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第百二話「あだけた取引」


 雪菜とリリーの不気味な笑い声が響く小屋の中で、俺は絶望的な現実と向き合っていた。


 結局このままでは、エリカも、ルナも、クロエも、オルテンシアも危険にさらされる。

 俺の大切な家族が、この狂った二人に殺されてしまう。


 そんなことは、絶対に阻止しなければならない。

 でも、俺は拘束されていて身動きが取れない。


 この状況で、俺にできることは何だろうか。

 必死に考えた結果、俺は一つの希望に賭けることにした。


「おい」


 二人に向かって声をかける。


「どうしたら俺を逃がしてくれるんだ?」


 二人が、俺の質問に興味深そうに振り返る。


「あら、拓也くん♡

 交渉しようっていうんですか♡?」

「ふふ♡ やっと私たちに目を向けてくれたんですね♡」


 彼女の瞳が、異常なまでに輝いている。

 まるで、ずっと待ち望んでいた瞬間が訪れたかのように。


「そうかな♡

 タクヤがわたしたちと取引したいかな」

「やっと、やっと私たちだけを見てくれるかな♡」


 小さな体が、期待に震えている。

 その様子は、普通の8歳児とは明らかに違う。

 狂気と執着に満ちた、異常な愛情だ。


 心の中で祈った。

 きっと、何か条件があるはずだ。

 二人とも俺を愛している以上、完全に不可能な条件は出さないだろう。


 そう信じたかった。


「私を妊娠させてくれたら、逃がしてあげます♡」


 にっこりと笑いながら答える。

 その笑顔は、悪魔のように美しく、そして恐ろしい。


「そうすれば、拓也くんの子供ができます♡」

「血の繋がった家族になれるんです♡」

「拓也くんの遺伝子が、私の中で育つんです♡

 考えただけで、もう幸せで死にそう♡」


 雪菜が自分の下腹部に手を当てる。

 まるで、既にそこに子供がいるかのように。


 心臓が止まりそうになった。

 彼女の条件は、俺が最も避けたかったものだった。

 肉体関係を持つなど、考えただけでも嫌悪感が湧き上がる。


「リリーはどうなんだ?」


 リリーの条件の方がマシだと信じたい。

 けど、彼女も同じような条件を出すのだろうか。


「わたしも同じ気持ちかな」

「でも、わたしはまだ小さいから」


 自分の体を見下ろしている。

 確かに、彼女はまだ8歳だ。

 どんなに狂っていても、そこまでは求めないだろう。


「だから、今は我慢するかな」

「でも、いつか必ずタクヤの子供を産むかな」

「5年後、10年後、絶対に♡」


 リリーの瞳が、狂おしいほどの執着を映し出している。

 彼女は本気だった。

 将来的には、雪菜と同じことを望んでいる。


「今は軽く頭を撫でる程度で逃がしてあげるかな」


 意外にも、比較的軽い条件で拍子抜けした。

 リリーのことだから、「一生抱きいて過ごす」や「息ができなくなるまでキス」とか考えていた。

 考えすぎか。


「でも、それは今だけの特別かな」

「次の時は、もっと要求するかな♡」


 頭を撫でるだけなら、まだマシだ。

 でも、どちらの条件も受け入れたくなかった。


 雪菜の条件は論外だし、リリーの条件だって、彼女の狂気を認めることになる。

 ルーシーを殺した彼女を、受け入れることになる。


「どっちもしたくない」

「それをするくらいなら、ここで死んだほうがマシだ」


 俺は本気だ。

 ここで舌を噛み切る勇気だってある。


 自分の尊厳を売り渡してまで、生き延びたくない。

 たとえ家族を守るためでも、越えてはいけない線がある。


「あら、そうですか♡」


 残念そうな表情の裏側、その表情には余裕がある。

 まるで、俺が最終的に屈することを確信しているかのように。


「でも、拓也くんが死んだら、奥さんたちも一緒に殺しますよ♡」

「一人ずつ、ゆっくりと♡」

「死体の拓也くんの前で、目の前で♡」


 言葉が、より残酷になる。


「拓也がいないなら、あの女たちを生かしておく理由もないかな」

「特に、エリカとルナは許せないかな。

 タクヤの隣で幸せそうにしている姿、何度も見たかな」

「あれが一番腹立つかな」


 赤く光る瞳が、憎悪で染まっている。

 俺の妻たちへの、病的な嫉妬だ。


「クロエも、オルテンシアも、全員殺すかな」

