第117話 濁青で清白を汚す世界
「最近、ずっと眠れてないよね」
「ぃ……う、うん」
否定しようかと口を開いたけれど、でも私の声は肯定を口にする。それは事実で、否定しようがなかったから。
「……リナはわかってたんだね」
誤魔化しているつもりだった。
あまりリナに心配をかけたくはなくて。
でも、そんなのは彼女からしてみれば誤魔化しですらなくて。簡単に分かってしまうことだったのだと思う。
「わかるよ。ミューリのことだから」
けれどそれは当然のこと。
だって、リナは私以上に私のことを知っているのだから。
私もわかっている不眠のことを知らないわけはない。
「ずっとどうしたらいいのか考えてた。でも私にはどうしたらミューリの不安が消えるのかわからなくて……」
「それはっ……」
リナが落ち込むことじゃない。
私のせいでしかないのだから。
「リナは、悪くないよ……ただ私が……」
「怖いから、だよね。怖くて眠れないんだよね」
リナは私を見透かしたように見つめる。
実際、全てリナにはお見通しなのだろうけれど。
「……うん。でも、大丈夫、だよ。別に眠らなくたって」
「そうかな。最近のミューリ、ひどい顔してる。心配だよ」
そう言われても、眠れない。
眠りたいとも思えない。
「でも眠ったら、独りになっちゃう。夢の中はリナがいないから……だから、眠りたくない」
「なら、これでどうかな」
リナが私を抱きしめる。
私を包み込むように。
「こうしたら、ミューちゃんが寝ていても一緒にいられるんじゃないかな」
「そう、かな……」
あまりわからない。
でも、こうしてリナの腕の中でゆっくりと息をしているのは、どうにも安心するのは確かで。
「たくさん言葉を紡いで来たけれど。でも、結局私はこれしかできないのかも」
そんなことはない。リナはたくさん私にくれている。
それにこれしかと言うけれど、これさえあればいいのだから。
彼女の腕の中。何度経験しても、ここより安心する場所はない。
私を包む彼女の腕に抱きつく。
「少し荒療治的かもしれないけれど」
「ううん、すごい安心する……」
「良かった。なら、眠れるまでこうしておくよ。ほら、目を閉じて……」
リナの言うとおりに目を閉じる。
彼女の腕の温もりに包まれながら。
これなら少しは眠れる気もするけれど。
でもどんな夜だって彼女はそばにいてくれるのに、最近の私は眠れていない。
あの日から、リナが先に死んでしまう夢を見た日から、うまく眠れない。
目を閉じても、失う恐怖が這いずり寄ってくる気がして。そんな悪夢に呑まれる気がして。全部怖くて。
眠いけれど、眠れない。
眠りたいと思えないからかな。
眠れるほど眠たくないからかもしれない。
でも、きっと起きていられるほど力もなくて。
私はまた狭間にいる。
中途半端で、どっちつかずな狭間の中にいる。
夢と現実の狭間で、目を閉じている。
そこで襲い来る恐怖の波をただ待っているような。
そう思えばあまり変わっていないのかもしれない。
リナとの日々で少しは成長していたつもりだったけれど、やっぱり私はそこまで変わっていないらしい。結局独りでは何もできないまま。
でも変わったこともある。
恐怖から逃れる方法を知った。昔はただ恐怖の訪れを受け入れることしかできなかったけれど。
リナの腕の中にいればいい。彼女の温もりに包まれていれば、恐怖からは逃れられる。彼女の想いが私を守ってくれるから。
でも、やっぱり夢の中にリナはいない。
誰もいない。私だけ。
私だけじゃ、恐怖には打ち勝てない。
悪夢が私の心を殺そうとするから、私は怖くて。
眠れそうにない。
暗闇の中は酷く寒くて息をすることも難しい場所な気がする。
叫んだって、何をしても、返事はない。
誰の返事も。リナの返事もない。
息を呑む。
身をよじる。
手に力を込める。
けれど、不安感による不快感はそこにあって。
眠りにつくとは対極の位置に移動している気がする。
迷子になっている。
この暗闇の中で独りじゃ、私は迷子になって。
張り裂けそう。
腕がなくなりそう。
足が動かなくなりそう。
血が溢れ出そう。
魔力が蠢きそう。
気が狂いそうになる。
それとももう手遅れかもしれない。
私は正気なのかな。
誰も私が正気とは言ってくれない。
正気……正気ってなんだろう。
何が正しいのかな。私はきっと正しくない。
私の存在は。
なら、私が正気だとは思えない。
酷い思考が無数に湧き上がってくる気がする。
あぁ、また。
また私は自分の居場所がわからなくなってきて。
ぐるぐるとした無限の螺旋に堕ちていくような。
すり抜けるこの手を振り回しているような。
限りなく薄くなっていくような。
酷く存在が希釈されていくような。
そんな這いずる暗闇が目の前にあるから。
私は目を開けてしまう。
「り、な……」
目を開ければ、そこにはリナがいる。
それは当然のことだけれど。
だって私は彼女の腕の中で目を閉じたのだから。
けれど、なんだか幻想のように感じて、そっと彼女の腕に触れる。
すり抜けるのではないかと不安になりながら。
「ぅ……」
もちろん、そんなのは杞憂で。
リナの腕はそこにある。
彼女は本当にそこにいる。
でもどうしてだろう。
どうしてこんなに不安になるのかな。
怖くて怖くて仕方がない。
何が。
何が怖い?
