第百三話「雪原の小屋」
ヴァルに背負われながら雪山を駆けていると、周囲の景色に愕然とした。
一面真っ白な世界が、どこまでも続いている。
しかも、雪の降り方が尋常ではない。
まるで空から雪の壁が落ちてくるような、激しい降雪だった。
「ここって北大陸のどの辺りなんだ?」
背中越しに問いかけると、ヴァルの声に心配が混じっていた。
「北側じゃないかな。けど、山脈よりの北の方だと思う」
血の気が引いた。
イラリア大陸の北側。
その言葉を聞いて、過去に読んだ資料のことを思い出したのだ。
イラリア大陸は、大陸を分断するかのように真ん中に巨大な山脈が走っている。
その山脈を境に、南側と北側では全く環境が違うのだ。
南側には色々な生物が住んでいて、冬でも適度な雪が降る比較的住みやすい場所だ。
でも、北側は違う。
北側は一年中雪が降り続けている、本当の豪雪地帯なのだ。
そして、過去の資料によると、生身で北側にいた人間は生きて帰れないほど寒い。
つまり、今の俺たちは死の領域にいる。
やばい。
超やばい。
「やばい」
声に出すと、自分がどれほど焦っているかが分かった。
この寒さは、想像以上に厳しい。
しかも、上半身が半裸状態だ。
シャツをヴァルが囮として置いてきたからだ。
あの作戦のおかげで、あの二人は追ってきていないと思うが、結局死んでしまいそうだ。
火魔法で体を温めているが、魔力量にも限界がある。
このままでは、凍え死んでしまうかもしれない。
敵から逃げ切ったと思ったら、大自然に殺される。
なんという理不尽。
「『初級火魔法:フレイム』」
体の周りに温かい炎が灯る。
それで、一時的に寒さを和らげることができた。でも、これは応急処置に過ぎない。
魔力を使い続ければ、いずれ枯渇してしまう。
「タクヤ、大丈夫か?」
ヴァルの心配そうな声が背中から響く。
俺の体が震えているのが分かるのだろう。
「なんとか」
強がってみせたが、実際には全然大丈夫じゃない。
寒さが骨身に染みて、意識が朦朧としてきている。
まずい。
このままでは本当に死ぬ。
「余に何かできることはないか?」
必死に考えているのが伝わってくる。
でも、彼にも対処法が思いつかないようだった。
「魔族は寒さに強いが、人族を温める方法は分からない」
申し訳なさそうな声色だった。
確かに、ヴァルは寒さを全く気にしていない。
魔族の体質は、人間とは根本的に違うのだ。
羨ましい。
いや、今は羨んでる場合じゃない。
このまま雪山を駆け続けても、俺の体力が持たない。
何か避難できる場所を見つけなければ。
「あそこに何か見える」
雪の向こうに目を凝らす。
吹雪の中、ぼんやりと建物の影が見えた。小屋のようなものだ。
神は俺を見捨てていなかった。
「小屋だ。あそこに避難しよう」
ヴァルは、その小屋に向かって走り出した。
近づいてみると、それは雪菜とリリーがいた小屋とは全く違う建物だった。
レンガでできた、しっかりとした造りの小屋だ。
煙突からは煙が上がっていて、中で火を焚いているのが分かる。
暖かそうな、温もりのある小屋だった。
「誰か住んでいるようだ」
希望がある。
住人がいるなら、助けを求められるかもしれない。少なくとも、暖を取らせてもらえるだろう。
人がいるということは、この極寒の地でも生活できる術があるということだ。
本当に希望が見えてきた。
「でも、その前に」
ヴァルが立ち止まった。
そして、彼の体が、ゆっくりと変化し始めた。
普段の優しそうな魔族の姿から、全く違う外見に変わっていく。
身長が伸び、筋肉が発達し、顔立ちが整っていく。最終的に、ヴァルはバチクソイケメンな青年の姿になった。
「すげえ」
思わず感嘆の声が漏れた。
ヴァルの変身ぶりは、想像以上だった。
まるで別人のように美形になっている。
これが変身能力か。
便利すぎる。
「余のもう一つの特殊体質だよ」
ヴァルの声も、大人っぽい低い声に変わっている。
「体を自由に変形させることができるんだ」
「なぜ変身したんだ?」
疑問が浮かぶ。
普段のヴァルでも十分だったのに。
「魔族の姿では警戒されるかもしれないからね。
人族の姿なら、受け入れてもらいやすいよ」
確かに、それは賢い判断だ。
魔族に対して偏見を持つ人間もいる。
俺もそうだったように。
人間の姿なら、より安心してもらえるかもしれない。
◇ ◇ ◇
俺たちは、小屋の扉に向かった。
震える手で、扉をノックする。
「すみません。助けてください」
しばらくして、扉の向こうから声が聞こえた。
「…誰」
女性の声だった。
若い声だが、どこか覇気のない、淡々とした響きだ。
人がいた。
助かった。
「遭難しました。凍え死にそうなんです」
扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、確かに十代後半くらいの女の子だった。
白い髪を持つ、雪のように美しい少女。
でも、その瞳には生気が薄く、どこか虚ろな印象を受ける。
イラリア大陸の厳しい環境で育ったせいか、表情も乏しい。
でも、俺の姿を見た瞬間、彼女の目が僅かに見開いた。
「…変態」
女の子が小さく呟いて、扉を閉めようとする。
声のトーンは低く、抑揚もない。
でも、確実に拒絶の意思が込められていた。
ちょっと待て。
確かに、俺は上半身半裸だった。
彼女から見れば、怪しい男に見えるのも当然だろう。
でも変態はひどくないか?
