第百二話「あだけた取引」
雪菜とリリーの不気味な笑い声が響く小屋の中で、俺は絶望的な現実と向き合っていた。
結局このままでは、エリカも、ルナも、クロエも、オルテンシアも危険にさらされる。
俺の大切な家族が、この狂った二人に殺されてしまう。
そんなことは、絶対に阻止しなければならない。
でも、俺は拘束されていて身動きが取れない。
この状況で、俺にできることは何だろうか。
必死に考えた結果、俺は一つの希望に賭けることにした。
「おい」
二人に向かって声をかける。
「どうしたら俺を逃がしてくれるんだ?」
二人が、俺の質問に興味深そうに振り返る。
「あら、拓也くん♡
交渉しようっていうんですか♡?」
「ふふ♡ やっと私たちに目を向けてくれたんですね♡」
彼女の瞳が、異常なまでに輝いている。
まるで、ずっと待ち望んでいた瞬間が訪れたかのように。
「そうかな♡
タクヤがわたしたちと取引したいかな」
「やっと、やっと私たちだけを見てくれるかな♡」
小さな体が、期待に震えている。
その様子は、普通の8歳児とは明らかに違う。
狂気と執着に満ちた、異常な愛情だ。
心の中で祈った。
きっと、何か条件があるはずだ。
二人とも俺を愛している以上、完全に不可能な条件は出さないだろう。
そう信じたかった。
「私を妊娠させてくれたら、逃がしてあげます♡」
にっこりと笑いながら答える。
その笑顔は、悪魔のように美しく、そして恐ろしい。
「そうすれば、拓也くんの子供ができます♡」
「血の繋がった家族になれるんです♡」
「拓也くんの遺伝子が、私の中で育つんです♡
考えただけで、もう幸せで死にそう♡」
雪菜が自分の下腹部に手を当てる。
まるで、既にそこに子供がいるかのように。
心臓が止まりそうになった。
彼女の条件は、俺が最も避けたかったものだった。
肉体関係を持つなど、考えただけでも嫌悪感が湧き上がる。
「リリーはどうなんだ?」
リリーの条件の方がマシだと信じたい。
けど、彼女も同じような条件を出すのだろうか。
「わたしも同じ気持ちかな」
「でも、わたしはまだ小さいから」
自分の体を見下ろしている。
確かに、彼女はまだ8歳だ。
どんなに狂っていても、そこまでは求めないだろう。
「だから、今は我慢するかな」
「でも、いつか必ずタクヤの子供を産むかな」
「5年後、10年後、絶対に♡」
リリーの瞳が、狂おしいほどの執着を映し出している。
彼女は本気だった。
将来的には、雪菜と同じことを望んでいる。
「今は軽く頭を撫でる程度で逃がしてあげるかな」
意外にも、比較的軽い条件で拍子抜けした。
リリーのことだから、「一生抱きいて過ごす」や「息ができなくなるまでキス」とか考えていた。
考えすぎか。
「でも、それは今だけの特別かな」
「次の時は、もっと要求するかな♡」
頭を撫でるだけなら、まだマシだ。
でも、どちらの条件も受け入れたくなかった。
雪菜の条件は論外だし、リリーの条件だって、彼女の狂気を認めることになる。
ルーシーを殺した彼女を、受け入れることになる。
「どっちもしたくない」
「それをするくらいなら、ここで死んだほうがマシだ」
俺は本気だ。
ここで舌を噛み切る勇気だってある。
自分の尊厳を売り渡してまで、生き延びたくない。
たとえ家族を守るためでも、越えてはいけない線がある。
「あら、そうですか♡」
残念そうな表情の裏側、その表情には余裕がある。
まるで、俺が最終的に屈することを確信しているかのように。
