第七十話「雪菜の再来」
生命の花を無事に採取できた俺たちは、王都への帰路についていた。
ミアが手配してくれた馬車で、のんびりとした旅路を楽しんでいる。
馬車の中では、三人で他愛もない話をしていた。
「それにしても、無事に花を見つけることができて良かったわね」
ミアが安堵の表情を見せる。
「これで、クロエさんのお母さんも助かるでしょう」
「本当にありがとうございました」
ルナがミアに深く頭を下げる。
俺は心から満足していた。人を救えた喜び、仲間と過ごす穏やかな時間、すべてが完璧だった。
「ミアさんがいなければ、私たちだけでは無理でした」
「気にしないで」
ミアが手を振る。
「困った人を助けるのは当然のことよ」
暖かい午後の日差しが馬車を包み、俺は久しぶりに心の底からリラックスしていた。
雪菜の恐怖から逃れ、新しい仲間と築いた友情、そして愛する家族との未来への希望。
すべてが順風満帆だった。
「ミア」
俺が話しかける。
「君はなぜ王国騎士団になったんだ?」
「なぜって?」
ミアが少し考える表情を見せる。
「そうね、話したことなかったかしら」
ミアが馬車の窓の外を見つめながら話し始めた。
美しい草原が流れていく。平和そのものの風景だった。
「私の父は、昔王国騎士団の団長だったの」
「団長?」
俺が驚く。
「それはすごい地位だな」
「ええ、とても立派な騎士だった」
ミアの表情が少し暗くなる。
「でも、五年前に魔王軍の襲撃で戦死したの」
「そんな…」
ルナが同情する。
「それは辛い経験でしたね」
「父を殺したのは、魔王軍の幹部の一人よ」
ミアが拳を握りしめる。
「いつか必ず、父の敵を討つ」
「それが、私が騎士になった理由」
俺たちの会話は続いた。
過去の話、未来の夢、ささやかな日常の出来事。
こんな平凡で温かい時間が、俺にとっては何よりも大切だった。
馬車は順調に王都に向かって進んでいた。
御者も慣れた様子で馬を操っている。
平和で穏やかな時間だった。
俺は久しぶりに、心からリラックスしていた。
雪菜の脅威から逃れて、仲間と一緒に人助けをして、新しい友情も深まった。
こんな日常が、いつまでも続けばいいのに。
そんな幸せな想いに浸っていた時だった——
突然、御者の男性が奇妙な声を上げた。
「あ…あああ…」
振り返ると、御者の体が真っ赤に染まっている。
血ではない。
何か別の、不気味で禍々しい赤い光だった。まるで地獄の炎のような、見る者の魂を凍らせる異様な輝き。
「御者さん!」
ルナが心配して声をかける。
でも、御者は答えない。
その代わりに、苦悶の表情を浮かべながら、まるで内側から焼かれているかのように身体を震わせている。
そして、次の瞬間——御者の体が煙のように消え去った。
まるで存在そのものを否定されたかのように、跡形もなく。
「えっ?」
俺たちが困惑していると、馬も同じように赤い光に包まれた。
馬たちの悲鳴が響く中、彼らもまた煙となって消滅した。
平和だった世界が、一瞬で悪夢へと変わった。
馬車だけが宙に浮いている。
いや、違う。
馬車も徐々に傾き始めている。
「危ない!」
俺が叫ぶ。
馬車が地面に激突する寸前、俺たちは慌てて飛び降りた。
ガラガラと大きな音を立てて、馬車が横転する。
幸せだった午後が、一瞬で破綻した。
「何が起こったの?」
ミアが辺りを警戒する。
「魔法の攻撃?」
「でも、敵の姿が見えない」
ルナが魔法の準備をする。
俺も瞬刃ブリンクを抜いて、周囲を見回した。
心臓が激しく鼓動している。
まさか、いや、そんなはずは…
その時、馬車の屋根の上に人影が現れた。
黒い長髪をなびかせた、美しい女性。
でも、その美しさには狂気が宿っている。
まるで美しい花に毒があるように、見た目の麗しさとは裏腹に、その存在そのものが死と絶望を運んでくる。
俺の血の気が引いた。世界が一瞬で色を失った。
「雪菜…」
「拓也くん♡」
雪菜が甘い声で俺の名前を呼ぶ。
その声は蜜のように甘いが、同時に毒蛇の舌先のように冷たい。
「久しぶりですね♡」
