第91話 躁極的な薄光
目を開けて、最初に想ったことは酷く眩しいということだった。
信じられないほどの眩しさが、私の目を焦がしてしまうのではないかと思うほどに白い景色がそこには広がっていた。
でも、何も見えないことはそこまでおかしいとは思わない。だって私は死んだのだから。何も見えないことが当然な気がする。
あれ。
でも。
もう死んだのなら。
私の意識があるのはおかしいような……
「あ、おはよう。ミューリ」
誰かが私を呼ぶ声がする。
どこかで聞いたような声。
何度も、この声を聞いた気がする。
もう遥か彼方の記憶だけれど。
でも、その声は、私がずっと聞いていたかった声。
私がずっと求めていた声。
眩しさに堪えて目を凝らす。
そこには眩しいほどに白い髪を携えたリナがいた。
蘇生魔法を使う時には閉じられていた目がはっきりと開き、私を捉えている。
「ぁ」
私はその視線から逃げるようにあたりを見渡す。
そこは白い雪に覆われた場所だった。覆われたというより、囲まれたというほうがいいのか……たしか、こういうのを雪洞というのだっけ。
外はよく見えない。どうやら吹雪らしい。そのせいか酷く暗い。
なら、彼女は眩く見えたのは錯覚なのか、目が慣れる前だったからなのか。それとも幻覚だからなのかはわからないけれど。
「ミューリ、大丈夫? 身体はどこも痛くない?」
「ぇ、え。え……」
わからない。私は死んだ。
そのはずなのに、どうしてこんな幻覚を見る時間があるのかな。
それとも、これが死後の世界というやつなのかな。そんなものがあるとは知らなかったけれど。死んだら魔力的円環の流れに還るだけだと思っていたのだけれど。
「リナも死んじゃったの……?」
でも、それならリナは助けられなかったのかな。
もし、ここが死後の世界なら、リナも死んでしまったことになるのだろうし……
「それとも、幻? ぁ、あっ。ゆ、夢……?」
夢なら、わかりやすい。
死に際に見る夢。走馬灯っていうんだっけ。またちょっと違うかな。
けれど、それなら、リナの幻を見ているのもわかる。彼女は確かに私にとって最後に見るにふさわしい人ではあるのだろうし。
「ミューリ」
けれど、その声は確かに私を呼ぶ。
最も私を想って呼んでくれた声のままに。
その声を聞けば、私は顔をあげてしまう。
瞼を開けてしまう。
彼女と視線を合わせてしまう。
「夢でも幻でもないよ。私達、生きてる。ミューリのおかげで。生きてるよ」
リナは穏やかな笑顔をしていた。
それは記憶の中の笑顔と同じで、それが嘘だとは思えない。
「え、あ、う、うん……そう。そういう。えっと。そうなんだ……」
ここは現実……現実らしい。
ほんとかはわからないけれど。
でも、雪は冷たいし、息は白い。
ここは現実……?