「タクヤを独占できない世界なんて、いらないかな」


 二人の脅迫に、俺の決意が揺らぎ始める。

 俺が死ねば、家族も殺される。

 それだけは、絶対に阻止しなければならない。


 でも、雪菜の条件を受け入れることは。


「拓也くん♡」


 その時、彼女が近づいてきた。

 拘束されている俺の前に立ち、ゆっくりと上着を脱ぎ始める。


「本当に嫌ですか♡?」


 美しい肌が露わになっていく。

 彼女の体は、確かに魅力的だった。

 狂気に満ちた性格を除けば、雪菜は間違いなく美人だ。


 スタイルも良く、肌も白くて美しい。

 豊かな胸が、薄い下着越しに透けて見える。

 くびれた腰、すらりと伸びた足。


 どこをとっても、完璧なプロポーションだ。


「私、拓也くんのことをずっと想っていました♡」


 その声は、非常に蕩けていて色っぽい。

 聞き続けると、頭が真っ白になりそうだ。


「中学生の時から、ずっと♡」

「毎日、毎晩、拓也くんのことばかり考えていました♡」

「拓也くんに触れられる日を、夢見ていました♡」


 彼女手が、俺の頬に触れる。

 その感触は、意外にも温かくて柔らかい。


「私たち、家族になりましょう♡」


 瞳が、潤んでいる。

 狂気だけでなく、本当の愛情も感じられる。

 歪んだ愛情だが、それでも彼女なりに俺を愛しているのだ。


 そして、俺は気づいてしまった。

 ここ最近、エリカたちと夜の営みをしていなかったことに。


 出産して体調が優れないエリカ。

 魔法の研究に没頭していたルナ。

 造形魔法の資格を取ろうとしていたクロエ。

 バカで純粋なオルテンシア。


 みんな、それぞれの事情で俺との時間が取れなかった。

 結果として、俺は一ヶ月以上も禁欲状態だった。

 いや、イラリア大陸に居る以上、数ヶ月もだ。


 そんな状態で、目の前に魅力的な女性の裸体がある。

 しかも、その女性は俺を求めている。

 俺のために、俺だけのために育った身体。


 理性では拒否すべきだとわかっている。

 でも、体が、本能が、それを許さない。


「やめろ」


 自制をしようとした。

 でも、体が言うことを聞かない。


 彼女魅力に、理性が負けそうになっている。

 彼女の美しい体、甘い香り、潤んだ瞳。

 すべてが俺の本能を刺激する。


「拓也くん♡」


 雪菜が俺の首筋に唇を這わせる。

 その感触が、全身に電流を走らせる。


「我慢しなくていいんですよ♡」

「私が、全部受け止めてあげます♡」


 彼女の手が、俺の体を這う。

 その動きは、驚くほど熟練していた。


「ずっと、この日のために練習してきました♡」

「拓也くんを気持ちよくする方法、全部勉強しました♡」


 その手つきが、理性を溶かしていく。


 数ヶ月以上の禁欲。


 目の前の誘惑。


 そして、家族を守るための大義名分。


 すべてが、俺を屈服させようとしている。


「ダメだ」


 最後の抵抗を試みた。

 でも、もう声に力が入らない。


「いいんです、拓也くん♡」


 キス。


 雪菜が俺の唇に、自分の唇を重ねる。

 柔らかくて甘いキスだった。


 俺の頭が真っ白になる。

 理性が、本能に負けてしまった。


「雪菜」


 彼女の名前を呟く。

 気がつくと、俺は誘惑に屈していた。


 拘束を解かれた俺は、雪菜と一つになっていた。


 それは、俺の意志による選択だった。

 家族を守るため、という大義名分もあったが。

 本当は、数ヶ月以上の禁欲に耐えきれなくなっていたのだ。


 そして、雪菜の魅力に、完全に負けてしまったのだ。

 彼女の美しい体、情熱的な愛情、熟練した愛撫。

 すべてが、理性を打ち砕いた。


「ああ、拓也くん♡」


 満足そうに息を吐いてた。

 彼女の表情は、幸せそのものだった。

 ずっと望んでいた願いが、ついに叶ったのだ。


「気持ちいいですか?♡」

「私、頑張ってますから♡」


 雪菜の動きが、より激しくなる。

 もう何も考えられなくなっていた。

 ただ、目の前の快楽に溺れるだけだった。


 でも、その瞬間、俺の脳裏にエリカの顔が浮かんだ。

 俺のこと一番に考えて、時には厳しいがそれは俺を思ってくれる愛しい妻の顔。


 次に、ルナの顔。

 いつも俺を信じてくれる、大切な妻。


 クロエの顔。

 控えめだけど、深い愛情を注いでくれる妻。

 

