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第八十話「天啓より、古代竜へ」

 

 リリーとの一件から数日後、俺はヴァルと話をしていた。

 魔法大学の中庭で、レオナルドも一緒に三人でくつろいでいる。

 最近は、こうして仲間と過ごす時間が増えた。


 ヴァルも人間社会に慣れてきて、普通の学生として振る舞えるようになっている。


「そういえば、タクヤ」


 ヴァルが突然真剣な表情になる。


「聞いた話なんだけど、君は魔王軍の幹部を五体も倒したの」

「あ、ああ」


 俺が曖昧に答える。


「まあ、そんなところかな」


 実際のところ、俺が魔王軍幹部を倒したのは全て偶然だった。

 運良く相手の弱点を突けたとか、仲間の協力があったからとか。そもそも、一体に関しては俺が倒したわけじゃない。


 決して、俺の実力で正面から勝ったわけではない。

 でも、それを説明するのは複雑すぎる。


「5体も…」


 ヴァルの顔が青くなる。


「もしかして、余も倒されちゃうの?」


 ヴァルがオドオドし始める。


 彼の父親は魔王だから、敵対関係になる可能性があることを心配しているのだろう。何よりヴァルは魔王軍幹部だ。


「心配しなくていい」


 俺がヴァルに優しく微笑む。


「友達は殺さない」

「君は俺の大切な友達だ」


 本当のことを言えば、俺がヴァルと正面から戦ったら、間違いなく俺の方が粉々にされるだろう。

 今まで魔王軍幹部を倒せたのは、全て偶然とタイミングの産物だ。

 ヴァルの実力を考えれば、俺なんて相手にならない。


 でも、それを説明する必要はない。


「本当?」


 ヴァルが安心したような表情になる。


「良かった」

「余、タクヤに倒されたくないもの」


「当然だろう」


 レオナルドが笑う。


「俺たちは仲間じゃないか」

「師匠が友達を傷つけるはずがない」


 俺たちは話題を変えて、他愛もない雑談を続けた。


 レオナルドが故郷の話をしたり、ヴァルが魔族の文化について語ったり。


 平穏で、楽しい時間だった。


「そういえば」


 レオナルドが思い出したように言う。


「帝国では、良い酒がたくさん作られているんです」

「大学を卒業したら、師匠たちにも飲ませてあげたいです」

「酒か」


 俺が興味深そうに言う。


「俺は元の世界では、まだ未成年だったから、飲んだことがないんだ」

「この世界では、もう十九歳だから飲みまくっているが」

「余も、酒というものを飲んでみたいな」


 ヴァルが単純な興味を示す。


「魔族も酒を飲むのか?」

「もちろんだよ」


 ヴァルが答える。


「でも、余はまだ子供だから、飲ませてもらえないの」

「いつか、みんなで飲み会をしよう」


 レオナルドが提案する。


「故郷のお酒は卒業後の楽しみにして」


 俺たちは、そんな他愛もない話をしながら、中庭でのんびりと過ごしていた。

 陽光が心地よくて、とても平和な午後だった。


 でも、その平和は突然破られた。


「…危険」


 突然、影が俺たちの前に現れた。


 声をかけてきたのは、同じアドバンスクラスのクラスメイト、クロウ・シャドウテイルだった。

 猫の獣人で、闇魔法を得意とする。

 普段はあまり話さない、無口な少年だ。


「クロウ?」


 俺が驚く。


「どうした?」


「…ここにいると死ぬ」


 クロウがぽつりと言った。


 相変わらず、会話が苦手そうだ。

 でも、その言葉の内容は物騒だった。


「死ぬって、何のことだ?」


 レオナルドが眉をひそめる。


「根拠のない話で人を不安にさせるな」


 レオナルドは、信頼していない人には当たりが強い。

 特に、曖昧な話や根拠のない主張に対しては、厳しく反応する傾向がある。


「…天啓」


 クロウが短く答える。


「…感じる」

「天啓だと?」


 レオナルドが苛立ったような声を出す。


「そんな不確かなもので」


 レオナルドがクロウに掴みかかろうとした。

 彼の馬鹿力で掴まれたら、クロウが怪我をしてしまう。


「やめろ、レオナルド」


 俺が慌てて仲裁に入る。


「クロウを離せ」


 レオナルドがしぶしぶクロウから手を離す。


「すみません、師匠」