でも、それならそれでおかしい。
おかしいことだらけ。
「なんで……どうして……」
だって、もしもここが現実で、私が奇跡的に死ななかったとしても。
リナがいるのはおかしい。
だって彼女はまだ蘇生魔法で治したばかりのはずで、魔力も回復中のはずだし……ううん。そういうことじゃない。
そういうことじゃなくて、私の存在をリナが知っているはずがない。エミリーが言ってしまったのかな……? いやでも。
もしも蘇生魔法が使われたことを察しても、私を見つける手段なんかないはずだし、それに。
私を探そうとするはずがない。
リナに私を探す動機がない。
だって。
だって、リナにはもう、私の事なんか忘れて。
覚えていても、私なんかもう見たくないって。
そう思っているはずなのに……
「久しぶりだね。また会えて嬉しいよ。本当に」
けれどリナは穏やかに笑みを浮かべるだけで。
それに私は何を言えばいいのかわからない。
「あ、え、ぁ……」
何を。
わからない。
全部。
どうして。
何が。
自分でもわかるほどに、困惑が強い。
この状況が理解できない。
明らかに数頁飛ばしたようで。
けれど、私の最大の疑問はやっぱり。
「なんで、ここにいるの……?」
意を決して疑問をこぼす。
リナは穏やかに笑ったまま、当然のことのように答える。
「ミューリのことが好きだから」
言葉に詰まる。
わからない。その言葉の意味がよくわからない。
あの時の言葉を思い出す。
思い出してしまう。
「だってリナは……私のこと」
嫌いなはずなのに。
そう言ったはずなのに。
私の言いかけたことを察したのかリナは少し俯く。
「あの時は……本当にごめんなさい。すごく酷いこと、言っちゃったよね。ただ、ミューリと離れたくなくて……」
わからない。
どうしてそうなるのか。
どうして私と離れたくなければ、私を嫌いだと言うのか。
なんで。
「ミューリ、あの時言ったよね。別れて離れ離れになっても、お互いを好きでいようって」
そんなこと……言ったっけ。
あまりはっきりと覚えてはいない。
けれど、そんなことを、そんな想いを持っていた気がする。ずっと好きでいられたら、ずっと好きでいてもらえるなら十分だって。
「……でも、私はそれが嫌だったんだ。遠くに行ってほしくなくて、ずっと一緒にいたくて……だから、離れたら嫌いになるって言っちゃった。ごめんなさい」
嫌い。
その言葉が、彼女の口から放たれるだけで身体がびくりと反応する。
恐ろしい。その声とその眼に、嫌悪の感情が映るのが恐ろしい。
「でも、私はずっとずっとミューリのこと、好きだから」
本当だろうか。
今の彼女の言葉に嘘だとは思えないけれど……でも、本当とも何か違う気がする。
何もかも違う。
リナが私を好きなわけがない。
だってリナはエミリーと一緒にいて、
「違う。違うよね? リナは優しいからそう言ってくれてるだけだよね?」
「え?」
「だって……少なくとも全部じゃない。全部本当じゃないよね?」
私は半分確信を持って問い詰める。
確信というよりは思い込みなのかも知れないけれど、でも私の中では確信だから。
「嘘つかなくて良いよ。私がリナのこと助けたからそうしてくれてるのかも知れないけれど……でも、それはただ今までの恩を返しただけだから」
「ち、ちが。嘘じゃ」
リナは焦ったように言葉を否定するけれど。
それを私は遮る。
「嘘だよ。私のこと、嫌いってそう言ったよね? あれが嘘だったなんて、信じないよ」
信じられないと言った方がいいのかも知れないけれど。
「私のせいなのはわかってる。リナが私のことを嫌って当然なのはわかるよ」
「違う……違うよ。わ、私はミューちゃんのこと……」
「やめて。やめてよ。嫌いなんでしょ? 少なくともあの時は私のことが嫌いだったんでしょ? どうして嘘つくの? 私のことがずっと好きなんて」
期待させないで。
私に変な期待をさせないで。
「う、嘘じゃ……」
「嘘だよ! リナが私のこと好きなわけない!」
あの時からずっと。
彼女の想いはもうないはずだから。
期待なんてしない。しちゃいけない。
「嘘、じゃないよ……」
今にも泣きそうな声でリナが呟く。
それを見ればきっと嘘じゃないことはわかる。同時に本当のことを話しているわけでもないことを。
「でも……うん。全部じゃない。全部じゃないけど」
「……なら、本当のこと、全部言ってよ」
言ってから後悔する。
