第79話 重酔
「もう一年ですね。私がここに来てから」
「そうだね」
私は紙に筆を走らせながら、ぼんやりと答える。
今は学期間の長期休みで、学校自体に人はあまりいない。いるのは、学校から帰ることができない私のような人ぐらい。
メルティも一度家に帰ると言っていたから、部室に言っても仕方がないし、部屋でぼんやりと絵を描いてみる。相も変わらず、歪んだ線の多い絵だけれど、まぁ意外と楽しい。
というより、楽しい記憶を穏やかに想起できるからかもしれない。
あれからもう1年。
リナと別れてから1年。
もう微かな記憶しか残っていないけれど、あの頃見た景色を描いている時は、少しは幸せな記憶が蘇る気がする。
蘇っても良いものなのかはわからないけれど。
「色々ありましたね」
ルミが呟く。
内心、そうだっけと思うけれど、言葉にはならない。
「魔法祭なんて、ふふ。覚えてますか? 私が先輩を見失っちゃって。でも、助けてくれました。嬉しかったです」
言われてみれば、そんなこともあったような気はする。
私としてはルミが魔法祭なんてものに参加すると言った時の方が驚いたけれど。
魔法祭では色々やっていたけれど、ルミはたしか障害物競争だとかに参加していた気がする。結構高順位ですごいと思った記憶がある。
「冊子を出したこともありましたよね。あれは、文化祭でしたっけ。先生には怒られましたけれど……でも、楽しかったです」
「そんなこともあったっけ」
「私も驚きましたよ。メルティさんにあんなことを頼まれるだなんて思いませんでしたよ」
あんなこと?
なんだっけ。
首を捻っても、上手く思い出せない。
「でも、風景画だけで過去の事件を伝えようというのは婉曲すぎる気もしますよ。いっそ、文章にでもすればいいのにと思うのですけれど、メルティさんはどうやらそのつもりはないようですからね」
「まぁ、あの人は絵が好きだから」
「そうですね。そうなのだと思います」
過去の事件を伝える。
言われてみれば、確かにそんな感じだった。
昔、この学校で起きた魔法生物脱走事件の犯人……その正体が描かれた風景画を、冊子内にいれたのだった。
しかもそれは物語になっていて、複数枚ある風景画を読み取れば、誰が何をしたのかわかるようになっている……みたいなものだった気がする。
別に問題はないように思えるけれど、あの事件の犯人は先生で、その事実は学校側が隠蔽したものでもあったから、私達はこっぴどく怒られた……というわけでもないけれど、多少は怒られた。特にメルティは。
まぁでも、後悔をしている様子ではなかったと記憶しているけれど。
「あとは、意外と授業も面白いものでした。知らないこともありましたし。試験は少し危なかったですよね。先輩が起こしてくれなければ遅刻していたかもしれません」
そうだっけ。
そんなことあったかな……
まぁでもルミがあるというのだからあったのだろう。
「いろいろ大変だったね」
「……はい。でも楽しかったです」
そろそろ絵も完成しそう。
多分、見る人が見れば未完成もいいところなのだろうけれど、まぁこんなものな気がする。
もう同じような絵を何度も描いてきたけれど、あまり上手くなっている気はしない。記憶の忘却が激しいからかな。
「私、この学校に来て良かったです。毎日がとても楽しくて……ずっとこうならいいのに」
ルミが呟くように言う。
窓から雲を眺めながら、白い息を吐いて。
「全部、ミューリ先輩がいてくれたおかげです。そのおかげですごい楽しかったんですよ」
「それなら、良かった」
その声は本当に楽しそうで、私はほっとする。
彼女には学校生活を楽しんで欲しいと願っているから。
それが任務でしかなくても、せっかく学校に来たのだから、楽しんで帰って欲しい。これだけ多くの同世代と関わる機会なんてほとんどないのだろうし。
少なくとも、私のようにはなって欲しくない。
孤立した学校生活を送るようことはないように。
「でも、先輩は楽しくなかったですよね?」
筆を止める。
瞬きをして、ルミを見る。
彼女は私を見つめていた。
泣きそうな目で。
「そんなことないよ」
そう言ってみるけれど、ルミは笑う。
乾いた笑みを浮かべる。