雪菜が馬車から優雅に飛び降りる。
その動きには、人間離れした軽やかさがあった。
まるで舞い踊る死神のように。
「ずっと、ずぅっと会いたかったです♡」
雪菜の目が、異常な愛情で輝いている。
いや、愛情というより執着、いや、それよりもさらに歪んだ何か。
所有欲が狂気に変質したもの。
「毎日毎日、拓也くんのことばかり考えていました♡」
雪菜がゆっくりと歩いてくる。
一歩一歩が、俺の心臓を締め付ける。
「朝起きた瞬間から、夜眠りにつくその瞬間まで♡」
雪菜の笑顔が、段々と狂気を帯びてくる。
「食事の時も、拓也くんと一緒にいることを想像して♡ お風呂の時も、拓也くんの肌の温もりを思い出して♡ 夜は拓也くんの名前を呼びながら…」
「やめろ!」
俺が叫ぶ。
「どうして、私から逃げるんですか?」
雪菜の表情が一瞬で変わった。
愛情から、深い悲しみに。
そしてその悲しみが、瞬く間に殺意に変質する。
「私がどれだけ拓也くんを愛しているか、わからないんですか?♡」
俺は絶望した。
せっかく築き上げた平和な日常が、一瞬で崩れ去った。
こんな場所で、こんなタイミングで、よりによって仲間たちがいる時に…
「雪菜、なんでここに…」
俺が震え声で尋ねる。
「決まってるじゃないですか♡」
雪菜が微笑む。
でも、その笑顔は恐ろしく冷たい。まるで氷の女王のように、美しいが触れれば凍死するような。
「拓也くんを迎えに来たんです♡」
雪菜が両手を広げる。
「私が用意した愛の巣で、ずっと一緒にいましょう♡ 誰にも邪魔されない、私たちだけの世界で♡」
「私が拓也くんのすべてになって、拓也くんが私のすべてになるの♡」
「誰よ、あの女」
ミアが警戒する。
「知り合い?」
「俺の…従姉だ」
俺が苦しそうに答える。
「でも、もう関係ない」
「関係ない?」
雪菜の表情が一瞬で変わった。
愛情から、殺意に。その変化があまりにも急激で、まるで別人のようだった。
「拓也くんは私のものです♡」
雪菜の声が低くなる。
「生まれた時から、死ぬ時まで、永遠に、絶対に♡」
「拓也くんの髪の毛一本一本、爪の欠片一つまで、すべて私のもの♡」
「拓也くんの心臓の鼓動も、呼吸も、考えることも、すべて私だけのため♡」
雪菜が俺を見つめる。
その視線は、まるで獲物を狙う捕食者のようだった。いや、それよりもさらに恐ろしい。
愛する者を完全に支配したい、狂った所有者の眼差し。
「ところで」
雪菜がゆっくりとミアとルナを見る。
その瞬間、辺りの気温が急激に下がったような気がした。
「拓也くんの純潔を奪った汚らわしい雌豚は、どちらですか?♡」
雪菜の声には、氷のような冷たさがあった。
「私の拓也くんを汚した害虫は♡」
雪菜の手が、ゆっくりと光り始める。
殺意に満ちた魔力が集中している。
「純潔って…」
ミアが困惑する。
「この女、頭がおかしいんじゃない?」
「おかしいのは、私の拓也くんに汚い手で触れたお前です♡」
雪菜がミアを睨みつける。
その瞬間、殺気が辺りに満ちた。草花が枯れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「私の拓也くんは完璧でした♡ 美しくて、純粋で、穢れを知らない天使のような存在でした♡ あとは、私と繋がれば… 」
「それなのに、お前のような下等生物が——」
雪菜の魔力がさらに膨らむ。
「許さない♡ 絶対に許さない♡」
「逃げるぞ!」
俺が叫んで、三人で走り出す。
でも、雪菜の方が速い。
瞬間移動のような速さで、一瞬で俺たちの前に回り込んできた。
「逃がしません♡」
雪菜が俺たちを睨む。
その眼光には、地獄の業火のような憎悪が宿っている。
「私の拓也くんを汚した害虫は、必ず殺します♡」
「ゆっくりと、苦痛を与えながら♡」
「内臓を一つずつ取り出して、拓也くんの前で食べてあげます♡」
「どっちですか?」
雪菜が再び尋ねる。
「教えてくれれば、もう一人は少しだけ楽に死なせてあげます♡」
俺とルナが顔を見合わせる。
雪菜は俺とルナが夫婦だということを知らないのか?
