第百一話「襲撃の裏側」
雪菜とリリーの不気味な笑い声が、小屋の中に響いていた。
いや、笑い声というより、
それは、獲物を前にした肉食獣の咆哮に近かった。
必死に冷静さを保とうとしていた。
でも、心の奥底では、恐怖と絶望が渦巻いている。
ヴァルが死んでしまった。
俺の大切な友達が、目の前で首を切り落とされて死んでしまった。
そして、今度は俺の家族が狙われている。
「ねえねえ、拓也くん♡」
顔を覗き込まれた。
雪菜のその瞳は、狂気で爛々と輝いている。
「拓也くんの苦しそうな顔、とっても素敵です♡」
「もっと、もっと見せてください♡」
指が、頬を撫でる。
その感触は、氷のように冷たく、蛇のようにぬめっていた。
「あっ、でも泣かないでくださいね♡」
雪菜が俺の涙を指で拭う。
そして、その指を自分の舌で舐めた。
「拓也くんの涙、美味しい♡」
「塩辛くて、絶望の味がします♡」
恍惚とした表情で呟く。
その姿は、もはや人間のものではなかった。
「ユキナ、独り占めはダメかな♡」
不満そうに割り込んできた。
8歳の少女の姿をしているのに、その存在感は圧倒的だった。
怖い。
「タクヤはわたしのものでもあるかな♡」
リリーは俺の髪を撫でる。
その小さな手には、人間離れした力が宿っていた。
そして。
かぷっ
首筋を甘噛みされた。
血が出てるかは、見えない。
ただ、生暖かい感触が肩を伝い、腹部まで流れていた。
「マーキング完了かな♡」
つまり、俺の首には今、リリーの噛み跡があると。
今。
俺は、リリーのものにされたのかもしれない。
そんなことを気にする時間はない。
みんなの生死を知りたい。
俺のせいでみんなが死んでいたら、胸糞が悪い。
「せめて、他のクラスメイトたちの安否だけでも」
声が震える。
「アドバンスクラスのみんなは、無事なんだろうな?」
「あー、それかな?」
その表情には、何の感情もない。
まるで、昆虫の生死について聞かれたかのような無関心さだった。
「本当はあそこにいる女を全部、一匹残らず皆殺しにするつもりだったかな♡」
その言葉に、血の気が引いた。
俺を手に入れるためなら、殺人も厭わないというわけか。
「ねえねえ、リリーちゃん♡」
その笑顔が恐ろしい。
「あの時のこと、詳しく教えてあげましょうよ♡」
「拓也くんの絶望する顔、もっと見たいです♡」
二人が顔を見合わせて、不気味に笑う。
その笑顔は、まるで鏡に映したように同じだった。
同じ狂気、同じ残虐性、同じ拓也への歪んだ愛情。
「タクヤの周りの女は、全部邪魔かな♡」
リリーが淡々と語り始める。
「だから、みんな死んでもらうはずだったかな」
「けど、まず最初に、一番弱そうな魔族の男から狙ったんです♡」
鼻息を荒くして、吐息が俺にかかる。
もしかしたらそういう癖が、雪菜にはあるのかもしれない。
「ヴァルって言いましたっけ?♡」
「あの子の首、本当に簡単に切れました♡」
自分の首を指で撫でる仕草をしていた。
あの時の場面がフラッシュバック。
忘れたいけど、忘れられない。
だって、あれがヴァルとの最後の思い出なのだから。
「シュッて♡」
「まるでバターを切るみたいに、スムーズでした♡」
「やめろ」
叫んでも聞く耳を持たない。
「血がブシャアアアって噴き出して♡」
両手を広げてどれくらいの血が飛んだのかをアピールしている。
「とっても綺麗な赤でした♡」
「拓也くんのために、あんな汚い虫を掃除できて嬉しかったです♡」
雪菜の言葉に、怒りが爆発しそうになる。
ヴァルを虫呼ばわりするなんて。
大切な友達を、殺しておいて。
「でも」
「アリシアが邪魔だったかな」
舌打ちした彼女の表情には、初めて明確な感情が宿った。
それは、激しい憎悪と敵意だった。
「あの女、強すぎるかな」
「本当は心臓を潰すつもりだったのに」
