行方不明になった末っ子(4歳)に疲れ果てた家族に養子にされて実子が見つかると愛でる対象を変えて見向きもしなくなる人達をこちらからも捨てることにしたら研究者の保護者と光属性の妖精が立候補してきた
「っ、こ、これは……」
男は足を踏み入れた部屋の光景に、絶句するしかなかった。
「なにも、ない……?」
唇が乾いて、ごくりと喉を鳴らす。辛うじて子供部屋だとわかるのは、壁紙にわずかに残る幼い意匠のみ。他には何もない。
カーテンはおろか、家具らしい家具さえ見当たらない。時間が止まったまま打ち捨てられたかのような空間に、ひんやりとした空気が肌に張り付く。
中央に置かれた簡素なベッドは、この子爵家が誂えたとは思えないほど陳腐な安物だ。子爵家の子供がなぜこれほど粗末な品を使っているのか、疑問が湧く。
部屋全体を見回すうちに、じわりと嫌な予感が頭を埋め尽す。
この子に会う前に子爵家で会った末娘。彼女は三年前に四歳で行方不明となっていた。原因は祭りだったという。
ふらっといなくなり、探し回ったが見つからず。実は、活動していたサーカスの馬車に紛れ込み、寝こけている間に違う場所へ運ばれてしまったのだと。迷子の末に、近くに住む人々に育てられていたという経緯。
発覚したのは、育ての親が出稼ぎで地域へ来た際、彼女を連れてきたことで偶然、子爵家の者に見つけられたから。その間、子爵家では様々な変化が起きていた。
三年という歳月は、諦めを生むには十分すぎる時間。一年、二年と必死に捜索を続けていた彼らも、三年目にはもうだめなのかもしれないと、うっすらと諦めを抱き始める時期。特に子爵夫人の精神的疲労は強く、当時近くで遊んでいた子供を見て、思わず抱きしめてしまうということがあったという。
末娘が生きていれば七歳。夫人は、子供を自らの娘と同一視したのだ。顔が似ていたわけではない。ただ、地面を見つめる仕草が、幼い頃の娘と同じだった、それだけの理由で。
七歳の子供は、見知らぬ女に訳もわからず抱きしめられたにもかかわらず、泣き叫ぶことも騒ぐこともなく、ただじっとその様子を見ていたらしい。子供はルールアと名乗り、夫人の頭を優しく撫でた。
夫人は子供のように泣き崩れ、七歳の女児であった、抱きしめられた本人のルールアは黙って、その背中をぽんぽんと叩き続けた。光景を見た子爵家当主、いなくなった妹の兄弟たちは、この子がいればと希望を抱いたらしい。
今となっては、鼻で笑ってしまうような動機だ。なぜ、自分がそう思うのか──思考に囚われていた男は、女の子がこちらを見つめていることに気づくのが遅れた。
「私の捨て先があなたですか?」
「……なっ!」
強烈な言葉の内容もさることながら、何か言い返そうとした男の喉は、女児の目を見た途端、ひきつれた。ヒュッと喉が鳴る。
(瞳に、光がない、だと)
目が、虚だ。子爵家当主の弟である研究者の男は、あまりの惨状に、見つめることしかできなかった。
子爵家の夫婦にとって、ただの都合の良い身代わりだった。
今、本物が帰ってきたから、もう用はない──そのあまりにもわかりやすく、滑稽なほど単純な思考に、ルールアは乾いた笑いを漏らした。子供部屋を与えられたのは早かったと記憶している。
特別裕福ではない家庭に生まれ、姉妹や兄弟だけが無駄に多く。だからこそ、真ん中より下の女児であるルールアは、特に気にかける必要のない存在だ。
子沢山で、父親も出稼ぎのために滅多に帰らず、母親は乳飲み子を抱え、まともに子育てをしている様子もなく。放任と言っていいかというと、放置だと断言できる。
暇を持て余したルールアは、異世界の生き物を観察して日々を過ごしていた。こう見えて、稀有な転生者という「当たり」なのか「外れ」なのか、よくわからない人生を引き当ててしまったから。
地面で異世界のアリ(推定)を観察していると、ある日。急に見知らぬ女性が抱きしめてきて、知らない名前を呼び続けた。きっとこの人は、その子を亡くしたのだろうと勝手に推測し、まるでカウンセラーのように、ただ黙ってその背中を撫でてやった。
