第6話 牢獄の少女
「あの、大丈夫ですか?」
突然、牢屋の中にかけられた声に、フォードは顔を上げた。
それは手だ。
細く白い手が、鉄格子の前に晒されている。
まるで雪の世界から来たような、清らかで美しい手だった。牢獄の汚らしい光景で、それがやけに映える。
外見と声から、少女の手だろう。フォードはすぐさま起き上がり、その手を取った。
どうやら、隣の牢獄から、少女は話しかけたらしい。
「大丈夫だ。……ちょっと眠っていて」
晒された手を優しく握ると、隣の牢獄の少女から、安堵の声が返ってきた。
「ああ、良かった。先ほどからずっと静かでしたから、重症なのかと」
フォードは少し笑った。隣の牢獄に気をかけるなんて、酔狂な少女だ。
けれど、久々に優しい声を聞いて、フォードは嬉しくなった。
「平気だ。……えっと、お前は?」
「わたくし? わたくしは、今日牢獄に連れて来られた者ですわ」
「今日?」
「はい。ちょうどあなたが寝ていた時でしょうか? わたくし、怖い人に連れてこられて……」
聞けば、彼女は冤罪で、投獄された身の上らしかった。
新人の探索者で近くの《迷宮》に挑んでいたのだが、仲間が裏切った。
共同で使っていた金庫から金を盗み、消息をくらませたらしい。
その際、裏切った本人は、所属するギルドの要人から金品を盗っており、その罪を、少女は偽装工作によって被せられた。
どこかで聞いたような話だった。フォードとしては似た境遇に笑うしかない。
「ひどい話だな」
言って、同情の言葉をかけた後、自分の身の上も語る。
「じつは、俺もそうなんだ。昨日、窃盗と暴漢の罪を着せられて」
「それは……」
握った少女の手が、嘆き悲しむように、力を込めてくる。
「あなたもですの? 何か、すごく疲れた声ですわ。大丈夫ですか?」
「まあ……なんとか。だいぶムチを貰ったが」
苦笑気味に言うと、少女は心配した。
「ムチ……そんな酷いですわ。可哀想に……」
少女が両手を使い、優しくフォードの手を包み込んでくれる。
柔らかくて暖かい手だった。少女の案じる気持ちがそのまま伝わってくる。疲弊したフォードの心に、癒やしが満ちていく。
「すまない――俺は、フォードと言う」
「わたくし、【レミリア】と言いますわ」
少女は、上品そうな名前だった。きちんとした地位を持つ家で育てられたのだろう。どことなく妹のメリルに近しいものを感じる。その口調や優しい声に、フォードは思わず胸の中にこみ上げるものがあった。
「レミリアさん、お願いが」
「レミリアと呼んでくださいまし」
「……レミリア。もう少し、手を握っていていいか?」
はい、と言うように、少女が格子越しに手を握り返してきた。
細く柔らかな少女の手を握っていると、気持ち良い。
暖かい羽毛に包まれたような、優しい感触。
格子越しなのがもどかしかった。もっと強く体温を交換したい。
フォードとレミリアは、そんな気持ちを込めるように、一層互いの手を握り締めた。
「……ん」
ふと気づけば、レミリアがフォードの手の甲をなぞっていた。指文字だった。
「レミリア、何を……?」
「ふふ。フォードさんへ、わたくしの気持ちを込めていますの」
手の甲には、こう書かれている。
――早く元気になぁれ。
「あ……」
それが気恥ずかしくて。
嬉しくて。
たまらず、フォードの目尻に、涙が浮かんできた。
妹の死を乗り越えて。
探索者としての夢敗れて。
鞭打ちに体を痛めつけられ。
その果てにかけられた、優しい行為。
レミリアだって辛いだろうに。自分を案じてくれる少女に、フォードの感激は止まらない。
「レミリア、ありが――」
不意に足音が、近づいてくる。
――番兵だ。槍を手に持ち、居丈高に、こちらへ歩いてくる。
手を繋ぐのを見られれば懲罰が待っている。フォードとレミリアは即座に手を離した。
「んああ~、てめえら、ちゃんと牢獄にいるなぁ。よぉし」
番兵がつまらなそうな顔でフォードたちの牢屋を覗く。軽く鼻息をすると、見回りがかったるいと言いながら、鉄格子の前を過ぎていった。
通路の角に曲がったのを見計らい、フォードたちは再び手を繋ぎ合う。
「危なかったですわ」
レミリアが小さく笑う。
「俺も冷やりとした」
「うふふ。わたくし、フォードさんがいれば怖くありません。もっとお話しませんか?」
「もちろん」
それから二人は、色々なことを語り合った。
故郷の話、探索者を目指したきっかけ、目標。手本となる探索者の話から、鍛錬の話まで。二人は見張りの番兵の目を盗み、じつに多くの事を語り合った。
レミリアの語り口はまるで吟遊詩人のようで、淀みがなく、耳に心地いい。
小鳥がさえずるかのような優しい響きは、すさんだフォードの心を癒やしてくれる。
レミリアがお風呂の時は胸から洗うんですと言った時は、さすがに恥ずかしかったが。
二人は終始、格子越しに手を繋ぎ合い、お互いの温もりを感じつつ言葉を交わしていた。
† †
「フォードさんって、とても勇敢なのですね」
ある日。
レミリアにフォードが迷宮での探索話を言って聞かせると、彼女はくすくすと笑った。
「そんなことはない。必死だった。よく覚えていない」
「咄嗟のときって、その人の本質が垣間見えるのですよ? 溺れている人を見かけたとき、見て見ぬふりをするか、助けに飛び込むか――フォードさんは後者ですわ。わたくしそのような殿方、好きですわ」