「あの瞬間、防御魔法を展開しやがったかな」
言葉遣いが荒くなる。
それだけ、アリシアへの憎しみが深いのだろう。
かつての恩人だったとしても。
「でも、左腕は落とせましたよね♡」
「あれは私の最高傑作です♡」
「アリシアさんの左腕、肘の部分でスパッと♡」
手刀を振り下ろす仕草をする。
「骨も、筋肉も、血管も、全部まとめて一刀両断♡」
「切り落とした腕が、コロコロって床に転がったんですよ♡」
「そして、アリシアさんの悲鳴♡」
目を閉じて、思い出に浸っている。
「あの断末魔の叫び、今でも耳に残っています♡」
「最高の音楽でした♡」
俺の世界が、一瞬で崩れ落ちた。
アリシアが、左腕を失った。
しかも、こいつらはそれを楽しんでいる。
仲間に重傷を負わせたことを、喜んでいる。
「そんな」
絶望した。
アリシアは、魔法使いだ。
両手で魔法を操るのが基本なのに、左腕を失ってしまったら。
彼女の魔法使いとしての人生は、終わったも同然だ。
「あの女の腕、実は持って帰りたかったんです♡」
残念そうだった。
「拓也くんへのプレゼントにしようと思って♡」
「でも、血が出すぎて持ち運べませんでした♡」
「次は心臓を持って帰ります♡」
狂気が、限度を超えている。
人間の腕を、プレゼントにしようとしていた。
しかも、それを当然のこととして話している。
「俺のせいで」
自分を責めなければやってられない。
もし俺がいなければ、雪菜もリリーも魔法大学には現れなかった。
ヴァルも死ななかった。
アリシアも怪我をしなかった。
すべて、俺の存在が原因だ。
「でも、あの女は生きてるかな」
その声には、明らかな殺意と不満が込められていた。
「本当は、その場で殺したかったかな」
「首を折って、心臓を潰して、内臓を引きずり出したかったかな」
小さな口から、恐ろしい言葉が次々と出てくる。
「でも、タクヤが心配で、追いかけるのを優先したかな」
「次に会ったら、今度こそ八つ裂きにするかな」
赤く光瞳がまるで、殺意そのものが具現化したような光だった。
「それと」
思い出したように付け加える。
その声は、驚くほど平坦だった。
「ルーシーは死んだかな」
呼吸が止まった。
実際、本当に息が出来なかった。
ルーシーが、死んだ。
リリーの双子の兄が。
「どうして」
「どうしてルーシーを」
「そんなの当たり前かな」
何もおかしいことは、していないみたいな口調だった。
「証明のためかな」
「証明?」
「わたしとユキナが同じタイプの人間だということの証明かな」
俺を覗き込む少女の瞳には、人間性が一切感じられなかった。
「お兄ちゃんは優しかったかな」
「いつもわたしのことを心配して、守ろうとしてくれたかな」
「でもかな」
表情が、さらに冷たくなっていく。
「お兄ちゃんは、タクヤの邪魔だったかな」
「邪魔者は、たとえ兄でも排除するべきかな」
「だから」
小さく笑っている。
その笑顔は、悪魔のものだった。
「殺したかな」
戦慄した。
実の双子の兄を、何の躊躇もなく殺した。
しかも、その事実を誇らしげに語っている。
「ルーシーくん、可愛かったですよね♡」
楽しそうに言う。
「リリーちゃんのこと、本当に愛していたんですね♡」
「最期まで、リリーちゃんの名前を呼んでいました♡」
陶酔した表情は、嫌悪感すら浮かばなかった。
それくらい俺の心は壊れたんだ。
「私の刃物が背中に刺さった時♡
心臓を貫いた時♡
血が口から溢れ出した時♡」
「それでも、『リリー、逃げて』って言ったんです♡」
感動したように両手を胸に当てている。
「本当に美しい兄妹愛でした♡」
「でも、拓也くんへの愛の方が、もっともっと美しいです♡」
二人が、同時に俺を見つめる。
その瞳には、狂気と愛情が混ざり合っていた。
「愛してるかな♡」
「世界中の何よりも愛してるかな♡