「でも、こういう不確かな話は」

「…気にしない」


 クロウが淡々と言う。


「…慣れてる」


 クロウは、普段からこういう直感的な発言をして、周りから理解されないことが多いのだろう。

 でも、彼の表情には、本当に何かを感じ取っているような切迫感があった。


「…それより、離れよう」


 クロウが提案する。


「…すぐに」

「でも」


 レオナルドがまだ納得していない様子だった。


 しかし、その時。

 中庭が急に暗くなった。

 まるで、巨大な影が太陽を遮ったかのように。


「何だ?」


 俺が空を見上げる。

 そこには、信じられない光景があった。

 巨大な影が、俺たちの上空に現れていた。


 古代竜だった。

 体長は優に50メートルを超える、途方もない巨体。

 漆黒の鱗は金属のような光沢を放ち、その一枚一枚が城壁の石板ほどもある。四枚の翼が空を覆い、太陽の光を完全に遮断していた。

 その存在感は、まるで空に浮かぶ山のようだった。


「古代竜!?」


 レオナルドが驚愕する。


「しかも、伝説級の個体だ!」

「な、なんだあれ…」


 俺の声が震える。

 あまりの迫力に、足がすくんでいた。

 周囲の学生たちが悲鳴を上げて逃げ惑う声が聞こえる。


 古代竜が、俺たちがいた中庭めがけて急降下してくる。

 その巨体が落ちてきた瞬間、地面が激しく揺れた。

 轟音と共に、中庭の石畳が粉々に砕け散る。


 衝撃波で、周囲の木々が根こそぎ吹き飛ばされた。

 もし俺たちがクロウの警告を聞かずに、あの場所にいたら。


「…あそこにいたら、原型も残らなかった」


 クロウがぽつりと呟く。


「クロウ、ありがとう」


 俺が感謝を込めて言う。


「君が警告してくれなかったら、俺たちは死んでいた」


 クロウが小さく頷く。

 でも、まだ危険は去っていない。

 古代竜は中庭に着陸すると、威嚇するような咆哮を上げた。


「グオオオオオオオオオオ!!」


 その咆哮で、魔法大学の窓ガラスが一斉に砕け散る。

 建物の壁に亀裂が走り、塔の一部が崩れ落ちた。

 音圧だけで、学生たちが地面に倒れ込んでいる。


 俺も、その圧倒的な存在感に膝が震えていた。

 こんな化け物と、どうやって戦えばいいんだ。


「戦うしかないか」


 俺が震える手で瞬刃ブリンクを抜く。

 剣を握る手に力が入らない。


「でも、古代竜相手に…本当に勝てるのか?」

「やるしかないでしょう」


 レオナルドが構える。


 彼は剣は使わないが、異常な腕力がある。

 それに加えて、造形魔法も使える。

 でも、その表情にも緊張が見える。


「余も…全力で戦う」


 ヴァルが意気込む。

 魔王の息子だけあって、その魔力は計り知れない。

 彼の体から、黒い魔力が溢れ出している。


「…闇魔法で援護する」


 クロウも戦闘態勢に入る。

 彼の影が、まるで生き物のように蠢いている。

 俺たち四人が、古代竜と対峙する。


 でも、相手があまりにも巨大で、圧倒的な存在感だった。

 俺は正直、勝てる気がしなかった。

 今まで魔王軍幹部を倒してきたとはいえ、それは全て偶然だった。


 こんな正面からの戦闘では、俺の実力など通用しない。

 それどころか、この場に立っているだけで精一杯だった。


 古代竜が、俺たちに向かって口を開く。

 その喉の奥が、赤く輝き始めた。

 炎ではない。

 あれは、伝説にある古代竜の業火―――全てを灰燼に帰す、絶対の破壊の炎だ。


「まずい!」


 レオナルドが叫ぶ。


「土の精霊よ、我が意志に従い堅固なる壁となれ!大地の守護者よ、目覚めよ!『造形魔法:絶対防壁・大地神殿』!」


 レオナルドが詠唱すると、ただの土壁ではなく、巨大な神殿のような多層構造の防壁が現れた。

 その高さは20メートルを超え、幾重にも魔法陣が刻まれている。


 次の瞬間、古代竜の業火がその防壁に直撃した。

 轟音と共に、最初の壁が蒸発する。

 二番目、三番目の壁も次々と溶解していく。


 でも、レオナルドの防壁は五層構造だった。

 最後の壁が、かろうじて業火を防ぎきった。


「す、すごい…」


 俺が呻く。

 レオナルドの魔法は、俺が知っている中でも最高レベルだった。

 いや、最高レベルどころではない。

 あんな業火を防げる魔法使いが、この世界に何人いるだろうか。


