第102話 描いて
「行く順番は逆時系列順にしようと思うんだけれど。どうかな」
「逆時系列?」
「うん、こう……今までいた場所を遡る感じで。そうすると、なんとなくいいかなって」
昨日したそんな話から、私達は今とある街に向かっている。
私が今まで住んでいた家がある場所で、街の名は18区。首都圏の街のひとつ。人口はそれなり。
まぁ多分、首都圏なだけあってそれなりものものがあるんだろうし、観光しようと思えば色々行くところはあるのだろうけれど、今回の旅の目的はそうじゃない。
今までの私のいた場所、つまり住んでいた家とその周辺に向かっている。そこら辺以外には私は行っていない。どこにも。
「他の場所には行かなかったんだ」
「うん、まぁね。なんていうか、そんな気分でもなくて」
「そっか……えっと、どこか行きたい?」
「ううん。別に。今回の旅行の趣旨じゃないし。それに……」
少し言葉を出すのを躊躇う。
なんというか、期待しすぎな気がして。
でも。
「どうしたの」
「……なんていうか。そういう観光の旅は、また今度でいいかなって。また、行けるよね?」
でも、一緒にどこかへ行くことなんて。
きっとこれからは特別なことでもなくて。
多分、リナはこれからずっと一緒にいてくれるのだから。
期待しすぎなんてことはない……と思う。
「うん。きっと。一緒に」
リナもそう言ってくれるから。
私は安心して、隣に座る彼女の肩に頭を預ける。
「ミューちゃん、可愛い」
リナは私の髪を撫でてくれる。
ここが列車の個室というふたりきりの場所でよかった。誰かにこんな顔を……自分でもわかるようなにやけた顔を見られたら困る。リナ以外の誰かに。
もう何度も同じようなことを言われているけれど、私は自分の表情がほころぶのを止められそうにない。なんだかあの日から、私はおかしくなってしまったのかもしれない。こんなにも自分の表情の操作が難しいとは思わなかった。
彼女に触れられて、褒められて、好意を囁かれるだけで、ここまで心に熱が灯るものだとは。昔もリナに色々感情を動かされたものだけれど……あの時もきっと大きい。今までと何が違うのか。
考えてみてもよくわからない。でも、あの日の話し合いのせいということはわかる。
「ほんと甘え上手だね」
リナのその言葉に応えるように、手を伸ばして彼女の頬に触れる。
その頬は私の冷たい手に熱を伝える。私が触れるだけで、リナも笑顔を溢すものだから、こうして手を伸ばせることに心から感謝する。
何に感謝しているのか。それは難しい問いだけれど、無理に答えを出すとするのなら、リナと幸運になのだと思う。こうして彼女に触れることができる幸運に感謝している。
「甘えたら、いけないかな」
「ううん。もっと甘えて」
頬を撫でて、近くへと引き寄せる。
いや、リナの方から近づいてきたのか。
どちらでもいい。とにかく私はリナの瞳の中に吸い込まれる。
燃え上がるような熱を含んだ瞳に。
こんなに強い熱があったなんて。
私は全然気づいてなかったけれど
なんか甘えるって、すごく難しかった。
だって私はずっとリナに甘えている。
彼女がいないと生きていけない。
生活を彼女に依存している。
だから、甘えてられないと思った。
これ以上、リナに何かをしてもらうわけにはいかないって。
そうしないと形だけでも対等にはならないって。
でも、きっと多分そういうことじゃない。
私達の関係はそういう綺麗な関係ではないのだから。
対等な関係ではない。もうそれは私が全てを彼女に捧げた瞬間から決まっている。
「前もこうしたよね」
それがいつの時かは考えるまでもない。
こんな風に列車で彼女と過ごしたのはあの時しかない。
私達が魔法師管理機構から逃げていた時。
その時もこうしていたのだっけ。
でも、あの時よりずっと心が澄んでいる。
それは追われてないからというのもあるのだろうけれど。
「あの時より、今の方が好きだよ。ずっとこうしていたい」