「嘘、ですよね」
嘘じゃない。
その言葉は、喉元で詰まる。
「さっきの話、最後の話は嘘です。本当は覚えていないんでしょう? 他の事も全部」
その言葉に否定を返すことはできなかった。
真実だったから。
私はこの1年の記憶はあんまりない。ルミの言っているから、実際に起きたことのような気もするけれど、実際のところは正確にはわかっていなかった。ただずっと朧気だから。
記憶が朧気すぎる。
思い出しても、うまくできない。
私はこの一年、何をしていたのかな。私にはわからない。
今の景色すらも朧気になっている。
この現実すら朧気になってきているのだから。
過去のことなど、思い出せるはずもない。
「先輩は、興味がないんです。私との思い出なんて、興味がないんですよね」
「そんなこと……」
そんなことない、という言葉を私は音にできなかった。
そうかもしれない。
そんな風に心の隅で思ったから。
「結局、先輩は私のことなんかどうでもいいんですよね」
ルミが目を伏せる。
雫がこぼれる。
その悲しみはきっと私が作り出したものなのだろう。
でも、どうしてそんなに悲しんでいるのか、私にはいまいちわからない。
「ルミは、どうして……どうしてそんなことを気にするの?」
言葉を選んで、疑問を形にする。
予感がある。
多分、言葉を選ばないといけない時で、きっと私は間違えるのだろうということも。でも、間違えないようにだけはしたい。それすらやめてしまうなんて、私にはできない。
「ルミも私のことに興味なんかないと思ってた」
私が彼女に興味を持たなかったことは認めても良い。
別に完全に興味がなかったわけではないにしても、私はルミのことを深く知りたいとは思わなかった。
けれどそれはルミも同じはずで。
彼女だって、私のことを知りたいとは言わなかった。
「そんなこと、ありません」
「でも、ルミも私のこと、何も知らないんじゃないの?」
「それは、そんなの、聞けるわけないじゃないですか。先輩、いつも悲しそうです。昔のことを話すときは特に。そんなの聞けませんよ……」
そうなのかな。
悲しい、と思っているのだろうか。
私は昔を思い出すときに悲しいと思っているのだろうか。
確かにリナと別れてしまったことは悲しい。
そして思い出したくもない。
たしかにそれなら聞きにくかったのかもしれない。
「えっと。それは、ごめんね。じゃあ……えっと。私のことが、その、好きだったの?」
ルミがこくりと頷く。
ちょっと意外だったけれど……それに嬉しさを感じないわけはない。
ルミのような子に好かれるなんて、多分幸運なのだと思う。リナの時と同じ幸運なのだろう。けれど、リナと同じように心は動いてはくれない。
てっきりルミは私のことなど好きではないと思っていた。
付き合って欲しいとは言われたけれど、あれだって冗談みたいなものだったし、一度もはっきり好きだと言われたことはなかったし……
「それは、ありがとう……?」
好きなら、たしかに思い出を忘れてしまっていることは悲しいかもしれない。悪いことをしたと思うけれど、でも同時にどうしようもないこととも思う。
沈黙が流れる。
私もどうすればいいかわからない。
別に私はおしゃべりな方ではないけれど、ルミがここまで黙ってしまうことなどなかったものだから、どうすればいいのかわからない。同時に、どうにもできないことであることもわかるから、ただ時が流れるのを待つしかない。
「もう、寝るね。おやすみ」
それだけ言って、布団に行こうとする。
明日になれば、多分また普通の日々に戻るだろうから。
ぼんやりとしていて、リナがいない日々に戻る。同時に、ルミが楽しそうにしている日々に戻るはずだから。
「待ってください」
ルミが私の手を握る。
その目は潤んでいて、振り切れない。
「どうかしたの?」
そう聞いたときには既に彼女は目を伏せていた。
また沈黙が流れる。
けれど、今度は数舜で終わり、ルミの目には揺れはなく。
その視線は少し、怖い。
「先輩、きす、しましょうか」
「きす?」
「口付けのことです。私達、恋人関係なんですからこれぐらいして当たり前ですよね」
どうしてそうなるの?