「まだまだだよ!」


 ヴァルが前に出る。

 彼の体から、禍々しい魔力が噴き出している。


「『魔王術:絶対支配・完全束縛』!」


 ヴァルの魔法で、古代竜の動きが完全に止まった。

 巨大な影の鎖が、龍の体を幾重にも縛り上げている。


 それだけではない。

 龍の周囲の空間そのものが歪み、重力が何倍にも増幅されている。

 古代竜が、初めて苦しそうな声を上げた。


「グ…ルルル…」


 魔王の血を引く者の力。

 それは、古代竜ですら抗えない絶対的な支配力だった。


 俺は、ただ茫然と見ているしかなかった。

 ヴァルの魔力の前では、俺の力など無に等しい。


「…今だ」


 クロウが魔法を発動する。


「闇…告げよ。影の王国…滅びの軍勢…召喚。『闇魔法:影の軍団・死神降臨』」


 古代竜の周りに、無数の闇の戦士が現れた。

 それぞれが、漆黒の鎧を纏った騎士のような姿をしている。

 数は優に100を超える。


 そして、その全てが古代竜に襲いかかった。

 暗黒の刃が、次々と龍の鱗を貫いていく。

 いくら古代竜でも、この物量には対応しきれない。


 クロウの闇魔法は、想像を遥かに超えていた。

 単なる援護ではない。

 これは、一人で軍隊に匹敵する破壊力だ。


「俺も…」


 俺が瞬間移動で龍に近づこうとした。


 でも、足が動かない。

 恐怖で、体が硬直していた。

 あんな化け物に近づいたら、一瞬で殺される。

 俺の瞬間移動なんて、あの巨体の前では無意味だ。

 剣で斬りつけたところで、あの鱗を傷つけることすらできないだろう。


「師匠、下がってください!」


 レオナルドが俺を制止する。

 そして、彼は素手で古代竜に向かっていった。


「これで終わりだ!」


 レオナルドの全身から、光が溢れ出す。

 筋肉が更に膨張し、その体が巨人のように大きくなった。


「『剛力拳奥義:天地崩壊の一撃』!」


 レオナルドの拳が、古代竜の顎を直撃した。


 その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。


 そして次の瞬間。

 轟音と共に、50メートルを超える巨大な龍が、空高く吹き飛ばされた。


 いや、吹き飛ばされたという表現では生ぬるい。

 古代竜の巨体が、まるで小石のように放物線を描いて飛んでいった。

 その軌跡の先で、龍は魔法大学の訓練場に激突した。


 地面が大きく抉れ、クレーターができている。


「嘘だろ…」


 俺が呻く。


 レオナルドの馬鹿力は知っていたが、ここまでとは思わなかった。

 あれは、もう人間の力ではない。

 神話に出てくる英雄か、それ以上の力だ。


 古代竜が地面に叩きつけられ、もがいている。

 でも、その動きはもう弱々しい。


「余が止めを刺す!」


 ヴァルが空中に浮上する。

 彼の周囲に、巨大な魔法陣が展開された。

 その大きさは、古代竜の体長に匹敵する。


「『魔王術最終奥義:絶対終焉・存在抹消』!」


 ヴァルの魔法が発動すると、古代竜の体が光に包まれた。

 いや、光ではない。

 あれは、存在そのものが消滅していく現象だ。

 古代竜が、文字通り「存在しなかった」ことにされようとしている。


「グオオオオ…」


 古代竜が、最後の抵抗を試みる。

 でも、無駄だった。


「…終わらせる」


 クロウが淡々と言う。


「闇の終焉…全て…無に還せ。闇『魔法最終奥義:永遠の虚無』」


 クロウの魔法が、ヴァルの魔法と共鳴した。

 二つの魔法が融合し、更に強大な力となる。

 古代竜の体が、完全に光の中に消えていった。


 もう、咆哮も聞こえない。

 抵抗する力も残っていない。

 戦闘は、あっという間に終わった。


 俺が何もする間もなく。

 いや、何もできる余地すらなく。


「…終わった」


 クロウがぽつりと言う。

 俺は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 仲間たちの圧倒的な強さに、衝撃を受けていた。


 レオナルドの怪物じみた腕力。

 あれは、もう人間の域を超えている。


 ヴァルの魔王級の魔法。

 いや、魔王級どころではない。

 あれは、まさに魔王そのものの力だ。

 