これには事情があるんだ。
「待ってください。助けてください、お願いします」
必死の叫びに、女の子が扉を少し開けた。
その隙間から、彼女の無表情な瞳が覗く。
「…本当に遭難したの?
変な人じゃない…よね」
「本当です。このままだと死んでしまいます」
震え声と、青ざめた顔色を見て、女の子は事態の深刻さを理解したようだった。
よかった。
信じてもらえた。
「…分かった。でも、変なことしたら…追い出すから」
その声には、威圧感も怒りもない。
ただ、淡々と事実を述べているだけだ。
「ありがとうございます」
感謝の言葉が自然と口から溢れた。
ようやく、暖かい場所に避難することができる。
小屋の中に入ると、暖炉の火が俺を迎えてくれた。
その温もりが、凍えた体に染み渡る。
「ああ、暖かい」
安堵のため息をつく。
生き返った気分だった。
本当に助かった。
このまま外にいたら間違いなく死んでいた。
「…服、貸してあげる」
「でも、お父さんの服は…ない」
その瞬間、彼女の声が僅かに震えた。
お父さんという言葉を口にした時だけ、感情が揺れたのだ。
ん?
何か事情がありそうだ。
「女物しかないけど…いい?」
「構いません」
即答した。
この状況で、服の種類など問題ではない。
とにかく体を覆えるものがあれば、それで十分だ。
女装する羽目になるとは思わなかったが、背に腹は代えられない。
女の子は、奥から服を持ってきてくれた。
確かに女性用の服だったが、暖房用のどちらでも着れそうなものだった。
厚手のセーターのような服で、十分暖かそうだ。
「ありがとうございます」
服を受け取り、それを着ると、ようやく人心地ついた。
寒さから解放されて、意識もはっきりしてきた。
命拾いした。
「ところで…どうして遭難したの」
躊躇した。
雪菜とリリーのことを、どう説明すればいいのだろうか。
真実を話すと、複雑すぎて信じてもらえないかもしれない。
でも、嘘をつくわけにもいかない。
「実は、俺を愛している女性二人に監禁されていたんです」
「…監禁」
「はい。
二人とも、俺への愛情が異常で、俺を独占しようとして、他の人を傷つけようとしました」
雪菜とリリーの狂気について簡潔に説明した。
もちろん、魔族やヤンデレの詳しい部分は省いて、理解しやすいように話した。
我ながら、なんて説明しづらい状況だ。
「それで、友人に助けられて逃げてきたんです」
ヴァルを指す。
「…そう。…大変だったね」
彼女は、俺の話を信じてくれたようだった。
きっと、俺の必死な表情が真実を物語っていたのだろう。
よかった。
変な誤解を受けずに済んだ。
「でも…よく逃げられたね。
その二人…相当しつこそうだけど」
淡々とした口調だが、心配してくれているのが分かる。
「本当に危険な目に遭いました。
友人がいなかったら、今頃どうなっていたか」
ヴァルの方を見ると、彼は微笑んで頷いた。
変身後のイケメン姿でも、彼の優しさは変わらない。
◇ ◇ ◇
「ところで、お名前を教えていただけませんか?」
女の子が視線を少し逸らす。
「…ユリエル」
ユリエル。
確かに、この雪の世界にふさわしい名前だった。
白い髪と、雪のような肌を持つ彼女にぴったりの名前だ。
まるで雪の精霊みたいな名前だ。
「ユリエルさん、ありがとうございます」
「…別に。困ってる人を助けるのは…当たり前だし」
その声は相変わらず淡々としているが、頬が僅かに赤くなっている。
ダウナー系ツンデレの反応だ。
可愛い反応だな。
「でも、ユリエルさんは、どうしてこんな場所にいるんですか?」
この極寒のイラリア大陸で、一人で暮らしているのは不自然だ。
何か理由があるはずだ。
「お父さんと…二人暮らし。この小屋で…ずっと」
その瞬間、彼女の表情が僅かに柔らかくなった。
お父さんの話題になると、明らかに反応が変わる。
相当なファザコンの可能性がある。
「お父さんは…どこに?」
小屋の中には、お父さんの気配がない。
「それが――」
ユリエルの声が、初めて大きく震えた。
彼女の目に、不安の色が浮かぶ。
「一週間前に…狩りに出てから…戻ってきてない」
俺とヴァルは、顔を見合わせた。
一週間前から行方不明。
この極寒のイラリア大陸で、それは非常に危険な状況だ。
まずい。
これは…。
「狩りに?