タクヤのためなら、何でもするかな♡」
「愛しています♡」
「拓也くんは私の全てです♡
拓也くんのためなら、世界を滅ぼすことだってできます♡」
二人の愛の告白が、俺の耳に呪いのように響く。
これは愛じゃない。
狂気だ。
執着だ。
相手のことを全く考えない、自分勝手な感情だ。
「やめろ」
「それは愛じゃない」
「愛かな」
即座に反論された。
「これが愛じゃなかったら、何が愛なのかな?」
「タクヤのことを毎日考えて♡
タクヤの幸せだけを願って♡
タクヤの邪魔になるものを全部排除して♡」
「これ以上の愛があるのかな?」
論理は、完全に狂っている。
でも、彼女の中では完璧に筋が通っているのだ。
「その通りです♡」
「拓也くんのために、私は何だってします♡」
「拓也くんの家族も、友達も、知り合いも」
「全部、全部、全部殺します♡」
その笑顔が、末恐ろしい。
「そうすれば、拓也くんは私たちだけのものになります♡」
「誰にも邪魔されない、完璧な愛です♡」
二人の価値観は、人間のものではなかった。
まるで、別の生物のように、独自の論理で動いている。
「ねえ、拓也くん♡」
生暖かい感触が耳元に伝わる。
その息遣いが、俺の首筋にかかる。
「今から、拓也くんの家族のところに行きます♡」
「エリカさん、ルナさん、クロエさん、オルテンシアさん♡」
「みんな、みんな殺します♡」
指折り数えながら笑っている。
「まずはエリカさんの首を切り落として♡」
「次はルナさんの心臓を抉り出して♡」
「クロエさんは四肢を切断して♡」
「オルテンシアさんは内臓を全部取り出して♡」
具体的な殺害方法を語り始める。
その詳細さと残虐性に、吐き気を催した。
「そして、全員の頭部を持って帰ります♡」
「拓也くんへのプレゼントです♡」
「喜んでくれますよね?♡」
「やめろ!」
家族を殺すなんて、絶対に許さない。
拘束を破ろうと必死に手首を動かした。
縄が皮膚に食い込んで、血が流れ出る。
でも、痛みなんて関係ない。
家族を守らなければならない。
「あら、拓也くん♡」
「そんなに頑張っても無駄ですよ♡」
「この縄は、特別製です♡」
血をすくい、そして舐める。
その表情はとろけに蕩けきっていた。
「あっ…♡」
「んっ♡ どんなに力を込めても、魔法を使っても、絶対に切れません♡」
「拓也くんは、ここで大人しく待っていてください♡」
俺の額にキスをする。
その唇は、死体のように冷たかった。
「私たちが、拓也くんの邪魔者を全部片付けてきます♡」
二人が、小屋の出口に向かって歩き出した。
「待て」
「頼む、家族には手を出さないでくれ!
何でもする!
何でもするから、家族だけは」
同時に振り返り、こちらを見た。
「何でも?かな」
失言だったかもしれない。
けど、家族が助かるなら。
俺はどうなってもいい。
「ああ」
「何でもする」
「だから、家族には手を出さないでくれ」
顔を見合わせている。
そして、不気味に笑った。
「じゃあ、条件を出すかな」
「タクヤは、わたしたちのものになるかな♡
永遠に、わたしたちだけのものになるかな♡」
「他の女とは、二度と会わないかな」
その条件は、俺の人生を完全に支配するものだった。
でも、他に選択肢はない。
家族の命と引き換えなら。
「分かった…
約束する」
「本当♡?」
「本当に、私たちだけのものになってくれるんですか♡?」
「ああ」
これで、家族は助かる。
俺の自由と引き換えに、大切な人たちの命が守られる。
「やったあ♡」
飛び跳ねるその様子はまるで、欲しかったおもちゃを手に入れた子供のように。
「じゃあ、約束かな」
「タクヤは私たちのものかな♡」
「永遠にかな♡」
小さな足音が俺に近づいてくる。
そして、小さな手で俺の頬を撫でた。
「愛してるかな♡」