「でも、拓也くんが死んだら、奥さんたちも一緒に殺しますよ♡」
「一人ずつ、ゆっくりと♡」
「死体の拓也くんの前で、目の前で♡」
言葉が、より残酷になる。
「拓也がいないなら、あの女たちを生かしておく理由もないかな」
「特に、エリカとルナは許せないかな。
タクヤの隣で幸せそうにしている姿、何度も見たかな」
「あれが一番腹立つかな」
赤く光る瞳が、憎悪で染まっている。
俺の妻たちへの、病的な嫉妬だ。
「クロエも、オルテンシアも、全員殺すかな」
「タクヤを独占できない世界なんて、いらないかな」
二人の脅迫に、俺の決意が揺らぎ始める。
俺が死ねば、家族も殺される。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
でも、雪菜の条件を受け入れることは。
「拓也くん♡」
その時、彼女が近づいてきた。
拘束されている俺の前に立ち、ゆっくりと上着を脱ぎ始める。
「本当に嫌ですか♡?」
美しい肌が露わになっていく。
彼女の体は、確かに魅力的だった。
狂気に満ちた性格を除けば、雪菜は間違いなく美人だ。
スタイルも良く、肌も白くて美しい。
豊かな胸が、薄い下着越しに透けて見える。
くびれた腰、すらりと伸びた足。
どこをとっても、完璧なプロポーションだ。
「私、拓也くんのことをずっと想っていました♡」
その声は、非常に蕩けていて色っぽい。
聞き続けると、頭が真っ白になりそうだ。
「中学生の時から、ずっと♡」
「毎日、毎晩、拓也くんのことばかり考えていました♡」
「拓也くんに触れられる日を、夢見ていました♡」
彼女手が、俺の頬に触れる。
その感触は、意外にも温かくて柔らかい。
「私たち、家族になりましょう♡」
瞳が、潤んでいる。
狂気だけでなく、本当の愛情も感じられる。
歪んだ愛情だが、それでも彼女なりに俺を愛しているのだ。
そして、俺は気づいてしまった。
ここ最近、エリカたちと夜の営みをしていなかったことに。
出産して体調が優れないエリカ。
魔法の研究に没頭していたルナ。
造形魔法の資格を取ろうとしていたクロエ。
バカで純粋なオルテンシア。
みんな、それぞれの事情で俺との時間が取れなかった。
結果として、俺は一ヶ月以上も禁欲状態だった。
いや、イラリア大陸に居る以上、数ヶ月もだ。
そんな状態で、目の前に魅力的な女性の裸体がある。
しかも、その女性は俺を求めている。
俺のために、俺だけのために育った身体。
理性では拒否すべきだとわかっている。
でも、体が、本能が、それを許さない。
「やめろ」
自制をしようとした。
でも、体が言うことを聞かない。
彼女魅力に、理性が負けそうになっている。
彼女の美しい体、甘い香り、潤んだ瞳。
すべてが俺の本能を刺激する。
「拓也くん♡」
雪菜が俺の首筋に唇を這わせる。
その感触が、全身に電流を走らせる。
「我慢しなくていいんですよ♡」
「私が、全部受け止めてあげます♡」
彼女の手が、俺の体を這う。
その動きは、驚くほど熟練していた。
「ずっと、この日のために練習してきました♡」
「拓也くんを気持ちよくする方法、全部勉強しました♡」
その手つきが、理性を溶かしていく。
数ヶ月以上の禁欲。
目の前の誘惑。
そして、家族を守るための大義名分。
すべてが、俺を屈服させようとしている。
「ダメだ」
最後の抵抗を試みた。
でも、もう声に力が入らない。
「いいんです、拓也くん♡」
キス。