 クロウの精密かつ圧倒的な闇魔法。

 一人で軍隊に匹敵する、恐るべき破壊力。


 みんな、俺なんかより遥かに強かった。

 いや、比較にならないほど強かった。

 俺とみんなの間には、埋めようのない絶望的な差があった。


「師匠、大丈夫ですか?」


 レオナルドが心配そうに声をかけてくる。


「怪我はありませんか?」

「ああ、大丈夫だ」


 俺が答える。

 声が震えていた。


「タクヤ、すごかったな」


 ヴァルが無邪気に言う。


「みんなで協力して、古代竜を倒したよ」

「…連携、良かった」


 クロウも短く評価する。

 でも、俺は何もしていない。

 瞬間移動で近づこうとしただけで、実際の戦闘には参加できなかった。


 いや、参加しようとすら思えなかった。

 恐怖で、体が動かなかったのだ。

 仲間たちが強すぎて、俺の出番がなかった。

 いや、出番がないどころか、俺がいる意味すらなかった。


 この感覚は、初めてだった。

 今まで、俺は偶然とはいえ、戦闘では活躍してきた。

 魔王軍幹部を倒したという実績もある。


 でも、今回は完全に蚊帳の外だった。

 それどころか、足手まとい以下だった。

 俺は、自分の実力について考え直さざるを得なかった。


 本当に、俺は仲間の役に立っているのだろうか。

 それとも、ただの邪魔者なのだろうか。

 俺は、深い劣等感に苛まれていた。


 


