第98話 すぐ傍の遥か先で、想いを言葉に
ルミは愛や恋なんて錯覚だと言った。
それが本当かはわからない。
けれど、愛なんてなくてもリナの幸せを願うなら話さないといけないと思う。私はただそれから逃げていただけなのかもしれない。
なんやかんやと言い訳をしていたけれど。
結局のところ、私は逃げていただけなんだと思う。
逃げることが悪いことだとは思わない。
それが怖くて、辛いなら逃げたって良い。
逃げた先に幸せがあるというのなら。
でも、今逃げても、その先に何かあるわけじゃない。
あるのは、ただ空虚で孤独な日々だけ。
たしかにまたリナの想いを踏みにじり、彼女を傷つけてしまうかもしれない。でも、それは今だって同じことな気がする。今逃げても、彼女を傷つけてしまう。
私が持つべきなのは、勇気。
勇気なんて、私には縁のない言葉だけれど、今の私には勇気がいる。
彼女を傷つけてしまうかもしれない勇気が。彼女を傷つけて、そして彼女に嫌われてしまう勇気がいる。そうしないと、リナと向き合うことなんてできない。
こんなことは、あの時、私が手紙を受け取って蘇生魔法を使う時に、わかっていないといけなかった。あの時、既に決断は終わっていないといけなかった。
私が愚かだから、ここまで先延ばしにしてしまった。
今も私がその勇気があるかはわからない。
けれど、その勇気を持っていることを願っている。
だから私は見覚えのある扉の前に立つ。
何度もリナと共に開いた扉の前に立つ。
息を吸おうとして、それに失敗する。
上手く息ができない。
怖い。
この扉が開くのが。
だって、私は逃げ出してしまったのだから。
でも、私は戸を叩いた。
そして数舜か、それとも永遠のような時の後に扉が開く。
「……ミューリさん。どうして」
エミリーは目を見開いて、私を見つめていた。
その視線に気圧されそうになるけれど。
ここで逃げるわけにはいかない。
もうここで逃げたらリナとは会えない。
もう二度と会いに来ることはできないと思う。
だから私はここで退くわけにはいかない。
「リナに、会いに来ました」
たったそれだけのことを言うだけでも苦戦した。
なんだか声を出すのが難しい。
「……会わないはずではなかったのですか」
「はい。そのはずでした。けれど、会いたいです。話がしたいんです」
私は言葉を絞り出す。
私の想いを。そして願いを。
「理由を、話して貰えますか」
「理由……」
難しい。
ルミに言われてからも、考えていたけれど。
でも、その答えを明確に言語化するのは難しい。
ルミは、リナがかわいそうだと言った。そして、話をすれば私の気持ちがわかるって。
そんな簡単な事だとは思えないけれど……でも、話をしないといけないとは思った。話もせずに逃げ出すのでは、前と変わらない。
5年前と変わらない。
私達は言葉足らずで、話し合うことも上手くできず、ただ勘違いをして別れてしまった。私がもっとうまく伝えていれば、もっと話していれば、良かったのに。
そうすれば、5年も互いに酷い後悔を抱えたままなんてことにはならなかったはずなのに。
だから、それを理由するなら。
「話さないと、後悔するからです」
「後悔、ですか。それは、ミューリさんがですか」
「私とリナがです」
もっとも、話しても後悔するかもしれないということはわかっている。
きっと何を選んでも、少しは後悔する。人は後悔する生き物だとどこかの本にも書いてあった。
でも、話した方が良い。きっと、話した方が私にとっても、リナにとっても良い方向へと向かう。
「話して、どうするんですか」
「……わかりません。でも、それで何かの答えが出ると思ってます。きっとリナの幸せだって、わかるはずです」
本当にそうかな。
正直、私もわからない。
でも、話さないとわからない。
リナのことを知るには、彼女と話すしかないのだから。
「幸せですか……」
エミリーは少しばかり息を吐く。
それは多分、ため息のようなものだった。
「でも、ミューリさん。あなたはリナを愛してはいないのでしょう? 私はリナを愛しています。だから私とリナがいたほうが、リナは幸せだと、納得してもらえたはずです。だから、出ていったのではないのですか」
たしかに、そうだと思った。
今だって、そうかもしれないと思っている。
「でも、わかりません」
「なにがですか。なにがわからないと言うのですか」
「リナの幸せです。私達は、リナの幸せを願っているんですよね?」
「……えぇ、そうです」
「なら、当人と話すべきでしょう。リナがいないところで議論したって、話はどこまでも推測でしかないんですから」
私の言葉に、エミリーは目を鋭くして私を見る。
睨んでいるようだった。いや、ようではなくて、睨んでいるのか。
きっとエミリーは私のことを好いてはいない。多分嫌いというのか、敵意を抱いていると思う。
元よりそれは当然なのかもしれない。
私達は、恋敵なのだから。
私が恋をしているのかはわからないから、その表現が適切なのかはわからないけれど。でも、もっとも端的にエミリーと私の関係を示すならそういう言葉になるのだと思う。
「……それも話したはずです。リナはあなたを選ぶ。だから、ミューリさんに直接お願いしているのだと」
確かにそれも言っていた。あの時は納得したけれど。
でも、それなら。
「それなら、私が一緒にいるべきです」
「……な」
「リナが私といたいと言うのなら、私と話した後も私を選んでくれるのなら、私は一緒にいるべきです」
「しかしそれでは! それでは……リナは自分を愛していない人と共にいることになるのですよ。それは幸せなのですか」
愛。また愛。