どんな狩りに出かけたんですか?」
「食料の調達…この辺りには、雪ウサギや氷鳥がいるの。
お父さんはいつも…それを捕まえて…食料にしてた」
お父さんの話をする時、ユリエルの声が少しだけ明るくなる。
でも、すぐにまた沈んでしまう。
「でも…今回は…いつもより長い。
普通なら…二日もあれば…戻ってくるはずなのに」
一週間も戻らないとなると、何かトラブルが起こった可能性が高い。
怪我をしたか、道に迷ったか、あるいは――
いや、考えたくないが、最悪の可能性もある。
「でも…お父さんは…必ず戻ってくる。
お父さんは…強いから…きっと…」
その声は、震えていた。
彼女自身も、お父さんの身に何かが起こったのではないかと心配しているのだ。
でも、それを認めたくない。
お父さんへの信頼と、現実への不安が、彼女の中で葛藤している。
俺とヴァルは、再び顔を見合わせた。
二人とも、同じことを考えている。
一週間も戻らないということは、お父さんに何かが起こった可能性が高い。
この極寒のイラリア大陸で、一週間も生き延びるのは非常に困難だ。
でも、ユリエルの前でそんなことは言えない。
彼女の希望を砕くようなことは、言いたくない。
「きっと、お父さんは、どこかで天候の回復を待っているんですよ。
この吹雪では、移動も困難でしょうから」
優しく答えると、ユリエルの表情が少し明るくなった。
せめて希望を持たせてあげたい。
「…そう…だよね。
お父さんは…慎重な人だから…危険な時は…無理しない」
ユリエルが自分に言い聞かせるように呟く。
でも、その声には確信がない。
心の奥底では、彼女も最悪の事態を覚悟しているのかもしれない。
「お父さんは…いつもあたしを…守ってくれた」
その声には、深い愛情が込められている。
「この寒い場所でも…お父さんがいれば…怖くなかった。
お父さんと一緒なら…どこでも…大丈夫だって…思ってた」
ユリエルのファザコンぶりが、言葉の端々に表れている。
彼女にとって、お父さんは世界の全てなのだろう。
その気持ち、痛いほど分かる。
大切な人を失う不安は、誰にでもある。
◇ ◇ ◇
「余たちも、お父さんを探さない?」
ヴァルが変身後の低い声で、優しく話しかける。
ユリエルが驚いて顔を上げた。
「…え?」
「余たちも、この辺りの地理を知りたいと思っていたよ。
一緒に探せば、見つかる可能性も高くなるんじゃないかな」
ヴァルの提案に、俺も同意した。
確かに、お父さんを探すことはユリエルのためになる。
そして、俺たちも安全な場所を見つける必要がある。
一石二鳥の提案だった。
「…本当?」
ユリエルの目が、初めて輝いた。
でも、すぐにまた曇る。
「でも…危険…この辺りは…人間が生きていけないほど…寒い」
俺たちを心配してくれているのか。
優しい子だ。
「大丈夫です。俺たちも、ここまで来れたんですから」
「それに、一人で探すより、複数で探した方が安全だよね」
ユリエルは、しばらく考えていた。
お父さんを探したい気持ちと、俺たちを危険にさらしたくない気持ちが葛藤しているのだろう。
「…分かった。でも…無理は…しないで。
危険だと思ったら…すぐに引き返して」
「約束します」
ユリエルの優しさが、嬉しかった。俺たちを心配してくれている。
「それに――」
ユリエルが視線を逸らしながら、小さく呟く。
「あなたたちが…いてくれれば…一人で待ってるより…いいかも」
ユリエルのダウナー系ツンデレな一面が、微笑ましい。
素直になれない性格のようだが、根は優しい子だ。
ダウナー系ツンデレ。
新しいジャンルだ。
