第114話 鮮やかな景色を描く
「うーん」
悩む。
一体、何を描けばいいのだろうか。
あの旅行から、はや数カ月。絵を描くとリナに約束した手前、そろそろ描いてみようかと思ったのだけれど。
描きたい絵がよくわからない。
ようやく筆を取ったはいいけれど。
とりあえず手なりで書けば、またしても雪景色になってしまいそうな気もする。それも悪くはないかもしれないけれど、その絵はもうあるし。
前の家からここに持って帰ってこなければ、同じ絵でお茶を濁すのも悪くはなかったかな。いや、それはどちらにせよ、あまり心地よくはないか。
あの絵は、私にとってもう必要がないものなのだから。
買ってもらった色鉛筆をくるくると手の中で回してみる。
そうこうしているうちに隣から紙に筆を走らせる音が聞こえる。
ちらりと隣を見れば、リナはもう何を描くか決めたらしい。
何を描いているのかな。
ぱっと見ではわからないけれど。
でも、真剣そうに筆を躍らせる彼女を見れば、私も何かを描いてみようかという気になってくる。
とりあえず筆を動かしてみようかな。
どうなるかはわからないけれど。
でも、また絵を描くなんて。
ここに来た時はもう描くことはないと思っていた。まぁ、もう死ぬと思っていたからだけれど。
でも、リナとまた暮らし始めて、絵を描こうという気はほとんどなくなっていた。
前の家でもそう頻繁に描いているわけじゃなかったけれど、前の家でしていた趣味と言えば、それぐらいだったから、続けてもおかしくはなかったのに。
まぁ、多分私に必要じゃなくなったからかな。
きっと私は私のために絵を描いていた。
私を守るために絵を描いていた。
絵に思い出を閉じ込めないと、そこにある幸せな記憶の眩しさに焼き焦がされそうだったから。
けれど、それはもう必要ない。
今の方がきっとずっと幸せだから。
そう思えば、不思議なことで。
こうして絵を描くのは私に必要だからではなくて。
私達に必要だからかな。
必要とは違うかも。
多分、私が少しも絵を描かなくても、リナは同じように幸せをくれるのだろうし。
だからこれはなんていうか。
2人でした線香花火と同じなのかもしれない。
こうして絵を描いてること自体が楽しい。リナと2人身を寄せ合って。
「うー……」
軽く腕を伸ばす。
なんだか気づいたら随分と長時間描いていたような気もする。
「もう完成?」
「ううん、もう少し。リナは?」
リナの絵の方に視線を向ける。
そこには鮮やかな色彩で描かれた……えっと。
「あの、何を描いたの? お花?」
そこには万華鏡のように色が幾何学的に描かれていた。
「うーん、なんだろ。私にもよくわからないけれど。でも、こんな感じの色だと楽しいかなって」
どうやら何か形あるものを描いたものではないらしい。
こういう絵を描くとは思ってなかったけれど。
「なんか、リナの絵……なんていうかほんわりしてるね」
「ほんわり?」
「うん」
それ以上言葉にはできない。
けれど、たしかに楽しい配色な絵な気がする。
「ミューリの絵は、これは……ここの絵? だよね」
「あ、うん。また同じに見えるかもだけれど」
「これ、足跡だよね。誰か来たんだ」
「そう、だね。そうだよ」
あまり深く考えずに描き始めたからだろうけれど、私の絵は前と似ている。
前と同じような雪景色。この家の近くの。
けれど、前と違うのは足跡と人影。
少しそういうものも入れ見たくなった。これがどういう変化なのかは、まだ私にもわからないけれど。
「ミューリの絵、やっぱり好き」
「ありがと。また一緒に描きたいな」
「そうだね。またいつでも描けるよ」
いつでも。いつまでも。
そういうわけには行かない。
それぐらいのことは知っている。
「あ、そういうことかな」
不意にリナが思いついたように言葉を零す。
「これから、沢山絵を描いて……ううん。絵だけじゃなくて、沢山思い出があるから、怖くないのかも」
「なんで怖くないのかの話?」
「うん」
どうしてリナは私との別れを恐れていないのか。
いや、怖いとは思っているはずだけれど。でも、私ほどじゃない。
少なくとも、彼女はいつかくる別れを受け入れているように見える。私のことをあれだけ好きなのに。
「色々残してきたものがあるからかなって」
「残してきたもの……」
「うん。思い出とか、絵もそうだし、色々沢山、私はミューリから貰ってるから」
リナは自らの手を見つめる。
そこに何かを幻視するように。
「それは、ミューリがもしいなくなっても消えたりしない。ずっと抱えておくから。だから、大丈夫だと思ってるのかも」
「それは、そうかもしれないけれど……」
でも、どうだろう。
それは自戒的な気もする。
「記憶は、苛むこともあるから」
過去の後悔の記憶は私をいつまでも苛んでいる。
幸せな記憶だって、牙をむいてくる。
昔の私はそうだった。
リナと別れてから、再開するまでの私は特に。
「そう、だよね。えっと、なら記憶が難しいならね。形に残るものを残すっていうのもできるよ。例えば、ほら2人でこれから何かを育ててたりしたら、少しは恐怖が紛れたりしないかな」
「何かを育てる……子供とか?」
「こっ……!」
そういうことかと思ったんだけれど、どうやら違うらしい。
それはリナの手をぶんぶんして、ぱくぱくしている口を見ればわかる。何だかおかしくてかわいらしくて、少し口元が緩む。
「そ、そういうことじゃないよ。違う……まるっきり違うわけでもないけれど。でも、それだけじゃなくて。ほら、例えば木を植えてみるとか」
「なるほど……そういう感じ……」
木……それは育てると言うのかな。まぁ、言わないでもないような気もする。それに木を育てるというのは、確かに悪くないかも。