結局、愛とは何かわかっていない。
ルミは錯覚だと言った。けれど、私にはそれが合っているのかもわからない。
だから、この感情が愛なのかもわかっていない。
でも。
「愛していなくても、リナが一緒にいたいと言うのなら、その願いを叶えるべきです。もしも、リナが私を見限れば、その時に私は離れます。その時にエミリーさんはリナの隣にくればいいでしょう? その時ぐらいまで待てるはずです。愛しているのなら」
「そう、かも、しれませんが……」
「私に愛はわかりません。でも、リナの願いを封じた先に彼女の幸せがあるとも思いません。だから、話さないといけないんです」
愛というものがどういうものかはわからない。
けれど、彼女の幸せを願うのなら、彼女の願いを聴かないのはおかしい。
ただそれだけのことに気づくのに、随分と時間がかかった。
「だから、リナと話して、そして私達の行く先を決めないといけないと思うんです」
「わかないんですか……! それがリナを傷つけるかもしれないってことに!」
エミリーの声にはどこか怒りが含まれていた。
怖い。人の怒りは怖い。
母の怒りを、先輩の怒りを思い出す。
寒気がして、視界が縮む。
今にも声が出なくなりそう。
でも、リナのことでは退けない。ここで退いたら、前と変わらない。前の後悔と、同じことになってしまう。
「……そう、かもしれません。でもっ……でも、今話さなければ、確実に……彼女を、傷つけます。前と同じように。それは、嫌なんです」
息が上手く続かない。
呼吸が下手になっている気がする。
泣きそうで、今にも逃げ出したい。
でも、私はなんとか自分の意志を言葉にする。
「しかしっ……!」
さらに熱量を込めて話そうとしたエミリーも言葉を詰まらせる。
「いえ……ごめんなさい。言いすぎました」
彼女は一度深く息を吸う。
深呼吸をして、努めて冷静に再度私に問う。
「……本当にそれがリナの幸せに繋がると思っているんですか?」
「はい。きっと……そうだと信じています」
私も恐れを抑えて、言葉を紡ぐ。
エミリーはそれに呆れたような、諦めたような顔で額に手を当てる。
「わかりました。ならばもう、私には止められません」
「なら、良いですか。リナと話しても」
「はい。元より、私の許可など必要ではないのですよ。ただ私がそうしてほしくなかっただけですから」
そうだけれど。
でも、私は一度逃げ出したのだから。
エミリーと対話せずに、リナと話すのはどこか違う気がした。綺麗じゃない気がした。
「それでは、私は出ていきます。荷物は、後で取りに来ます」
えっ。
思わず、そんな声が漏れた。話の展開がよくわからなくて。
どうして急に彼女が出ていくと言う話になるのか。
それに、エミリーだって。
「で、でも……エミリーさんも、リナに話したいことがあるんじゃないですか」
「はい。ありますよ。結局、想いを伝わってはいないでしょうから。でも、こんなもの伝えたって自己満足になるでしょうから」
そう、なのかな。
そんなにも想いを伝えるのは駄目なのかな。
だって、想いは話さないとわからないのだから。
「話が、大事と言ったのは……別に私だけのことじゃなくて。エミリーさんだって、リナの幸せに必要なのかもしれないんですよ?」
私の言葉にエミリーは苦笑する。
それには私でもわかるほどに自嘲が含まれていた。
「いえ、ミューリさんがそう決めたのなら、もう私に居場所はないでしょう……色々やってきたつもりです。リナが一番辛い時に傍にいたつもりですし、その時の彼女の一番の味方になっていたはずです。けれど、リナは私に想いを向けてはくれていません」
彼女は少し息を吐く。
そこにはもう怒りは見えない。
さっきまでの怒りが嘘のよう。
「わかっていたんです。最初から。リナが私をどうとも想ってないことは」
……たしか、リナはエミリーを友達だと言っていた。
多分、今もそういう認識だと思う。
だから、どうとも想ってないわけじゃないだろうけれど、エミリーの求めている感情ではないのだろう。
「けれど、期待はありました。いつまでも私がリナを愛していれば、いつかは……と。だから、欲が出ました」
彼女は自らの長い銀髪を軽く梳く。
髪がひらりと肩から落ちる。
「今でも私は、信じています。愛してくれない人といるよりも、愛してくれる人といた方が幸せだと。前者が好きな人だとしてもです。でも、ミューリさんがここにいると言うのなら、もう私の居場所がないことも理解しています」
私とは違う思想。
けれど、願いは同じ。
結局、私達の議論は平行線だった。
いや、議論にすらなっていなかったのかもしれない。
多分、最初からどちらも譲る気などなかったのだから。
「だから、私にできることは、あなたがリナを愛してくれることを願うことぐらいです」
私はエミリーの言葉に上手く言葉を返せない。
やっぱり私は私の感情を上手く言葉にできないから。
「それでは。リナにもよろしくとお伝えください。いつでも私は連絡を待っていますとも」
無言の私に、彼女は静かに言葉を残す。そして、私と入れ違いになるように外へと出た。
まるで諦観しているようだった。けれど、ほんの一瞬、その眼は雫で光っているように見えた。
そして、扉がぱたりと音をたてて閉じる。
息を吸う。
なんだか、疲れた。
揺れる視界と震える身体をどうにかしたくて、しゃがみこむ。
しんどい。
あんな風に誰かを話すのは。
けれど、本番はここからなのだから。
「ミューリ? どうかしたの?」
床を見つめていれば、家の奥から声がする。その声の主は決まっている。
ゆっくりと目を開けば、リナが眠そうな目で私を捉えていた。