十話「天啓より、古代竜へ」
リリーとの一件から数日後、俺はヴァルと話をしていた。
魔法大学の中庭で、レオナルドも一緒に三人でくつろいでいる。
最近は、こうして仲間と過ごす時間が増えた。
ヴァルも人間社会に慣れてきて、普通の学生として振る舞えるようになっている。
「そういえば、タクヤ」
ヴァルが突然真剣な表情になる。
「聞いた話なんだけど、君は魔王軍の幹部を五体も倒したの」
「あ、ああ」
俺が曖昧に答える。
「まあ、そんなところかな」
実際のところ、俺が魔王軍幹部を倒したのは全て偶然だった。
運良く相手の弱点を突けたとか、仲間の協力があったからとか。そもそも、一体に関しては俺が倒したわけじゃない。
決して、俺の実力で正面から勝ったわけではない。
でも、それを説明するのは複雑すぎる。
「5体も…」
ヴァルの顔が青くなる。
「もしかして、余も倒されちゃうの?」
ヴァルがオドオドし始める。
彼の父親は魔王だから、敵対関係になる可能性があることを心配しているのだろう。何よりヴァルは魔王軍幹部だ。
「心配しなくていい」
俺がヴァルに優しく微笑む。
「友達は殺さない」
「君は俺の大切な友達だ」
本当のことを言えば、俺がヴァルと正面から戦ったら、間違いなく俺の方が粉々にされるだろう。
今まで魔王軍幹部を倒せたのは、全て偶然とタイミングの産物だ。
ヴァルの実力を考えれば、俺なんて相手にならない。
でも、それを説明する必要はない。
「本当?」
ヴァルが安心したような表情になる。
「良かった」
「余、タクヤに倒されたくないもの」
「当然だろう」
レオナルドが笑う。
「俺たちは仲間じゃないか」
「師匠が友達を傷つけるはずがない」
俺たちは話題を変えて、他愛もない雑談を続けた。
レオナルドが故郷の話をしたり、ヴァルが魔族の文化について語ったり。
平穏で、楽しい時間だった。
「そういえば」
レオナルドが思い出したように言う。
「帝国では、良い酒がたくさん作られているんです」
「大学を卒業したら、師匠たちにも飲ませてあげたいです」
「酒か」
俺が興味深そうに言う。
「俺は元の世界では、まだ未成年だったから、飲んだことがないんだ」
「この世界では、もう十九歳だから飲みまくっているが」
「余も、酒というものを飲んでみたいな」
ヴァルが単純な興味を示す。
「魔族も酒を飲むのか?」
「もちろんだよ」
ヴァルが答える。
「でも、余はまだ子供だから、飲ませてもらえないの」
「いつか、みんなで飲み会をしよう」
レオナルドが提案する。
「故郷のお酒は卒業後の楽しみにして」
俺たちは、そんな他愛もない話をしながら、中庭でのんびりと過ごしていた。
陽光が心地よくて、とても平和な午後だった。
でも、その平和は突然破られた。
「…危険」
突然、影が俺たちの前に現れた。
声をかけてきたのは、同じアドバンスクラスのクラスメイト、クロウ・シャドウテイルだった。
猫の獣人で、闇魔法を得意とする。
普段はあまり話さない、無口な少年だ。
「クロウ?」
俺が驚く。
「どうした?」
「…ここにいると死ぬ」
クロウがぽつりと言った。
相変わらず、会話が苦手そうだ。
でも、その言葉の内容は物騒だった。
「死ぬって、何のことだ?」
レオナルドが眉をひそめる。
「根拠のない話で人を不安にさせるな」
レオナルドは、信頼していない人には当たりが強い。
特に、曖昧な話や根拠のない主張に対しては、厳しく反応する傾向がある。
「…天啓」
クロウが短く答える。
「…感じる」
「天啓だと?」
レオナルドが苛立ったような声を出す。
「そんな不確かなもので」
レオナルドがクロウに掴みかかろうとした。
彼の馬鹿力で掴まれたら、クロウが怪我をしてしまう。
「やめろ、レオナルド」
俺が慌てて仲裁に入る。
「クロウを離せ」
レオナルドがしぶしぶクロウから手を離す。
「すみません、師匠」
「でも、こういう不確かな話は」
「…気にしない」
クロウが淡々と言う。
「…慣れてる」
クロウは、普段からこういう直感的な発言をして、周りから理解されないことが多いのだろう。