「それは……」
はっきり断言されて、フォードは頬が紅くなる。
格子越しの会話でも、そう言われて嫌な気はしない。もっとレミリアと話したい――その思いが、会話を夢中にさせる。
「レミリアは聡明な人だ。言葉の切れ端、口調、知識……深い知性を感じる」
「まあ。フォードさんだって逞しそうですわ」
「俺なんてまだまだだ……レミリアの顔をぜひ見たい。きっと知性に溢れているのだろう」
「え……やだ、わたくし、恥ずかしい。フォードさんに見られるの、想像すると、胸がドキドキしますわ」
レミリアは慌てた。期待されることに慣れてないのだろう。他人を褒めることはよくする割に、自分が同じ事を言われると恥ずかしがった。
それがまたフォードには可愛らしく思えて、胸を高鳴らせた。
「……フォードさん」
――それから二週間後。夜間。レミリアが低く硬い声音で話しかけてきた。
「ん、どうした?」
「あの、考えていたのですが――脱獄しませんか?」
「なんだと?」
「このままではわたくしたち、ずっと牢獄暮らしですわ。今は良くても、もっと悪くなるかも……」
それはフォードもここ数日、思っていたことだった。
この監獄、『ガルグイユ監獄』は統制者の機嫌により、囚人の扱いがより激しくなっていた。
何をせずとも憂さ晴らしに番兵が殴ってくる。熱湯を被せてくる。意味もなく焼けた鉄棒を押し当て、虐待してもいる。レミリアが危機を感じるのも無理はない。
「脱出と言っても、どうする? 窓も壁も無理だが……」
「それについては、考えがありますわ」
言ってレミリアは格子越しに、手を差し出した。翠色の――宝玉である。
「これは《金剛力珠》と言って、わたくしの家宝の一つですの。髪の中へ隠してましたわ。――使えば、数十秒の間、腕力が格段に上がります。これで鉄格子を壊して、」
「数十秒、か。それでは足りないだろう。番兵を倒すには」
およそ二週間以上ここにいるが、少なくとも番兵は五十人はいる。全てが常勤しているわけではないだろうが、多少腕力に秀でていても、捕らえられるだけだろう。
「……では、背後から一人ずつ襲えば、何とかなりませんか?」
「厳しいだろう。通路の連中はともかく」
サボりがちな通路の番兵は不意打ちで良くても、出入り口には屈強な番兵が立ちはだかっている。
投獄された日、ちらりと見ただけだが、巨漢で、鋼のような筋肉だ。長槍型の魔導具も持っていた。白兵戦で勝てるとは思えない。
「……地図があればもう少し希望があると思いますわ」
「それも厳しい。内部構造をばらすほど番兵も愚かではないはずだ」
愚か者ほど自分の危機に敏感だ。脱獄の鍵となるものを手放すとは思えない。
「他の囚人たちに協力を仰ぎ、一緒に脱獄するというのは……」
「そこまでの気力はないだろう。誰だって番兵は怖い」
こうして他人と話せるフォードたちのような者は、他にいなかった。
フォードとしては、レミリアの事が心配になる。
自分たちはいつ、番兵に酷い仕打ちを受けるか判らない。特にレミリアは少女だ。番兵たちが憂さ晴らしをするとき、見目麗しい少女が狙われる可能性は高い。そうなる前に、脱出したいが――。
想像の中で、レミリアが醜い番兵に嬲られる姿を浮かべ、フォードに寒気が走った。
「……俺も、切り札を使う時なのだろう」
意を決して呟き、フォードも髪の中から、一本の針を取り出す。
レミリアの視界に入るよう、格子の外へ手を伸ばした。
「見えるか? レミリア。俺の切り札――『雷紋剣』だ」
妹に託された家宝の剣は、持ち主の才能に合わせて様々な機能を発揮する。
その中に、『小型化』という機能があったのだ。
連行されたあの日、フォードはとっさに雷紋剣を針ほどに縮小し、隠していた。
「……それも、魔導具ですの? 武器には見えませんけれど」
「特定の呪文を唱えれば短剣へと変化する。この魔導具は『麻痺』や『雷精霊召喚』、『雷撃』など、多数の効力を発揮出来る。これで番兵を倒せば、あるいは……」
フォードは殺人鬼ではない。いくら自分が逮捕されたと言っても、暴力に任せて人を殺める事はしたくない。
だからこれまで必死に耐えてきたが、それももう終わりだ。
これからは人殺しも辞さない。レミリアの《金剛力珠》と合わせれば、脱獄も夢ではないだろう。
本当は、妹の形見である雷紋剣は、こんな事で使いたくなかった――だが自分の命やレミリアの身には変えられない。
フォードは針のままの《雷紋剣》を仕舞い、計画を煮詰める。
「レミリア。脱獄は一発勝負だ。絶対に失敗できない。決行は三日後、朝方にしよう」
「え? 朝方ですの? 暗い深夜の方が……」
「番兵たちは夜の脱獄に敏感だ。まともにやっても警戒される。だから俺たちは、彼らが最も気が緩む時間を狙う。――夜が明けて、朝日が飛び込むと、心が和らぐ時。その隙を狙う」
「フォードさん、頼もしいですわ。冷静ですのね」
「いや、そんなことは……」
レミリアが嬉しそうに格子越しに手を握ってくる。
フォードは照れた。少女の柔らかさや込められる信頼の強さに、胸がどきりとする。
「では、決行は三日後。それまで英気を養おう」
「ええ。また、お話しましょうね」
「ああ。今度は何がいいか……」
楽しげにレミリアは語ってくれる。
かくしてフォードたちは決意した。脱獄の決行の日まで三日――二人は様々なことを語り合っていった。