いや、知っていても認めたくないのかもしれない。
その時、ミアが前に出た。
「私よ」
ミアがはっきりと宣言する。
「私が拓也と関係を持った」
「ミア!」
俺が驚く。
「何を言って…」
「黙って」
ミアが俺を制止する。そして、雪菜に向き直った。
「拓也は私の恋人よ」
「文句があるなら、私にかかってきなさい」
俺は理解した。
ミアは、ルナを守ろうとしているのだ。
ルナには家族がいる。リオネルという赤ちゃんがいる。
でも、ミアには家族がいない。だから、自分が犠牲になろうとしているのだ。
「ミア、ダメだ」
俺が止めようとする。
「君まで巻き込むわけにはいかない」
「いいのよ」
ミアが振り返って微笑む。
「あなたたちには、守るべき家族がいるでしょう?」
「私は一人だから」
ミアの優しさが、俺の胸に響いた。
でも、同時に別の感情も湧き上がった。
悪い考えが、俺の頭をよぎる。
ルナさえ助かればいい。
ルナと子供が無事なら、それでいい。
ミアには申し訳ないが…
いや、ダメだ。
そんなことを考えちゃいけない。
ミアも大切な仲間だ。彼女を見捨てるわけにはいかない。
「そうですか♡」
雪菜が嬉しそうに微笑む。
「それなら、あなたから殺してあげます♡」
「でも、すぐに殺しちゃつまらないですね♡」
雪菜が指を舐める。
その仕草が異常に艶めかしく、同時に恐ろしい。
「まずは、手足の指を一本ずつ折ってあげましょう♡」
「その間、拓也くんにはしっかりと見ていてもらいます♡」
「私がどれだけ嫉妬しているか、理解してもらうために♡」
雪菜がミアに向かって歩き始める。
一歩一歩がゆっくりと、まるで死刑執行人のように。
「それから、髪の毛を一本残らず抜いてあげます♡」
「目玉もくり抜いて♡」
「最後に、心臓を——」
その瞬間、俺は決断した。
最後の手段を使う時が来た。
「強制転移」
俺が叫んで、能力を発動する。
これは、俺が持つ切り札だった。
一度使ったら、一週間は瞬間移動が使えなくなる。そして、使った相手には使えない技。
一年前、雪菜から逃げる時に使った。
光が俺の周りを包み、ミアとルナが巻き込まれる。
「タクヤさん!」
ルナが叫ぶ。
「何をするの!」
ミアも驚いている。
「二人とも、安全な場所に逃げてくれ」
俺が叫び返す。
「クロエの母親を、頼む」
光が弾けて、ミアとルナが消え去った。
恐らく、王都の安全な場所に転移されたはずだ。
そして、その場には俺と雪菜だけが残された。
静寂が辺りを包む。
まるで世界に俺たち二人しかいないかのように。
「あらあら♡」
雪菜が手を叩いて喜ぶ。
その笑顔があまりにも純真で、狂気じみていた。
「拓也くん、やっぱり私のことを愛してるんですね♡」
「他の女を逃がして、私を選んでくれた♡」
「私たちの愛は、やっぱり本物だったんですね♡」
「違う」
俺が否定する。
「俺は君を愛していない」
「そんなことありません♡」
雪菜が俺に近づいてくる。その瞳が、愛情と狂気で輝いている。
「拓也くんは私のものです♡」
「ずっと昔から、ずっと♡」
「小さい頃、一緒にお風呂に入った時から♡」
「拓也くんの身体を見た瞬間から、私の心は決まっていました♡」
俺は後ずさりするが、雪菜の方が速い。
あっという間に捕まってしまった。
雪菜の腕が俺の身体に回される。
その腕の力は、異常に強い。逃れることができない。
「久しぶりの再会です♡」
雪菜が俺を抱きしめる。
「これで、やっと二人きりになれました♡」
雪菜が俺の耳元で囁く。その息も氷のように冷たい。
「永遠に、一緒にいましょう♡」
「私が用意した場所に行きましょう♡」
「そこには、拓也くんの似顔絵が千枚以上飾ってあります♡」
「拓也くんが使っていた物も、全部集めました♡」
「歯ブラシも、髪の毛も、爪の欠片も♡」
「拓也くんの匂いのついた服も、ベッドの上に全部並べてあります♡」
雪菜の告白が続く。
その一つ一つが、俺の絶望を深くしていく。
「毎晩、拓也くんの絵にキスをして、拓也くんの匂いを嗅いで、拓也くんの名前を呼んで——」
「やめてくれ」
俺が懇願する。
「でも、もう大丈夫♡」
雪菜が俺の頬に口づけする。
その唇は氷のように冷たく、同時に火のように熱い。
「本物の拓也くんが、私の手の中にいます♡」
「これからは、毎日毎日、朝から晩まで一緒♡」
「拓也くんが眠っている時も、起きている時も、ずっと見つめていてあげます♡」
「拓也くんが息をするのも、まばたきするのも、すべて私だけのもの♡」
俺の運命は、ここで決まってしまうのか。
雪菜に捕まり、狂気の愛に囚われて。
でも、ルナとミアは助かった。それだけは良かった。
生命の花も、きっと二人がクロエの母親に届けてくれるだろう。
「さあ、行きましょう♡」
雪菜が俺を抱えて歩き始める。
俺は雪菜に連れ去られながら、最後まで仲間のことを考えていた。
そして、自分の運命を呪った。
平和だった午後は、永遠に戻ってこない。
俺の自由も、もう二度と戻ってこないのかもしれない。
雪菜の狂った愛の中で、俺は生きた屍となるのだろう。
永遠に、絶望的に。