仮初の愛をその日、打ち込まれたとも知らず。呑気に、赤の他人の背中を健気にさすったのだ。ルルア、そう呼ばれた仮初の名前。 子爵家の人間は皆、呼んだ。
夫人は本当の娘のように可愛がり、子爵もまた、娘を失った悲しみを埋めるかのように優しくする。子爵家の子供たちも、突然現れた偽者をすぐに受け入れた。
彼らの温かい愛情に包まれる日々は、初めて経験する家族の温かさ。転生者としての記憶があるゆえに、この状況を冷静に分析していた。彼らは失われた娘の代わりを探していた。
都合の良い存在を見つけたのだ。理解していたけれど、それでも心地はよかった。粗末で煩い家で、ただ生きているだけの存在だったから、子爵家での生活は、まるで夢のようで。
しかし、夢は必ず覚める。夢は幻で、ありはしない現実。
三年後、子爵家の本当の末娘が、出稼ぎ先で見つかったと連絡が入った。
その日から、子爵家の空気は一変。夫人も子爵も、まるで水を打ったかのように自分のことを見なくなった。子供たちも、本物の妹の周りに集まり、こちらへ声をかけることもなく。
「 漸く帰ってきたわ、私の子……か」
子爵夫人が本物の娘を抱きしめ、そう呟いたのを聞いた。与えられた全ての愛情が、偽物だったと突きつけるよう。
彼らにとって、最初からただの穴埋め要員に過ぎなかった。穴の空いた靴下を縫う糸。穴が埋まれば、用済み。
新しくて愛しい靴下。中古品がいらなくなったら、ポイッである。彼らの瞳には、もう愛情の欠片もなかった。あったのは、本物の娘への溺愛だけ。
まるで、最初からいなかったかのように、彼らの世界から己は消え去った。部屋は、あっという間に空っぽになった。彼らが与えたものは、全て取り上げられた。
可愛いお人形。妹にあげるために特注品だったらしい。他人の物をあげるなんてと普通は思うだろうが、ちゃんとそこには経緯と原因がたっぷり詰まっている。
『ごめんね、この人形はあの子のために作ったつもりで』
『このペン、お揃いで買って今は売ってないから』
『別のあとであげるし』
『リボン、この色限定品だからもうないからあげたいわ』
『髪留め、あの子をイメージしたから』
『あの子があなたの部屋で見たベッドが良いって言うのよ。あとでもっといいものをあげるから、我慢してくれる?使用人部屋のものを、今だけ仮置きしておくわね』
『この本、あげたけどあの子に読ませてあげたいから借りるな』
『あ、このネックレスって対になっていて二つしかないのよ』
『この絵、あの子にあげるから取り外すよ』
『お土産のクッキーまだあったよな?残りを全部くれないか』
『ドレスを欲しいと言うの。これからたくさん作ってあげるのに。真似したいのよきっと。ふふ、わがままで困るわよね?』
『あれ、少ないな。使ったのか?はぁ、ちょっとは残しておけば使えたのに』
『可愛いインクは?あの子も欲しがると思って少しは残しておかないと。あなたもこの家の家族なんだから』
「……全部なくなっちゃった』
簡素なベッドだけが残されたのは、きっとお眼鏡に適わなかったのだろう。使用人部屋のものだし。
「ミーナ、お前のためにケーキを買ってきたぞ」
「お兄様、ありがとう」
そんな会話を彼女が引き取られてから、連日嫌でも耳に入ってきて、聞かされる地獄。子爵家に引き取られることになった時、家族からは厄介者が減ったと喜ばれた。
子沢山だから、小さい女の子なんて働き手にもならないし、将来の使い道も男児より薄い。妊娠中のお腹を揺らして、お金をザクザクとホクホク顔で受け取ったと思われる。
子爵家を追い出されかけている今、行くあてなどない。呆然と部屋の隅に座り込んでいると、現れたのがこの男、子爵の弟。彼は引き取ると言った。