でも、彼の表情には、本当に何かを感じ取っているような切迫感があった。
「…それより、離れよう」
クロウが提案する。
「…すぐに」
「でも」
レオナルドがまだ納得していない様子だった。
しかし、その時。
中庭が急に暗くなった。
まるで、巨大な影が太陽を遮ったかのように。
「何だ?」
俺が空を見上げる。
そこには、信じられない光景があった。
巨大な影が、俺たちの上空に現れていた。
古代竜だった。
体長は優に50メートルを超える、途方もない巨体。
漆黒の鱗は金属のような光沢を放ち、その一枚一枚が城壁の石板ほどもある。四枚の翼が空を覆い、太陽の光を完全に遮断していた。
その存在感は、まるで空に浮かぶ山のようだった。
「古代竜!?」
レオナルドが驚愕する。
「しかも、伝説級の個体だ!」
「な、なんだあれ…」
俺の声が震える。
あまりの迫力に、足がすくんでいた。
周囲の学生たちが悲鳴を上げて逃げ惑う声が聞こえる。
古代竜が、俺たちがいた中庭めがけて急降下してくる。
その巨体が落ちてきた瞬間、地面が激しく揺れた。
轟音と共に、中庭の石畳が粉々に砕け散る。
衝撃波で、周囲の木々が根こそぎ吹き飛ばされた。
もし俺たちがクロウの警告を聞かずに、あの場所にいたら。
「…あそこにいたら、原型も残らなかった」
クロウがぽつりと呟く。
「クロウ、ありがとう」
俺が感謝を込めて言う。
「君が警告してくれなかったら、俺たちは死んでいた」
クロウが小さく頷く。
でも、まだ危険は去っていない。
古代竜は中庭に着陸すると、威嚇するような咆哮を上げた。
「グオオオオオオオオオオ!!」
その咆哮で、魔法大学の窓ガラスが一斉に砕け散る。
建物の壁に亀裂が走り、塔の一部が崩れ落ちた。
音圧だけで、学生たちが地面に倒れ込んでいる。
俺も、その圧倒的な存在感に膝が震えていた。
こんな化け物と、どうやって戦えばいいんだ。
「戦うしかないか」
俺が震える手で瞬刃ブリンクを抜く。
剣を握る手に力が入らない。
「でも、古代竜相手に…本当に勝てるのか?」
「やるしかないでしょう」
レオナルドが構える。
彼は剣は使わないが、異常な腕力がある。
それに加えて、造形魔法も使える。
でも、その表情にも緊張が見える。
「余も…全力で戦う」
ヴァルが意気込む。
魔王の息子だけあって、その魔力は計り知れない。
彼の体から、黒い魔力が溢れ出している。
「…闇魔法で援護する」
クロウも戦闘態勢に入る。
彼の影が、まるで生き物のように蠢いている。
俺たち四人が、古代竜と対峙する。
でも、相手があまりにも巨大で、圧倒的な存在感だった。
俺は正直、勝てる気がしなかった。
今まで魔王軍幹部を倒してきたとはいえ、それは全て偶然だった。
こんな正面からの戦闘では、俺の実力など通用しない。
それどころか、この場に立っているだけで精一杯だった。
古代竜が、俺たちに向かって口を開く。
その喉の奥が、赤く輝き始めた。
炎ではない。
あれは、伝説にある古代竜の業火―――全てを灰燼に帰す、絶対の破壊の炎だ。
「まずい!」
レオナルドが叫ぶ。
「土の精霊よ、我が意志に従い堅固なる壁となれ!大地の守護者よ、目覚めよ!『造形魔法:絶対防壁・大地神殿』!」
レオナルドが詠唱すると、ただの土壁ではなく、巨大な神殿のような多層構造の防壁が現れた。
その高さは20メートルを超え、幾重にも魔法陣が刻まれている。
次の瞬間、古代竜の業火がその防壁に直撃した。
轟音と共に、最初の壁が蒸発する。
二番目、三番目の壁も次々と溶解していく。
でも、レオナルドの防壁は五層構造だった。
最後の壁が、かろうじて業火を防ぎきった。
「す、すごい…」
俺が呻く。
レオナルドの魔法は、俺が知っている中でも最高レベルだった。
いや、最高レベルどころではない。
あんな業火を防げる魔法使いが、この世界に何人いるだろうか。
「まだまだだよ!」
ヴァルが前に出る。
彼の体から、禍々しい魔力が噴き出している。
「『魔王術:絶対支配・完全束縛』!」
ヴァルの魔法で、古代竜の動きが完全に止まった。