「本当に、本当に愛してるかな♡」
「これで、やっと拓也と二人きりになれるかな」
その瞳が狂気を帯びて、俺を逃さない。
「いいえ、三人です♡」
「拓也くんは、私たち二人のものです♡」
「ちっ、そうだったかな」
「三人で幸せになるかな♡」
二人のヤンデレに囲まれた俺の未来は、地獄そのものだった。
でも、それでも家族が助かるなら。
この地獄を受け入れるしかない。
◇ ◇ ◇
―魔法大学アドバンスクラス・拓也気絶後―
拓也が窓の外に吹き飛ばされ、ヴァルの頭部が切り落とされた瞬間、教室は地獄と化した。
「ヴァル!」
誰かが悲鳴を上げる。
首から噴き出す血液が、教室の床を赤く染めていく。
切断面からは、まだ温かい血が脈打つように流れ続けている。
その光景は、あまりにも悲惨で現実感がなかった。
数秒前まで元気に話していたヴァルが、今は首のない死体になっている。
そして、切り落とされた頭部は、すでに消滅してしまっていた。
「魔族は死ぬと消滅すると聞いたことがあります」
アリシアが震え声で呟く。
彼女の顔は、蒼白になっている。
「…ヴァル、本当に死んだ」
ヴァルの消えかける胴体を見つめて無言でいた。
彼の天啓でも、この惨劇を見ることはできなかったのかもしれない。
いや、予知していたのかもしれない。
でも、あまりにも敵が強すぎて、防ぎようがなかったのだ。
「誰がこんなことを」
周囲を見回しているが、教室には彼らしかいない。
窓の外に吹き飛ばされた拓也の姿も見えない。
「外敵の侵入です」
冷静に分析をするアリシア
彼女だけは、パニックに陥らずに状況を把握しようとしていた。
「魔法大学の警備を破って侵入できる相手」
「それは」
「かなりの実力者ということですね」
魔法大学の警備は、上級魔法使いたちを何重にも張り巡らせた強固なものだ。
それを破れるということは、相手が尋常ではない力を持っているということだ。
その時、教室の扉が静かに開いた。
いや、開いたというより、扉が粉々に砕け散ったのだ。
まるで、巨大な力で叩き潰されたかのように。
そこに立っていたのは、二人の人影だった。
一人は、黒い長髪の美しい女性。
もう一人は、さっきまで教室にいたはずのピンク髪の小さな少女。
「あら、まだ生きてる虫がいますね♡」
黒髪の女性、雪菜が嬉しそうだった。
その笑顔は、狂気に満ちていた。
まるで、虫かごの中の昆虫を観察しているかのような、残虐な好奇心が見て取れる。
「リリー?」
ピンク髪の少女は、確かにリリーだった。
でも、その表情はいつものリリーとは全く違っている。
より冷たく、より危険だった。
そして、何よりもその小さな体から放たれる殺気が、尋常ではなかった。
「みんな死ぬかな」
その口調には、一切の感情がない。
まるで、ゴミを処分することについて話しているかのような無関心さだった。
「タクヤの周りの女は、全部邪魔かな」
「だから、一匹残らず殺すかな」
赤く光る瞳は、まるで血のように不気味だった。
「リリー、あなた何を言っているの?」
仲間だったリリーが、突然敵意を向けてくる状況が理解できない。
「ルーシーはどこ?」
さっきまで、教室いたはずのルーシーもいなかった。
妹を追いかけにどこかへ行ったのかもしれない。
けど、その妹は今、彼らを殺すために立っている。
恐ろしい速度で動き出した。
その速度は、人間のものではなかった。
まるで、空間を跳躍するかのように、一瞬で距離を詰める。
「…危険」
彼の天啓が、最悪の未来を見せたのだ。
このままでは、全員が殺される。
彼女は咄嗟に治癒魔法の詠唱を始めた。
でも、それは攻撃魔法ではない。
リリーが仲間だった以上、彼女を傷つけることはできない。
と思っていたが、このままでは殺されると悟った。
「『初級水魔法:ウォーターバリア』」