雪菜が俺の唇に、自分の唇を重ねる。
柔らかくて甘いキスだった。
俺の頭が真っ白になる。
理性が、本能に負けてしまった。
「雪菜」
彼女の名前を呟く。
気がつくと、俺は誘惑に屈していた。
拘束を解かれた俺は、雪菜と一つになっていた。
それは、俺の意志による選択だった。
家族を守るため、という大義名分もあったが。
本当は、数ヶ月以上の禁欲に耐えきれなくなっていたのだ。
そして、雪菜の魅力に、完全に負けてしまったのだ。
彼女の美しい体、情熱的な愛情、熟練した愛撫。
すべてが、理性を打ち砕いた。
「ああ、拓也くん♡」
満足そうに息を吐いてた。
彼女の表情は、幸せそのものだった。
ずっと望んでいた願いが、ついに叶ったのだ。
「気持ちいいですか?♡」
「私、頑張ってますから♡」
雪菜の動きが、より激しくなる。
もう何も考えられなくなっていた。
ただ、目の前の快楽に溺れるだけだった。
でも、その瞬間、俺の脳裏にエリカの顔が浮かんだ。
俺のこと一番に考えて、時には厳しいがそれは俺を思ってくれる愛しい妻の顔。
次に、ルナの顔。
いつも俺を信じてくれる、大切な妻。
クロエの顔。
控えめだけど、深い愛情を注いでくれる妻。
オルテンシアの顔。
天然ムーブで家族みんなを笑わしてくれる、面白い妻。
みんなの顔が、俺の心を責め立てる。
彼女たちを裏切ったんだ。
この瞬間も、俺は大切な家族を裏切り続けている。
罪悪感。
でも、もう止められなかった。
快楽と罪悪感が、俺の心を引き裂く。
「これで、私たち本当の家族♡」
雪菜が胸に頭を預けた。
その仕草は、まるで普通の恋人同士のようだった。
狂気を忘れれば、彼女は本当に愛らしい女性だ。
「拓也くん、大好き♡」
満足そうなその笑顔が、罪悪感をさらに深くする。
俺は何をしてしまったんだ。
取り返しのつかないことを。
「これで逃がしてくれるんだろ?」
こんなゴミな俺は、おこがましいのかもしれない。
自分の快楽に溺れ、妻がいるのに手を出し、そして雪菜を捨てようとしている。
ただ、約束通り俺を解放してくれるはずだ。
そうすれば、家族のもとに帰ることができる。
そして、この罪を償うことができる。
「逃がすわけないじゃないですか♡」
その笑顔は、さっきまでの優しさとは違う。
悪魔のような、狂気に満ちた笑顔だ。
「だって、もう既成事実があるんですもの♡」
「拓也くんは、もう完全に私のものです♡」
初めからわかっていたことかもしれない。
最初から俺を逃がすつもりなどなかったのだ。
肉体関係を持つことで、俺をより強く束縛しようとしていた。
「約束が違う」
やっぱり俺はクズだ。
自分のことしか考えていない。
でも、彼女は聞く耳を持たない。
「これで拓也くんは完全に私のもの♡」
「私たちの子供もできるし、完璧です♡」
「もう、あの女たちのところには帰さない♡」
快楽に埋まっていた狂気の面が、再び浮き上がる。
一時的に理性的だった彼女が、また狂った愛情を露わにした。
「騙したのか」
また騙された。
雪菜の巧妙な罠にはまってしまった。
そして、今度こそ本当に逃げ場がなくなった。
しかも、家族を裏切ってしまった。
その事実が、俺の心を深く傷つける。
「騙すだなんて、ひどい♡」
まるで、自分が被害者みたいな顔や仕草をしている。
でもにやけを隠すことはできていない。
ふりだ。
「私はただ、拓也くんと家族になりたかっただけです♡」
「そのために必要な既成事実を作っただけ♡」
「ね、リリーちゃん?