本当のこととはつまり、ずっと私のことを好きだったこと……私のことはもう好きではないということで、他に好きな人がいる、エミリーがいるということなのだから。そんなこと、聞きたくない。
「い、言えないよ。全部なんて……言えない。言ったら。だって、言ったら」
リナはもう半分泣いているように見えた。
そんな顔をして欲しいわけではなかったのに。
こんなことをしたいわけじゃなかったのに。
ただ私はリナに幸せになって欲しいのに。
やっぱり私はリナを傷つける。早くどこかに消えないと。
「……ごめんね。やっぱり言わなくてもいいよ。私に聞く権利なんてないよね。じゃあ、私行くから。リナ、今まで本当にありがとう。さよなら」
エミリーさんと幸せに。
その言葉を付け加えることはできなかった。
私は声の出なくなった口を閉じて、雪洞の入り口に立つ。
酷い吹雪が身体に吹き付ける。
立ってることも難しいけれど、これ以上リナの前に居たくない。
居たら変な期待をしてしまう。もう彼女の隣に私の居場所はないのに。
「ミューちゃん、待って! お願い!」
外へ出ようとした私の手をリナの手が掴む。
まるで縋るように掴まれたその手は、私には恐ろしかった。その手から感じる強烈な熱が私の期待を刺激してしまいそうで。せっかく諦めたのに。
「話す。話すよ! 私の気持ち!」
嫌だ。聞きたくない。
せっかく聞かずに終われると思ったのに。
リナの心の変化を。私への想いが失われてしまったことを。
だから逃げようとしたけれど。
「私、私はっ……ミューちゃんの全部が欲しい!」
けれど、リナの叫びで私の足は止まる。
「え、え?」
「全部……ほんとに全部が欲しい……その手も足も身体も目も髪も、その心も……全部。ほんとに全部が欲しいんだよ。ずっと……ずっとそうだった」
え。
な、なんで。
エミリーのことを話すんじゃ。
「あの時、学校で再会してからずっと、私の本当の想いがどんなものかわからなかった。ただ再会できれば良いと思ってた。でも、それだけじゃない。それだけじゃなかった」
リナの言葉は震えている。
何かとてつもないものの蓋を開けてしまった。今更ながらそんな予感が走る。
「……ずっと、思ってた。ずっと私は、ミューリの全部が欲しい」
困惑。
酷いほどの困惑と疑念。
だけれど、涙目で語るリナの姿はどうしても嘘をついているようには見えない。
「一緒にいるだけじゃ嫌。好きになってもらえるだけでも嫌。全部、全部が欲しい。ミューリの存在の全て。命も心も全部……全部欲しい。全部が手に入るなら、それなら……私、他の何もいらない……」
けれどわからない。
彼女が何を言っているのか。
でもこの熱は。
「でも、だから……だから嫌いって……言っちゃった。ミューリが私の手から溢れるのが嫌だったから。ミューリの命が私のものにならないのが嫌だったから。だから、あの時のミューリは嫌いだった、と思う……」
「嫌い……」
嫌い。その言葉だけで、私のほのかな期待は消え去る。
この期待だけはしちゃいけないってわかっていたのに。
「でもっ! でも違うよ……ほんとは好きだよ……ずっと好き。嫌いなんて思いたくない。でも……でも、私、ミューリが私のものにならないのが嫌で。だから嫌いって思っちゃった……」
どういうことかわからない。
好きで嫌い。嫌いで好き。
足りない私には解釈できない。
「私はミューリのことが好き。ずっと好きなんだよ。ずっと好きでいたい。でも何故か私はずっと欲張りで、我儘だからもっと、もっとたくさんって、求めちゃう」
「そんなこと……そうだっけ……」
ミューリはあまり求めてはいなかったと思うけれど。
あの時はミューリの唯一の願いを私が無下にしてしまったのだから。
「そうだよ。そうだった。私は強欲だった。ミューリと想い合えただけじゃ満足できなかった。でも、そんなの自分勝手すぎるよ。たださえ沢山のものを貰ったのに、これ以上求めるなんて。ずっと何とかしないといけないってわかってたんだよ。ずっとこんな醜い欲望は捨てようと思ってた。でも……でも、できなかった。ミューリのことを思いだすたびに……」
彼女は少し息を吸う。
過去を思い出すように。
「ミューリのことが欲しくなる……ミューリのことが好きだから、なるべく傍にいたくて、一緒にいればいるだけ、もっと欲しくなる。ミューリの存在の全てが欲しくなる。最初は、再開できたらいい……たったそれだけの望みが叶うだけで良かったはずなのに。気づいたら、全部の望みが叶わないと嫌になってて……」