だから、攻撃魔法の応用、防御魔法を発動する。
水の壁が教室に現れ、リリーの攻撃を防ごうとした。
この魔法は、通常の物理攻撃なら確実に防げる。
初級魔法の一つで、アリシアの得意魔法だ。
しかし…
その拳が、水の壁に触れた瞬間。
壁が、まるで紙のように引き裂かれた。
「嘘でしょう」
驚愕する。
アリシアの初級魔法は上級魔法に匹敵する。
その魔法の防御を、素手で破壊した。
しかも、8歳の少女の拳で。
そんなことは、理論上あり得ない。
魔法の防御を破るには、それ以上の魔力か、特殊な対魔法装備が必要なはずだ。
でも、リリーはただの拳で、それを成し遂げた。
その瞬間、その拳がアリシアの左肩に直撃した。
ボキッという鈍い音とともに、左肩が砕ける。
「きゃあ!」
悲鳴がこだまする。
激痛が左腕全体を襲い、骨が粉砕される音が教室に響いた。
肩の骨が完全に砕かれて、左腕が不自然な方向にダラリと垂れ下がる。
「うふふ♡」
恐ろしい速度でもう戦えない彼女に近づいてくる。
その動きは、リリー以上に速く、滑らかだった。
まるで、影そのものが動いているかのように。
その手には、どこから取り出したのか鋭い刃物が握られていた。
それは、ただの刃物ではない。
魔力を纏った、特殊な武器、包丁だった。
刃の部分が、不気味に紫色に光っている。
「死になさい♡」
刃物を振り下ろす。
その軌道は、アリシアの心臓を狙っていた。
確実にこの場で、殺すつもりだった。
アリシアは、反射的に後ろに跳んで距離を取ろうとした。
でも、砕かれた左肩の痛みで動きが鈍る。
雪菜の刃物が、確実にアリシアに迫ってくる。
「やめてください!」
レオナルドが割り込んだ。
彼の巨体が、アリシアと雪菜の間に割り込んだ。
そして、彼の拳が、愛の覇者へと向かって放たれた。
「『剛力拳:大地砕き』」
その拳が、迫る。
この一撃は、岩をも砕く威力を持つ。
魔法大学でも屈指の腕力を誇る、レオナルドの必殺技だ。
しかし、涼しい顔でそれをかわした。
いや、かわしたというより…
まるで、最初からその攻撃の軌道が分かっていたかのように、最小限の動きで避けたのだ。
「あら、強いですね♡」
「でも、遅いです♡」
そして、逆にレオナルドの腹部に膝蹴りを叩き込んだ。
ドゴッという衝撃音とともに、彼の巨体が浮き上がる。
「げはっ」
大量の血が、口から噴き出した。
そして、彼の体が後ろに吹き飛ばされる。
教室の壁に激突して、壁にヒビが入った。
まるでもう動かない死体のように、壁の下へとズルズル落ちていく。
「レオナルド!」
でも、レオナルドは動かない。
生身の女性の一撃で、完全に戦闘不能になったのだ。
その隙に、刃物がアリシアの心臓に到達しようとしていた。
しかし、アリシアの本能がそうさせなかった。
「いやああああ!」
咄嗟に、もう使えない左腕を出したが、痛みの大きさは変わらない。
雪菜の刃物が、アリシアの左腕を肘の部分で切り落とした。
いや、切り落としたというより——引き裂いたのだ。
魔力を纏った刃が、骨も筋肉も血管も、全てを一瞬で切断する。
ブシャアアアという音とともに、大量の血液が噴き出す。
切り落とされた腕が、床に落ちて転がった。
そして、切断面からは止まることなく血が流れ続ける。
「あああああ!」
痛みで叫び続けていた。
左腕を失った衝撃と、激痛で意識が遠のきそうになる。
「綺麗です♡」
雪菜が切り落とされた腕を拾い上げる。
「天才さんの腕、とっても綺麗です♡」
「白くて、細くて、まるで芸術品♡」
腕を撫でるその仕草は、まるでペットを愛でるかのようだった。
「でも、これは拓也くんの邪魔をした腕♡」
「だから、こうします♡」
腕を床に叩きつける。
バキッという音とともに、腕の骨が折れた。
「…アリシア!」
彼は闇魔法を発動しようとした。