巨大な影の鎖が、龍の体を幾重にも縛り上げている。
それだけではない。
龍の周囲の空間そのものが歪み、重力が何倍にも増幅されている。
古代竜が、初めて苦しそうな声を上げた。
「グ…ルルル…」
魔王の血を引く者の力。
それは、古代竜ですら抗えない絶対的な支配力だった。
俺は、ただ茫然と見ているしかなかった。
ヴァルの魔力の前では、俺の力など無に等しい。
「…今だ」
クロウが魔法を発動する。
「闇…告げよ。影の王国…滅びの軍勢…召喚。『闇魔法:影の軍団・死神降臨』」
古代竜の周りに、無数の闇の戦士が現れた。
それぞれが、漆黒の鎧を纏った騎士のような姿をしている。
数は優に100を超える。
そして、その全てが古代竜に襲いかかった。
暗黒の刃が、次々と龍の鱗を貫いていく。
いくら古代竜でも、この物量には対応しきれない。
クロウの闇魔法は、想像を遥かに超えていた。
単なる援護ではない。
これは、一人で軍隊に匹敵する破壊力だ。
「俺も…」
俺が瞬間移動で龍に近づこうとした。
でも、足が動かない。
恐怖で、体が硬直していた。
あんな化け物に近づいたら、一瞬で殺される。
俺の瞬間移動なんて、あの巨体の前では無意味だ。
剣で斬りつけたところで、あの鱗を傷つけることすらできないだろう。
「師匠、下がってください!」
レオナルドが俺を制止する。
そして、彼は素手で古代竜に向かっていった。
「これで終わりだ!」
レオナルドの全身から、光が溢れ出す。
筋肉が更に膨張し、その体が巨人のように大きくなった。
「『剛力拳奥義:天地崩壊の一撃』!」
レオナルドの拳が、古代竜の顎を直撃した。
その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。
そして次の瞬間。
轟音と共に、50メートルを超える巨大な龍が、空高く吹き飛ばされた。
いや、吹き飛ばされたという表現では生ぬるい。
古代竜の巨体が、まるで小石のように放物線を描いて飛んでいった。
その軌跡の先で、龍は魔法大学の訓練場に激突した。
地面が大きく抉れ、クレーターができている。
「嘘だろ…」
俺が呻く。
レオナルドの馬鹿力は知っていたが、ここまでとは思わなかった。
あれは、もう人間の力ではない。
神話に出てくる英雄か、それ以上の力だ。
古代竜が地面に叩きつけられ、もがいている。
でも、その動きはもう弱々しい。
「余が止めを刺す!」
ヴァルが空中に浮上する。
彼の周囲に、巨大な魔法陣が展開された。
その大きさは、古代竜の体長に匹敵する。
「『魔王術最終奥義:絶対終焉・存在抹消』!」
ヴァルの魔法が発動すると、古代竜の体が光に包まれた。
いや、光ではない。
あれは、存在そのものが消滅していく現象だ。
古代竜が、文字通り「存在しなかった」ことにされようとしている。
「グオオオオ…」
古代竜が、最後の抵抗を試みる。
でも、無駄だった。
「…終わらせる」
クロウが淡々と言う。
「闇の終焉…全て…無に還せ。闇『魔法最終奥義:永遠の虚無』」
クロウの魔法が、ヴァルの魔法と共鳴した。
二つの魔法が融合し、更に強大な力となる。
古代竜の体が、完全に光の中に消えていった。
もう、咆哮も聞こえない。
抵抗する力も残っていない。
戦闘は、あっという間に終わった。
俺が何もする間もなく。
いや、何もできる余地すらなく。
「…終わった」
クロウがぽつりと言う。
俺は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
仲間たちの圧倒的な強さに、衝撃を受けていた。
レオナルドの怪物じみた腕力。
あれは、もう人間の域を超えている。
ヴァルの魔王級の魔法。
いや、魔王級どころではない。
あれは、まさに魔王そのものの力だ。
クロウの精密かつ圧倒的な闇魔法。
一人で軍隊に匹敵する、恐るべき破壊力。
みんな、俺なんかより遥かに強かった。
いや、比較にならないほど強かった。
俺とみんなの間には、埋めようのない絶望的な差があった。
「師匠、大丈夫ですか?」