そうしてふたりきりの時間を過ごしていれば、退屈はなかった。
リナに会いに来た時の列車は寂しさを感じるだけの個室だったけれど、今は違う。それほどまでにリナと一緒にいるという効果は強いものらしい。
それどころか。もっとこの時間が長引けばいいと思っている。
別にこの時間だけじゃない。
家にいても、外にいても、どこにいてもそう。
最近はずっとそう思っている。リナとの時間がもっとたくさんあればいいって。
けれど、そんな願いは叶わない。
時間は有限で、列車はいつか駅に着く。
18区駅、幾度かの乗り換えの後に私達はその駅に降り立つ。
「ここがミューリの住んでた街かー……」
「住んでたって、ほんとに住んでただけだけれどね」
18区はまぁそれなりに色々なものはあっても、私にとっては特筆する点のない街で、私達は一直線に私が住んでいた家へと向かうことにした。
集合住宅の一室、小さくはなくとも大きくはない部屋。
そこに私は住んでいた。まぁ、記録上はまだ住んでいることにはなっているのかもしれないけれど。
「ここだね」
「ここ? その……なんていうか」
「小さいでしょ?」
あの家に比べたらだけれど。
まぁこれぐらいでも独りで住む分には困らない。十分すぎるぐらいだった。
「まぁそんなに悪いところじゃないよ」
「でも、1人で住んでたんだよね? 危なくないの? だってミューリだけで住んでたら、襲われたりとか」
冗談のような言葉だけれど、心配そうな声色から察するに冗談でもないらしい。
私が襲われる理由は……まぁ、魔法のことを考えればあるにはあるか。たしかに、リナといた頃はよく私を狙う人がきたけれど。
「まぁ、もう蘇生魔法にそこまでの価値はないんじゃないかな。ほら次世代回復魔法もでたし」
「そ、そうじゃなくて。いや、そういうことでもあるんだけれど……その、ミューリって可愛いから。誰かがその……変な人とかが来て、無理やりみたいな……」
「あー……」
考えたこともなかった。
……まぁ、かわいいとか、私にそういうことを言う人はほとんどいない。多分リナだけだと思う。考えてみれば、ルミも私をそう評したことはないんじゃないだろうか。
「それは、ないかな。私はそこまで人に求められたりしないから」
「そんなことないと思うけれど……」
「ううん。全然だよ」
リナは私の手の甲をさする。
熱が走り、視線が交錯する。
「リナは、私のことを求めてくれるけれどね」
「ミューリのこと好きだから」
もう何度も聞いた。
この度の道中でも、あの家でも。
でも、それだけで本当に燃え上がるようだった。私の朧げな心が、輪郭を表すような気がする。私の心が、空っぽの心が満たされていく。
「私もリナのこと好き」
こう返せるようになったのも、想いを見つけることができたのも、リナのおかげだと思う。多分、リナがずっと私を好きでいてくれたから、今好意を返せている。その大きさが違ったとしても。
手をぎゅっと握りあって。
そして。
風が吹く。
不意な冷気に我に返る。
一瞬、忘れていた。
今は家じゃない。まだ外だし。
「えっと続きは帰ったら、ね」
「う、うん。えっと、まぁ、その……入ってみようか。とりあえず」
鍵を開け、扉を開ける。
そこで私はあることを思い出す。
「えっと、あ、その、散らかってるかも。ちょっと片付けてもいい?」
もう少し早く思い出すべきだった。
部屋はどうせ誰も来ないから、適当にしている。大分散らかっているんじゃないかな。リナがくるなら、もう少し綺麗にしていたのに。
「私は気にしないけれど」
「え、でも。ちょっと気になるっていうか。だって」
「だめ。ミューリがどんな所で寝ていたのか気になるもん」
そう言われれば、私に抵抗する術はない。
それが彼女の願いと言うのなら。
……ちょっと恥ずかしいけれど。
「じゃあ、えっと」
ゆっくり扉を開く。
「お邪魔します」
そう言ったのは、私だろうか。それともリナだろうか。
どちらにせよそんなことを言う必要はないのだけれど。
