第一話「たまたま倒しただけなのに、勇者!?」
木の上。俺は枝の間に無理矢理体を押し込み、息を殺していた。
もちろん雪菜に見つからないために。
下では雪菜がきょろきょろと辺りを探している。
ちらっと見えたその目は、獲物を狩る捕食者の目だった。
よし…今度こそ巻いたはずだ…!
心臓がドクドクと鳴る。汗が頬をつたう。
だが次の瞬間――
「……ふふっ♡」
雪菜が笑った。
「拓也くんの匂い……します♡」
鳥肌が立った。
まるで犬か獣のように鼻をすんすん鳴らし、森の中を歩き回る雪菜。
怖すぎて、俺の震えで木が揺れた。
やがて、俺の真下に立ち止まると、ゆっくりと顔を上げた。
「見ーつけた♡」
ゾワリと背筋が凍る。
雪菜の目は暗い森の中で異様な光り、やはり捕食者そのものだった。
木とともに俺の体は激しく揺れた。
雪菜のポケットから孤独のように出てきたのは、包丁だった。
それを――ドンッドンッ。木の幹に突き刺し、俺を地面に落とすつもりだ。
「拓也くん、危険ですよ。おとなしく降りてきなさい♡」
その声に恐怖よりも先に、怒りが込み上げた。
危険なのは…お前だよっ!!
瞬間移動で一度地面に降りる。雪菜から三十メートル離れた木陰だ。
そして次は、頭上の太い枝に移動。
何か…何か雪菜を止める方法は…!
辺りを見回すと、手の届く範囲に巨大な石がいくつか転がっていた。
これだ。上から落とせば…!
俺は震える手で石を掴み、雪菜の真上に瞬間移動した。
今度は違う木の、もっと高い枝の上だ。
「拓也くん、どこにいるんですか〜♡」
雪菜は包丁を振り回しながら、のんびりと歩いている。
これを落とせば…あいつは…。
躊躇った。でも、こうするしか。
その頭上に向けて、俺は石を――
ガサッ!
背後から何かが迫ってくる気配。
振り返ると、黒い影が俺に向かって飛びかかってくる。
魔獣だ。
狼のような体に、トカゲのような尻尾。牙は俺の喉元に向かって一直線。
死ぬ!
咄嗟に瞬間移動で回避する。移動先は隣の木の枝。
魔獣は勢いに任せて俺がいた場所を通り過ぎ――そのまま地面に向かって墜落した。
ドガッ!
鈍い音とともに、石が魔獣の頭部へ直撃。俺が雪菜に投げようとしていた石だった。
魔獣はそのまま動かなくなってしまった。
「ギャオオオオオオッ!」
魔獣の断末魔の叫び声が森に響く。
いや、違う。まだ生きている魔獣がいるのか?
「拓也くん! 今の音は何ですか!?」
雪菜が駆けつけてくる。
やばい、やばい、やばい!
俺は慌てて瞬間移動を繰り返す。木から木へ、岩から岩へ。
でも、体力がどんどん削られていく。この能力、使うたび疲れるのか。
「ギャアアアア!」
また魔獣の鳴き声。今度は複数だ。
仲間を呼んでるのか?
俺は必死に移動し続ける。森の奥へ、奥へ。
雪菜の声がだんだん遠くなる。
「拓也くーん♡ どこにいるんですかー♡」
その声が聞こえなくなったところで、俺はついに限界を迎えた。
足がもつれ、視界がぼやける。
気がつくと、俺は見知らぬ草原の真ん中に倒れていた。
頭上には青い空と白い雲。どれくらい移動したんだ?