 オルテンシアの顔。

 天然ムーブで家族みんなを笑わしてくれる、面白い妻。

 

 みんなの顔が、俺の心を責め立てる。

 彼女たちを裏切ったんだ。

 この瞬間も、俺は大切な家族を裏切り続けている。


 罪悪感。


 でも、もう止められなかった。

 快楽と罪悪感が、俺の心を引き裂く。


「これで、私たち本当の家族♡」


 雪菜が胸に頭を預けた。

 その仕草は、まるで普通の恋人同士のようだった。

 狂気を忘れれば、彼女は本当に愛らしい女性だ。


「拓也くん、大好き♡」


 満足そうなその笑顔が、罪悪感をさらに深くする。


 俺は何をしてしまったんだ。

 取り返しのつかないことを。


「これで逃がしてくれるんだろ?」


 こんなゴミな俺は、おこがましいのかもしれない。

 自分の快楽に溺れ、妻がいるのに手を出し、そして雪菜を捨てようとしている。


 ただ、約束通り俺を解放してくれるはずだ。

 そうすれば、家族のもとに帰ることができる。

 そして、この罪を償うことができる。


「逃がすわけないじゃないですか♡」


 その笑顔は、さっきまでの優しさとは違う。

 悪魔のような、狂気に満ちた笑顔だ。


「だって、もう既成事実があるんですもの♡」

「拓也くんは、もう完全に私のものです♡」


 初めからわかっていたことかもしれない。 

 最初から俺を逃がすつもりなどなかったのだ。

 肉体関係を持つことで、俺をより強く束縛しようとしていた。


「約束が違う」


 やっぱり俺はクズだ。

 自分のことしか考えていない。


 でも、彼女は聞く耳を持たない。


「これで拓也くんは完全に私のもの♡」

「私たちの子供もできるし、完璧です♡」

「もう、あの女たちのところには帰さない♡」


 快楽に埋まっていた狂気の面が、再び浮き上がる。

 一時的に理性的だった彼女が、また狂った愛情を露わにした。


「騙したのか」


 また騙された。

 雪菜の巧妙な罠にはまってしまった。

 そして、今度こそ本当に逃げ場がなくなった。


 しかも、家族を裏切ってしまった。

 その事実が、俺の心を深く傷つける。


「騙すだなんて、ひどい♡」


 まるで、自分が被害者みたいな顔や仕草をしている。

 でもにやけを隠すことはできていない。

 ふりだ。


「私はただ、拓也くんと家族になりたかっただけです♡」

「そのために必要な既成事実を作っただけ♡」

「ね、リリーちゃん?

 私は悪くないよね?♡」


 気まずそうなリリーに声をかけている。


「そうかな」

「ユキナは正しいかな。

 タクヤを愛することに、罪はないかな」


 その理屈も、完全に狂っている。

 相手の同意を得ずに既成事実を作ることを、正当化している。


「これでタクヤは完全に私たちのものかな♡」


 ただ、気まずさは一時的だった。


 彼女も、この結果に満足しているようだ。

 数年後には自分もできると思っているから。

 