リナは言葉を詰まらせる。
私はただ、その先の言葉を待つ。
「だから、ミューリの別れようって言葉だけで嫌いって思っちゃった……好きなのに、嫌いになっちゃう。そんなの嫌なのに。そんな風になってほしくないのに……でも、私の心は私の思い通りになってくれない」
心が思い通りにならない。
それは思い当たる所が多い言葉だった。
私の自分の心がわかっていないから。
「本当に好きだよ。ミューリのことが好き。そして同時にほんの少し嫌い……全部が私のものになってくれないから……」
リナの目には雫が浮かんでいた。
「これが私の想い、だよ」
何を言えば良いかわからない。
想像していたものと違いすぎてか。それとも。
「き、気持ち悪いよね。こんなの。嫌、でしょ? 自分勝手すぎるよね。全部欲しいなんて。こんな私、知られたくなかった……ミューちゃんにだけは知られたくなかったよ……」
もう彼女は泣いていた。
けれど、私は困惑を隠しきれず何を言えばいいかもわからない。
「で、でも。だから。好きなのはほんとだよ。だからお願い、行かないで……もう全部欲しいなんて思わないから、傍にいるだけで良いから……一緒にいて……?」
縋るように。祈るように。願うように。
彼女は私の手を両手で握る。
「あたたかい……」
「ぇ……?」
その手は冷えているはずなのに、異様に暖かい。その理由は、リナの赤くなった顔を見れば考えるまでもない。
酷い勘違いをしていた。
私は失敗したんだと思っていた。いや、失敗はしたんだと思う。
けれど、そんな失敗ぐらいじゃリナは私を忘れてはくれない。彼女はずっと私を覚えていて、そして求めてくれる。どこまでも。そして好きでいてくれる。
「えっと」
言葉を探す。
何度もこうしたことを思い出す。
昔も、リナの想いを聞いて、そして返す言葉を探したことを。
けれど昔も今もできることは変わらない。ただ素直な言葉を溢すだけ。
「リナ、私のこと……そんなに欲しいんだ」
「う、うん」
「どうして、なの? やっぱり幼馴染だから?」
「……そうかも。でも、わからない。理由を考えても、ミューリだから……ミューリだから欲しいってだけで……それ以上のことはわからないよ……」
その幸運の話を思い出す。
とてつもない幸運の話を。
リナと私が出会えた幸運の話を思い出す。
「リナ、私ね。もう、わかってると思うけれど、リナが思ってるほど良い人じゃないよ。リナの事だって何度も傷つけた。沢山のものを貰ったのに、何も返せなかった。酷いことばかりしちゃったと思う」
「そんなことないよ!」
自らを否定する言葉を、リナは否定してくれる。
それに懐かしいものを感じながら、首を横に振る。
「ううん。私は多分、酷いことばかりしてきた。でも、リナは私を好きって言ってくれたよね。まだその気持ちが残ってるってこと?」
「そう。そうだよ。何があっても、私、ずっとミューリのこと好き。もしも嫌いになっても、何度だってミューリを好きになる」
「……ずっと、嫌われたと思ってた。嫌いって言われて、もうリナからの想いはないんだって。永久に失われたって。そう思ってた。でも、まだ好きって言ってくれるなら。また好きって想ってくれるなら」
この懐かしい感触。
懐かしい熱。
懐かしい想い。
これがあるなら。
またこの想いに出会えるなら。
「また私も一緒にいたい。それでもいいかな」
こんなことリナに再会しなければ言えなかった。
きっと誰にだってこんな台詞は言えない。相手がリナでなければ。
「うん。うんっ。ミューちゃん!」
リナは飛び上がり、私に抱き着く。
その顔はさっきまで泣いていたとは思えないほど笑顔で、私も思わず笑みがこぼれることを自覚する。
こんなに自然に笑ったのはいつぶりだろう。
「嬉しい。一緒にいよう。ずっと一緒にいようね」
吹雪の中、私達は白い息を吐いて、顔を見合わせる。
彼女は笑っていた。多分、私も。
多分、まだたくさん問題は残っていて、わからないこともたくさんある。私の想いだって正確にわかっているわけじゃない。リナの想いもいつ変わるかわからない。
けれど、それでも、こうして彼女の熱に包まれていれば、妙に世界がはっきり見える。ずっと忘れていた。この世界は色づいている。そんな単純な事を、この白い髪に触れられて、私はようやく思い出した。