多分、2人で作ったものを見れるのは楽しいだろうから。
2人で見るのなら、だけれど。
「でも、それはなんていうか……多分私、それを見るたび思い出しちゃう。思い出して、その時と今との差に耐えられなくなっちゃう」
独りならきっと耐えられない。
もしも2人で作った何かを見ても、苦しいばかりな気がする。
きっと私は今日の絵も見れなくなる。
「だからごめんね。やっぱり、まだ怖いよ」
「そっか……うーん。でも、そうだね……」
リナは考え込むように指を自らの額に当てる。
私のことを考えてくれているのは嬉しい。
でも、私はそれよりついさっき生まれた疑問が鎌首をもたげていて。
「り、リナ?」
「ん、どうかしたの?」
これを聞くべきなのかな。
いやでも、いつかははっきりとさせるべきなはずだから。
これからリナと永遠とはいかなくても、長い時を過ごすのなら。
きっと今を逃せば、次は切羽詰まった時になりかねない。そうなればきっと、私はまだ間違える。
今も間違えているかもしれないけれど、まだ余裕がある今に言った方がいい。
「リナは、子供欲しいの?」
「え? あー……」
意を決して聞いてみる。
どういう関係なのかも曖昧な私達だけれど、ずっと一緒にいることには変わりない。
だから、もしかしたらリナは子供ができる将来のことも考えているのかもしれない。もしそうなら私は……
「え、えっと……どっちでもいい、かな。ミューリとの子供って響きは良いけれど」
「そっか……」
なら、これを言えばリナは私を嫌うかもしれない。
いや、それはないか。彼女は多分、私が何をしても私を好きでいてくれるのだから。
「私は、子供は欲しくない。リナがもし欲しかったら悪いけれど」
きっと私は子供がいても、どう接したらいいかわからない。
だって私は捨てられた子供なのだから。親を捨てた子供なのだから。親と子の関係を断ち切った人なのだから。
「多分、私は無理だと思うから。誰かと関わるのは難しくて……リナとこうして話すことだけが私には全部で。それで満足で……えっと……」
「そっか。じゃあ、子供はやめておこうか」
「うん……ごめんね」
なんだか、私は相変わらずリナから奪ってばかりらしい。
リナなら、誰とだって幸せな家庭を築けるだろうに。私はそれすらできない。
彼女の顔が上手く見れない。嫌われたりはしてないだろうけれど。でもこれで、苦しそうにしていたらどうしよう。私のせいで、リナをまた我慢させていたら。
ごくりと息を呑む。
声を絞り出す。
「ほんとに、ごめんね」
「ううん、気にしないで。むしろ良かったぐらいだよ
恐る恐るリナを見れば、彼女はにこりと笑っていた。
力がどっと抜ける。
「子供っていうのも良いんだろうけれどね。でも、ほら。ミューリと2人きりの時間が減るのは嫌だから」
そっか……リナも。
私もそうなのかもしれない。
さっきのは所詮言い訳で。
そう言われてみれば、私もリナと2人でいたいだけな気もしてくる。
「でも、ミューリって子供と関わるのは好きっていうか……得意かと思ってたよ」
「え、い、いや。全然そんなことないよ。だってまず、人と関わるのが難しいし……」
子供なんて特にそう。
私みたいなのが関わってしまって、酷い影響を残してしまうかもしれない。
そんなことになるのは嫌だから、子供と関わりたくはない。
「そうかな。でも、私が子供の頃は上手く話してくれたから」
「あ、あれは……そうだね。なんでだろう」
たしかに子供の頃の私は上手くやっていたらしい。
というか、あの時、リナと仲良くなっていなければ、今こうしていないと思えば、随分とすごいことをしたものだけれど。
「でも、あれはリナだったからだよ。他の人なら、同じようにはいかないよ」
「そう? 私だけってこと?」
「うん。リナだけだよ」
リナだけ。そう言っただけなのに。
当然のことを言っただけなのに。
ぱっとわかるぐらい彼女の口元が綻ぶ。
「このおかげかもね」
リナはひらりと動いて、私を腕の中へと誘う。
私は慣れた動きで、彼女の腕の中に抱かれる。
この腕に包まれるこの感覚は、リナの手の中にいる気がして、とても心地が良い。
「この、ミューリがくれるこの想いのおかげで怖くない」
「……そう?」
「うん。ほんとにすごい力が湧いてくるんだよ」
それなら、それはリナの力だと思うけれど。
私が与えられるものなんかほとんどないのだから。
きっとリナが受け取ったと思っているそれは、元々リナが持っていたもので。多分私はそれを返しただけなのだろうけれど。
「それなら、良かった」
もしもそれがリナの錯覚でも、彼女の不安を消す一助になれるのなら。
私はそれほど嬉しいことはない。
リナに私と同じような怖い思いをしてほしくはないから。
「ミューリの恐怖も、私の力で消せたら良かったのに」
「リナは十分してくれてるよ。これはただ私が、怖がりなだけで」
「でも……」
リナの声が少しばかり沈む。
そんなにも私の恐怖を気にしてくれるのは、彼女だけ。
きっと私よりも、私のことを気にしている。
それがどこまでも、嬉しい。
「もうちょっと、考えてみるよ。ミューリも怖くなくなる方法っていうか……考え方っていうか」
「うん、ありがとう。でも、無理しないでね」
「わかってるよ。でも、ミューリの力になりたいから」
私の力になりたい。
そう語るリナを見るのは何度目だろう。
もう彼女の力は私を救っているのに、まだ彼女は私のためになろうとしてくれている。
けれど、私は薄々この恐怖どうしようもないものな気がしている。
でも、張り切るリナを止めようとも思えなくて。
私は曖昧に笑うことしかできなかった。