「『闇魔法:暗黒の霧』」
教室が暗い霧に包まれる。
視界を遮断して、仲間たちを逃がそうとしたのだ。
この魔法は、クロウの得意魔法で、通常の視覚では捉えられない濃密な闇を作り出す。
「…逃げて」
アリシアに呼びかけるが反応がない。
彼女は左腕を失った衝撃で、立ち上がることすらできない。
膝から崩れ落ちて、床に倒れ込んでいる。
「闇魔法ですか♡」
「でも、無駄ですよ♡」
紫色に光る雪菜の瞳には、魔力が宿っていた。
「私には、魔力探知があります♡」
「暗闇でも、魔力の流れが見えるんです♡」
霧の中を、正確にクロウに向かって移動する。
その動きには、一切の迷いがない。
まるで、明るい場所にいるかのように。
「…くそ」
別の魔法を発動しようとする。
でも、間に合わなかった。
血塗られた刃物が、右足を切り裂いた。
「ぐあああ!」
悲鳴を上げて倒れた。
右足の腱を切られて、立つことができなくなった。
「闇魔法使いさんは、足を使えないと不便ですよね♡」
「だから、動けないようにしてあげました♡」
「…貴様」
歯を食いしばる。
でも、もう抵抗する力は残っていない。
「無駄かな」
リリーの声が霧の中から響く。
彼女は、暗闇でも正確に仲間たちの位置を把握していた。
そして、再び恐ろしい速度で動き出す。
今度の標的は、壁に激突して動けないレオナルドだった。
小さな拳が、レオナルドの頭部に向かって振り下ろされる。
この一撃が当たれば、彼の頭蓋骨は粉砕される。
しかし、その瞬間だった。
「リリー!」
別の声が教室に響いた。
ルーシーの声だった。
彼が教室に駆け込んできたのだ。
「リリー、何をしているじゃん!」
霧の中でも、彼はリリーの位置を正確に把握していた。
双子の絆が、そうさせたのかもしれない。
「お兄ちゃん」
その言葉に振り返る。
その瞬間だけ、彼女の表情に迷いが生まれた。
実の兄を前にして、狂気が一瞬だけ和らいだのだ。
「リリー、一緒に逃げるじゃん」
彼が妹に手を差し伸べる。
兄として、妹を救おうとしていた。
きっと、リリーが何か悪い魔法にかかっていると思ったのだろう。
だから、一緒に逃げて安全な場所で正気に戻そうとしたのだ。
「お兄ちゃん」
兄の名前を呟いた。
その声には、わずかに感情が宿っていた。
愛情と、そして、申し訳なさが。
「ルーシー、ごめんなさいかな」
「お兄ちゃんは、優しすぎるかな。
だから、邪魔なんだかな」
赤い瞳から、一筋の涙が流れた。
でも、その表情は冷たいままだった。
「リリー?」
ルーシーが困惑する。
妹の言葉の意味が、理解できない。
しかし、その瞬間、雪菜が動いた。
「邪魔ですね♡」
複数の血が混じった刃物が、音もなくルーシーの背中に突き刺さる。
心臓を正確に貫く、致命的な一撃だった。
完璧なタイミングで、完璧な角度から攻撃した。
まるで、何度も練習したかのような、完璧な殺人技術だった。
「がっ」
レオナルドが出した以上の大量の血が、口から溢れ出る。
でも、彼は最後まで妹のことを心配していた。
「リリー」
震える手を、最愛の妹に向かって伸ばす。
「逃げるじゃん」
「お兄ちゃん、いい。
お兄ちゃんは、もう邪魔かな」
「タクヤのためには、お兄ちゃんも消えるべきかな」
その言葉に、ルーシーの瞳が大きく見開かれる。
妹が、本気で言っているのだと理解したのだ。
これは、魔法でも洗脳でもない。
リリーの本心なのだ。
「そう、か」
「お兄ちゃんは、役に立たなかったじゃん」
「ごめん、リリー」
自分が妹を守れなかったことを、最期まで謝罪していた。
「さようなら、お兄ちゃん」
リリーの無表情は最後まで無表情だった。
そして、ただの死体が床に崩れ落ちた。
双子の兄は、妹の名前を呼びながら死んだ。
その顔には、リリーへの愛情だけが浮かんでいた。