レオナルドが心配そうに声をかけてくる。
「怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫だ」
俺が答える。
声が震えていた。
「タクヤ、すごかったな」
ヴァルが無邪気に言う。
「みんなで協力して、古代竜を倒したよ」
「…連携、良かった」
クロウも短く評価する。
でも、俺は何もしていない。
瞬間移動で近づこうとしただけで、実際の戦闘には参加できなかった。
いや、参加しようとすら思えなかった。
恐怖で、体が動かなかったのだ。
仲間たちが強すぎて、俺の出番がなかった。
いや、出番がないどころか、俺がいる意味すらなかった。
この感覚は、初めてだった。
今まで、俺は偶然とはいえ、戦闘では活躍してきた。
魔王軍幹部を倒したという実績もある。
でも、今回は完全に蚊帳の外だった。
それどころか、足手まとい以下だった。
俺は、自分の実力について考え直さざるを得なかった。
本当に、俺は仲間の役に立っているのだろうか。
それとも、ただの邪魔者なのだろうか。
俺は、深い劣等感に苛まれていた。
◇◇◇
古代竜の騒動が収まった後、俺たちは学校の職員室に呼ばれた。
マリア教授や他の教師たちが、事情聴取をするためだ。
「それで、古代竜はなぜ突然現れたのでしょうか?」
マリア教授が質問する。
「分からない」
レオナルドが答える。
「突然空から降ってきました」
「まあ、原因はともかく」
マリア教授が安堵する。
「怪我人が出なくて良かったです」
「あなたたちが迅速に対応してくれたおかげです」
「…クロウの天啓のおかげ」
クロウが小さく言う。
「そうですね」
マリア教授がクロウに向かって頷く。
「あなたの直感が、みんなを救いました」
クロウが照れたような表情を見せる。
普段無口な彼にとって、こうして褒められるのは珍しいことなのだろう。
「それにしても」
マリア教授が感心したように言う。
「伝説級の古代竜を四人で倒すなんて、信じられません」
「通常、あのクラスの古代竜を倒すには、国家レベルの討伐隊が必要なんですよ」
「特に、レオナルドさんの格闘技術は圧巻でした」
「あれほどの怪力を持つ人間を、私は見たことがありません」
「ヴァルさんの魔法も、まさに魔王級でしたね」
「あの支配魔法は、普通の魔法使いには到底真似できません」
「クロウさんの闇魔法も、驚異的でした」
「影の軍団を召喚するなんて、伝説の魔法使いクラスの技ですよ」
教師たちが、仲間たちを褒め称える。
その褒め言葉は、次から次へと続いた。
でも、俺についての言及はなかった。
俺が何もしていないから、当然だが。
それでも、胸が痛かった。
「タクヤくんも、よく…その…」
マリア教授が言葉に詰まる。
何か言おうとしているが、適切な言葉が見つからないようだった。
「チームの士気を保っていました」
結局、そう言ってくれた。
でも、それは完全に慰めの言葉だと分かった。
俺は士気なんて保っていない。
ただ、戦えずに震えているだけだった。
マリア教授の優しさが、逆に俺の惨めさを際立たせる。
俺たちは職員室を出て、寮に帰った。
仲間たちは、戦いの余韻で興奮している。
「それにしても、古代竜は強かったな」
レオナルドが言う。
「あの業火は、本当に危なかった」
「でも、みんなで協力すれば、何でも倒せそうです」
「余も、久しぶりに本気で戦った」
ヴァルが嬉しそうに言う。
「魔王術の奥義まで使ったのは、初めてだよ」
「人間たちと一緒に戦うのは、楽しいね」
「…また機会があれば」
クロウもそっけなく言う。
でも、満足そうな表情だった。
俺だけが、複雑な気持ちでいた。
いや、複雑なんて生易しいものではない。
深い劣等感と、自己嫌悪に苛まれていた。
今日の戦いで、俺の立場がはっきりした。
俺は、仲間たちの足を引っ張る存在だ。
いや、足を引っ張るどころか、存在価値すらない。
魔王軍幹部を倒したという実績があっても、それは偶然の産物だった。
正面からの戦闘では、俺は何の役にも立たない。
それどころか、恐怖で動けなくなる、臆病者だ。