私は悪くないよね?♡」
気まずそうなリリーに声をかけている。
「そうかな」
「ユキナは正しいかな。
タクヤを愛することに、罪はないかな」
その理屈も、完全に狂っている。
相手の同意を得ずに既成事実を作ることを、正当化している。
「これでタクヤは完全に私たちのものかな♡」
ただ、気まずさは一時的だった。
彼女も、この結果に満足しているようだ。
数年後には自分もできると思っているから。
「奥さんたちには、タクヤが浮気したって伝えるかな」
「詳しく、詳しく説明するかな」
「どんな風にユキナと愛し合ったか、全部話すかな」
その言葉に、心が抉られる。
どうして…こうなったんだ。
「きっと絶望するかな」
「泣き叫ぶかな」
「それを見るのが楽しみかな♡」
残酷な喜びに、共感してしまった。
エリカ、ルナ、クロエ、オルテンシアの顔が頭に浮かぶ。
彼女たちが、俺の裏切りを知ったらどう思うだろうか。
きっと、深く傷つくだろう。
信じていた夫に、裏切られたと思うだろう。
たとえ、それが脅迫によるものだったとしても。
雪菜に屈してしまったという事実は変わらない。
「やめろ」
でも、もう手遅れだった。
俺は雪菜に屈してしまった。
家族を裏切ってしまった。
その事実が、俺の心を押し潰す。
罪悪感と絶望が、俺を飲み込もうとする。
もう、何もかもが終わりだ。
俺は、家族に顔向けできない。
こんな俺に、もう帰る資格などない。
◇ ◇ ◇
絶望の淵に沈みかけた、その時だった。
小屋の扉が、勢いよく破壊された。
バキン、という大きな音とともに、木製の扉が粉々に砕け散る。
一体何が起こったのか、理解できなかった。
煙と木屑の中から、人影が現れる。
それは、まさかの人物だった。
「ヴァル!?」
信じられない。
そこに立っていたのは、確かにヴァルだった。
首を切り落とされて死んだはずの、魔王の息子。
でも、彼は確かに生きている。
頭も体も、完全に元通りだ。
その姿が、まるで希望の光のように見えた。
絶望の闇の中に、突然現れた一筋の光。
「タクヤ!」
どうしてここに。
と考える暇はなかった。
心配と怒りに満ちていた表情で、駆け寄ってきた。
でも、何よりも、俺を助けに来てくれたという事実が嬉しかった。
「よくも余の友達を!」
ヴァルの視線が二人を鋭く捉える。
魔王の息子としての威厳が、彼から放たれていた。
その迫力は、今まで見たことがないほど強烈だった。
まるで、本当の魔王のように。
「どうして…?
どうして君が生きているんだ?」
ヴァルは確かに死んだはずだ。
目の前で首を切り落とされて、頭部も消滅した。
なのに、なぜここにいるのか。
「余には特殊体質があるんだよ」
その声は、力強く、頼もしい。
「誰かに体の一部を預けておけば、その周りで復活できる」
「実は、タクヤの服に余の血が付いていたんだ!」
言われてみれば、確かにそうだった。
ヴァルが首を切られた時、大量の血が噴き出した。
頭から出た血液が、俺の服に付着していた。
「それが余の復活の鍵だったんだよ」
「タクヤの近くにいれば、余は何度でも復活できる。
つまり余は、タクヤを守ることができるとちうこと!」
絶望の底にいた俺に、希望の光を与えてくれる。
ふと疑問に思っていたことがあった。
ヴァルの頭部が消滅したのを覚えている。
でも、確か魔族は死んでも消滅しないはずだ。
それなのに、なぜヴァルの頭部は消えたのか。
「そういえば。
魔族は死んでも消滅しないはずなのに、君の頭は消えた」
「それは余が生きていたから」
魔族とは末恐ろしいものだ。
生命力が高い。
でも、そのおかげで俺は助かるんだ。
「死んでいない魔族の切り離された部位は、時間が経つと消滅する。
余は実際には死んでいなかったので、頭部が消えたんだよ」
なるほど。
それなら納得がいく。
ヴァルは死んだように見えたが、実際には特殊体質で生き延びていた。
だから頭部が消滅したのだ。
「でも、どうやって俺を見つけたんだ?」
ここはイラリア大陸の奥地だ。
簡単に見つけられる場所ではない。
「余の血がタクヤの服と繋がっているからだよ」
「タクヤの近くに再生するんだ。
だから、建物があるここまで追いかけてきた」
「タクヤを助けるために」
そのの言葉が、俺の心を強く打つ。
彼は、俺を助けるためだけに、ここまで来てくれたのだ。
友達のために。
その事実が、俺に勇気を与えてくれる。
「邪魔しないでください」
その声には先ほどまでの余裕がない。
ヴァルの突然の出現に、明らかに動揺している。
「ヴァルは死んだはずかな」
誰もが困惑する。
二人とも、ヴァルの復活を全く予想していなかった。
その動揺が、彼女たちの表情に現れている。