◇◇◇




 古代竜の騒動が収まった後、俺たちは学校の職員室に呼ばれた。

 マリア教授や他の教師たちが、事情聴取をするためだ。


「それで、古代竜はなぜ突然現れたのでしょうか?」


 マリア教授が質問する。


「分からない」


 レオナルドが答える。


「突然空から降ってきました」

「まあ、原因はともかく」


 マリア教授が安堵する。


「怪我人が出なくて良かったです」

「あなたたちが迅速に対応してくれたおかげです」

「…クロウの天啓のおかげ」


 クロウが小さく言う。


「そうですね」


 マリア教授がクロウに向かって頷く。


「あなたの直感が、みんなを救いました」


 クロウが照れたような表情を見せる。

 普段無口な彼にとって、こうして褒められるのは珍しいことなのだろう。


「それにしても」


 マリア教授が感心したように言う。


「伝説級の古代竜を四人で倒すなんて、信じられません」

「通常、あのクラスの古代竜を倒すには、国家レベルの討伐隊が必要なんですよ」


「特に、レオナルドさんの格闘技術は圧巻でした」

「あれほどの怪力を持つ人間を、私は見たことがありません」

「ヴァルさんの魔法も、まさに魔王級でしたね」

「あの支配魔法は、普通の魔法使いには到底真似できません」

「クロウさんの闇魔法も、驚異的でした」

「影の軍団を召喚するなんて、伝説の魔法使いクラスの技ですよ」


 教師たちが、仲間たちを褒め称える。

 その褒め言葉は、次から次へと続いた。


 でも、俺についての言及はなかった。

 俺が何もしていないから、当然だが。

 それでも、胸が痛かった。


「タクヤくんも、よく…その…」


 マリア教授が言葉に詰まる。

 何か言おうとしているが、適切な言葉が見つからないようだった。


「チームの士気を保っていました」


 結局、そう言ってくれた。

 でも、それは完全に慰めの言葉だと分かった。

 俺は士気なんて保っていない。


 ただ、戦えずに震えているだけだった。

 マリア教授の優しさが、逆に俺の惨めさを際立たせる。


 俺たちは職員室を出て、寮に帰った。

 仲間たちは、戦いの余韻で興奮している。


「それにしても、古代竜は強かったな」


 レオナルドが言う。


「あの業火は、本当に危なかった」

「でも、みんなで協力すれば、何でも倒せそうです」

「余も、久しぶりに本気で戦った」


 ヴァルが嬉しそうに言う。


「魔王術の奥義まで使ったのは、初めてだよ」

「人間たちと一緒に戦うのは、楽しいね」

「…また機会があれば」


 クロウもそっけなく言う。

 でも、満足そうな表情だった。

 俺だけが、複雑な気持ちでいた。


 いや、複雑なんて生易しいものではない。

 深い劣等感と、自己嫌悪に苛まれていた。

 今日の戦いで、俺の立場がはっきりした。


 俺は、仲間たちの足を引っ張る存在だ。

 いや、足を引っ張るどころか、存在価値すらない。

 魔王軍幹部を倒したという実績があっても、それは偶然の産物だった。


 正面からの戦闘では、俺は何の役にも立たない。

 それどころか、恐怖で動けなくなる、臆病者だ。

 この現実を、受け入れなければいけないのかもしれない。


 でも、受け入れたくなかった。

 俺は、こんなに弱かったのか。

 こんなに情けなかったのか。




◇◇◇




 その夜、俺は一人で部屋にいた。

 クロエとのデートの約束があったが、今日はそんな気分になれなかった。


 彼女には、体調不良だと言って断った。

 嘘をついたわけではない。

 精神的に、確かに調子が悪かった。


 いや、最悪だった。


 俺は、自分の実力について深く考えていた。

 瞬間移動能力は確かに便利だ。

 でも、それだけでは戦闘では通用しない。


 いや、そもそも今日は瞬間移動すら使えなかった。

 恐怖で、体が動かなかったから。

 剣の腕も、そこそこのレベルでしかない。


 古代竜の鱗を傷つけることすら不可能だろう。

 魔法も使えない。

 造形魔法は得意だが、それは戦闘向きではない。


 俺は、本当に勇者なのだろうか。

 みんなは俺を「偶然の勇者」と呼ぶ。

 でも、その「偶然」が、俺の限界なのかもしれない。


 いや、限界どころか、俺には実力など最初からなかったのだ。

 運が良かっただけで、実力は伴っていない。

 それどころか、本当の戦いでは恐怖で動けなくなる臆病者だ。


 そんな俺が、クロエと結婚していいのだろうか。

 彼女を守ることができるのだろうか。

 いや、守れるはずがない。

 俺には、誰も守れない。

 自分すら守れないのに。


 俺は、深い自己嫌悪に陥っていた。

 胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。

 涙が溢れそうになるのを、必死で堪えていた。


 でも、そんな時。

 扉がノックされた。


「タクヤくん?」


 クロエの声だった。


「体調が悪いって聞いたので、心配で来ました」


 俺は扉を開けた。


 クロエが、本当に心配そうな表情で立っている。

 手には、薬草茶の入ったポットと、温かいスープが入った籠を持っていた。


「大丈夫ですか?」


 クロエが優しく尋ねる。


「顔色が悪いです…何も食べていないんじゃないですか?」

「ああ、大丈夫だ」


 俺が答える。


 声が掠れていた。

 でも、クロエは俺の表情を見て、すぐに何かを感じ取ったようだった。


「…何か、辛いことがあったんですね」


 クロエが優しく言う。


「無理に話さなくてもいいです」

「でも、一人で抱え込まないでください」


 そう言って、クロエは部屋に入ってきた。

 スープとお茶をテーブルに置いて、俺の隣に座る。


「ボクで良ければ、話を聞きますよ」

「何も言いたくなければ、ただそばにいるだけでもいいです」


 クロエの優しさが、俺の心を溶かしていく。


「クロエ…」


 俺の声が震える。


「俺は…弱いんだ」


