第66話 まぷろちりん
鳥が飛んでいた。
どこまでも広がる海の上を。
星明りの下で。
暗がりでも、光り輝く翼のおかげか視界には困らない。
特別な翼は光るだけじゃない。
比類なき程に強靭な翼で。
雷雨も。
暴風も。
荒波も。
全てを越えて、
鳥は飛んでいく。
どこまでも。
遥か彼方まで。
水平線の遥か先まで。
けれど、永遠に飛べることはなくて。
休息に島へと降り立つ。
その島で、鳥は輝く翼を失う。
理由はわからない。
過酷な地形のせいか。
悪い魔女のせいか。
醜い小鳥のせいか。
鳥は折れた翼をたたんで。
小鳥の前に立つ。
鳥は囀る。
「ずっと飛んでいたのは、ここに来るためだった」
そんな夢を見ていた。
気がして。
そんな記憶を、一瞬だけ持っていた。
けれど、夢は夢らしく、すぐに水疱へと消えて。
こんこんと扉を叩く音で私の意識は浮上する。
ぼんやりとしながら、目を開ければ。
そこには、何かを話すリナがいた。
相手は、乗務員のようで。
多分、何かを売りに来たのだと思う。
私はゆっくりと身体を持ち上げる。
まだ眠気のせいか、うまく焦点が合わない。
どれぐらい寝ていたのか……窓の外を見れば、一面の雪景色と巨大な山脈が現れていた。昨日まで、海の近くにいたというのに。
もう一度、扉の方を見れば、リナが冷たそうな飲み物を買っていた。多分、果物飲料系のやつ。
思えば私も、寝ていたせいか喉が渇いた。
私も何か欲しい。そう言おうかと思ったけれど、彼女は既にもう一つ、飲み物を買っていた。
「あ、ミューリ。起きたんだね。ちょうど良かった」
リナはふたつの飲み物を机の上に置く。
こう見ると、この部屋は客室とは思えないほどに広い。
値段が相応の広さというだけなのだろうけれど。
「どっちがいい? こっちがリリゴゴ味で、こっちがイココ味だって。こっちはちょっと変な色だよね」
どっちも変な色だと思うけれど……赤色と緑色なんて。
そんな飲み物、ほとんど飲んだことはないけれど、果汁飲料がそういう色が普通なことは知っているし、それにここからでも漂ってくる甘い匂いを嗅げば、色のことなど気にならなくなってくる。
「えっと、リナは?」
「どっちでも。好きな方を選んでよ」
そう言われても困る。
私も正直どちらでもいいというか。
「はんぶんこ、とか」
未だ寝ぼけた思考の中から、口からついて出た言葉だったけれど、妙案な気がする。
私はちらりとリナを見て問いかけてみる。
「……どうかな」
「そうだね。うん。そうしようか」
リナもそれに頷く。
これなら2種類の味が楽しめる。
「はい。こっちでいい?」
「うん」
私は赤色の液体の入った容器を受け取る。
ひんやりしていて気持ちがいい。
もう外は寒いのだろうけれど、そのせいか部屋の中は暖房が強いものだから、これぐらいの冷たさが心地が良いのかもしれない。
そっと口をつけてみる。
甘い。美味しい。
リリゴゴ味とか言っていたけれど……どうしてこんなにも赤いのだろう。リリゴゴって薄緑の果物じゃなかったっけ。
「美味しい?」
「美味しいよ。どんな感じ?」
「そうだね……ちょっと酸っぱいかも。でも、美味しい。むしろ、酸っぱいのが良いっていうか」
酸っぱいんだ……まぁでも、果物は結構酸っぱいものも多い気もするし、そんなものなのかな。
リリゴゴ味は、ただ甘いだけと言った感じだけれど。
どっちの方が美味しいんだろう。
「そろそろ交換してみる?」
リナのその言葉に頷いて、私達は互いの容器を交換する。
触れてみれば、さっきと同じような冷たさが掌に伝わる。
けれど、さっきと違うのは、その中にちょっと温もりがあること。リナの触れていた温もりが。
なんだか、不思議な感じ。
誰かが飲んでいたものなんて、あんまり飲みたいとは思えないけれど……リナが飲んでいたものなら別に抵抗はない。
それどころか。