「余は簡単には死なないよ」
自信満々のその声には、揺るぎない決意が込められていた。
「そして、友達を傷つける奴は許さないんだ」
「たとえ相手が誰であろうと」
彼は本気で怒っているのだ。
俺を傷つけたことに対して。
「『魔王術:絶対支配』」
魔王の血筋しか使えない魔法。
強力な魔力が、小屋全体を包み込む。
その魔力は、今まで感じたことがないほど強大だった。
まるで、魔王そのものの力を感じる。
二人の体が、金縛りにあったように動かなくなる。
彼女たちの表情が、恐怖に染まる。
「な、何これ?」
体が全く動かない。
指一本動かすことができない。
「動けないかな」
二人とも同じ状況だった。
ヴァルの魔法に、完全に拘束されている。
どんなに抵抗しても、びくともしない。
「今のうちに逃げよう」
差し伸べられた手に、俺は強く握り返す。
その手は、温かくて力強い。
まるで、すべてを守ってくれるかのような。
「急ごう」
ヴァルの手を取って立ち上がった。
服を着直しながら、小屋の外に向かう。
二人は、まだ魔法で拘束されている。
必死に抵抗しようとしているが、全く動けない。
「待ってください、拓也くん♡!」
その声は震えていた。
俺を失うのが怖いのだろう。
でも、体は動かない。
その表情は、絶望と執着に満ちている。
「お願い、行かないで♡」
「私、拓也くんのためなら何でもします♡
だから、だから♡!」
狂気的な声が、悲痛な叫びに変わる。
「タクヤ、行かないで」
リリーも同じように叫ぶ。
その小さな体が、激しく震えている。
「拓也がいないと、私は生きていけない」
「お願い、お願い」
二人とも、俺を引き止めようとしている。
その声には、本当の愛情も混じっている。
歪んだ、病的な愛情だが、それでも本物の愛だ。
でも、立ち止まらない。
ヴァルの魔法は強力だった。
彼女たちは指一本動かすことができない。
完全に拘束されている。
◇ ◇ ◇
俺たちは、小屋から外に出た。
そこは一面の雪景色だった。
吹雪が激しく、視界が悪い。
でも、その冷たい風が、俺の頭を冷やしてくれる。
さっきまでの狂気から、現実に引き戻してくれる。
「寒い」
イラリア大陸の気候は、想像以上に厳しい。
前に来た時よりもだ。
このままでは、凍え死んでしまうかもしれない。
「余の背中に乗って。
魔族の体力なら、この雪山も問題ない」
ヴァルの背中に飛び乗った。
彼の体は意外に暖かい。
魔族は寒さに強いのかもしれない。
魔族の住処とされるアフリス大陸は、寒いと聞いたことがある。
環境に適応するため、年中体を保温する仕組みなのだろうか。
ただ、その温もりが、凍えた俺の体を温めてくれる。
「しっかり捕まってね」
そして、彼は雪山を駆け出した。
その速度は、人間離れしている。
まるで風のように、雪原を駆け抜けていく。
吹雪の中を、まるで障害物など存在しないかのように。
「すごい速さだ」
ヴァルの身体能力は、やはり魔族らしい。
人間では到底不可能な速度で走っている。
でも、その走りは安定していて、俺は落ちる心配をしなかった。
後ろを振り返ると、小屋がどんどん小さくなっていく。
雪菜とリリーは、まだ魔法で拘束されているはずだ。
少なくとも、しばらくは追ってこられないだろう。
その安堵感が、俺の胸に広がる。
「ありがとう、ヴァル。
君がいなかったら、俺はもうダメだった」
「本当に、本当にありがとう」
ヴァルがいなければ、俺は完全に絶望していた。
雪菜とリリーの支配下で、一生を過ごすことになっていた。
彼にもう、頭を向けて寝られないな。
でも魔族にそういう文化があるかわからないが。
俺がしたいからする。
「当然。
余たちは友達だからね。友達が困っている時は、助けるのが当たり前だよ」
「それに」
横顔しか見えなかったが、少し頬が赤くなっている。
寒さかと思っていたが、照れるんだな。
へぇ〜、ふ〜ん。
「タクヤは、余が初めて作った友達なんだ。
だから、絶対に守る」
こんな絶望的な状況でも、俺には仲間がいる。
それが、何より心強い。
友達が、命がけで助けに来てくれた。
その事実が、希望を与えてくれる。
「でも、大丈夫なのか?」
ヴァルの魔法がいつまで持つかわからない。
雪菜とリリーが追いかけてきたら、また危険だ。
「心配ないよ」
「余の魔法は、そう簡単には解けない。
あと30分は持つはずだと思う」
「それに」
振り返ってこちらを見た表情は少し意味深だった。
そう、その表情には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「余はタクヤのシャツを小屋に置いてきた」
…は?