わかりきっている。
独りになることが怖い。
孤独になることが怖い。
私の孤独を心から癒してくれるのはリナだけなのだから。
彼女を失うことが怖い。彼女を失いたくない。
怖くて怖くて仕方がない。
今が幸せで。
私はリナと過ごせるこんな今をずっと求めていた。
私には勿体ないほどの多量の幸福と幸運がリナによってもたらされて。
こんなに怖いならいっそ……
「ミューリ」
もやりとした不穏な思考を断ち切るように、リナの声がする。
その音は暗闇と霧の中にいる私にもすっと入ってきて、私をそこから引き上げてくれるようで。
「やっぱり眠れない?」
「……うん」
「そっか……そう、だよね。難しいよね。なんとかしたいけれど、どうしたらいいのかな。ごめんね。私、何の力にもなれてないよね」
リナは珍しく声が萎んでいく。
その姿はひどく自信なさげで、多分私の前でしか見せてくれない彼女の姿のひとつ。
「ちが、違うよ。リナはすごい力をくれてる……きっとリナがいなかったら、もっと……」
リナがいないと、もっと酷いことになっている。
それぐらいのことはわかる。
でも、この不安感はリナと共にいるからでもあることも事実で。だから、こんなことを考えてしまっている。こんな考えはよぎりたくもなかったのに。
「私が弱いから……恐怖を受け止められないから……」
「私が、その恐怖を一緒に受け止められたらいいのに」
「もうたくさん持ってくれてるよ。リナは私を守ってくれてる……でも、ただ」
ただ私は。
私の思考は上手く動いていないのかな。
動いていないわけではないけれど、でも嫌な想像ばかりが加速して、恐怖が溢れて、考えたくもないことばかり考えてしまう。
「ただ?」
どう、言えば良いのかな。
ただこれを話すだけなのに。
でも、これは。こんな思考は。
「リナ、私ね……」
言葉に詰まる。
嘘は言いたくない。
この思考を隠したくはない。
けれど、こんなこと言っていいとも思えない。
「言ってみて? 大丈夫だから」
リナは私を撫でる。
それだけでただの言葉でしかなかったはずの大丈夫が実感に変化していく。
だから、そっと言葉を呟く。
「私、すごく酷いこと考えちゃって」
「どんな?」
「……こんなに怖いなら、会わないほうが良かったって……」
そんな酷いことを考えてしまっている。
そんなことがあるわけがないのに。
だってリナと会わなければ私に幸せはないのだから。
でも、だからこそ、怖い。リナを失うのが。
ただそれだけ。
彼女の存在が消えて欲しくない。私をずっと抱きしめていて欲しいから、こんなにも怖くなってしまっている。
「そうかな。私は、どんなに酷いことが起きてもミューリと会わないほうが良いとは思わないよ。ミューリと会える人生で良かった」
「……そう、だよね。わかってる。わかってるよ。私もリナに会えない人生なんて嫌だよ。でも……ただ、ただね」
ただ。
ただなんなのか。
私は、何を想っているのか。
それは、ただ単純な事なはずなのだから。
「失いたくない。リナと別れたくないよ。ずっと一緒にいたい」
リナに触れる。
彼女に抱き着く。
それに応えるように彼女も私を撫でてくれるけれど。
「私も同じだよ。ミューリとずっと一緒にいたい」
ずっとその想いばかりが強くなっていく。
同時に喪失への恐怖も膨れ上がっている。
「どうして永遠にリナのものになれないんだろう。ずっとリナのものでいられたらいいのに」
リナの手の中で永遠の中で生きることができたらいいのに。
永遠という果てのない期間は酷く恐ろしいけれど、でもリナが私を抱きしめてくれるのなら、きっと幸せでいられるのに。どうしてそうできないのかな。
「そうだね。永遠に一緒にいられたら、良かったね」
どうして、永遠にいられないのか。
それは考えるまでもない。
永遠などないから。
全ては過ぎてゆくものだから。
私達はそういう世界に生きてはいない。
私もリナもいつか死んでしまう。何事もなくとも、いつかは死んでしまう。
「本当に足りない。もっとミューリと一緒にいたいのに。でも、永遠じゃない限られた時間だから、今をこんなにも大切にしようと思うのかも……そんな風にも思うよ」
それはそうかもしれない。
永遠に続くのなら、この瞬間の感覚はもっと希薄になる気はする。
いつかの死が今の私達を幸せにしてくれる……
リナと私を引きはがす恐ろしい死が幸せに。
……もしそうだとしたら。
死が敵じゃないとしたら、やっぱり。
「ねぇ、リナ」
考えてしまう。思ってしまう。込み上げてくる。
いつかは否定したことと同じ想いが。
「一緒に死んじゃうのは、どうなのかな」
ずっと心の片隅で潜んでいた想いを紡いでしまった。