「お兄ちゃん」
その声には、わずかな感情が残っていた。
でも、すぐにその感情は消え去った。
「ありがとう、ユキナ」
その表情は、もはや完全に狂気に支配されていた。
「これで邪魔者がいなくなったかな」
「お兄ちゃんは優しかったけど」
「タクヤのためには、消えるべきだったかな」
自分の兄の死を、正当化した。
その論理は完全に狂っているが、彼女の中では完璧に筋が通っているのだ。
「どういたしまして♡」
「これで、リリーちゃんも拓也くんだけに集中できますね♡」
「邪魔な兄も、邪魔な友達も、全部消えました♡」
血をすくい、舐める。
「ルーシーさんの血、美味しいです♡」
「恐怖と絶望の味がします♡」
狂気が教室に充満した。
二人の会話を聞いて、アリシアは戦慄した。
リリーは、実の兄の死を悲しんでいない。
むしろ、邪魔者がいなくなったことを喜んでいる。
完全に狂ってしまったのだ。
拓也への愛情が、全てを狂わせた。
「逃げなきゃ」
アリシアが必死に考える。
左腕は失ったが、命はまだある。
このまま死ぬわけにはいかない。
拓也に、この惨劇を伝えなければならない。
雪菜とリリーの恐ろしさを、警告しなければならない。
残った右手で治癒魔法を発動した。
「『中級治癒魔法:コアギュラ』」
本当は上級魔法を使うべきだ。
しかし、魔力消費が大きい分、ここで使えばきっと死ぬ。
一瞬でそう判断したのだ。
左腕の切断面から流れる血を止める。
完全な治療はできないが、失血死を防ぐことはできる。
魔力を集中させて、血管を収縮させる。
激痛が走るが、アリシアは歯を食いしばって耐えた。
「クロウ、レオナルド」
仲間を呼びかける。
でも、返事がない。
霧が晴れて見えた光景は、絶望的だった。
レオナルドは壁に激突したまま、意識を失っている。
胸がわずかに上下しているので、まだ生きているようだ。
でも、重傷であることは間違いない。
クロウは、右足を切られて倒れていた。
こちらも意識はあるが、痛みで動けない状態だ。
そして、ルーシーの死体が床に転がっている。
背中に刺さった刃物から、まだ血が流れ続けていた。
「私一人じゃ」
絶望。
左腕を失い、魔力も大きく消耗している。
この状態で、雪菜とリリーの二人を相手にするのは無理だ。
二人とも、人間離れした強さを持っている。
リリーは、8歳の子供の姿をしているのに、上級魔法級を素手で破壊した。
雪菜は、魔法大学最強の腕力と言われるレオナルドを一撃で倒した。
この二人に勝つことは、不可能だ。
しかし、逃げるしか選択肢がない。
アリシアは、残された力を振り絞って立ち上がった。
左腕がないためバランスが取りにくいが、何とか歩くことはできる。
そして、窓に向かって走り出す。
「逃がさないかな」
その速度は、負傷したアリシアよりもはるかに速い。
あっという間に距離を詰められる。
「『初級水魔法:アイスウォール』」
氷の壁を作り出した。
リリーとの間に障壁を作って、少しでも時間を稼ごうとした。
分厚い氷の壁が、教室に出現する。
でも、リリーの拳が氷の壁に触れた瞬間。
壁が、まるでガラスのように粉砕された。
ガシャアアアンという音とともに、無数の氷の破片が飛び散る。
「魔法は無駄かな」
「わたしの身体能力の前では、魔法なんて意味がないかな」
小さな拳が、再びアリシアに迫る。
今度は、完全に殺すつもりだ。
「今度こそ死ぬかな」
リリーの拳が、アリシアの頭部に迫る。
もう逃げ場はない。
彼女は、死を覚悟した。
次の瞬間、拓也の姿が下から上に消えた。
窓の外で、拓也が雪菜に抱えられて飛んでいく。
「タクヤ!」
きっと、雪菜に連れ去られたのだろう。
そして、リリーも拓也を追って動きを止めた。
「拓也がいなくなったかな」
キスのような音が響く。
「追わなきゃいけないかな」
