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神の鳥


 わたしたちが幼かった頃、村はまだ人が行き交い、植相が整えられていた。木々のあいだを縫う村道。その脇に田畑や果樹園が点在していて、家々はさらにその中で控えめな存在感を占めていた。


 村のはずれから森の奥へ入っていくわたしたち三人の足取りは、いつも軽かった。

 草葉に乗った朝露が、足元で弾けた。


 「待ってよ! ユツキ」

 ヒイナの高い声が後ろから届く。さっきまで揚羽蝶に見惚れていた彼女は、小走りにわたしたちを追いかけていた。ユツキは、エノコログサをぶんぶん振り回しながら先頭を行っていた。


「おっそいなあ」

 足を止めて振り返る彼が、瞳を細める。小刀のように目が光っている。彼は自然な自信にあふれていた。


 わたしは、二人のあいだを歩いていた。ユツキとヒイナの二人のあいだが、わたしのいつもの位置だった。冒険心と安心感のとけあうような場所だった。

「こっち向いてごらん、ルタ」ユツキは、エノコログサの穂先をわたしの頬に当てた。くすぐったい。笑い声が出る。わたしの顔を見て、ユツキも愉快そうに片頬をゆるめる。


 ルタ。なにか面白いことあったの? 追いついてきたヒイナがわたしに訊いた。ユツキはにやにやした顔でそっぽをむいた。なにしてたの、わたしにも教えてよ、ルタ。


 ルタ。昔、わたしはそう呼ばれていた。もう長いあいだ呼ばれていない、わたしの名。


 森の奥へ進むほど、木々の密度は増して、こぼれおちる陽光は淡くなっていった。おしゃべりの声は、樹皮に吸い込まれていった。

 小さな川が、山道の右に並んで流れていた。道とは苔むした岩で隔てられている。透き通った水の底には、白い砂利が見える。川面に、木漏れ日がゆらゆらきらめいている。


 ユツキの足が止まった。

「ほら、あっち」

 彼が指差す方向から、鳥の声がしている。むせび泣く声にも高笑いにも聞こえる、特徴的な鳴き声。


「神の鳥」だ。

 声のする方へ走る。大きなカシの幹の根元、日陰に隠れるように小枝で編まれた巣があった。


 鳥は美しかった。黒に近い深い藍色の羽毛。目の周囲には鮮やかな銀色の皮膚があり、日陰からはみ出るたび輝く。


 鳥が体を揺らすと、胴の下から白いものが見えた。

 「卵がある!」ユツキの声に、わたしとヒイナは巣を覗きこんだ。ヒイナは嬉しそうに手を胸の前で合わせ、無言ではしゃいでいる。


 鳥と目が合った。黒い眼は磨いた黒曜石のようだった。眼球の奥に自意識のようなものを感じ、戸惑った。その眼を見ていると、大人たちが「神の鳥」と呼ぶのが分かった。鳥は少しのあいだわたしの目を覗き込んだあと、軽く羽毛をふくらませてから再び中空を見つめた。


 神の鳥は、わたしたちを守る村の魂。それが村での伝承だった。

 祖母が教えてくれた日のことを、わたしは鮮明に覚えている。鳥を守る限り、村は守られる。鳥に害なすものは、地獄の苦しみを味わう。

 村人たちは、鳥を畏れるとともに、深く敬っていた。


 村には創生の神話があった。


 森が最初に拓かれた頃、小さな集落を干ばつが襲った。田畑はひび割れ、農作物は散り散りになり、人は乾きを癒すために若木の根を噛んで唾液をひねり出した。賢しげな一部の村人は生体術を使い、木々に地中深く眠る水脈から水を吸わせようとした。しかし、未熟な術は暴走し、森の樹木は片っ端から循環を逆流させ、枯れていった。村人たちは考えることを放棄して、雨を乞うて祈り、土下座を繰り返すような舞いを踊ったが、空は青く澄み渡るばかりだった。