よくよく見たら、俺は上半身裸だった。
なんで気づかなかったか、わからないが俺は半裸だったのだ。
だから余計寒かったのか。
ヴァルに背負われている間に、シャツを脱いでいたのだ。
いや、正確には雪菜と関係を持った時に脱がされていた。
「なぜシャツを?」
「タクヤの匂いが付いているからだよ。
あの二人は、きっとシャツに夢中になるはずだよ」
「その隙に、余たちは逃げるんだ」
なるほど、それは賢い作戦だが、俺の命を無碍にしている感が否めない。
確かに二人は、俺に対して病的な愛情を抱いている。
俺の匂いが付いたシャツがあれば、それに気を取られるだろう。
そして、俺たちを追いかける時間を稼げる。
「さすがだ」
見た目は大人だが普段の行動は幼稚だ。
けれども、バトルIQみたいなものは高いんだ。
機転を利かせて、上手く逃げ道を作ってくれた。
◇ ◇ ◇
小屋の中では、魔法の拘束が解けた雪菜とリリーが、床に倒れ込んでいた。
「くそ、魔族め」
悔しいさと怒りが露わになっている。
せっかく拓也を手に入れたのに、また逃げられてしまった。
でも、その時、雪菜の目に何かが映った。
床に落ちている、拓也のシャツ。
「あ♡!!!」
まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせる。
「拓也くんのシャツ♡」
そのシャツに飛びつく。
そして、顔を埋めて深く息を吸い込む。
「…はぁぁ…♡」
「ああ、拓也くんの匂い♡
拓也くんの匂いがする♡」
恍惚とした表情で、シャツを抱きしめる。
まるで、拓也本人を抱きしめているかのように。
「わたしにも」
小さな体も、シャツに近づく。
そして、雪菜と一緒にシャツの匂いを嗅ぐ。
「…すん…っ♡」
「タクヤの匂いかな♡
いい匂いかな♡」
二人とも、完全にシャツに夢中になっている。
拓也を追いかけることなど、すっかり忘れてしまった。
これはヴァルの思う壺だ。
「これ、私がもらいます♡」
「だって、私が拓也くんと結ばれたんだもの♡」
「このシャツは私のもの♡」
その宣言を、リリーが許すはずもなく。
「ダメかな」
「半分は私のものかな♡
タクヤは私のものでもあるかな♡」
二人は、シャツの取り合いを始める。
でも、その争いは激しいものではなかった。
むしろ、二人とも幸せそうだった。
拓也の匂いが付いたシャツがあるだけで、満足している。
「じゃあ、半分ずつかな」
「真ん中で切るかな」
「それはダメです♡」
リリーの提案は合理的だが、雪菜はダメらしい。
「シャツを切ったら、拓也くんの匂いが薄くなっちゃいます♡」
「じゃあ、交代で持つかな」
「一日ずつ交代かな」
二人は、シャツの管理方法について話し合い始めた。
拓也を追いかけることは、完全に忘れている。
シャツに夢中になって、時間を無駄にしている。
ヴァルの作戦は、完璧に成功していた。
「でも、拓也くん♡」
シャツを抱きしめながら呟いた。
「次に会った時は、もう絶対に逃がさない♡
今度こそ、完全に私のものにします♡」
「そうかな」
「次は、もっと強く縛るかな♡」
もう二度と、逃げられないようにするかな♡」
二人の瞳が、狂気に満ちた執着を映し出している。
拓也への愛情は、全く衰えていない。
むしろ、さらに強くなっている。
一度関係を持ったことで、雪菜の執着はさらに深まった。
リリーも、次は自分の番だと考えている。
二人とも、拓也を諦めるつもりなど全くない。
「拓也くん、待っててくださいね♡」
シャツに向かって囁いている。
「必ず、また会いに行きますから♡」
「今度こそ、永遠に一緒にいましょうね♡」
◇ ◇ ◇