奥さんたち(虫ども)には、タクヤが浮気したって伝えるかな」

「詳しく、詳しく説明するかな」

「どんな風にユキナと愛し合ったか、全部話すかな」


 その言葉に、心が抉られる。

 どうして…こうなったんだ。


「きっと絶望するかな」

「泣き叫ぶかな」

「それを見るのが楽しみかな♡」


 残酷な喜びに、共感してしまった。

 エリカ、ルナ、クロエ、オルテンシアの顔が頭に浮かぶ。


 彼女たちが、俺の裏切りを知ったらどう思うだろうか。

 きっと、深く傷つくだろう。

 信じていた夫に、裏切られたと思うだろう。

 たとえ、それが脅迫によるものだったとしても。


 雪菜に屈してしまったという事実は変わらない。


「やめろ」


 でも、もう手遅れだった。


 俺は雪菜に屈してしまった。

 家族を裏切ってしまった。

 その事実が、俺の心を押し潰す。


 罪悪感と絶望が、俺を飲み込もうとする。


 もう、何もかもが終わりだ。

 俺は、家族に顔向けできない。

 こんな俺に、もう帰る資格などない。




 ◇ ◇ ◇




 絶望の淵に沈みかけた、その時だった。

 小屋の扉が、勢いよく破壊された。

 バキン、という大きな音とともに、木製の扉が粉々に砕け散る。


 一体何が起こったのか、理解できなかった。

 煙と木屑の中から、人影が現れる。

 それは、まさかの人物だった。


「ヴァル!?」


 信じられない。

 そこに立っていたのは、確かにヴァルだった。

 首を切り落とされて死んだはずの、魔王の息子。


 でも、彼は確かに生きている。

 頭も体も、完全に元通りだ。

 その姿が、まるで希望の光のように見えた。


 絶望の闇の中に、突然現れた一筋の光。


「タクヤ!」


 どうしてここに。

 と考える暇はなかった。


 心配と怒りに満ちていた表情で、駆け寄ってきた。

 でも、何よりも、俺を助けに来てくれたという事実が嬉しかった。


「よくも余の友達を!」


 ヴァルの視線が二人を鋭く捉える。

 魔王の息子としての威厳が、彼から放たれていた。

 その迫力は、今まで見たことがないほど強烈だった。


 まるで、本当の魔王のように。


「どうして…?