 ついに、言葉が溢れ出した。


「今日の戦いで、俺は何もできなかった」

「いや、何もできなかったどころじゃない。恐怖で動けなかった」

「みんなが必死で戦っているのに、俺は震えることしかできなかった」


 クロエが静かに俺の話を聞いている。

 その優しい眼差しが、俺の心を解きほぐしていく。


「レオナルドは、古代竜を素手で吹き飛ばした」

「ヴァルは、魔王級の魔法で竜を支配した」

「クロウは、一人で軍隊に匹敵する闇魔法を使った」

「でも俺は…何もできなかった」

「魔王軍幹部を倒したって実績も、全部偶然だったんだ」

「本当の戦いでは、俺は何の役にも立たない」


 涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。

 でも、もう限界だった。


「俺みたいな弱い奴が、お前を守れるのか?」

「お前を幸せにできるのか?」

「俺は…」


 クロエが、突然俺を抱きしめた。

 優しく、でも力強く。


「タクヤくん」


 クロエが静かに言う。


「あなたは、弱くなんかありません」

「ボクが知っているタクヤくんは、いつも誰かのために頑張っている人です」

「今日だって、仲間を信じて、サポートしようとしていたじゃないですか」

「でも…」

「戦闘力だけが強さじゃありません」


 クロエが俺の顔を両手で包む。


 その手は、温かかった。


「タクヤくんは、誰よりも優しくて、誰よりも人のことを考えられる人です」

「お母さんを救ったのも、ヴァルさんと友達になったのも、タクヤくんの優しさがあったからです」

「それは、どんな強い魔法よりも、どんな強い力よりも、大切なものだと思います」


 クロエの言葉が、俺の心に染み込んでいく。


「それに」


 クロエが微笑む。


「守る、守られるっていうのは、一方通行じゃないと思うんです」

「ボクもタクヤくんを守りたいし、タクヤくんに守られたいです」

「お互いに支え合うのが、本当の関係だと思います」

「だから、一人で全部背負おうとしないでください」


 クロエが、俺の頭を優しく撫でる。


「辛い時は辛いって言ってください」

「弱い時は弱いって言ってください」

「それを受け止めるのが、ボクの役目です」

「愛する人が苦しんでいるのに、何もしないなんて、私にはできません」


 クロエの優しさが、俺の心を包み込む。

 涙が溢れてきた。

 もう、堪えることができなかった。


「すまない…クロエ…」


 俺が泣きながら言う。


「情けないところを見せて」

「いいんです」


 クロエが優しく言う。


「ボクの前では、何を見せてもいいんです」

「強がる必要なんて、ありません」


 俺は、クロエの胸で泣いた。


 今日の恐怖も、劣等感も、自己嫌悪も、全部吐き出すように。

 クロエは、ただ黙って俺を抱きしめていてくれた。

 優しく背中を撫でながら。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 俺の涙が止まった頃、クロエが言った。


「少し落ち着きましたか?」

「ああ…ありがとう」


 俺が答える。


「さあ、温かいうちにスープを飲んでください」


 クロエがスープを差し出す。


「体が冷えると、心まで冷えてしまいますから」


 俺は、クロエが作ってくれたスープを飲んだ。

 魔野菜と獣肉の旨味が染み出た、優しい味だった。

 その温かさが、体の中に広がっていく。


「美味しい」


 俺が正直に言う。


「良かった」


 クロエが嬉しそうに微笑む。


「タクヤくんのために、一生懸命作りました」


 俺は、クロエの優しさに救われた気がした。

 この人は、俺の全てを受け入れてくれている。

 強い俺も、弱い俺も。


「クロエ」


 俺がクロエの手を握る。


「君がいてくれて、本当に良かった」

「君がいなければ、俺はきっと潰れていた」

「ボクこそ」


 クロエが俺の手を握り返す。


「タクヤくんがいてくれて、幸せです」

「どんなタクヤくんでも、私は愛しています」

「強くても、弱くても、それは変わりません」


 クロエが、俺の額に優しくキスをする。


「だから、一緒に歩んでいきましょう」

「辛い時は一緒に泣いて、嬉しい時は一緒に笑って」

「それが、ボクたちの関係です」


 俺は、クロエとの時間に癒された。


 自分の実力に悩むことはあっても、愛する人がいる。

 支えてくれる人がいる。

 それだけで、頑張る理由になる。


「ありがとう、クロエ」


 俺がもう一度言う。


「本当に、ありがとう」

「いいえ」


 クロエが優しく微笑む。


「これからも、ずっと一緒ですよ」


 その夜、俺はクロエと一緒に過ごした。

 彼女は、俺が眠るまでそばにいてくれた。

 優しく手を握りながら、子守唄のように柔らかい声で話しかけてくれた。

 俺は、クロエの優しさに包まれながら、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。


 そして、眠りにつく前に思った。

 俺は、もう一度自分を見つめ直そう。

 戦闘では役に立たないかもしれない。

 でも、他に俺にできることがあるはずだ。


 クロエが言ったように、強さには色々な形がある。

 それを見つけて、仲間たちの役に立とう。

 そして何より、クロエを幸せにしよう。


 俺は、そう決意を新たにした。

 クロエという、かけがえのない存在がいる。

 それだけで、俺は前を向ける。


 どんなに弱くても、どんなに情けなくても。

 愛する人のために、俺は頑張れる。

 俺は、クロエの手を握りながら、静かに眠りについた。


 明日からまた、新しい一日が始まる。

 今日よりも、少しだけ強くなれるように。

 クロエのような優しさを、持てるように。


 俺は、そんなことを考えながら、眠りの中へと落ちていった。

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