研究者をしているという彼に、なぜ己のような用済みの子供を引き取る理由があるのか、わからなかった。ただ一つわかるのは、人生はまた振り出しに戻ったということ。
子爵家の人間が、心をどれだけ踏みにじったかということだけだ。踏んでもいいものだと、思われているわけで。きゃらきゃらと笑い声が、屋敷に響く。
「ミーナ、ドレス、まだまだ作るのよ。カタログから選びなさいな」
「お母様、この色好きじゃない」
部屋の外から、幸せ家族の会話が聞こえてくる。彼らに与えられた愛が、どれだけ薄っぺらで、偽物だったか。
彼らの愛する末子の言葉で全てを奪い取られた。また、声が聞こえてくる。
「お父様、ミーナのこと好き?」
「当たり前だ」
「あの子より?」
「一度も忘れたことなんてないさ」
明確にはぐらかして、見つけられなかった罪悪感を隠す心理に、大人の狡いやり方を垣間見る。彼らを決して許さない。
虚ろな目で男を見つめながら、全て凍りついていくのを感じる。男は、自らをジャルステン・ブルステックと名乗った。
子爵の弟にして、国でも名の知れた魔術研究者。有望な肩書きとは裏腹に、彼の風貌はひどく垢抜けない。乱れた髪、しわだらけの服、女児の虚ろな瞳を見ても動じない、いや、興味深げに観察するような視線が、不信感をひたすら募らせた。
「君は、面白いね」
ジャルステンは呟くと、部屋の隅に置かれた簡素なベッドに座り込んだ。そこで寝泊まりする部屋主に何の配慮もないかのように。随分と適当な人のようだ。
「子爵家では、ずいぶん粗末に扱われているらしい。君の部屋を見て、すぐに理解できた。使用人以下の扱いだ」
的確な言葉に、何の感情も示さなかった。事実を述べられているだけで、今さら傷つくことなどない。
「君を引き取ったのは、他でもない。私が必要としているという理由さ」
ジャルステンはまっすぐ見据え。彼の瞳には、狂気にも似た研究者の情熱が宿っているように見えた。
こっわ、なにそのマッドサイエンス。
「君のその虚ろな目、研究にとって非常に価値がある」
「……何の研究ですか」
声を発したのは、子爵家を追われてから初めてのことだったかもしれない。自分の声が、ひどく掠れていることに気づく。最近、まともに食べてないから。
「生命と、魂の研究だ」
ジャルステンは楽しそうに、どこか不気味に微笑んだ。
「魂。魂だ。私が知りたいのは、その魂がどのように機能し、どのように身体に定着したのか。魔術にどう影響を与えるか、だ」
彼は興奮しているようだった。
人間としてではなく、興味深い実験動物のように見ている。
子爵家の愛が偽物だったように、男の救済もまた、彼の研究のための都合の良い材料でしかないのだろう。なんでもいい。
「私は、モルモットですか?」
問いかけに、ジャルステンは愉快そうに笑った。
「そうだな。君は私にとって、最高のモルモットだ。だが、安心してくれ。君を危険に晒すようなことはしない。最高の環境と、知的好奇心を満たすだけの情報を提供しよう。もちろん、衣食住も保証する」
モノとして扱っている。だが、それは子爵家が都合の良い存在として扱っていたのと、何が違うのだろう?
少なくとも、男は最初からその意図を隠そうともしない。子爵家での温かい家族ごっこよりも、冷たい真実の方が、よっぽどましだ。
偽りの愛に縋るくらいなら、明確な目的のために利用される方が、まだ心が楽。
「わかりました」
答えると、ジャルステンは満足げに頷いた。
「では、今日から君は私の助手だ。私の研究材料でもあるからな」
心はさらに深く沈んだ。またしても、誰かの都合の良い存在に成り下がってしまった。もう二度と、人の言葉に心を奪われることはない。永遠に何も許さないつもり。息を浅く吐いた。
手を引かれて、力なく進む。実験だ、モルモットだ、と言ってたわりには抱っこをするという矛盾には、少し首を傾げたけど。ジャルステンの屋敷は、子爵家とは対照的。