 どうして君が生きているんだ?」


 ヴァルは確かに死んだはずだ。

 目の前で首を切り落とされて、頭部も消滅した。

 なのに、なぜここにいるのか。


「余には特殊体質があるんだよ」


 その声は、力強く、頼もしい。


「誰かに体の一部を預けておけば、その周りで復活できる」

「実は、タクヤの服に余の血が付いていたんだ!」


 言われてみれば、確かにそうだった。


 ヴァルが首を切られた時、大量の血が噴き出した。

 頭から出た血液が、俺の服に付着していた。


「それが余の復活の鍵だったんだよ」

「タクヤの近くにいれば、余は何度でも復活できる。

 つまり余は、タクヤを守ることができるとちうこと!」


 絶望の底にいた俺に、希望の光を与えてくれる。


 ふと疑問に思っていたことがあった。

 ヴァルの頭部が消滅したのを覚えている。

 でも、確か魔族は死んでも消滅しないはずだ。


 それなのに、なぜヴァルの頭部は消えたのか。


「そういえば。

 魔族は死んでも消滅しないはずなのに、君の頭は消えた」

「それは余が生きていたから」


 魔族とは末恐ろしいものだ。

 生命力が高い。

 でも、そのおかげで俺は助かるんだ。


「死んでいない魔族の切り離された部位は、時間が経つと消滅する。

 余は実際には死んでいなかったので、頭部が消えたんだよ」


 なるほど。

 それなら納得がいく。

 ヴァルは死んだように見えたが、実際には特殊体質で生き延びていた。

 だから頭部が消滅したのだ。


「でも、どうやって俺を見つけたんだ?」


 ここはイラリア大陸の奥地だ。

 簡単に見つけられる場所ではない。


「余の血がタクヤの服と繋がっているからだよ」

「タクヤの近くに再生するんだ。

 だから、建物があるここまで追いかけてきた」

「タクヤを助けるために」


 そのの言葉が、俺の心を強く打つ。

 彼は、俺を助けるためだけに、ここまで来てくれたのだ。


 友達のために。

 その事実が、俺に勇気を与えてくれる。


「邪魔しないでください」


 その声には先ほどまでの余裕がない。

 ヴァルの突然の出現に、明らかに動揺している。


「ヴァルは死んだはずかな」


 誰もが困惑する。

 二人とも、ヴァルの復活を全く予想していなかった。

 その動揺が、彼女たちの表情に現れている。


「余は簡単には死なないよ」


 自信満々のその声には、揺るぎない決意が込められていた。


「そして、友達を傷つける奴は許さないんだ」

「たとえ相手が誰であろうと」


 彼は本気で怒っているのだ。

 俺を傷つけたことに対して。


「『魔王術:絶対支配』」


 魔王の血筋しか使えない魔法。

 強力な魔力が、小屋全体を包み込む。

 その魔力は、今まで感じたことがないほど強大だった。

 まるで、魔王そのものの力を感じる。


 二人の体が、金縛りにあったように動かなくなる。

 彼女たちの表情が、恐怖に染まる。


「な、何これ?」


 体が全く動かない。

 指一本動かすことができない。


「動けないかな」


 二人とも同じ状況だった。

 ヴァルの魔法に、完全に拘束されている。

 どんなに抵抗しても、びくともしない。


「今のうちに逃げよう」


 差し伸べられた手に、俺は強く握り返す。

 その手は、温かくて力強い。

 まるで、すべてを守ってくれるかのような。


「急ごう」


 ヴァルの手を取って立ち上がった。

 服を着直しながら、小屋の外に向かう。


 二人は、まだ魔法で拘束されている。

 必死に抵抗しようとしているが、全く動けない。


「待ってください、拓也くん♡!」


 その声は震えていた。

 俺を失うのが怖いのだろう。


 でも、体は動かない。


 その表情は、絶望と執着に満ちている。


「お願い、行かないで♡」

「私、拓也くんのためなら何でもします♡

 だから、だから♡!」


 狂気的な声が、悲痛な叫びに変わる。


「タクヤ、行かないで」


 リリーも同じように叫ぶ。


 その小さな体が、激しく震えている。


「拓也がいないと、私は生きていけない」


「お願い、お願い」


 二人とも、俺を引き止めようとしている。

 その声には、本当の愛情も混じっている。

 歪んだ、病的な愛情だが、それでも本物の愛だ。


 でも、立ち止まらない。

 ヴァルの魔法は強力だった。

 彼女たちは指一本動かすことができない。


 完全に拘束されている。




 ◇ ◇ ◇




 俺たちは、小屋から外に出た。


 そこは一面の雪景色だった。

 吹雪が激しく、視界が悪い。


 でも、その冷たい風が、俺の頭を冷やしてくれる。

 さっきまでの狂気から、現実に引き戻してくれる。


「寒い」


 イラリア大陸の気候は、想像以上に厳しい。

 前に来た時よりもだ。

 このままでは、凍え死んでしまうかもしれない。


「余の背中に乗って。

 魔族の体力なら、この雪山も問題ない」


 ヴァルの背中に飛び乗った。

 彼の体は意外に暖かい。

 魔族は寒さに強いのかもしれない。


 魔族の住処とされるアフリス大陸は、寒いと聞いたことがある。

 環境に適応するため、年中体を保温する仕組みなのだろうか。


 ただ、その温もりが、凍えた俺の体を温めてくれる。


「しっかり捕まってね」


 そして、彼は雪山を駆け出した。


 その速度は、人間離れしている。

 まるで風のように、雪原を駆け抜けていく。

 吹雪の中を、まるで障害物など存在しないかのように。


「すごい速さだ」


 ヴァルの身体能力は、やはり魔族らしい。

 人間では到底不可能な速度で走っている。

 でも、その走りは安定していて、俺は落ちる心配をしなかった。


 後ろを振り返ると、小屋がどんどん小さくなっていく。

 雪菜とリリーは、まだ魔法で拘束されているはずだ。

 少なくとも、しばらくは追ってこられないだろう。


 その安堵感が、俺の胸に広がる。


「ありがとう、ヴァル。

 君がいなかったら、俺はもうダメだった」

「本当に、本当にありがとう」


 ヴァルがいなければ、俺は完全に絶望していた。

 雪菜とリリーの支配下で、一生を過ごすことになっていた。


 彼にもう、頭を向けて寝られないな。

 でも魔族にそういう文化があるかわからないが。

 俺がしたいからする。


「当然。

 余たちは友達だからね。友達が困っている時は、助けるのが当たり前だよ」

「それに」


 横顔しか見えなかったが、少し頬が赤くなっている。

 寒さかと思っていたが、照れるんだな。

 へぇ〜、ふ〜ん。


「タクヤは、余が初めて作った友達なんだ。

 だから、絶対に守る」


 こんな絶望的な状況でも、俺には仲間がいる。

 それが、何より心強い。

 友達が、命がけで助けに来てくれた。


 その事実が、希望を与えてくれる。


「でも、大丈夫なのか?」


 ヴァルの魔法がいつまで持つかわからない。

 雪菜とリリーが追いかけてきたら、また危険だ。


「心配ないよ」

「余の魔法は、そう簡単には解けない。

 あと30分は持つはずだと思う」

「それに」


 振り返ってこちらを見た表情は少し意味深だった。

 そう、その表情には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。


「余はタクヤのシャツを小屋に置いてきた」


 …は?