ちらりとリナの方を盗み見る。
彼女も特に気にした様子はなく、赤色の液体を含んでいる。
私も、眼前の緑色の液体を見つめる。
緑の液体なんて、初めて口にした人はどんな考えだったのだろう。どうみても飲めるようなものじゃないというか……匂いは美味しそうだけれど……
というか、それこそイココこそ、赤色の果物だったような……
まぁいいか。
寝起きらしからぬ思考を捨てて、ぺろりと下をつけてみる。
「こっちも美味しいね」
「うん……」
たしかに酸っぱい……けれど、美味しい。
リナの味覚は変なものを好むと思っていたけれど、意外とそうでもないのかも。祭りの時の黒いやつも、見た目からは想像できないような味で美味しかったし。
もしかして、学校で食べていたあの紫色の料理も美味しかったのかな……
「どっちが良かった?」
「うーん……リリゴゴかな。甘くて美味しかったから」
イココ味も悪くはなかったけれど、やっぱり私は酸っぱいものより甘いものの方が良い。
「そう? 私は逆かな……イココの方が刺激があって好きかも」
多分、リナには甘いだけのリリゴゴはもの足りなかったのだと思う。なんとなく、それぐらいのことはわかる。
「じゃあ、こう?」
私は互いの飲み物を再度入れ替える。
「そうだね」
色々言っていたけれど、結局、元にもどってしまった。
手元に残ったのは量の減った赤い果汁飲料。外の気温のせいかまだ冷えているけれど、流石に最初よりはぬるい。
それでも甘くて美味しい。
よくよく考えてみれば、これも結構高いのかもしれない。
一応、ここは高級客室なのだろうし。
それとも、こういうものはどの客室でも一律提供なのかな。
「あ、雪」
彼女が窓の外を指す。
そこには真っ白な雪が降っていた。
多分、この一面の白い風景を生み出した雪。
もう冬になってしまった。
リナと再会してから1年が経とうとしている。
そんなことをちらりと思った。
1年程度で。
私を取り巻く状況は目まぐるしく変わった。
今までの5年間が嘘なほどに。
全部リナが変えてくれた。
たくさんのことが変わり。
私は幸せを知って。
でも、今。
たしかにそれは薄氷の上のものでしかないという実感が列車が揺れるたびにわかる。
「雪、綺麗だね」
「……うん。綺麗」
一面の雪景色は確かに綺麗で。
だけれど。
儚い。
多分、暖かくなれば、この辺りの雪は全て消えてしまうのだろうから。
私達の幸せも、同じものなのかな。
いつまでもじんわりとした不安が心の奥底にある。
まだ眠るのその不安。
まだ雪に閉ざされているその不安のことを考えるだけで、なんだか恐ろしくて。
リナへとそっと身を寄せる。
彼女は少量の驚きと、多量の笑みを浮かべて。
私のことを抱き寄せる。
それに抗うことはせず。
ただ彼女の腕の中から、一緒にぼんやりと雪を眺める。
「……ずっとこうしていたいな」
それはどちらの言葉だったのだろう。
私か。
リナか。
ふたりともだったのかもしれない。
返答はなかったし。
何も言葉は返さなかった。
多分、言わざるとも伝わっている。
そんな妙な確信があったから。
彼女の腕に頬をこする。
触れ合って。
そっと息をする。
ふと、窓の外が暗くなる。
どうやら人工洞窟へと入ったらしい。
多分、今は山の下。
ほどなくして廊下に薄明かりがつく。
「灯り、つけるね」
そう言って、立ち上がるリナへと縋る。
「もうちょっと……こうしていたい」
「そう?」
リナは身体を止め、また私の隣に座る。
暗がりでもわかる彼女の綺麗な白い髪が私をさする。
長い腕が私へと触れる。
それに誘われるままに、彼女に身体を預ける。
「……もうちょっとだけでいいから」
「いつまででも、大丈夫だよ」
私の願いを彼女は受け入れ。
私はリナの腕の中で。
丸くなって。
彼女の熱に囚われ。
酷い安心の中で。
込み上げる不安から逃れるように目を閉じる。