広大な敷地には手入れの行き届かない庭が広がり、屋敷自体も古びてはいたが、そこかしこに書物や研究道具が散乱。埃っぽいながらもしっかり生活感があった。子爵家の、全てが整えられた、今となれば、空虚な美しさとはまるで違う。
与えられた部屋は、以前よりずっと広かった。簡素な家具しかなかった子爵家の部屋とは違い、ここでは書棚が壁一面を埋め尽くし、机の上には魔術の書物や奇妙な道具が所狭しと並べられていた。
部屋も、すでに子供部屋として奪い取られていたので、あるだけマシ。ジャルステンは、好きなように部屋を使っていいと言った。
最初はただ、言われるがままにジャルステンの研究を手伝う。薬草の調合、古い文献の解読、魔術具の管理。どれも前世で得た知識が役に立つ場面は少なかったが、持ち前の記憶力と冷静な判断力で、彼の指示を忠実にこなす。
ジャルステンは徹底的に観察した。食事の量、睡眠時間、行動パターン、感情の起伏。全てを記録し、分析する。虚ろな瞳の奥にある感情の動きは、彼にも読み取ることができなかったのだろう。
彼は諦めたように首を振る。時間は嫌でも刻々とすぎた。手伝っている最中、書棚の奥に手を伸ばした時だ。
古い魔術書が数冊崩れ落ち、隙間から、手のひらほどの小さな光が零れ落ちる。
「……なに、これ」
呟いた瞬間、光はふわりと浮かび上がり、目の前で止まった。光の中から、小さな人影が形作られていく。透き通るような羽を持つ、手のひらに乗るほどの小さな存在。
「やあ、初めまして。君が、この部屋の新しい住人?」
鈴の音のような、はっきりと耳に届く声。紛れもなく妖精の声だった。
今までの記憶にも、この世界の文献にも、妖精がこれほど明確な形で、人間の言葉を話すという記述はない。
無言で、目の前の妖精を見つめた。瞳は、まるで生まれたての朝露のように澄んでいる。虚ろな目とは対照的だ。生き生きとしていて。
「驚いた顔をしているね。無理もないか。僕たち妖精は、なかなか人前には姿を現さないからね」
妖精は、くるくると周りを舞った。動きに合わせて、小さな羽がきらきらと光を放つ。
「僕の名前は、チェンバース。君の隣人だ」
チェンバースは頬にそっと触れた。触れた場所から、じんわりと温かいものが広がる。長い間、冷え切っていた心に、小さな温かさが染み渡るような錯覚に陥った。
「君の目は、とても寂しそうだ。何か、大きな悲しみを抱えているようだね」
チェンバースは目をまっすぐ見つめた。純粋な瞳に、奥底に押し込めていた感情が、少しだけ揺さぶられた気がする。
チェンバースと出会って数週間。生活は、相変わらずジャルステンの研究に付き合う日々だったが、その合間にチェンバースと他愛ない会話を交わすことが、唯一の癒しとなっていた。
彼は、かつていた他の世界の話にも耳を傾け、世界の常識では理解できない知識にも純粋な好奇心を示す。会話はカチカチに凍りついた心に、微かな温かさをもたらし始めていた。
午後、屋敷の玄関で騒がしい声が響く。ジャルステンは書斎に籠もりきりで来客を嫌うため、普段は静かな屋敷に響く声は異様。
不審に思い、広間へと足を向けた。そこにいたのは、子爵夫人の腕に抱えられた、本物の末娘──ミーナ子爵令嬢。
彼女は、子爵夫人と子爵、兄姉たちに囲まれ、小さな王女のように扱われていた。ミーナはこちらに気づくと、夫人の腕から飛び降り、駆け寄ってきた。
「ルールア! あなた、いたのね!」
彼女の声は、向けられた愛情とは異なる、ねっとりとした甘え。どこか優越感を滲ませていた。
子爵家の人々の視線が、一斉にここへ集まる。その中には、心配の色も、謝罪の色もない。
代用品の厄介者が、まだここにいることへの不快感と、ミーナへの溺愛だけがあった。
「ねえ、ルールア。お母様たちが言っていたわ。あなたが私のものをたくさん持っていったって。本当なの?」
ミーナは、無邪気な顔で、真っ直ぐに目を見て言った。七歳の無邪気な残酷な目。瞳の奥には、遠慮や配慮など微塵もない。当たり前かな?