私がそう発するより早く、ルミが私を押し倒す。
「る、ルミ、ま、まって……」
「いいえ、待ちません。もう1年待ったようなものなんですよ」
抵抗する間もなく。
というよりもルミの方が私より力が強いのだから、まともな抵抗などできるはずもなく。
ただ私にできることは、ただでさえぼんやりとした思考の中で、かろうじて言葉を吐くことだけ。
「ね、ちょ、ちょっとまって、どうしたの? おちついてよ」
「落ち着いてますよ。先輩も初めてってわけじゃないんでしょう? ほら、行きますよ」
「る、ルミ、まってって。だから、ね。きいて」
眼前に迫る彼女の顔は、なんだか恐ろしくて。
「や、やだ……」
私は咄嗟に掠れた言葉を溢していた。
「泣かないでくださいよ」
その言葉で自分が涙を流していることに気づく。
ルミは私を離して立ち上がる。
「……ごめんなさい。こんな無理やりやっても仕方ないですよね」
彼女がしたことだというのに、彼女はまた泣きそうになっていた。
そんな顔をされても困る。
私は、どうすればよかったのか。
彼女を受け入れれば良かったのかな。
でもそれは、嘘になってしまう。嘘はもう、使いたくない。
「わかっていたんです。先輩が、拒否することは。でもやっぱり。悲しいですね」
ルミが明らかに無理をしている笑顔を浮かべる。
それは明らかに辛そうで。
けれど、それに対して私ができることはない。
「そんなに昔の……過去が大切ですか?」
「……うん。そうなんだと思う」
結局のところ、そういうことなのだと思う。
私は未だにリナのことを忘れられていない。
この1年、朧気になっていく彼女のことばかり思い出していた。日に日に消えていく彼女との記憶を思い出すのは、苦しくて、痛くて……けれど、あの頃の記憶を私は捨てられない。
ずっとリナへの想いに囚われている。
「もう昔のことは良いじゃないですか。ミューリ先輩が過去に何があったかは知りません。きっと色々な事があったんだと思います。でも、もう良くないですか? もうそれは過去なんですよ」
まぁ確かに。
過去と言えばそうなのだろうけれど。
私はずっとあの朧げな記憶の中に囚われているのだから。
そんなことを言われても、逃れられない。
「過去はもう忘れて、私を見てください。私と過ごしましょう? それとも……私のこと、嫌いですか?」
嫌い、ではない。
ルミとはこの一年、振り回されることもあったけれど、上手くやってきた。つもり。
それに彼女は良い子だと思う。嫌いなどではない。
「お願いです。私と未来を過ごしましょう? 全部忘れてこれから、私と」
ルミはそろりと私に詰め寄る。
咄嗟に下がろうとしても、布団の上の私に逃げ場などはない。
「先輩の悩みも後悔も、全部忘れてください。私が忘れさせてあげます。だから、私と一緒にいてください。私を見てください。私と未来を見てください」
なんだか他人事のようだった。
私がまた押し倒されることも。
ルミが私を見下ろしていることも。
彼女の瞳の中に雫が見えることも。
「だから私と。私と付き合ってください。恋人になってください」
私を見つめて、はっきりと放たれたその言葉に。
私は、数秒考える。
考えるふりをする。
答えは、決まっているから。
「ごめんね。私には、無理だよ」
そう答えることは、ずっと決まっている。