 よくよく見たら、俺は上半身裸だった。

 なんで気づかなかったか、わからないが俺は半裸だったのだ。


 だから余計寒かったのか。


 ヴァルに背負われている間に、シャツを脱いでいたのだ。

 いや、正確には雪菜と関係を持った時に脱がされていた。


「なぜシャツを?」

「タクヤの匂いが付いているからだよ。

 あの二人は、きっとシャツに夢中になるはずだよ」

「その隙に、余たちは逃げるんだ」


 なるほど、それは賢い作戦だが、俺の命を無碍にしている感が否めない。


 確かに二人は、俺に対して病的な愛情を抱いている。

 俺の匂いが付いたシャツがあれば、それに気を取られるだろう。

 そして、俺たちを追いかける時間を稼げる。


「さすがだ」


 見た目は大人だが普段の行動は幼稚だ。

 けれども、バトルIQみたいなものは高いんだ。 

 機転を利かせて、上手く逃げ道を作ってくれた。




 ◇ ◇ ◇




 小屋の中では、魔法の拘束が解けた雪菜とリリーが、床に倒れ込んでいた。


「くそ、魔族め」


 悔しいさと怒りが露わになっている。

 せっかく拓也を手に入れたのに、また逃げられてしまった。


 でも、その時、雪菜の目に何かが映った。

 床に落ちている、拓也のシャツ。


「あ♡!!!」


 まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせる。


「拓也くんのシャツ♡」


 そのシャツに飛びつく。

 そして、顔を埋めて深く息を吸い込む。


「…はぁぁ…♡」

「ああ、拓也くんの匂い♡

 拓也くんの匂いがする♡」


 恍惚とした表情で、シャツを抱きしめる。

 まるで、拓也本人を抱きしめているかのように。


「わたしにも」


 小さな体も、シャツに近づく。

 そして、雪菜と一緒にシャツの匂いを嗅ぐ。


「…すん…っ♡」

「タクヤの匂いかな♡

 いい匂いかな♡」


 二人とも、完全にシャツに夢中になっている。

 拓也を追いかけることなど、すっかり忘れてしまった。


 これはヴァルの思う壺だ。


「これ、私がもらいます♡」

「だって、私が拓也くんと結ばれたんだもの♡」

「このシャツは私のもの♡」


 その宣言を、リリーが許すはずもなく。


「ダメかな」

「半分は私のものかな♡

 タクヤは私のものでもあるかな♡」


 二人は、シャツの取り合いを始める。

 でも、その争いは激しいものではなかった。


 むしろ、二人とも幸せそうだった。

 拓也の匂いが付いたシャツがあるだけで、満足している。


「じゃあ、半分ずつかな」

「真ん中で切るかな」

「それはダメです♡」


 リリーの提案は合理的だが、雪菜はダメらしい。


「シャツを切ったら、拓也くんの匂いが薄くなっちゃいます♡」

「じゃあ、交代で持つかな」

「一日ずつ交代かな」


 二人は、シャツの管理方法について話し合い始めた。

 拓也を追いかけることは、完全に忘れている。

 シャツに夢中になって、時間を無駄にしている。


 ヴァルの作戦は、完璧に成功していた。


「でも、拓也くん♡」


 シャツを抱きしめながら呟いた。


「次に会った時は、もう絶対に逃がさない♡

 今度こそ、完全に私のものにします♡」

「そうかな」

「次は、もっと強く縛るかな♡」

 もう二度と、逃げられないようにするかな♡」


 二人の瞳が、狂気に満ちた執着を映し出している。

 拓也への愛情は、全く衰えていない。

 むしろ、さらに強くなっている。


 一度関係を持ったことで、雪菜の執着はさらに深まった。

 リリーも、次は自分の番だと考えている。

 二人とも、拓也を諦めるつもりなど全くない。


「拓也くん、待っててくださいね♡」


 シャツに向かって囁いている。


「必ず、また会いに行きますから♡」

「今度こそ、永遠に一緒にいましょうね♡」





 ◇ ◇ ◇




 ヴァルは、雪山を駆け続けた。

 その体力は、まさに魔族そのものだった。