体を起こそうとするが、全身に鉛が詰まったように重い。
瞬間移動の連続使用で、体力を完全に使い果たしたらしい。
意識が薄れていく。
最後に見えたのは、俺に向かって走ってくる人影だった。
◇◇◇
「起きた?」
優しい声に導かれて目を開けると、見知らぬ天井があった。
石造りの小さな家で、窓から暖かい日差しが差し込んでくる。
俺の顔を覗き込んでいたのは、茶色の髪にショートカットにした少女だった。
年は俺と同じくらいか。雪菜とは正反対の、人懐っこそうな笑顔を浮かべている。
「よかった。三日間も眠り続けていたから心配してたの」
「三日間…?」
声がかすれる。
少女は枕元のコップを取り、俺の唇に水を含ませてくれた。
「わたし、エリカっていうの。あなたの名前は?」
「拓也…です」
「タクヤ? 変わった名前ね。でも覚えやすいわ」
エリカは屈託のない笑顔で答える。
雪菜の完璧すぎる美しさとは違う、親しみやすい可愛らしさがあった。
「ここは…どこですか?」
「カレン村よ。森の外れにある小さな村。タクヤは森で倒れてたの。村の人たちが見つけて、ここに運んでくれたのよ」
森で倒れてた…そうか、瞬間移動で逃げた後、力尽きたんだった。
「あ、そうそう! タクヤのおかげで村が救われたのよ」
「え?」
「ブラックウルフの群れが村を襲おうとしてたの。でも、森の奥で全部倒されてたのよ。きっとタクヤがやったのよね?」
ブラックウルフ…あの魔獣のことか?
まさか俺が倒したって…?
「いや、俺は何も…」
「謙遜しないで。村長さんも言ってたの。
『森の奥から魔物の断末魔が聞こえて、それが止んだ後は静寂が戻った』って」
エリカの目がキラキラと輝いている。
まるで英雄を見るような眼差しだった。
でも俺がやったのは、魔獣から逃げるために瞬間移動しただけ…
石が当たって一匹死んだのは、完全に偶然だ。
「それで…その、お礼をしたいって村のみんなが」
「お礼なんて…」
「当分の間、この村にいない? 家も用意するし、食事も心配いらないわ」
住む場所…
そうか、俺には帰る場所がないんだった。
元の世界に帰る方法もわからないし、何より雪菜がいる。
この村なら、しばらく身を隠せるかもしれない。
「ありがとうございます…お世話になります」
「やった! 久しぶりに同年代の人が来てくれて嬉しいの。この村、お年寄りばっかだから」
エリカは本当に嬉しそうに手を叩いた。
その時、部屋の扉がノックされる。
「エリカ、様子はどうだい?」
「村長さん、起きましたよ!」
扉を開けて入ってきたのは、白いひげを生やした老人だった。
いかにも村長という風格で、杖をついてゆっくりと歩いてくる。
「おお、気がついたか、勇者よ」
「勇者…?」
「そうとも。君がブラックウルフの群れを倒してくれたおかげで、村は平和になった。君は間違いなく勇者だ」
勇者って…俺が?
「でも俺は…」
「謙遜するな。森の奥で起きたことは、我々にもわかっている。魔物たちの雄叫びが響き、沈黙が訪れた。それは勇者の剣が邪悪を打ち滅ぼした証拠だ」
完全に誤解されている。
でも、この状況でそれを否定するのも難しい。
「実は、隣の町からも使者が来ておる。最近、魔物の被害が増えてるそうでな。君のような勇者に助けを求めているのだ」
「え…でも俺は…」
「タクヤ! すごいじゃない!」
エリカが興奮している。
俺は頭を抱えた。
雪菜から逃げただけなのに、なぜか勇者扱いされている。
しかも他の町からも依頼が来るって…
そんな俺の耳に、遠くから聞こえてきた声があった。
「拓也くーん♡ どこにいるんですかー♡」
血の気が引いた。
あの声は…雪菜だ。
まさか、ここまで追いかけてきたのか?
「タクヤ? どうしたの? 顔が真っ青よ?」
エリカが心配そうに覗き込む。
「い、いえ…何でもありません」
でも、心臓は早鐘のようになり続けていた。
結局、どこに逃げても雪菜から逃れることはできないのか…