 ある日、真っ青な空に切り傷をつける軌道で鳥が舞い降りてきた。骨と皮だけになった男の前に降り立った。藍色の羽をもつ鳥は、彼の目には肥え太った肉塊に見えた。弱々しい腕で捕まえようとしたとき、男の身体に四肢がもげるような激痛が走った。鳥の目に射抜かれた男は、むしろ自らの身体を差し出した。男がその後どうなったかは、語る人によって異なる。だが伝承の結末はいつも一緒だった。満足した鳥は飛び上がると、カシの樹の天辺にとまった。すると空が突如雲に覆われ、雨が村を潤した。地中に染み込んだ水は、傷んだ森を癒していった。以来、村人たちは鳥を、生命の調和を支える支点だと信じ、守ることを誓った。鳥の声が届く場所において、生体術はもう破綻することはなかったという。


 しかし、神の鳥はひどく数を減らしていた。卵が孵ることは稀になっていた。

 鳥はふつう人に近寄ることがないから、村人たちは滅多に見ることができなかった。鳥を見た日はハレコメが家庭でふるまわれるほどに、その出来事は特別だった。だが、不思議なことに村の大人たちとは違って、わたしたち三人が近寄っても神の鳥は逃げなかった。黒い瞳をなめらかに濡らして佇んでいた。


 まもなく神の鳥は消えてしまうかもしれない。村の長が、集いで口にした言葉は村人たちを青ざめさせた。


 だから、わたしたちが神の鳥の巣を見つけたことは運命なのだと思った。ユツキは、鳥に選ばれたんだよ! と喜色あふれる顔で断言した。ヒイナは目を輝かせてうなずいていた。

 そうだ、三人で神の鳥を守るのだ。村の魂を、絶やさないために。そう思うと、自尊心があふれんばかりに満たされた。子供の自分にとって得難い感覚だった。


 わたしたちは、可愛らしい使命感と好奇心に突き動かされて、巣の場所に毎日のように通った。カシの木までのヒメムカシヨモギの草むらは三人によってかき分けられ、まっすぐに進めるようになっていった。


 その日もまた、巣のまわりでひとときを過ごしたあと、沈んでいく太陽が伸ばす影を追いかけるように、遊びながら道を戻った。



 村外れの花畑が見えてきた。遠目からわかるほど、鮮烈な原色が満ちている。

 ネモフィラの青色、ヒマワリの黄色、コスモスの紅色、スイセンの白。春と夏と秋と冬の花々が混ざり、狂い咲いている。小さな家の敷地ほどの地面に、絵画のように色が集う。


 生体術だ。一輪だけでも美しい花々が、季節を無視して色の饗宴を繰り広げている。わたしは、声になる手前の息を吐いた。風が吹くと、花は背の高いものほど大きく揺れ、砂糖を入れすぎたジャムのような濃密な匂いを漂わせた。


「きれい!」

 うっとりと花弁を見つめながら、ヒイナが花畑に足を踏み入れた。まるで蝶のように、花々のあいだの狭い隙間を巡っている。

 どの植物も、葉がやたら艶やかだった。沈む太陽を受けて、花弁と葉に淡い橙色が重なる。


 ユツキは、熱を帯びた目で花々を見ていた。

「すげえな。どの花も完璧だ」

「この生体術はすごいよ」

 わたしもうなずいた。生体術を学んで村に帰ってきた数少ない生体術士は、こうした愉しい実験をすることがあった。もちろんそれだけでなく、村の食生活や医療などを実際的に支えている。

 わたしは、彼らに憧れていた。


「こんなふうに命を操れるなら、あの卵だって今度こそ孵せるはずだ」

 ユツキの目には純度の高い期待があふれていた。「うん、きっと」彼の言葉に、わたしの胸も高鳴った。


 減っているのは神の鳥だけでなかった。狐や鹿も、希少な原生植物も知らない『何か』の影響で減少していたのだった。


「俺も生体術士になる」

 彼の宣言は、花畑を揺らす風に乗って高らかに響いた。

 彼の後ろには、家々の灯が点在する村の風景が広がっている。


 混じり合った花の香りがわたしたちの鼻先を撫でる。濃くて、甘い。

 ヒイナは少し離れた場所で、紅いコスモスに瞳を寄せている。ユツキは厚いツワブキの葉を撫で、ふくらんだ感触を確かめた。わたしは、どの植物に手を伸ばすことなく、二人の様子を見ていた。

 花畑は、夕闇のなかで未来そのもののように眩しかった。

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