室内は思ったより散らかっていた。
とくに小さな部屋の大部分が紙に占められている。
紙というか、絵、と言った方がいいのかもしれないけれど。
その中に私の寝床があって、その他諸々がある。
ただそれだけの部屋。
「ミューリ、絵を描いてたんだ」
「まぁ、うん。あんまり見ないで。恥ずかしいから」
贔屓目に見ても出来が良いものじゃない。
あの学校でよくわからない部活にルミと入ってから、ちょこちょこ描いて吐いたけれど、別にずっと真面目に取り組んでいたわけでもないし、本当に大したものじゃない。
「どうして? 私は好きだよ。ミューリの絵」
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど。でも」
「えー、見たいな……だめ、かな」
そんなに物欲しげな声を出されたら、私もこれ以上だめとは言えない。言いたくなかった。それに、私もわかってる。リナが私の絵を見ても、貶したりはしないことぐらい。
「まぁ、いいけど……期待しないでね」
「やった」
リナが軽く手を振れば、魔力がぴくりと動いて、散らばっていた紙がリナの手の中へと吸い寄せられていく。瞬く間に、彼女の手の中には数十枚の紙が現れる。
「やっぱり。あの家の絵だよね。それだけじゃない。この丘も。雪端町のものばっかり。それに冬の」
「ま、まぁね……」
「そういえば、ミューリが昔描いてくれたのもそうだっけ」
昔描いた……あの、リナの部屋に飾っていたやつのことだろうか。
たしかにそうだけれど。
というか、そう思えば、私は雪景色以外書いたことがないらしい。
「雪、好きなの?」
「そういうわけじゃ、ないけれど」
どうしてあの冬の景色ばかり書いていたのか。
私もはっきりとはわかっていない。でも。
「でも、なんだろう。多分、忘れられなくて」
リナが不思議そうに私を見る。
それに答えるように言葉を追加する。
「リナとの生活。あの家のこと。私が捨ててしまったあの頃が忘れられなくて。でも、だからこそ、思い出すと辛くて。だから、絵に閉じ込めようと思ったのかな。きっと」
「閉じ込める……」
「うん。思い出と一緒に」
多分、そうしたかったわけじゃない。
でもそうしないと、私はあの頃の記憶に押しつぶされそうだったから。
「まぁもうそんなことはしなくていいんだけれど」
「そうなの?」
「うん。もう思い出しても辛くないから。またリナが私にあの頃を……ううん。あの時以上のものをくれてるから」
「そうかな。それなら、いいけれど」
リナは少しばかりあたりを見渡す。
なんだかここにあった私の痕跡を見逃さないとばかりに。
「絵以外には何かしてたの?」
「ううん。別に。料理もしないし、ここにいる時は本当に寝るだけの場所だったかな」
「えっと、じゃあ……もう絵は描かないの?」
「うーん」
考えたこともなかった。
別に絵を描きたくて始めたわけじゃない。続ける理由は特にない。
「私、またミューリの絵、見たいな」
「そ、そう? なら、描いてみようかな……」
だから動機があれば、描こうとも思えたのかもしれない。
いや、それだけじゃない。リナが願ったから、描いてみようなんて……そんな言葉がついて出たのだと思う。
「そうだ。それなら、リナも一緒に描こう?」
不意に思いついて、そう言ってみる。
リナは困惑したような言葉を返す。
「え、でも。私、よくわからないし」
「いいよ。別に。私も詳しいわけじゃないし。適当で」
すごく良い案な気がする。
それはきっと。
「良いものになるかはわからないけれど、きっと楽しいと思うよ。一緒に描いたら」
「そう……そうだね。帰ったら、何か描こうか」
「うん。帰ったらね」
あの家に帰ったら……素直にそう思った。そう思えば、もうこの家は私の帰る家じゃないことに気づく。
私の家は、リナの家で、私達の家。そこが帰る家になっている。
それがとても心地が良い。
そう思いながら、私はまた玄関の扉を開けた。
行ってきますとは、言わなかった。