 人間なら、とっくに息切れしているはずの距離を、平然と走り続けている。


 その姿は、まるで無限の体力を持っているかのようだ。


「ヴァル、無理しなくていいぞ」


 でも、ヴァルは全然疲れていないようだった。

 呼吸も乱れていないし、走る速度も落ちていない。


「大丈夫、大丈夫」


 ヴァルが答える。


「余は魔王の息子だからね。

 この程度で疲れるわけがない」

「それに。

 友達を守るためなら、余はどこまでも走れる」


 確かに、ヴァルの呼吸は乱れていない。

 魔族の体力は、人間とは次元が違うのだ。


 そして、友達を守るという強い意志が、彼をさらに強くしている。


 しばらく走り続けると、降り続ける雪の中に建物が見えてきた。


 小さな小屋のようだった。

 温かい光が、窓から漏れている。

 その光景が、まるで希望の灯台のように見えた。


「あそこで休もう」

「余も少しは疲れた」


 ヴァルも、さすがに限界が近いようだった。

 魔族とはいえ、ずっと全力で走り続けるのは大変だろう。


 でも、その疲れた表情にも、達成感が見える。

 友達を助けることができた、という満足感だ。


 俺たちは、その小屋に向かった。


 雪菜とリリーから逃れることができた、という安堵感が俺の心を満たす。

 ヴァルが助けに来てくれた。

 友達が、命がけで俺を救出してくれた。

 その事実が、俺に希望を与えてくれる。


 でも、同時に複雑な気持ちもあった。


 俺は雪菜と関係を持ってしまった。


 それは、家族への裏切りに他ならない。

 エリカ、ルナ、クロエ、オルテンシア。

 みんなに、どう説明すればいいのだろうか。


 脅迫されたとはいえ、最終的には自分の意志で雪菜を受け入れてしまった。

 数ヶ月以上の禁欲に耐えきれず、雪菜の誘惑に屈してしまった。


 その事実が、俺の心を深く傷つける。

 罪悪感が、胸を締め付ける。

 そして、雪菜が言っていた通り、既成事実ができてしまった。


 もし彼女が本当に妊娠したら。

 俺と雪菜の間に、子供ができてしまったら。

 そんなことを考えると、頭が混乱する。


 でも、今は考えるのをやめよう。

 今は、生き延びることが最優先だ。


 家族のもとに帰って、すべてを正直に話そう。

 そして、謝罪しよう。

 許してもらえるかどうかはわからない。


 でも、嘘をつくことだけはしたくない。

 正直に、すべてを話そう。

 そして、雪菜とリリーの脅威から、みんなを守らなければならない。


 あの二人は、まだ諦めていない。


 必ず、また追いかけてくるだろう。

 次に会った時は、もっと危険かもしれない。

 だから、今のうちに対策を考えなければならない。


 ヴァルのおかげで、俺は絶望的な状況から脱出することができた。

 友達の勇気と機転が、俺を救ってくれた。

 その恩は、一生忘れない。


 でも、これで終わりではない。


 むしろ、新たな問題の始まりかもしれない。

 雪菜の執着は、さらに深まった。

 リリーの狂気も、衰えていない。


 そして、俺の罪悪感は、消えることがない。

 雪山の中を駆けながら、俺は今後の困難を覚悟していた。


 でも、同時に希望も感じていた。

 ヴァルという、信頼できる友達がいる。

 愛する家族が、帰りを待っている。


 だから、俺は諦めない。


 どんな困難があっても、乗り越えてみせる。

 家族を守り、友達を守り、そして自分自身とも向き合う。

 それが、今の俺にできることだ。


 小屋の明かりが、だんだん大きくなってくる。

 そこに、新たな希望があるかもしれない。


 俺たちは、その光に向かって進み続けた。

 雪菜さんよくないですよ。


 本当は、リリーともしてもらおうとしましたが、年齢を公言してしまったので断念しました。

 また数年後ですね。

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