この現実を、受け入れなければいけないのかもしれない。
でも、受け入れたくなかった。
俺は、こんなに弱かったのか。
こんなに情けなかったのか。
◇◇◇
その夜、俺は一人で部屋にいた。
クロエとのデートの約束があったが、今日はそんな気分になれなかった。
彼女には、体調不良だと言って断った。
嘘をついたわけではない。
精神的に、確かに調子が悪かった。
いや、最悪だった。
俺は、自分の実力について深く考えていた。
瞬間移動能力は確かに便利だ。
でも、それだけでは戦闘では通用しない。
いや、そもそも今日は瞬間移動すら使えなかった。
恐怖で、体が動かなかったから。
剣の腕も、そこそこのレベルでしかない。
古代竜の鱗を傷つけることすら不可能だろう。
魔法も使えない。
造形魔法は得意だが、それは戦闘向きではない。
俺は、本当に勇者なのだろうか。
みんなは俺を「偶然の勇者」と呼ぶ。
でも、その「偶然」が、俺の限界なのかもしれない。
いや、限界どころか、俺には実力など最初からなかったのだ。
運が良かっただけで、実力は伴っていない。
それどころか、本当の戦いでは恐怖で動けなくなる臆病者だ。
そんな俺が、クロエと結婚していいのだろうか。
彼女を守ることができるのだろうか。
いや、守れるはずがない。
俺には、誰も守れない。
自分すら守れないのに。
俺は、深い自己嫌悪に陥っていた。
胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪えていた。
でも、そんな時。
扉がノックされた。
「タクヤくん?」
クロエの声だった。
「体調が悪いって聞いたので、心配で来ました」
俺は扉を開けた。
クロエが、本当に心配そうな表情で立っている。
手には、薬草茶の入ったポットと、温かいスープが入った籠を持っていた。
「大丈夫ですか?」
クロエが優しく尋ねる。
「顔色が悪いです…何も食べていないんじゃないですか?」
「ああ、大丈夫だ」
俺が答える。
声が掠れていた。
でも、クロエは俺の表情を見て、すぐに何かを感じ取ったようだった。
「…何か、辛いことがあったんですね」
クロエが優しく言う。
「無理に話さなくてもいいです」
「でも、一人で抱え込まないでください」
そう言って、クロエは部屋に入ってきた。
スープとお茶をテーブルに置いて、俺の隣に座る。
「ボクで良ければ、話を聞きますよ」
「何も言いたくなければ、ただそばにいるだけでもいいです」
クロエの優しさが、俺の心を溶かしていく。
「クロエ…」
俺の声が震える。
「俺は…弱いんだ」
ついに、言葉が溢れ出した。
「今日の戦いで、俺は何もできなかった」
「いや、何もできなかったどころじゃない。恐怖で動けなかった」
「みんなが必死で戦っているのに、俺は震えることしかできなかった」
クロエが静かに俺の話を聞いている。
その優しい眼差しが、俺の心を解きほぐしていく。
「レオナルドは、古代竜を素手で吹き飛ばした」
「ヴァルは、魔王級の魔法で竜を支配した」
「クロウは、一人で軍隊に匹敵する闇魔法を使った」
「でも俺は…何もできなかった」
「魔王軍幹部を倒したって実績も、全部偶然だったんだ」
「本当の戦いでは、俺は何の役にも立たない」
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
でも、もう限界だった。
「俺みたいな弱い奴が、お前を守れるのか?」
「お前を幸せにできるのか?」
「俺は…」
クロエが、突然俺を抱きしめた。
優しく、でも力強く。
「タクヤくん」
クロエが静かに言う。
「あなたは、弱くなんかありません」
「ボクが知っているタクヤくんは、いつも誰かのために頑張っている人です」
「今日だって、仲間を信じて、サポートしようとしていたじゃないですか」
「でも…」
「戦闘力だけが強さじゃありません」
クロエが俺の顔を両手で包む。
その手は、温かかった。
「タクヤくんは、誰よりも優しくて、誰よりも人のことを考えられる人です」
