煙の向こうの黒猫
今日もまた、終電間際の帰宅だった。部屋のドアを開けた瞬間、小さな黒い影が足元に擦り寄ってきた。
ただいま、と声をかける気力もない。
テンはそんな自分を見上げて、小さく鳴いた。
テンの頭をそっと撫でてから、無言でベランダへ出た。
夜風は少し冷たくて、火をつけたタバコの先だけが小さく赤く光る。
吸い込んだ煙と一緒に、胸の奥の重たいものも吐き出せたらいいのに――
そんなことをぼんやり思いながら、なんとなく部屋の中を見る。
テンはソファの上から、じっとこっちを見ていた。
その瞳は小さく揺れていて、どこか心配そうに、何か言いたげに。
そして次の瞬間、小さな体からふわりと白い煙が立ち上った。
それがゆっくりと形を変え、目を見張る間に、猫は少年の姿へと変わっていった。
ベランダからの景色がぼんやりと揺れる中、突然目の前で姿を変えたテンに、思わず息を呑んだ。
「裕翔!」
と、その人間になったテンが明るい声で呼びかける。
驚きが収まらぬまま、彼は勢いよく駆け寄ってきた。まるで、ずっと会いたかった友達に会えたかのように。
「な、何だ!?お前...テン...なのか?」
戸惑いながらも、抱きついてくるテンらしき少年の頭を優しく撫でた。
その感触は不思議と懐かしくて、まるで本当にテンを撫でているかのような親近感が胸に広がった。
「あのね、俺、ニンゲンになれるんだ!」
テンはニッと無邪気に笑って、嬉しそうにそう言った。
猫が人間に――?
そんなはず、あるわけがない。困惑して言葉を失う自分に向かって、
「裕翔、疲れてたから…癒してあげようと思って!」
テンは無邪気に、楽しそうに笑って見せた。
その笑顔を見た瞬間、どうしようもなく親しさが込み上げてきて、目の前の少年が紛れもなくテンだと確信した。
「裕翔!元気が出ることで、俺になにかできることない?」
テンはそう言って、期待に胸を膨らませるようにそわそわして、落ち着かず尻尾をふるふる揺らしていた。
裕翔はまだ少し戸惑いながらも、その様子があまりにも愛らしくて、小さく笑ってしまう。
「ありがとう、テン。それじゃあ……一緒に散歩にでも行こうか?」
その言葉に、テンはぱっと顔を輝かせると、目をきらきらさせて裕翔の手を見つめた。
けれど一瞬だけ、小さく息を呑んで表情を曇らせる。そういえばテンは、ずっと家の中で暮らしてきた猫だった。外の世界なんて初めてだ――少しは怖いだろうか。
だがそんな不安もすぐに掻き消すように、テンは好奇心に満ちた目で裕翔を見上げると、楽しみを押さえきれないようにそっと手を握り、小さく息を弾ませてから元気よく頷いた。