「ありがとうございます。
俺たちも、ユリエルさんがいてくれれば心強いです」
「…別に。あなたたちの…ためじゃなくて。
お父さんを探すために…仕方なく…」
典型的なツンデレの反応に、思わず微笑んでしまう。
この厳しい環境でも、彼女の可愛らしさは失われていない。
「でも…今日は遅いから…明日に。
夜の雪山は…もっと危険」
「そうですね」
今日は、この小屋で休ませてもらおう。
そして、明日からお父さんの捜索を始めればいい。
夜の雪山なんて、確実に死ねる。
「あ…でも、寝る場所が…問題。
この小屋は…狭いから」
「俺たちは床でも構いません。
暖炉の近くで寝かせてもらえれば、十分です」
「…それは…ダメ。風邪…ひいちゃう」
彼女の優しさが、また表れた。
初対面の俺たちを、本当に心配してくれている。
いい子だな、本当に。
「じゃあ、どうしましょうか?」
確かに、小屋は狭そうだった。三人で寝るには、少し窮屈かもしれない。
「…仕方ない。あたしのベッドを…貸してあげるから…そこで寝て」
「じゃあ、ユリエルさんは?」
「あたしは…椅子で」
それでは彼女が可哀想だ。
「それはダメです。ユリエルさんのベッドは、ユリエルさんが使ってください。俺たちは本当に床で大丈夫ですから」
「…うーん」
ユリエルが悩む。
彼女なりに、最善の解決策を考えているのだろう。
しばらく考えた後、ユリエルが小さく提案した。
「じゃあ…みんなで…一つのベッドで」
ちょっと待て。
「え?」
「…仕方ない…でしょ」
ユリエルが視線を逸らす。
「べ…別に…変な意味じゃ…ないから。
ただ…みんなが風邪をひかないための…合理的な…判断」
ユリエルの提案は、確かに合理的だった。
三人で一つのベッドで寝れば、体温で暖め合うことができる。
この極寒の夜を乗り切るには、最善の方法かもしれない。
でも、男二人と女の子一人で一つのベッドって、どうなんだ?
いや、確かに合理的だが。
というか、ヴァルがいてくれて助かった。
俺一人だったら完全に変態扱いされていただろう。
「分かりました。ありがとうございます」
「だから…お礼なんて…合理的な判断を…しただけ…」
その頬が、僅かに赤くなっている。
可愛い。
◇ ◇ ◇
こうして、俺たちはユリエルの小屋で一夜を過ごすことになった。
雪菜とリリーの魔の手から逃れて、新たな出会いがあった。
ユリエルという、お父さんを深く愛する優しい少女との出会い。
そして、明日からは彼女のお父さんを探す旅が始まる。
心は、複雑だった。
雪菜との一件で、罪悪感を抱いている。
でも、今はユリエルを助けることに集中しよう。
彼女のお父さんを見つけて、安心させてあげたい。
これも、俺にできる贖罪の一つかもしれない。
暖炉の火が、小屋の中を温かく照らしていた。
外では相変わらず吹雪が続いているが、ここは安全だった。
ユリエルの優しさに包まれて、久しぶりに安心することができた。
でも、心の奥底では分かっている。
ユリエルのお父さんは、もう戻ってこないかもしれない。
一週間も連絡がないということは、それだけ深刻な状況だ。
この極寒の地で一週間。
生き延びられる確率は、かなり低い。
でも、希望を捨てるわけにはいかない。
ユリエルのためにも、最後まで探し続けよう。
そう決意しながら、俺はユリエルとの出会いに感謝していた。
この過酷な北大陸で、こんなに優しい人と出会えるとは思わなかった。
きっと、これも運命なのだろう。
ヤンデレから逃げて、ファザコン少女を助ける展開になるとは。
人生、何が起こるか分からないものだ。