小さな体が窓に向かって走り出す。
アリシアへの攻撃を中断して、拓也を追いかける。
その瞬間、アリシアは助かった。
「ユキナ、待つかな」
窓から飛び出していった。
8歳の少女が、3階の窓から躊躇なく飛び降りる。
そして、その小さな体が、空中で回転して完璧に着地した。
まるで、猫のような身のこなしだった。
「助かった」
アリシアが安堵のため息をつく。
拓也の出現で、リリーの注意が逸れたのだ。
その隙に、アリシアは何とか生き延びることができた。
アリシアは、急いで窓から脱出した。
教室に残されたのは、ルーシーの死体。
そして、重傷を負ったレオナルドとクロウだった。
「誰か」
「誰か助けて」
必死に叫ぶ彼女の声は、廊下に響いた。
しばらくして、他の教師や生徒たちが駆けつけてくる。
魔法大学史上最悪の惨劇の知らせが、瞬く間に広がった。
「治癒班を!」
「レオナルドとクロウがまだ生きています」
「急いで治療を」
教師たちが教室に駆け込み、二人の救命処置を始める。
アリシアも、自分の傷を治療してもらった。
左腕は、一日以内に上級治癒魔法を使えば治る。
しかし、それを過ぎると一生戻ることはない。
それも上級治癒魔法を使えるのは、彼女しかいないのだ。
つまり、魔力が回復するまでの時間との勝負。
魔法使いとしての人生が、大きく変わってしまう。
でも、アリシアは生き延びた。
拓也を救うために。
雪菜とリリーの脅威を、みんなに伝えるために。
「タクヤ」
アリシアが窓の外を見つめる。
どこかで、拓也が二人のヤンデレに囚われている。
助けなければならない。
どんな犠牲を払っても、拓也を救い出さなければならない。
アリシアの決意は、固かった。
◇ ◇ ◇
小屋の中で、絶望的な現実と向き合っていた。
ヴァルとルーシーが死んだ。
アリシアが左腕を失った。
レオナルドとクロウも重傷を負った。
すべて、俺の存在が原因だった。
そして、今度は俺の家族が狙われている。
でも、取引をした。
家族の命と引き換えに、俺は二人のものになると約束した。
「じゃあ、家族には手を出さないんだな?」
「約束かな」
「タクヤが私たちのものになるなら、家族は殺さないかな♡」
「その代わり」
もう嫌だ…
「タクヤは二度と家族に会えないかな♡
わたしたちだけのものになるんだから、当然かな♡」
「それも、約束です♡」
「拓也くんは、私たちとだけ生きるんです♡
他の人とは、もう会えません♡」
俺の心が、絶望に沈む。
家族を守るために、俺は自由を失った。
これから、ずっと雪菜とリリーに監禁されて生きることになる。
でも、それでも家族が無事なら。
この地獄を受け入れるしかない。
「分かった。約束する」
「やった♡」
飛び跳ねて喜んでいる。
「拓也くんが私たちのものに♡」
「永遠に、永遠に、一緒です♡」
「愛してるかな♡」
小さな体と感触が、しがみついてくる。
「これで、やっとタクヤと一緒になれるかな♡」
「ずっと、ずっと待っていたかな♡」
その声には、純粋な喜びが込められていた。
彼女にとって、これは幸せな結末なのだ。
俺を手に入れることが、彼女の全てなのだ。
「愛しています♡」
彼女もまた俺に抱きついてくる。
「拓也くん、大好きです♡」
「これから三人で、幸せに暮らしましょう♡」
二人のヤンデレに挟まれて、俺は身動きが取れなくなった。
これが、俺の運命なのだろうか。
雪菜とリリー、二人の狂気に囚われて、一生を終えることになるのだろうか。
でも、少なくとも家族は守れた。
エリカも、ルナも、クロエも、オルテンシアも。
みんな無事でいられる。
それだけが、俺の救いだった。
暗い小屋の中で、俺は二人のヤンデレに囲まれたまま。
絶望的な未来を、ただ受け入れるしかなかった。
これが、俺の選んだ道なのだから。