ヴァルは、雪山を駆け続けた。
その体力は、まさに魔族そのものだった。
人間なら、とっくに息切れしているはずの距離を、平然と走り続けている。
その姿は、まるで無限の体力を持っているかのようだ。
「ヴァル、無理しなくていいぞ」
でも、ヴァルは全然疲れていないようだった。
呼吸も乱れていないし、走る速度も落ちていない。
「大丈夫、大丈夫」
ヴァルが答える。
「余は魔王の息子だからね。
この程度で疲れるわけがない」
「それに。
友達を守るためなら、余はどこまでも走れる」
確かに、ヴァルの呼吸は乱れていない。
魔族の体力は、人間とは次元が違うのだ。
そして、友達を守るという強い意志が、彼をさらに強くしている。
しばらく走り続けると、降り続ける雪の中に建物が見えてきた。
小さな小屋のようだった。
温かい光が、窓から漏れている。
その光景が、まるで希望の灯台のように見えた。
「あそこで休もう」
「余も少しは疲れた」
ヴァルも、さすがに限界が近いようだった。
魔族とはいえ、ずっと全力で走り続けるのは大変だろう。
でも、その疲れた表情にも、達成感が見える。
友達を助けることができた、という満足感だ。
俺たちは、その小屋に向かった。
雪菜とリリーから逃れることができた、という安堵感が俺の心を満たす。
ヴァルが助けに来てくれた。
友達が、命がけで俺を救出してくれた。
その事実が、俺に希望を与えてくれる。
でも、同時に複雑な気持ちもあった。
俺は雪菜と関係を持ってしまった。
それは、家族への裏切りに他ならない。
エリカ、ルナ、クロエ、オルテンシア。
みんなに、どう説明すればいいのだろうか。
脅迫されたとはいえ、最終的には自分の意志で雪菜を受け入れてしまった。
数ヶ月以上の禁欲に耐えきれず、雪菜の誘惑に屈してしまった。
その事実が、俺の心を深く傷つける。
罪悪感が、胸を締め付ける。
そして、雪菜が言っていた通り、既成事実ができてしまった。
もし彼女が本当に妊娠したら。
俺と雪菜の間に、子供ができてしまったら。
そんなことを考えると、頭が混乱する。
でも、今は考えるのをやめよう。
今は、生き延びることが最優先だ。
家族のもとに帰って、すべてを正直に話そう。
そして、謝罪しよう。
許してもらえるかどうかはわからない。
でも、嘘をつくことだけはしたくない。
正直に、すべてを話そう。
そして、雪菜とリリーの脅威から、みんなを守らなければならない。
あの二人は、まだ諦めていない。
必ず、また追いかけてくるだろう。
次に会った時は、もっと危険かもしれない。
だから、今のうちに対策を考えなければならない。
ヴァルのおかげで、俺は絶望的な状況から脱出することができた。
友達の勇気と機転が、俺を救ってくれた。
その恩は、一生忘れない。
でも、これで終わりではない。
むしろ、新たな問題の始まりかもしれない。
雪菜の執着は、さらに深まった。
リリーの狂気も、衰えていない。
そして、俺の罪悪感は、消えることがない。
雪山の中を駆けながら、俺は今後の困難を覚悟していた。
でも、同時に希望も感じていた。
ヴァルという、信頼できる友達がいる。
愛する家族が、帰りを待っている。
だから、俺は諦めない。
どんな困難があっても、乗り越えてみせる。
家族を守り、友達を守り、そして自分自身とも向き合う。
それが、今の俺にできることだ。
小屋の明かりが、だんだん大きくなってくる。
そこに、新たな希望があるかもしれない。
俺たちは、その光に向かって進み続けた。
雪菜さんよくないですよ。
本当は、リリーともしてもらおうとしましたが、年齢を公言してしまったので断念しました。
また数年後ですね。