「お母さんを救ったのも、ヴァルさんと友達になったのも、タクヤくんの優しさがあったからです」
「それは、どんな強い魔法よりも、どんな強い力よりも、大切なものだと思います」
クロエの言葉が、俺の心に染み込んでいく。
「それに」
クロエが微笑む。
「守る、守られるっていうのは、一方通行じゃないと思うんです」
「ボクもタクヤくんを守りたいし、タクヤくんに守られたいです」
「お互いに支え合うのが、本当の関係だと思います」
「だから、一人で全部背負おうとしないでください」
クロエが、俺の頭を優しく撫でる。
「辛い時は辛いって言ってください」
「弱い時は弱いって言ってください」
「それを受け止めるのが、ボクの役目です」
「愛する人が苦しんでいるのに、何もしないなんて、私にはできません」
クロエの優しさが、俺の心を包み込む。
涙が溢れてきた。
もう、堪えることができなかった。
「すまない…クロエ…」
俺が泣きながら言う。
「情けないところを見せて」
「いいんです」
クロエが優しく言う。
「ボクの前では、何を見せてもいいんです」
「強がる必要なんて、ありません」
俺は、クロエの胸で泣いた。
今日の恐怖も、劣等感も、自己嫌悪も、全部吐き出すように。
クロエは、ただ黙って俺を抱きしめていてくれた。
優しく背中を撫でながら。
どれくらい時間が経っただろうか。
俺の涙が止まった頃、クロエが言った。
「少し落ち着きましたか?」
「ああ…ありがとう」
俺が答える。
「さあ、温かいうちにスープを飲んでください」
クロエがスープを差し出す。
「体が冷えると、心まで冷えてしまいますから」
俺は、クロエが作ってくれたスープを飲んだ。
魔野菜と獣肉の旨味が染み出た、優しい味だった。
その温かさが、体の中に広がっていく。
「美味しい」
俺が正直に言う。
「良かった」
クロエが嬉しそうに微笑む。
「タクヤくんのために、一生懸命作りました」
俺は、クロエの優しさに救われた気がした。
この人は、俺の全てを受け入れてくれている。
強い俺も、弱い俺も。
「クロエ」
俺がクロエの手を握る。
「君がいてくれて、本当に良かった」
「君がいなければ、俺はきっと潰れていた」
「ボクこそ」
クロエが俺の手を握り返す。
「タクヤくんがいてくれて、幸せです」
「どんなタクヤくんでも、私は愛しています」
「強くても、弱くても、それは変わりません」
クロエが、俺の額に優しくキスをする。
「だから、一緒に歩んでいきましょう」
「辛い時は一緒に泣いて、嬉しい時は一緒に笑って」
「それが、ボクたちの関係です」
俺は、クロエとの時間に癒された。
自分の実力に悩むことはあっても、愛する人がいる。
支えてくれる人がいる。
それだけで、頑張る理由になる。
「ありがとう、クロエ」
俺がもう一度言う。
「本当に、ありがとう」
「いいえ」
クロエが優しく微笑む。
「これからも、ずっと一緒ですよ」
その夜、俺はクロエと一緒に過ごした。
彼女は、俺が眠るまでそばにいてくれた。
優しく手を握りながら、子守唄のように柔らかい声で話しかけてくれた。
俺は、クロエの優しさに包まれながら、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
そして、眠りにつく前に思った。
俺は、もう一度自分を見つめ直そう。
戦闘では役に立たないかもしれない。
でも、他に俺にできることがあるはずだ。
クロエが言ったように、強さには色々な形がある。
それを見つけて、仲間たちの役に立とう。
そして何より、クロエを幸せにしよう。
俺は、そう決意を新たにした。
クロエという、かけがえのない存在がいる。
それだけで、俺は前を向ける。
どんなに弱くても、どんなに情けなくても。
愛する人のために、俺は頑張れる。
俺は、クロエの手を握りながら、静かに眠りについた。
明日からまた、新しい一日が始まる。
今日よりも、少しだけ強くなれるように。
クロエのような優しさを、持てるように。
俺は、そんなことを考えながら、眠りの中へと落ちていった。