実子だから。
「私のぬいぐるみ、絵本、ドレス。全部、あなたが使っていたんでしょう? お母様がね、本当は全部私のものだったのにって、言っててね。だからねっ」
ミーナの言葉を聞きながら、呆然としていた。部屋にあった家具も、洋服も、玩具も、全てが「私のもの」だったと、子爵家の人々は彼女に吹き込んだのだろう。
もしかしたら、あなたにあげる予定だったけど、あげちゃったのと。彼らは、全てを奪い去っただけでなく、あたかも泥棒であるかのように、ミーナに無意識に教え込んだのだ。
あげられなかったという悔しさを、スケープゴートとして偽者に押し付けた。
「だから、他のも返してちょうだい。私のもの、全部。私のだったんだよ?ん!」
ミーナは、小さな手を差し出した。それが当然の権利であるかのように。すでにこの返還してあるのに、思い出も返して欲しいという意味なのかもしれない。
ノートなんてとっくに使用済みである。時系列がめちゃくちゃなのは、七歳だからなのかもしれない。
お古のものを渡されたけど、奪われたと思ったから言いにきたのだろう。一言、言いに行かないと、とわがままを。無垢な、傲慢な要求に、心は再び、深い絶望と怒りに沈む。
「はぁ!?それは……!」
肩の上で、チェンバースが怒りに震えるのが分かった。彼の小さな体から、きらきらと光の粒が激しく飛び散る。
「奪ったのは、あなたたちだ! この子の、温かい心まで奪っておいて!勝手なことばっかりっ」
チェンバースの小さな体が、怒りで大きく揺れていた。彼の声は、普段の鈴の音のような響きとは違い、どこか鋭く、強く響く。
子爵家の人々は、突然の声に驚き、チェンバースの小さな姿を見つけた。彼らは妖精の存在を信じていないのか、光のいたずらとでも思ったのか、すぐにミーナに視線を戻す。腹話術扱いなのか。
ミーナの差し伸べられた手を見つめた。心をバキバキに凍らせた、子爵家のこの子にあげられなかったものだからという、言葉が。今度はミーナの口から発せられている。
部屋がすっからかんになったのは、部屋の中がそもそも末妹にあげる予定をしていた物や、あげたいと思っていたものを擬似妹へプレゼントのシミュレーションとして活用していたからと思われる。
大切に扱いすぎて未使用だから、余計に渡しやすかったに違いない。彼らは、偽者娘を愛していると思い込ませて、過ごしていた。
「ふ……私のものなど、最初から何もなかった」
静かに、はっきりと答えた。虚ろな瞳は、ミーナの目を射抜く。
「あなたたちが、全てを奪い去る前から、私のものなんて何一つ、なかった」
子爵家の人々の顔から、一瞬にして表情が消えた。彼らは、反論するなど、夢にも思っていなかったのだろうな。
ミーナもまた、返答に戸惑ったように、目を瞬かせる。七歳だから、理解できまい。狂った子爵家の精神状態を。
その時、書斎から出てきたジャルステンが、広間の状況を冷静に見渡す。彼の瞳は、子爵家の人々の反応、ミーナの表情、養い子の虚ろな目。
肩で怒りに震えるチェンバースの姿を、すべて余すことなく捉えていた。彼の口元には、いつもの観察者としての、薄い笑みが浮ぶ。
マッドサイエンティストが、にょっきりと出てる。
子爵夫人と子爵が、睨む。子供らも。彼らの顔には、反論したことへの怒り、ミーナの手前、体裁を保ちたいという焦りが混じり合う。
「ルールア! なんてことを言うの! 私たちがどれだけあなたに愛情を注いだと思っているの!?知っているわよね?」
夫人だ。くだらない。偽りの愛情を押し付けた挙句、被害者ぶるとは。
「私たちはお前を娘として受け入れた! それなのに、帰ってきたこの子は……可哀想だと思わないのか!?」
子爵の声も、苛立ちに満ちていた。
口を開こうとしたその時、ジャルステンが彼らの間に割って入る。
「失礼、兄上。私の助手に対して、言いがかりは感心しません」
ジャルステンの言葉には、普段の飄々とした態度とは違う、妙な圧があった。子爵家の人々は、ジャルステンがこんなに強い態度に出るとは思っていなかったようで、一瞬ひるんだ。
「お前からも言うんだ! ルールアは、この子がもらうはずだったたくさんのものをもらっていた! 返してあげなさいと言っているだけなのに。返してあげるのが姉としてのやるべきことだとは、思わないのか?」
いまいち、やはりなにを返し欲しいのかわからない。もしや、ルールアにも可愛がれと強要をしているか?
