貴族の問題
翌日。
「マリベル先生! 見てください!」
「はいはい、なんですか?」
「壁走りの術!」
「ええええええええええええっ!?」
コントレイル家の館の壁を思いっきり走るウィニングを見て、マリベルは驚愕した。
ウィニングは無属性魔法|《吸着》を完璧に習得していた。
まだ《炎弾》は全然習得できていないのに、足を用いた魔法……走ることに関連した魔法だけ、異様に習得が早い。
それだけ、脚部の魔力回路が発達しているのか。
或いは他にも何か理由があるのか……。
マリベルは脳内で考察を続けながら、ウィニングに声を掛けた。
「お見事です。……《吸着》の習得もそうですが、その状態で既に走れるとは、流石に驚きました」
「《身体強化》を併用してみたんです。《吸着》だけだと足が壁にくっつくだけだから、姿勢を保つことが難しくて……」
それを今日、教えるつもりだったのだ。
二つの魔法を併用することはしばしばある。しかし《身体強化》と《吸着》は、どちらも脚部に作用する魔法だ。作用する箇所が重複すると、魔法の制御が一層難しくなるはずだが、ウィニングはこの問題を容易く解決している。
「この《吸着》って魔法、面白いですね」
ウィニングが、自分の足を見ながら言った。
「魔力を流すほど吸い付く力が強くなり、魔力を止めると吸い付く力が弱くなる。……これを応用したら、逆に反発する力を生み出せるんじゃないかと思って、昨日ずっと練習していました」
「ウィニング様。流石にそれは《吸着》という魔法の効果を超えていますので、難しいですよ」
「え、でもできましたよ? ほら?」
そう言ってウィニングは《吸着》の魔法を発動する。
すると、吸い付くはずのその魔法で――ウィニングの身体は上空に弾んだ。
「うぇあぁっ!? なんで!? なんでですか!?」
「《吸着》の発動中に、魔力を意図的に引き上げているんです。そしたら《吸着》は、早く吸い付く力を解かなくちゃ! となって、吸い付く力とは真逆の反発する力が生まれるんですよ。あとはその反発する力だけにピンポイントで魔力を注げばこうなります」
着地したウィニングが淡々と説明する。
しかしウィニングの頭の中には、まだまだ検討中の構想があった。
たとえば、反発する力を生み出す《弾性》という魔法がある。ウィニングはこの《弾性》という魔法の効果を、《吸着》で遠回しに再現できた。
となれば、《吸着》の応用と《弾性》を使えば、実質、二重の《弾性》を発動できることになる。これは走る際の推進力になるのではないだろうか、とウィニングは考えていた。
一方マリベルは、そんなウィニングの頭の中を覗き見ることはできないが、既に驚愕が限界値に達していた。
「ウィニング様は本当に……走ることに関連しそうな魔法のみ、恐ろしく理解度が深いですね」
「いやぁ、それほどでも」
ウィニングが照れる。
半分褒めているが、もう半分は呆れているのだ。
多分、今の《吸着》の応用……持っていくところに持っていけば高値で売れる。
魔法使いにとっての名誉――新魔法の開発にも繋がる可能性がある技術だ。
これはあとで依頼主に報告しておこう。
落ち着きを取り戻したマリベルはそう考えた。
「ウィニング様、現時点で最大どのくらいの高さまで跳べますか?」
「ちょっと試してみます」
そう言ってウィニングは、大きく跳躍した。
コントレイル家の館……その二軒分の高さまで到達していた。
ウィニングが着地すると、震動が響く。
その震動を感じて……マリベルはふと思いついた。
その丈夫な足を、武器として使うことはできないだろうか?
「先生、どうでした?」
「んんっ、まあぼちぼちですね。私も子供の頃はそのくらい跳べていました」
子供の頃といっても十五歳くらいの頃だが。
「ウィニング様。ちょっとやっていただきたいことがあります」
「なんですか?」
マリベルはウィニングの傍に、水の円柱を生み出した。
ウィニングが目を丸くする。それはまるで水のサンドバッグのようだった。
「この的を、強化した足で蹴ってもらっていいですか?」
「分かりました」
マリベルの意図を理解し、ウィニングは《身体強化》を発動した。
そして、的に向かって蹴りを繰り出した直後――。
――爆発が起きる。
「ウィニング様ッ!?」
水のサンドバッグが炸裂すると同時に、ウィニングが激しく後方へ吹き飛んだ。
マリベルは瞬時に杖を振り、ウィニングの吹き飛ぶ先に水のクッションを展開する。
水のクッションに身体を包まれたウィニングは、ぼとんと地面に落ちた。
マリベルは慌ててウィニングに駆け寄る。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
「だい、じょうぶです。……かなり驚きましたけど」
見たところウィニングに怪我はない。
マリベルは胸を撫で下ろした。
しかし……今のは、下手したら大怪我に繋がっていた。
「反動が、強すぎますね。……というか、よくその反動で普段走れていますね」
「最初はよく転んでましたけど、ずっと走り続けるうちに慣れました」
ということは、これもまたウィニングの研鑽によって成し遂げられたものだ。
マリベルは小さく吐息を零す。
「……とことん、走ることに特化していますね」
ウィニングのあらゆる能力は、走ることに最適化されている。
裏を返せば、それ以外の分野には融通が利かなくなっている。
走るための技術は身につけたが、それ以外はてんで学んでいないのだろう。時間をかければその足を武器として活用できるようになるかもしれないが……それが、今持っている走るための技術を捨てることに繋がる可能性は懸念した方がいい。
剣の達人に、槍を教えようとするものだ。
器用な者ならどちらも習得できるだろう。だが間合いの取り方や視線の動かし方など、双方で矛盾する技術というものは必ず存在する。下手に混ぜようとすると、折角の剣の技術が台無しになってしまう可能性がある。
恐らくウィニングは、不器用な子供だ。
この特化した能力を矯正させて色んなことをできるようにするか、或いはもっと伸ばすべきか……きっとロイドもこの分岐点に直面したんだろう、とマリベルは推測する。
「正直……あれだけ速く走れるなら武器なんて必要ないんですけどね」
マリベルはウィニングには聞こえない小さな声で呟いた。
あの速さがあれば、何者かに襲われても逃げることは容易だろう。
しかし、せめて《炎弾》くらいは覚えてもらいたい。
昨日マリベルはウィニングに、身を守るための最低限の武器として《炎弾》を習得してほしいと伝えたが、あれは半分ほど建前だった。
――《炎弾》すら使えないなんて、次期領主としての器が疑われる。
貴族として生まれた以上、どうしてもつきまとう世間体の問題。
走ることしか……逃げることしかできないウィニングは、このままでは貴族としての面子を保つことができない。
少なくとも――フィンドがウィニングのことを貴族として育てたいと考えている以上、ウィニングにはやはり一般的な魔法も覚えてもらうしかないだろう。