ミーナが、ジャルステンの足元に駆け寄り、庇護を求めるように訴える。
「私が過ごすはずだったのに。頭も撫でてもらえたんでしょ?いいなぁって思ってね」
ジャルステンはミーナを見下ろし、何の感情も読めない顔で言った。
「君がそう思うのは構わないが、それはこの子と関係のない話だが?彼女は、今や管理下にある研究員。君たちの家庭内のいざこざを持ち込むのは、研究の妨げになる。帰れ」
研究の妨げ。内容に、子爵夫妻はサッと顔色を変えた。ジャルステンは、国の魔術研究の第一人者。彼に睨まれることは、子爵家にとって大きな不利益。
「しかし!この娘は、私たちの」
子爵が何か言い募ろうとするが、ジャルステンは容赦なく言葉を遮る。
「もう結構。君たちが彼女をどう扱っていたか、屋敷に引き取った際に理解している。彼女の部屋を見て、どれほど驚いたか。子爵家の人間が、養子とはいえ、あれほど粗末に扱うとはな。血縁も含めて書類上、彼女は君たちの家族ではない。今後は一切、彼女に関わらないでいただきたい。理解できたかな?」
ジャルステンの言葉は、氷のように冷たく、明確。子爵家の面々に突きつけられた、最後の通告。
彼らの顔は、怒り、驚き、屈辱の色で染る。特に、子爵夫人の顔は青ざめていた。
「ち、違うわ。あなたを愛してた。本当に愛してたの。お願い、信じて」
彼女がルールアを抱きしめた、あの偽りの愛情の瞬間が、指摘されて白日の下に晒されたのだ。ぶつぶつ言うのが聞こえる。七歳の実子は意味を理解できないから、首を傾げていた。
「まだ何も言えてない……許せない!」
チェンバースが怒りの声を上げたが、そっと彼の小さな体を撫でた。もういい。彼らに何を言っても無駄。
子爵家は、何も言えず踵を返して屋敷を後にした。ミーナは、最後にこちらを振り返り、不満げな顔で睨んだ。
その視線を何の感情もなく受け止めた。既に、彼らに向ける感情など、もう何も残っていなかったから。数分も経たないのに、何年も経ったようだ。
「……助かりました」
ジャルステンに礼を言った。ぐったり。
「礼は不要だ。ただ、自分の研究環境を整えただけなのだから」
ジャルステンは、顔をじっと見つめた。
「君の精神状態は、興味深いものになったようだ。あれほどの屈辱を受けても、感情の起伏が少ない。まさか、交友がそこまで影響を与えるとは」
男はチェンバースをちらりと見た。チェンバースは肩で、警戒するようにジャルステンを睨む。
「なんのことですか?」
あえて、知らないふりをした。
「ああ、君の肩にいる光の塊のことだ。ごまかすなよ。屋敷に何ヶ月も住んでいて、妖精の存在に気づかないとでも思ったか?そこまで鈍くはない」
ジャルステンは肩をすくめた。彼の目は、全てを見透かしているようだ。
「さて、これで邪魔者は消えた。君とより集中して研究に取り組めるだろう。君の観察を続けられる」
ジャルステンの言葉に、何も答えなかった。人生は、再び、新たなステージへと進められる。
子爵家という偽りの檻から解放され、今度は研究という名の新たな檻に入っただけかもしれないけれど、小さな友人のチェンバースもいるから。
「ルールア……平気か?」
チェンバースがそっと頬に触れた。触れた場所がわずかに温かい。ふわふわする。
「君を独りにはさせないよ」
まったりとした言葉は子爵家の誰もが与えなかった、純粋な温かさを持っていた。
彼女は、何も許してなんかいない。だが、凍りついた心の奥底で、小さな妖精と。ひねくれた変人の研究者との生活は、案外悪くないのかもしれない。
「ところで」
こほん、と鳴る音。
「棚にクッキーとレモンの紅茶がある。腐る前に食べるといい」
咳払いと共に紡がれた言葉に、妖精とぽかんとした顔で彼を見上げる。
「え?」
彼はキュッと眉をあげ、こちらを不愉快そうに見返す。
「甘いものは脳の回転を良くし、リラックス効果を高める。先触れのない連中の対応で私も疲れた。今日のスケジュールは全て白紙だ。君の仕事は明日から……二日後でいい」
などと、早口で述べてさっさと部屋から消える。しばらくぽつんと残された。
「素直じゃないなぁ、あの人」
言葉遣いや仕事の姿勢がとっつきにくいだけで、そういえば冷たい部屋から助け出された時の腕の中はとても気を遣われていたと、ふと、思い出した。子爵から助け出されるまでの期間の短さ、引き取られる早さ。
初対面の時の言葉。あの、ひきつった声音は演技じゃなかった。
「なに、あれ」
妖精の友人は未だ理解不能という部分にのみ、気を取られていた。しかし、ルールアはわかってしまう。
「あの人、意外と可愛い」
⭐︎の評価をしていただければ幸いです。
一連の子爵の面々に一番キレているのは叔父。